⑤ ケヤキ寮のキッチン

理事長からのご褒美とは、なんとお肉。


夕方、ケヤキ寮はいつにも増して賑やかだった。それぞれが今晩の段取りを確認し、持ち場へと散らばる。


楓は、料理班に振り分けられた。


「バンビ、ちょっとお願いできる?」


寮母のサツキさんが、台所から顔を出す。


「はい?」

「こっち、手が離せないから、今日はバンビがメインシェフね♪」

「え、メインですか!?」

「できるでしょ?」

「はい、たぶん……」


いつの間にか、周囲の視線が楓に集中していた。


台所に入ると、スープの鍋からは、ふわっとブイヨンの香りが立ち上っていた。


「えっと、じゃあ、何から……?」


「まずは副菜、作っちゃいましょうか。じゃがいも茹でて、ポテトサラダ!」


「……了解です!」


先月、サツキさんが寮母として来てくれてから、アイリス駅伝部メンバーは、自分たちでも料理を手伝うようになった。けれど、「メインシェフ」 なんて大役を任されるのは初めてだった。


楓は鍋に水を張り、皮付きのままのじゃがいもをそっと沈める。火をつけると、じわじわと水温が上がり、鍋の中でじゃがいもが転がり始めた。


「ぐつぐつ煮ると、芋が水っぽくなるんですよね。ちょっと芯が残るくらいで火を止めて……」


朝陽あさひ先輩が驚いた顔をする。


「バンビ、手際いいー!」


そういえば、朝陽先輩とは同じ班になったことがない。


「たぶん……実家でよくお母さんのお手伝いしていたので」


湯気の立ち上る鍋から、そっとじゃがいもをすくい上げる。冷水にくぐらせると、皮がふわりと剥けていく。


「うわっ、綺麗に剥ける!」

「へへへ。これやると、手が熱くならないんです」


和気藹々とする二人に、スープ組の柚希ゆずき先輩が様子を見に来る。


「ダメよ? それくらいで甘やかしちゃ」


覗き込むボウルの中では、フォークで適度に潰したじゃがいもが鈴のように転がり、今まさに投入されたきゅうりやハムと軽快に和えらていた。


「あら、本当だわ」


柚希先輩は言い方はキツいところもある人だけど。遅れて入部した楓の歓迎会を裏で計画してくれたり、「バンビ」 ってニックネームの名付け親だったりする。人は言葉より行動で見なさい、とはよく言われるけど、まさにそんな感じの人。


「味付けは……塩コショウにマヨネーズ、あと隠し味にちょっとお酢を入れると、さっぱりするんですよね」

「えっ、そんなテクニックあるの?」

「たぶん……?」


さて。まだアレが来ないから、先に卵焼きを作ってしまおう。


ボウルに卵を割り入れ、菜箸で優しく溶く。そこに出汁と醤油、ほんの少しの砂糖を加える。


「卵液は、泡立てないように混ぜたほうが、滑らかに焼けるんですよね」

「……え、プロなの?」


鉄製の卵焼き器に油を馴染ませ、熱くなりすぎないように調整する。卵液を流し込むと、じゅわっと音を立てて焼き色がつき始める。


「巻くタイミングは、完全に固まる前。余熱で火を通す感じで……」


クルクルと綺麗に巻いていく楓。柚希先輩が、腕を組みながらじっと見つめていた。


「なにそれ!? 卵焼きってこんな綺麗に巻けるものなの!?!?」


綺麗な焼き色がついた卵焼きは、ふっくらと仕上がった。


台所の空気がだいぶ温まってきた頃、玄関からもう半分のグループが帰ってくる音がした。


「お肉がきたぞーーー!!!」


テンションマックスの、朝陽先輩の声が寮内に響いた。いつの間にキッチンにいないと思っていたら、玄関までわざわざお出迎えしていたらしい。


「おおお!!!」

「ついに主役きた!!」

「よし、バンビ、仕上げ頼んだ!!!」


楓は軽く頷き、エプロンの紐をきゅっと結び直した。


「……じゃあ、焼き加減、どうします?」


もうすっかり、メインシェフの顔だった。


「いや、もう間違いなく『たぶん』じゃないじゃん!!!」



窓の外に一つ、二つと街灯がつきはじめていた。淡い藍色の中に白い光の斑点が浮かび、レースのカーテン越しにぼんやりと広がっている。


楓はこの夕方とも夜ともつかない時間に安心する。レース中は常に最適な答えを求められるけど、ここには曖昧ままで許される優しさがあるように思えるから。


テーブルの上には、次々とご馳走が並べられていく。ポテトサラダ、だし巻き卵、優しく湯気の立つ野菜スープ。


そして中央には、和牛サーロインステーキ。丁寧に火入れされた肉が、香ばしい匂いとともに食欲をそそる。


「……すごい!」

「これは豪華だね!!」

「この香り、たまらん……」


蓮李先輩が小皿を覗き込み、目を丸くした。


「柚希、ソースが選べるの?」


柚希先輩が待ってましたとばかりに頷く。


「そうなんです。こちらが柚子で、なんともう一つは梅なんです。両方とも私の自信作ですよ」


蓮李は興味深げに見比べ、ふっと笑みをこぼした。


「へぇ……じゃあ、最初は梅から試してみよっかな」

「ぜひぜひ!」


そのやりとりを横目に、茉莉先輩も静かに小皿を手に取る。


「私は柚子でいただきますぞ」


みんながウキウキしながら席についた。


「それでは、みなさん!」

「「「いただきまーす!!!」」」


食べ始めると、向かいのラギちゃんが目を丸くしている。


「これ、バンビが作ったの?」

「うん、たぶんね」

「なぁに、たぶんって」


あちこちから 「美味しい!」 の声が飛び交っている。


「卵焼き、ふわっふわ!!」

「ポテサラ、お酢が効いててさっぱりしてる!」

「これ、お店で出せるって!」


楓は満足げに目を細めて、ちょっと照れながらナイフを入れる。ステーキの表面はこんがり焼き目がついて、中はジューシー。一口食べると、香ばしさと肉汁が口いっぱいに広がる。


(美味しい……)


みんなの会話が弾む中、楓はふと、視線を落とした。フォークを握る手が、ゆっくりと止まる。


(私……昨日、本当に、自分で走ってたのかな……)


フットギアの加速。あの一瞬のスパート。まるで自分の意思とは関係なく、脚が動いたような感覚——。楓の思考は、自然と昨日のレースへと戻っていく。


隣の朝陽先輩が、楓の顔を覗き込んだ。


「何か考え事?」

「……い、いえ、大丈夫です」


そう答えながらも、心の中では、ぐるぐると考えが巡る。


「んー?」

「私、ちゃんと自分の足で走れていたんですかね」


朝陽先輩はちょっと考えて、ポンっと肩を叩いた。


「あっはは、当たり前じゃん。不思議なこと言うね」

「……」

「どうしても気になるなら、神宮寺さんにでも聞いてみればいいんじゃない?」

「えっ……?」

「だってあの人、一番近くで見ていたでしょ?」


たしかに。エリカさんなら、わかるかもしれない。


「……なるほど」

「なるほど、って。本気にしないでよ、冗談だってば、もう」


朝陽先輩が笑う。


「まぁ、今は楽しく食べよ?」

「……はい!」


楓は一度、深く息を吸って、フォークを持ち直した。


(そっか……聞いてみればいいんだ)


ナイフを入れ、またひと口、お肉を頬張った。噛むたびに、ジューシーな肉汁が広がる。


(美味しい……)


まずは、今この瞬間を大事にしよう。考えるのは、またあとで。



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