⑥ 選ばれざる者

「当てつけなんでしょう!? あなたの忠告を聞かずシルフィードを履き続ける、私に対しての!!」


エリカの声がフットラボの静寂を裂いた。


番号札が呼ばれるまで、一時間近く待合席で待っただろうか。心を鎮めるための追憶の甲斐もなく、マイさんの顔を見た途端、押し込めていた感情が一気に噴き上がった。


「落ち着いてください、エリカさん。あなたらしくありませんよ?」


(私らしくない? 昨日、父にも同じことを言われた)


「エリカさんはちょっと、シルフィードを神格化しすぎです。私は今からでも、後戻りはできると思っていますよ」


わかっている、言われなくても。それくらい自覚している。だが、今更そんな話を聞きに来たわけではない。


「どうして、あの子なの……」


声を絞り出し、マイさんを睨みつける。


「エリカさん……」

「どうして、よりにもよってあの子を選んだの、って聞いているの!」


エリカは声を荒らげ、両の手のひらでカウンターの台を叩いた。


「……私が選んだのではありませんよ」


マイさんはただ静かに首を振った。


「彼女は選ばれたのです。言うならば、シルフィードが、彼女を選んだのです」


(シルフィードが、楓を選んだ……?)


それはエリカの全てを否定する言葉だった。


恐れていた。一番聞きたくなかった返答だった。理解が追いつかない。よりにもよって、あの子だなんて。


それならば、自分は何者なのか。


(どこまで行っても私は、選ばれざる者。そういうことか)


椿さんと同じシルフィードを履き、椿さんが進むつもりだった道を行く。そのはずだった。


けれど、後継者は自分ではなかった。選ばれたのは、楓。運命の螺旋から爪弾きにされ、絶望感で目の前が真っ暗になる。


(そりゃ、そうよね)


喉の奥がひどく苦い。最初から勝負にすらなっていないではないか。この運命の物語の中で、自分の居場所は元よりどこにもなかったのだ。


肩を落とすエリカを見かねたマイさんが、ため息をついてから口を開いた。


「……楓さん。陸上競技を始めて、まだ二か月なんですよ」


(は?)


唐突な話題転換に、思わず顔を上げてマイさんのほうを見る。


いや、突然話が飛躍したように思えたが、それはエリカが一番知りたかったことの答えになっていた。つまり、栗原楓は何者なのかということ。


それにしても、二か月って……。まだ生まれたてのヒナ同然ではないか。大学からこの競技を始めること自体、極めて異例のことなのに。


エリカはこれまでのことを思い返す。


高校時代のデータが皆無。記録会でわざわざペースメーカーをつけてもらっていたこと。壊滅的なポジション取りの下手さ。全く意図のわからないスパート……。


二か月という経験の浅さを考えたら、どれも説明がつく。


「エリカさん、いつか言っていましたよね? 大学駅伝にはライバルと呼べる人がいない。早く卒業してプロリーグに行きたい、と」


確かに、エリカが三年生になってからは、いよいよライバルと呼べる存在は見当たらなくなっていた。


せっかく良い勝負ができると思っても、その選手たちは指導者からの「神宮寺エリカにはついていくな」という指示でリードに繋がれてしまっていた。エリカは、相手の指導者と戦いたいわけではない。


だが、楓は違った。アイリスの監督がペースを落とせと言っているのに、まるで聞こえていない様子で、それこそ生まれたてのヒナみたく、エリカの後ろをついてきた。けれど——。


「ふっ。ライバルって、楓がですか? あの子は、とてもそんなレベルじゃないですよ」


エリカは鼻先で笑い、口の端を歪めた。同時に、マイさんがニコッと笑う。


「ええ、もちろん。現時点ではまったくその通りです。だから、あなたが導くのですよ」


(私が、導く……?)


「私を除け者にしておいて、今度は関われと?」

「放っておけば、彼女は凡人として埋もれるだけです」


エリカは、これまで常に自力で進んできた。前にも後にも道はなかった。ただ一人きりで戦ってきた。


だからこそ思う。他人に肩を貸して、何が得られるというのか。


「今の楓さんが何か持っているとしたら、それは——『運命を真っ直ぐに走る才能』とでも言いましょうか」

「私はその噛ませ犬ですか」

「ものは言いようでしょう。あなたが、彼女の壁になるのです」


マイさんの目が、ふっと遠くへ向く。そして、まるで物語の結末を、ひと足先に読み終えてきた者のような笑みを浮かべる。


「これから、もっと面白いことが起きますよ?」


 

エリカの瞳に、かすかな炎が灯る。


運命の螺旋から放り出されたところに、思いがけず役どころを与えられた。


そこで、ある思考を巡らせる。


要するに、この物語では、エリカは椿さんにはなれない。けれど、これから椿さんになりうる者と、戦うことはできる。


楓を育てて、その楓に勝つ。そうすれば——。


(私はまだ、椿さんになれる)


「運命を真っ直ぐに走る才能、ですって?」


吐き捨てるように呟いた。


そんなオカルトでは辿り着けない領域まで、登りつめてやる。


(面白い。かかってきなさい、楓)


数日後。エリカは、楓のとてつもない運命力を目の当たりにすることになるのだった。




【第2話 エリカ】おわり



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