④ 正門にて

伊織いおり——エリカさんにそう呼ばれていた子の後ろを、楓は歩いていく。正門へと続く小道はキャンパスの陰に入り、じっとりとした熱気が首筋にまとわりについてくる。


その人は振り返らない。案内というには速すぎる歩調で、楓が追いすがらなければ見失ってしまいそうだった。


伊織という人の後ろ姿は、ぱっと見、エリカさんに見えなくもない。楓やエリカさんと同じく小柄なシルエットで、髪型もなんとなくエリカさんに似ている。


楓の足取りは、気まずさのせいで重たい。ジャスミンの人たちに謝りたい気持ちが溢れている。でも、謝罪の言葉は行き場を失ったまま、グラウンドは背中のほうへとどんどん遠ざかっていく。


「あのっ。エリカさんは、何も悪くないんです。一緒に走ってほしいってお願いしたのは、私のほうで……」


ようやく絞り出した声を背中へ投げる。小さく肩が揺れ、溜息の後で、返ってきたのは淡々とした言葉だった。


「わかるわよ、そんなこと。なんでエリカさんが、わざわざあなたと走ろうとするのよ」

「ですよね……」


今は声にすればするほど、自分の愚かさが浮き彫りになる。楓は黙ってうつむくしかなかった。


「それと」


足は止まらない。けれど、はらりと一瞬だけこちらを振り返った。


「別に敬語じゃなくていいから。私も一年生」


同い年だったのか。


「あっ、そうなんだ? その、本当に、今日はごめんなさい」


同い年とわかったからというか、初めて顔を見られたから、やっと言えたんだと思う。


「謝るくらいだったら、こういうことは、もうやめてくれる?」

「うん……。私のせいで、エリカさんまで監督に怒られちゃって……」


言いながら、喉の奥がひりついた。


同じ心が読めない人でも、エリカさんと伊織ちゃんは微妙に違う。


エリカさんは、言うならば多重人格者。底が見えなくて、次から次へと別の顔を見せてくる。


伊織ちゃんは、鉄仮面だ。表情を変えず、冷ややかに圧をかけてくる感じ。


しかし、その彼女の口調がふと変わった。


「エリカさんって、ああ見えて、頭の中は男子小学生なの。ほんっと、好奇心旺盛で」


(あぁ、それはなんとなくわかる)


初めて話した時も、意外なお茶目さに少し驚いたっけ。ただ、ここはウカツに共感しないほうがいい気がした。


「へ、へぇ……」


伊織ちゃんがふいに立ち止まり、楓のほうを向いた。


「だからね。変な色の昆虫を見つけると、ふらふらと寄っていってしまうのよ」


(変な色の、昆虫……)


「あはは、それってもしかして、私のこと?」

「そうよ」


あれま、即答だ。


にこやかに聞いてはみたが、そのまま顔が引きつる。


「もうここまででいい? あそこが正門」


そう言って、伊織ちゃんは、肉眼でギリギリ見える門を指さしている。楓と歩く時間は、少しでも短いほうがいいらしい。


「あ、うん。わざわざここまでありがとう」


礼を述べても、返事はない。


「これに懲りたら、今後エリカさんに気安く近づかないで」


鋭い氷片のように、伊織ちゃんが言い放った。


「あの人はいずれ世界に出ていく人。部外者に構ってる暇なんてないの」


(世界……)


「うん。今日は本当に迷惑をかけてしまって。私、これからもっと強くなって、ちゃんと自分の力で——」

「人……」

「えっ?」

「おめでたい人、って言ったの!」


雷鳴が、楓の決意を叩き割った。


「勘違いしてるみたいだから、教えてあげる」

「え……?」

「エリカさんが見てるのは、あんたじゃないわ」


(えっと、それは……)


わかっていた、つもりだった。けれど、正面からそう言われると、何か引っかかった。


だって、エリカさんは……、なぜかはわからないけど、明らかに楓のことを気にしてくれている。そう感じていたから。


「それって、どういう……」

「エリカさんは、あんたのとこのキャプテンを、みなと駅伝に引っ張り出したいの」


(蓮李先輩を……?)


「だから、予選で足を引っ張るあんたを見過ごせなかったのよ」

「……」

「それを何を勘違いしたのか、こんな聖域まで押しかけてきて。ほんとうに迷惑」


世界の色が、ぐらりと反転した。


全ては、自分に向けられていたものではなかった。あの眼差し、あの笑顔、あの言葉も。


(全部、蓮李先輩のため……)


「わ、私……」


息が漏れる。そのとき、伊織ちゃんの肩の奥に一人の影が見えた。


傘だろうか。それを振りながら、こちらへ向かってくる。


エリカさんだった。


後ずさりをする。もうその顔を見られない。


(……イタい子だ。私。本当に、どうしようもなく)


気づけば、走り出していた。


泣いているのか、雨に打たれているのか、わからない。


頭が真っ白だった。


ひとつひとつの思い出。大切にしていた宝物が、音を立てて崩れた。


おかしいと思った。


(エリカさんが、私のことなんて、気にするはずがない)


そんなはずないって、わかっていた。でも、信じたかった。


最初から、違ったんだ。


スタート前に話しかけてくれた、あのときから。



「遅い! いま何時だと思っているの!?」


玄関に入ると、真っ先に柚希先輩の声が飛んできた。


「今日は掃除当番……って、バンビ!?」


びしょ濡れの姿を見て、すぐに言葉が詰まった。叱られて当然だった。でも、それすら温かすぎて、楓はまた泣いてしまう。


「大変!」


様子を見にきた心枝先輩も驚かせてしまった。


「どうしたの、その格好。傘持ってなかったの?」


すぐにタオルをかけてくれた。何か答えないと、と思っても、震える唇が言葉を作れなかった。


* * *


雨足が強まっていた。


正門前の石畳に、斜めの軌跡が幾重にも刻まれていく。


エリカは傘の柄を逆手さかてに持ち、立ち尽くしていた。差し出すはずだった相手は、もうそこにはいなかった。


静かに傘を開く。伊織をその内側へ入れ、口を開く。


「楓に……何を言ったの」


低い声。怒気は帯びてはいない。けれど、責めていないわけでもなかった。


伊織は答えなかった。傘の中で口を結んだまま、そっと目を伏せた。



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