④ 揺れる足音

駅伝部に入って、不思議に思うことがある。


楓は、前を走る先輩たちの足元を見てペースを合わせながら、ゆっくりとした呼吸で走る。


昨日、あんなに走ったのに。試合翌日だろうと、朝練はこうして全員で集まってジョグをする。


(今日くらい休みでもいいのにな……)


キャプテンの蓮李れんり先輩が笑う。つい心の声が漏れてしまっていたらしい。


「完全オフにすると、かえって回復が遅くなるんだよ」

「えっ、そうなんですか」

「うん。だから『疲労抜き』って言って、試合翌日は軽く体を動かすんだ」


(ひぇー)


乳酸を流し、酸素を巡らせ、疲れにくい体を作る。駅伝選手にとっては、それも立派な練習のひとつだという。


つまり「あんなに走ったのに」ではなく、「あんなに走ったから」というわけか。


言われてみれば、起きたときは鉛のようだった足腰が、少しずつ動かしやすくなってきた。


でも、体が軽くなっても、頭は重いままだった。


(私……ちゃんと自分で走ってたよね? もしや、本当にシルフィードに操られていたとしたら?)


思考の迷路に入りかけていた、そのとき。


「おはようございます!」


前方から、凛とした声。アイリスのメンバーが背中を正して次々挨拶している。楓も慌てて顔を上げて、そしてまたすぐに下げた。


「今、監督の隣で見ていた人、誰ですか?」

「そっか。バンビは見たことなかったっけ」

「はい、たぶん……」

「理事長先生だよ」


(理事長、先生……?)



一時間ほどのジョグを終えて帰ってくると、グラウンドの入口に、先ほどの理事長先生の姿があった。


「諸君、昨日はご苦労であった。予選突破、おめでとう」

「ありがとうございます!」


楓もワンテンポ遅れて頭を下げた。


「いやぁ、努力が実を結ぶ瞬間は、いつ見ても心打たれるものじゃ。……えぇ、立花よ?」

「はい、おっしゃる通りです」


(立花、って呼ぶんだ?)


威厳がありながら、どこか親しみやすい口調。口には出せないけど、なにか由緒正しき、御神木ごしんぼくみたいな人だと思った。


「10月のみなと駅伝は、ウチのキャンパスのすぐ目の前を通る。当日は横断幕作って、盛大に応援するつもりでおる。ま、初めてだから、わからないことだらけだがの」


そこで、みんなが肩の力を抜いて笑った。


なるほど、みなと駅伝を走るのは、大学の宣伝になるんだ。


理事長は、さらに言葉を添えた。


「それから。理事長室に、ご褒美を用意しておる。夕刻にでも、取りにくるとよろしい。一人じゃあ、持ちきれん。必ず複数人でな」


ひそひそ。


「楽しみだね」

「夜は祝勝会だ!」


先輩たちは「ご褒美」が何か知っているらしい。なんだろうか。


ありがたいお話が終わると、自然と解散ムードになった。


先輩たちに教えてもらったところによれば、立花監督をアイリスに呼んだのが、あの理事長なのだとか。


駅伝部が去年、正式な強化部として認められた背景には、理事長の強い後押しがあったのだという。


そして、予定外の途中入部だった楓が、スムーズに駅伝部の寮に迎え入れてもらえた件についても、もれなくこの人が関与しているらしい。


理事長がつま先をターンしかけたそのとき、楓は思い切って一歩踏み出した。


「失礼します。はじめまして、私、栗原楓と申します」


理事長は足を止め、ゆるやかに振り返った。


「おお、キミが」

「入寮の際は、ありがとうございました」


それから、深く一礼する。声は震えたが、やっと言えたという安堵もあった。


理事長は穏やかな眼差しで頷いた。


「立花から話は聞いておる。仲間を信じて、一生懸命やりなさい」

「はい。ありがとうございます」


お礼、言えてよかった。


理事長が歩み去るのを見届けた楓は、そっと息を吐いた。


さて、自分も通学の準備に戻ろう。


と、すっかり気が抜けていたところに。


「楓、ちょっといいか? 昨日のレースのことだけど」


背後から、立花監督の声がした。


昨日のレース……。げっ、そういえば、途中から指示を全く聞いてなかったんだった。


(さすがにマズかったよね)



「あのお爺ちゃんな、もともと駅伝の監督やってた人なんだよ」

「えぇ! そうだったんですか」


(だから、立花、って……)


とはいえ、楓は気を引き締めながら、監督の横について歩く。


立花監督。31歳。元・箱根駅伝ランナー。現役を引退しているのに驚くほど速くて、練習では自らペースメーカーとして走りながら指導する。「教え子にはまだまだ負けられない」が口癖だ。


男性ゆえ、基本的に寮への立ち入りはなく、あったとしても、ミーティング時にケヤキ館一階のリビングに集まるのみ。一対一での会話は、ほとんどがグラウンドで交わされる。


(監督から、わざわざ話があるなんて)


楓は身構えた。すると、監督がちらりと横を向き、軽く頷いた。


「レース終盤、足が急に止まったな」

「……はい」

「あれ、セーフティーブレーキだろう」


聞き覚えのありすぎるフレーズだった。レース中、脳内に響いてきたダイレクティブ警告。思い出すだけで、心がざわつく。


「警告、出てました」

「やっぱりか。まあ、なんにしても驚いたよ。あの神宮寺エリカについていくんだから」

「すみません……」

「いや、実際俺も、まだわからない部分は多いんだがな」


監督はそう前置きしてから言った。


「ブレーキが作動するほどのプレッシャーの中、よく頑張った」


(えっ?)


「後ろにつけとか、80秒ペースで行けとか……正直、詰め込みすぎたな」


楓は驚いて顔を上げた。叱られるものとばかり思っていた。


「精霊石がランナーの異常を検知すると、自動的にブレーキがかかる。心拍数の急上昇、極端な筋疲労……そうした兆候を感知すると、ソールが粘性を帯びて、スピードを制御するよう設計されている」


楓の心臓が、どくんと、と鳴った。


フットギアは女子専用である以上、監督が履くわけにもいかない。それでも、選手のために色々勉強してくれているのは伝わってくる。


「私、そこまで追い込まれていたってことですか」

「ああ。おそらく肉体的にも、精神的にも。少なくとも、監督の指示を聞き忘れるくらいにはな」


楓は顔を赤らめ、小さくうつむいた。


たしかに、あのときの立花監督の声は、記憶にない。


ペースも、位置取りも、気がつけばすべてエリカさんの背中を追っていた。


(あの瞬間だけ、周りの音が全部消えていた……)


無意識に足を止めかけたが、監督の歩調は変わらない。楓は慌てて並び直す。


「セーフティーブレーキ自体は悪いものじゃない。あれのおかげで、女子駅伝に多かったレース中の事故は、目に見えて減った」


監督はそこで声のトーンを少し落とした。


「でも、皮肉な話だよな」

「……?」

「本来は選手を守る機能のはずなのに、発動させないために、かえって選手たちは、より強いメンタルを要求されている」


女子選手が、本当の限界を超えてしまわないように設けられた安全装置。けれど、一秒を争う局面においては、それが過保護な足枷にも思えてしまう。そういうことだろうか。


あの瞬間、電撃が流れたように手足が動かなくなった。ラスト四周は、どれだけもがいても、思うように進まなかった。


「幸い、今回は無事に終わった。けど、毎回あんな風に運ばれていたら、いつか本当に危ない」

「……」

「俺は、選手が倒れ込まないレースができるようにしたい」


意外だった。初心者ながらに、楓はずっと思い込んでいた。最後は立てなくなるまで、歯を食いしばって走るのが、駅伝の精神なのだと。


「倒れ込まなきゃ全力じゃない、って、多くの人は思うかもしれない。けど、それは違う」


監督はきっぱりと言い切った。


「出し切るっていうのは、最後まで元気に、自分の足で立って、仲間にタスキを渡すことだよ」


(最後まで、元気に……)


 楓はその言葉を、そっと胸の奥にしまった。


「次はもっと、リラックスして走れるようになるといいな」

「リラックス、ですか」


楓にとっては、それが何か未知のテクノロジーのように聞こえた。


「フットギアは『心に履くシューズ』って言われているくらいだ。心と体が充実して、初めて履きこなせる」


エリカさんと並んで走りたい。その一心で駆け抜けた。それで、シルフィードが加速をくれた瞬間もあった。けれど——。


自分の弱さを、シルフィードに見透かされていたのかもしれない。


「まだまだ足りないことが多いって、少しずつですけど、わかってきました」

「うん、今はそれで十分だ」


監督はそこでふっと表情を和らげた。


本当は、もうひとつだけ聞きたいことがあった。けれどその問いは、口に出すにはまだ怖すぎた。


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