③ 夢、再び

午後の雲はまだ白く、たゆたっていた。校舎裏の谷底に設けられたグラウンドに、胸騒ぎが充満している。


わずかに鼻をつく夏芝の匂い。フットギアのソールが地面を噛む感触が、足裏にじわりと伝わってくる。


いつの間にか、ギャラリーは三十名以上に増えていた。授業を終えた部員たちが、事情も知らぬまま次々輪に加わっていく。


「ねえ、何が始まるの?」

「あの子、予選でひっついてきてた子でしょ?」

「あぁ、あの、シルフィードの」

「こんなとこまで来るなんて、ストーカー?」


小さな話し声だった。けれど、楓の耳は音をよく拾う。そして、否定できることは何一つなかった。


願いを聞き入れてもらった。練習を中断して、特別にトラックを貸し切らせてもらっている。望んでやまなかった舞台に立っている。


ただ、胸中は少しも晴れていなかった。


「よーい……」


計測係の合図が、空気を震わせる。


「スタート!」


号砲もない、静かな発進。ふたりの足音だけが、沈黙を破った。


エリカさんが先行し、楓がついていく。そっくりそのまま、みなと駅伝予選1組の、二周目以降の再現だ。


(ここから、きちんと意識してやり直すんだ)


五日ぶりに見た、エリカさんの走り。地面に一瞬しか触れない接地。


スタッ、スタッ、スタッ、スタッ。このリズム、あの日と同じだ。


違うのは、その足音がどんどん離れていくことだった。


呼吸が苦しい。吐くための空気が肺に残っていない。肩が上がり、動きが乱れる。フォーム全体が重くなっていく。


差はあっという間に開いた。


(もっと、あの背中で視界をいっぱいにしたいのに)


前に、進まない。エリカさんが物凄いスピードで先に行ってしまう。


「千メートル、3分3、4、5。3分5秒7!」


計測役の部員の声が響く。エリカさんのラップだけが読み上げられ、後から楓が通過しても、無視された。


楓はそれからまたすぐに困惑することになった。エリカさんがトラックを歩き始め、やがて立ち止まり、こちらを振り返ったのだ。


「はい、おしまい」

「……えっ?」

「これ以上走っても無意味よ」


その声色に、先ほどまでの笑みはなかった。


「今の楓には、私に向かってくる気迫がない。一緒に走れただけで満足してる。いや、本当は、もっと他のことを気にしていたんじゃない?」


——痛いほど、図星だった。


スタート前から、心も体も、全部が崩れていた。


「皆さん、練習を中断させてしまってごめんなさい。各自今日のメニューに戻ってください」


エリカさんがパンパンと手を叩き、周囲を促す。その視線の中に、楓はいなかった。ジャスミンの選手たちが、顔を見合わせながら三々五々に散っていく背中を、ただ見ていることしかできなかった。


(私、イタい子だな……)


そう。今の楓は、エリカさんどころじゃなかった。


スタート前に思い出していたのは、幼き日の光景だった。


三歳の頃。ショッピングモールの屋上にあった、大きなパンダの乗り物。「乗りたい」と言うと、父が快くコインを入れてくれた。


乗れたら楽しいに決まっていると、信じて疑わなかった。


しかし、パンダが動き出したとき。


その場にいた他の子どもたちが、一斉に柵へと駆け寄った。小さな指を金網に引っ掛け、こちらを見上げてくる。


三歳だったら、そこで「いいでしょ」と気をよくすればよかったのかもしれない。


ところが当時の楓は、それを見て顔を突っ伏した。


「あれ。楓、どうしちゃったのかな」


ビデオカメラに入っている父の声にも、困惑が滲んでいた。普通、娘をパンダに乗せたら喜ぶものと思うだろう。しかも、本人たっての希望なのだから。


そのときは、嬉しさよりも、申し訳なさと恥ずかしさが先に来たのだ。


自分は何か勝ち取ったわけじゃない。ただ、親がお金を出してくれたというだけで、特別な席を与えられているにすぎない。


周りの視線は羨望ではなく、疑問だ。


どうしてあの子だけ乗れているのか。他にも乗りたかった子はいっぱいいたのに。ずるい。


視界がゆらいだ。足元のフットギアが、急に異物感を増す。


(これ、早く脱ぎたい……)


シルフィードは、エリカさんが話しかけてくれたきっかけだけど、今は足で隠したくなった。


なぜあの日の走りを再現できなかったのか。なぜ楽しくなかったのか。なぜ、胸を張って走れなかったのか。


答えは一つ。


(私に、力がないからだ……)


憧れだけでついていき、隣に立った。でもそれは、自分の力じゃなかった。


気づいた。わかってしまった。予選のときは、なにも知らなかった。だから走れたんだ。


今日は、痛かった。苦しかった。情けなかった。


エリカさんの隣に立つってことは、そんなこと、なんにも気にならないくらい強くなきゃいけないんだ。


そうじゃなきゃ、シルフィードは応えてくれない。


力を持たずに特別扱いされることの恥ずかしさ。ズルをしたわけではないし、表立って誰に訴えられるわけでもない。だからこそ、逃げ場がない。


恥ずかしくない走り。堂々と立てる力。真似ではない、自分の形。


それを手に入れたときに、楓は初めて、天使の隣に立てるのかもしれない。


(もう、パンダに顔を伏せたくはない)


そう思った。


そのとき、怒声が響いた。


「誰だ! こんな勝手なことしてやがるのは!」


雷のような声。楓もそれはとても聞き覚えがあった。


同時に、エリカさんが誰かを探し始めた。


(……?)


伊織いおり。悪いけど、楓を門のところまで案内してあげて」

「はい」


エリカさんは、後輩に楓を預けると、怒号に立ち向かうように歩いていった。


声の主は、彼女の父。神宮寺監督だった。


「お前の遊び場じゃねえんだぞ、ここは! わかってんのか!」


(どうしよう、私のせいで、エリカさんが怒られちゃってる)


「こっち」


横から裾を引かれ、小さな声で呼ばれる。楓はその人に従って、グラウンドを後にした。



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