④ 揺れる足音
駅伝部に入って、不思議に思うことがある。
楓は、前を走る先輩たちの足元を見てペースを合わせながら、ゆっくりとした呼吸で走る。
昨日、あんなに走ったのに。試合翌日だろうと、朝練はこうして全員で集まってジョグをする。
(今日くらい休みでもいいのにな……)
キャプテンの
「完全オフにすると、かえって回復が遅くなるんだよ」
「えっ、そうなんですか」
「うん。だから『疲労抜き』って言って、試合翌日は軽く体を動かすんだ」
(ひぇー)
乳酸を流し、酸素を巡らせ、疲れにくい体を作る。駅伝選手にとっては、それも立派な練習のひとつだという。
つまり「あんなに走ったのに」ではなく、「あんなに走ったから」というわけか。
言われてみれば、起きたときは鉛のようだった足腰が、少しずつ動かしやすくなってきた。
でも、体が軽くなっても、頭は重いままだった。
(私……ちゃんと自分で走ってたよね? もしや、本当にシルフィードに操られていたとしたら?)
思考の迷路に入りかけていた、そのとき。
「おはようございます!」
前方から、凛とした声。アイリスのメンバーが背中を正して次々挨拶している。楓も慌てて顔を上げて、そしてまたすぐに下げた。
「今、監督の隣で見ていた人、誰ですか?」
「そっか。バンビは見たことなかったっけ」
「はい、たぶん……」
「理事長先生だよ」
(理事長、先生……?)
◇
一時間ほどのジョグを終えて帰ってくると、グラウンドの入口に、先ほどの理事長先生の姿があった。
「諸君、昨日はご苦労であった。予選突破、おめでとう」
「ありがとうございます!」
楓もワンテンポ遅れて頭を下げた。
「いやぁ、努力が実を結ぶ瞬間は、いつ見ても心打たれるものじゃ。……えぇ、立花よ?」
「はい、おっしゃる通りです」
(立花、って呼ぶんだ?)
威厳がありながら、どこか親しみやすい口調。口には出せないけど、なにか由緒正しき、
「10月のみなと駅伝は、ウチのキャンパスのすぐ目の前を通る。当日は横断幕作って、盛大に応援するつもりでおる。ま、初めてだから、わからないことだらけだがの」
そこで、みんなが肩の力を抜いて笑った。
なるほど、みなと駅伝を走るのは、大学の宣伝になるんだ。
理事長は、さらに言葉を添えた。
「それから。理事長室に、ご褒美を用意しておる。夕刻にでも、取りにくるとよろしい。一人じゃあ、持ちきれん。必ず複数人でな」
ひそひそ。
「楽しみだね」
「夜は祝勝会だ!」
先輩たちは「ご褒美」が何か知っているらしい。なんだろうか。
ありがたいお話が終わると、自然と解散ムードになった。
先輩たちに教えてもらったところによれば、立花監督をアイリスに呼んだのが、あの理事長なのだとか。
駅伝部が去年、正式な強化部として認められた背景には、理事長の強い後押しがあったのだという。
そして、予定外の途中入部だった楓が、スムーズに駅伝部の寮に迎え入れてもらえた件についても、もれなくこの人が関与しているらしい。
理事長がつま先をターンしかけたそのとき、楓は思い切って一歩踏み出した。
「失礼します。はじめまして、私、栗原楓と申します」
理事長は足を止め、ゆるやかに振り返った。
「おお、キミが」
「入寮の際は、ありがとうございました」
それから、深く一礼する。声は震えたが、やっと言えたという安堵もあった。
理事長は穏やかな眼差しで頷いた。
「立花から話は聞いておる。仲間を信じて、一生懸命やりなさい」
「はい。ありがとうございます」
お礼、言えてよかった。
理事長が歩み去るのを見届けた楓は、そっと息を吐いた。
さて、自分も通学の準備に戻ろう。
と、すっかり気が抜けていたところに。
「楓、ちょっといいか? 昨日のレースのことだけど」
背後から、立花監督の声がした。
昨日のレース……。げっ、そういえば、途中から指示を全く聞いてなかったんだった。
(さすがにマズかったよね)
◇
「あのお爺ちゃんな、もともと駅伝の監督やってた人なんだよ」
「えぇ! そうだったんですか」
(だから、立花、って……)
とはいえ、楓は気を引き締めながら、監督の横について歩く。
立花監督。31歳。元・箱根駅伝ランナー。現役を引退しているのに驚くほど速くて、練習では自らペースメーカーとして走りながら指導する。「教え子にはまだまだ負けられない」が口癖だ。
男性ゆえ、基本的に寮への立ち入りはなく、あったとしても、ミーティング時にケヤキ館一階のリビングに集まるのみ。一対一での会話は、ほとんどがグラウンドで交わされる。
(監督から、わざわざ話があるなんて)
楓は身構えた。すると、監督がちらりと横を向き、軽く頷いた。
「レース終盤、足が急に止まったな」
「……はい」
「あれ、セーフティーブレーキだろう」
聞き覚えのありすぎるフレーズだった。レース中、脳内に響いてきたダイレクティブ警告。思い出すだけで、心がざわつく。
「警告、出てました」
「やっぱりか。まあ、なんにしても驚いたよ。あの神宮寺エリカについていくんだから」
「すみません……」
「いや、実際俺も、まだわからない部分は多いんだがな」
監督はそう前置きしてから言った。
「ブレーキが作動するほどのプレッシャーの中、よく頑張った」
(えっ?)
「後ろにつけとか、80秒ペースで行けとか……正直、詰め込みすぎたな」
楓は驚いて顔を上げた。叱られるものとばかり思っていた。
「精霊石がランナーの異常を検知すると、自動的にブレーキがかかる。心拍数の急上昇、極端な筋疲労……そうした兆候を感知すると、ソールが粘性を帯びて、スピードを制御するよう設計されている」
楓の心臓が、どくんと、と鳴った。
フットギアは女子専用である以上、監督が履くわけにもいかない。それでも、選手のために色々勉強してくれているのは伝わってくる。
「私、そこまで追い込まれていたってことですか」
「ああ。おそらく肉体的にも、精神的にも。少なくとも、監督の指示を聞き忘れるくらいにはな」
楓は顔を赤らめ、小さくうつむいた。
たしかに、あのときの立花監督の声は、記憶にない。
ペースも、位置取りも、気がつけばすべてエリカさんの背中を追っていた。
(あの瞬間だけ、周りの音が全部消えていた……)
無意識に足を止めかけたが、監督の歩調は変わらない。楓は慌てて並び直す。
「セーフティーブレーキ自体は悪いものじゃない。あれのおかげで、女子駅伝に多かったレース中の事故は、目に見えて減った」
監督はそこで声のトーンを少し落とした。
「でも、皮肉な話だよな」
「……?」
「本来は選手を守る機能のはずなのに、発動させないために、かえって選手たちは、より強いメンタルを要求されている」
女子選手が、本当の限界を超えてしまわないように設けられた安全装置。けれど、一秒を争う局面においては、それが過保護な足枷にも思えてしまう。そういうことだろうか。
あの瞬間、電撃が流れたように手足が動かなくなった。ラスト四周は、どれだけもがいても、思うように進まなかった。
「幸い、今回は無事に終わった。けど、毎回あんな風に運ばれていたら、いつか本当に危ない」
「……」
「俺は、選手が倒れ込まないレースができるようにしたい」
意外だった。初心者ながらに、楓はずっと思い込んでいた。最後は立てなくなるまで、歯を食いしばって走るのが、駅伝の精神なのだと。
「倒れ込まなきゃ全力じゃない、って、多くの人は思うかもしれない。けど、それは違う」
監督はきっぱりと言い切った。
「出し切るっていうのは、最後まで元気に、自分の足で立って、仲間にタスキを渡すことだよ」
(最後まで、元気に……)
楓はその言葉を、そっと胸の奥にしまった。
「次はもっと、リラックスして走れるようになるといいな」
「リラックス、ですか」
楓にとっては、それが何か未知のテクノロジーのように聞こえた。
「フットギアは『心に履くシューズ』って言われているくらいだ。心と体が充実して、初めて履きこなせる」
エリカさんと並んで走りたい。その一心で駆け抜けた。それで、シルフィードが加速をくれた瞬間もあった。けれど——。
自分の弱さを、シルフィードに見透かされていたのかもしれない。
「まだまだ足りないことが多いって、少しずつですけど、わかってきました」
「うん、今はそれで十分だ」
監督はそこでふっと表情を和らげた。
本当は、もうひとつだけ聞きたいことがあった。けれどその問いは、口に出すにはまだ怖すぎた。
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