② 禁じられた願い

どうしてこんなにイライラするのだろう。


楓への嫉妬だろうか。いや、違う。自分はただ、シルフィードを履いていながら、無様な走りをされるのが許せないだけ。


(本当にそれだけ?)


それらしい理由をつけてみるが、正直なところ、苛立ちの正体は掴み切れていない。


気づけば、店内を歩き回っていた。最新のフットギアがディスプレイの一番手前に飾られ、奥に進むにつれ、歴代のモデルが並んでいる。ここはずっと変わっていない。


(あれから、もう二年になる)


大学入学を直前に控えた春休み。4月から解禁になるフットギアの試着に訪れたエリカは、マイさんに案内されるがまま店の奥へと向かう途中、足が止まった。


目の前のガラスケースの中に一つだけ、妙に見覚えのあるモデルがあった。


(……まさか)


それは、幼い頃の憧れの選手が履いていた、シルフィードだった。記憶は確かなはずだ。展示されている年表には、登場は十年前とされているから、時期も合っている。


偶然であり、幸運だった。いや、それがエリカにとって本当に良かったのかどうかはわからない。けれど、見つけてしまったのだ。


その瞬間、エリカの視界が、異なるレイヤーで動き始めた。意識の奥で、工場のライトが次々と点灯するように、未来への道筋が一本の線になって浮かび上がる。その先に、これを履いて走る自分がいた。


みなと駅伝でチームを勝たせる。トラックで日本一。そして、オリンピックのマラソンで表彰台に上がる姿——。あの人が歩むはずだった道を、自分の力で再現する。


人類が言語化可能な領域を遥かに凌駕する無数の閃きが、エリカの脳内を駆け巡る。理屈ではなく、えてしまった。


「私、この、シルフィードがいいです!」


エリカの声が、フットラボの静かな店内に反響した。搬入作業をしていた他のスタッフたちの動きが止まる。同じく一瞬固まったマイさんが、振り返って駆け寄る。


「あっ、ゴメンナサイ。こちらは売り物ではなくて展示用なんです」

「なんとかなりませんか?」


これは、すでに存在している、煌々こうこうと輝く一本の道筋。あと必要なのは、導火線への着火だけである。


「しかし、今日試着予定だったのは……」

「もうそちらには興味ありません」

「シルフィードはもう生産もされていませんし、アップデートも一部止まっています」

「問題ありません。私は、シルフィードを履きます」


マイさんが自分のことをどれだけ異常な目で見ようとも、選択はもう終わっている。エリカにとってみれば、目の前に見えているまばゆい道を消灯させるほうが、よほど「異常」である。


「ですが……」


マイさんが言葉を詰まらせる。一拍の沈黙が落ちる。エリカの耳には、もう何も届かない。


「お願いします! 私——これを履けるのならば、他の喜びは何も要りません!!!」



マイさんが少し考え込んだ後で言った。


「……では、一度履いてみますか?」


エリカが頷くと、マイさんはガラスケースの中からシルフィードを取り出し始めた。


おそらく久しぶりに新鮮な空気に触れたであろう灰色のフットギアは、控えめなデザインながら、どこか重厚な存在感を放っていた。無駄な機能は一切ついていない、洗練されたフォルムである。


最新モデルでなくなってから、ここで静かにたたずみながら、これまで何人の新入生が素通りするのを黙認してきたのだろう。


それを手に取った瞬間、思わず口元を引き締める。


赤沢あかざわ椿つばき。オリンピックでメダルを狙える逸材のはずだった、父の教え子。幼い頃、父の仕事場について行き、颯爽と走る彼女を、木陰からずっと眺めていた。


エリカは、ゆっくりと足を通す。


「これが……」


(椿さんの見ていた世界……)


この感触。彼女も同じものを感じていたのだ。練習の合間、椿さんが休憩中にトラックの隅に脱ぎ捨てた灰色のシューズ。それをじっと見つめていた記憶が蘇る。


しかし——。様子がおかしい。


フットギアが反応しない。普通なら、装着した瞬間に「同期開始」の通知が出るはずだ。だが、シルフィードは沈黙したままだった。


(……?)


「シンクロ、しませんね」


マイさんが、淡々と言う。


(え……?)


「シルフィードは、まだ精霊石の精製精度が低い時代に作られたモデルですから。うまくシンクロできるかどうかは、かなりの個人差があるのです」

「それって……」

「どうやら、エリカさんには合っていないようです」


一瞬にして描かれた未来が、一瞬にして断線した。慌てて表情を取り繕うが、暗闇の中で、その言葉はガラスの破片のように突き刺さった。


(シンクロできない……?)


そんなことがあっていいのか。エリカはもう一度、履き直した。何度も、何度も試した。


時間だけが過ぎる。けれども、シルフィードは一向に沈黙を破らない。まるで、シルフィードに拒絶されている。


(お前は、この物語の傍観者にすぎない。そう言われているようで、たまらなく惨めだった)


マイさんが、静かに言った。


「エリカさん、そろそろクロノスタージュの試着に戻りますか?」

「……いいえ」

「でも、シルフィードは……」

「これ以外、履くつもりありませんので」


エリカは「拒絶されたフットギア」を履き続けることを決めた。


これは試練だ。運命など、捻じ曲げてしまえばいい。


あれから、狂気的な数の試行錯誤を繰り返した。感覚が研ぎ澄まされるまで、指先の角度、踏み込みの深さ、神経を張り巡らせ続けた。


本来、適合しなかったシューズ。だが、もうそれは関係ない。


今では、猛獣を手懐てなずけるかのように、それを自在に操れるようになった。シルフィードを完全に制圧、克服した。


だが、そんな時だった。エリカとは全く逆の境遇の、彼女に出会ってしまったのは。



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