② アウェイグラウンド


「あら。もしや私が誰だかピンと来ていないかしら?」


おどけた調子で、彼女は眼鏡を外す。すると、そこからエリカさんが


「ええっ? ああっ……!」


手品でも見ている気分だった。


タネは単純。眼鏡と私服。見慣れていない姿に、反応できていなかっただけのこと。楓の知るエリカさんは、いつも必ずあの緑のユニフォームを身に纏っていたから。


チャコールグレーのリネンシャツに、白いレースのロングスカート。足元は白のスニーカー。


(当たり前だけど、走っていない時は、普通に大学生なんだなぁ……)


柔らかな色彩に包まれたその人は、街の雑踏に自然と溶け込んでいる。ただ、静かな装いの中にも、どこかあの無駄のない洗練された走りと同じ美学が宿っていた。 


「今、講義の帰りなの。まさかこんな場所で会うなんて、ビックリ」


まったく同じ言葉を返したくなる。


「何か買い物でも?」


そうだ。ここまで来た目的。


一度は引き返そうとしていたのもあって、ついボーッと立ち尽くしてしまった。いま言わなければ、絶対に後悔する。


「わ、私。エリカさんに会いに来たんです!」

「……私に?」

「はい。あのっ。もう一度、私と走ってもらえませんか」


エリカさんは目を見開いた。


「ずっと考えていたんです。やっぱり、私はあのとき、ちゃんと自分の足で走っていたんだって、信じたいです。もう一度、おんなじ状況で、おんなじように走れたら……、シルフィードの気まぐれなんかじゃなかった、って、自信を持って言えると思うんです」


今でも忘れられない、あの感覚。


ただの偶然だと片付けられ、どんどん過去になっていくのが嫌だった。


思い出せるうちに、確かなものとして、ちゃんと掴んでいたい。


「いいわよ。じゃあ、今から来る?」


(えっ)


「いいんですか?」


あまりにあっさり承諾されるものだから、自分で頼み込んでおきながら、拍子抜けしてしまった。


「ほら、走るんでしょ?」

「は、はい……!」


また、あの日と同じだ。わけもわからぬまま、その背中を追う。


(あれ? でもこっちって……)


なぜかエリカさんは、大学へは戻らず、楓が来た道、すなわち渋谷駅の地下改札へと足を向けたのだった。



電車に揺られること約四十分。すずかけ台駅を出ると、ジャスミン大学の第二キャンパスがすぐ目の前に現れた。


「あはは、そういうことだったの」


エリカさんが笑う。


「確かに普段の授業はあっちで受けているけど、練習グラウンドは神奈川の郊外にあるのよ? 都心じゃ、土地もそう広くは取れないから」


一番上の検索結果に飛びついた結果、楓はてっきり、エリカさんが渋谷で練習しているものと思い込んでいた。


アイリスでは、芸術学部を除いて、授業も練習も横浜の山手やまてキャンパスで完結する。都心で学び、郊外で走る。そんな大学も少なくないことを、楓は初めて知った。


「じゃあ本当なら、楓と入れ違いになるところだったのね。そこに偶然、私が通りかかるなんて」

「はい、私ってば、なんてラッキーなんでしょうか……」

「本当にね」


(……?)


着替えを済ませ、エリカさんの案内でグラウンドへと向かう。


トラックを囲む芝生の上で、ジャスミン大学の選手たちが三つほどのグループに分かれてウォーミングアップを行なっていた。


「みなさん、一度集合してください」


その声だけで、全員が動きを止め、駆け足で集まってきた。総数二十名ほど。整列の速さと正確さに、楓は目を見張った。


(すご……なにこれ)


だが、その視線の多くが、楓のほうに注がれている。


無理もない。どこの誰とも知らぬ人間が、キャプテンの横に立っているのだから。


「礼ッ!」


一人の号令を合図に、ジャスミン独特の間を置いてから、全員が一斉に頭を下げた。


「……お願いします!」


アイリスにも同様の挨拶はある。ただ、リズムが全然違う。チームの数だけ流儀があるのだと、楓は妙なところで感心してしまった。


「グループごとにメニューを分けています。予選組は調整走。各自状態を見極めながら、夏合宿に向けて準備を進めてください」


ガミガミおじさん——じゃなかった、神宮寺監督の姿はなく、代わりにエリカさんが全てを取り仕切っていた。


隣の楓は、無言の視線に刺され続け、三角コーンの上にでも立たされているような心地だった。針のむしろ、とはこのことか。


「それと、今日は新入部員を紹介します」


どよめきが広がった。


(えっ!?)


待って、違うんです。そんなつもりで来たわけでは……。何がどう伝わってしまったのか。金魚のように口をぱくぱくさせる楓を見て、エリカさんが笑っている。


「ふふっ、なーんてね。アイリスの栗原楓さんが、今日は遊びに来てくれました。みなさん、仲良くしてあげてくださいね」


あっ、しまった。忘れていた。


エリカさんって、時折こういうお茶目な一面が顔を出すのだ。この他にも、まだ知らない顔が隠されているのだろうか。


それはそれとして。「遊びに」というワードに、ぴくりと眉を動かした部員が何人もいたのを、楓は見てしまった。


「ちょっと、エリカ。どういうつもりなの?」


エリカさんと同級生らしき人物が、列から一歩、前に出る。


「この子、私と走りたいって言うから」

「だからって、連れてきたの?」


呆れを隠せない様子で、その人は額に手を当てた。エリカさんはまるで気にも留めず、平然としている。


「いいの、すぐ終わるから。ちょっとだけトラック貸して」


そのやり取りを傍らで見ていると、なんだかエリカさんが少し幼く見えた。


(女王様? というか、おてんばお姫様?)


もちろん、無理を言っている楓に、そんなことを思う資格もないのだが。


「楓、あっちの芝生でアップするよ。ついてきて」

「あっ、はい……」


(なんだか、大変なことになってしまった)


エリカさんがこちらを振り返る。


「どうせだったら、このままウチの子になっちゃえば?」

「えっ、それは……、あの、さすがに……」


エリカさんはまたおどけて笑い、楽しげに駆け出す。


どこからが冗談で、どこまでが本気なのか。やっぱり、何を考えているかわからない。



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