③ 10分25秒


みなと駅伝予選のひと月前。ゴールデンウィーク中の記録会。高校生のスカウト視察に帯同した際の出来事だった。エリカは思わず二度振り返った。


(あれは……!?)


眼前を通過していく小柄な選手。その足に、ありえないものがあった。エリカの胸がざわつく。


シルフィード。今の時代に、自分以外で履いている選手を初めて見た。高校生の多い組に混じっているが、フットギアを履いているのだから大学生以上ということになる。


「……どうして、あなたがそれを履いているの?」


その問いこそ口に出さなかったが、エリカはその選手が遠ざかっていくのを目で追わずにはいられなかった。


大会プログラムを確認し、正体を特定する。3000メートル6組、ゼッケン12番。栗原くりはらかえで、アイリス女学院大学。


全くノーマークの選手だが、その大学名にだけは見覚えがあった。


(やっぱり。あの人のいるチームだ……)


先頭に、二神ふたがみ蓮李れんりの姿を見つける。長野の佐久東さくひがし高校が全国高校駅伝で優勝した際のエース。大学生になってから、めっきり姿を見なくなっていた。


ジャスミン大学が目星をつけている高校生は、もっと後に登場する、自己ベストの速い選手たち。そのため、午前中のエントリーリストは完全に見落としていた。


それにしても、なぜこの二人の大学生は、目標タイム「10分30秒」に設定された、こんな前半の組にエントリーしているのだろうか。


(二神蓮李の目標が、10分30……。冗談でしょう?)


高校時代に8分50秒を切った天才ランナーだ。調整走にしたって遅過ぎる。


二神蓮李を先頭に、その後ろを謎のシルフィードの彼女がついていく。さらに後方では、大学生のお姉さんについていこうと、肩に力の入った高校生たちがズラズラとついてきていた。


このへんの学生だったら、まず間違いなくマイさんが関与している。あの人がシルフィードを渡すなんて、一体どんな選手なのか。


しばらく立ち止まってレースを注視したが、真っ先にある違和感を覚えた。周回ごとに飛び交う、アイリスのチームメイトらしき人たちからの声掛けだ。


「よし! このままなら、10分25切れるよー!」


ずいぶん中途半端なタイム設定だ。この子の自己ベストが、大体それくらいなのだろうか。それにしても、さっきからそればっかり、何度も。


(うーん……)


エリカは首を傾げる。栗原楓の走りは、腰が落ちていて、ブレが大きい。それに、緊張のせいなのか、全体的にフォームが硬い。あまり褒められたものではなかった。


ところが、足の蹴り返しが強く、腕もよく振れている。呼吸音にも余裕があることから、本来はもう少しスピードを上げても耐えられるだろう。パッと見、10分ジャストぐらいならいつでも出せそうな走りはしている。


じゃあ、10分25秒って何だ。わざわざチームのエースにペースメーカーをさせてまで狙うようなタイムなのか。


(ん、待てよ……?)


そうか、そういうことか。一度そのタイムの意味に気づくと、すべてが繋がり始めた。エリカは、トラックの外周で応援している彼女のチームメイトたちの総数を数え始めた。3、4、5、6……。いま走っている者を含め、八名いる。


3000メートル10分25秒というのは、みなと駅伝の予選会の参加標準記録、つまり出場資格を得るのに必要な最低限のタイムだ。エリカにとっては気にしたことも気にする必要もないことから、気づくのに時間を要した。


(このチーム、今年は予選に出てくるつもりだ)


その後、ラスト二周でペースメーカーが外れ、栗原楓は一気にスパート。9分50秒でフィニッシュした。


エリカはすぐ行動に移った。アイリス女学院大学の記録を徹底的に調べ上げ、栗原楓がチーム内7番手の選手であることを突き止めた。


(あとはどうやって、私が予選1組に出場するか、だ)


それには、監督である父を説得しなければならない。


「何を言っている。お前には、今年もジャスミンのエースとして、最終組を走ってもらうぞ」


この反応は予想の範疇。エリカはよどみなく言い分を主張する。


「ですが今のチームには、私が最終組に回らずとも予選突破できるだけの力はあります」

「それは私も感じている。今の戦力なら、多少オーダーをいじったとて、1位通過は固いだろう」

「それなら……!」

「だが、そんなことをして何になる」


(ここだ)


計画通り、しばしの沈黙。


「そもそも、予選のエントリーは原則タイム順と決められている。過去二年経験しているお前が、それを知らないわけではあるまい」


そして一気に畳み掛ける。


「まったく。珍しく相談というから聞いてみれば、そんなことを言いに……」

「——過去に、日本選手権に出場予定の選手が、タイム順を無視して前半の組を走ったことがあると聞きました」

「ん?」


嘘に本当のことを混ぜる。それが、人を納得させる方法。


「私も、今年は予選の翌週に日本選手権を控えています。トップ選手たちに万全で立ち向かうためにも、今回は負担の少ない1組に入れてほしいのです」


監督の目が一瞬細くなり、息をつく。


「なんだ。それならそうと、ハッキリ言えばいいものを。回りくどいところは、アリアに似たな」


(あら、お父様が一本槍すぎるのではないかしら?)


「わかった。大学陸連へは私から事情を説明しておこう」

「……じゃあ!」

「ただし、チームにも最低限貢献してもらう。15分台と組トップ。それが監督命令だ」

「はい。流してそれくらいで走れなければ、日本選手権の表彰台なんて目指せませんから」

「フン。それもそうだな」


(——計算通り)


完璧なはずだった。しかし予選会当日、エリカは衝撃の事実を知ることになる。


「私、シルフィードしか履けなかったんです」


一瞬、視界がぐらつく。何を言っているのだ、この子は。


「シルフィード、しか?」


(それじゃ、まるで……)


信じられなかった。自分は血の滲むような努力と強い精神力で、シルフィードを「克服」し、履きこなしてきた。それなのに、目の前のその選手は——。


スタートして早速、最低のライン取り。予想していた通り、自身のこともシルフィードのことも、何もわかっていない様子だった。せめて走る位置と正しいフォームを示して、走りとして形になるようにした。


けれど、エリカは甘く見過ぎていたのかもしれない。彼女は、素直に指示を受け入れると同時に、真っ正面から立ち向かってきた。


レース運びはてんで素人なのに。そのアンバランスさが、面白いとも、怖いとも思った。


最も想定外だったのは、あの直線で見せたスパートだ。あれで、全てが狂った。手加減ができなくなった。時間にして二秒、三秒。いや、一秒もなかったのかもしれない。


あれは、エリカが「克服」したシルフィードの動きとは、どこか違っていた。その違いが何なのか、まだ言語化できない。そう。だからこそ、腹立たしい。


(あなたは、一体……?)


最も近くで見ていた自分にはわかる。


あの瞬間。栗原楓は——本当の意味で、シルフィードを履きこなしていた。



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