⑤ ビギナーズ・ハイ

「私たち、小さいんだから。あんな込み入ったところにいてはダメよ!」


ずいぶんハッキリ聞こえるタイプの天使の囁きだなと思ったら、それは前を走るエリカさんの声だった。


(えっ?)


「一度しか言わないからよく聞いて。スタートしたら、まず真っ先に前に出て、自分のスペースを確保するの! いい?」


思わず「ハイッ」と返事をしたものの、声は大観衆の歓声にかき消されてしまった。驚きと困惑で、ただコクリと頷くのが精一杯だった。


(すごい……このスピードで喋れるの?)


息も乱さず、リズムも崩さず、アドバイスを送れる余裕がある。いちいち比べていたらキリがないけど、とてつもない差を感じた。楓はついていくだけで必死だ。


(スタート前に話しかけてくれたのだって、夢みたいだったのに。助けてもらって、走り方まで教えてもらうなんて……)


本当に、これは夢なのかもしれない。今、エリカさんの走りを誰よりも間近で見ている。


見事なまでにブレがない。一本の軸が通っていて、肩肘はリラックスしているのに、力強さがある。両腕がスイングするたび、身体が前へと飛ぶ。後ろの楓も、お腹を縄で引っ張られているみたいに、この人に吸い寄せられていく感じだ。


身体のどこに力を入れて、どこを抜けば速く走れるのか。その答えがすぐ目の前にある。顔の高さ、目線の高さが楓と同じくらいで、ペースの上げ下げもない。集団に埋もれていたときよりずっと走りやすかった。


エリカさんの後ろで走るのは、なんというか。


(すごく、心地いい……)


このまま、どこまでも行けそうな気がする。ペースのことなんて、もうすっかり頭から抜けていた。エリカさんを追いかけるのが、ただ楽しくてしょうがない。


この十数分の時間が長かったのか、短かったのかわからない。けれど、どれだけ未来へ進んでも、この時間を忘れはしないだろうと直感した。呼吸が弾む。心の奥底に火が灯る。


(もっと……もっと!)


足を動かすたび、体が軽くなる。いつの間にか、ただただ夢中になっていた。


(そのうち、なぜだかどうしてか、私は——)


エリカさんに並びたいと、思い始めてしまうのだった。



ぼやけたような周りの景色が、妙にゆっくりと流れていく。


「ジャスミン大学の神宮寺さんを先頭に、まもなく3000メートルを通過……9分36秒。このかんの千メートル、3分10秒」


(あれっ、もう3000?)


楓は、それまで先頭のラップを読み上げるアナウンスを、他人事のように聞いていたことにようやく気づいた。喧騒が耳から遠のき、エリカさん以外のことは意識から消えていた。3000メートルを過ぎた一番キツくなるポイントでもなお、楓は全く別の発想だった。


(あと五周で、終わっちゃうんだ……)


名残惜しさすら感じた。エリカさんの腕振りと足運びを、無意識のうちに真似する。呼吸のリズムまで揃っていた。この心地よい時間がずっと続けばいいのに。


脚の筋肉はじわじわと痺れ始めている。汗が頬を伝う。焼けるように熱くなった肺から血の味が上がってくる。苦くて、苦しい。


いつもなら、これらは限界のサインだ。すぐに足が動かなくなり、一度遅れ始めると修正できない。


でもなぜか今日だけは、そうならなかった。肩甲骨もふくらはぎも自然と回って、楓のことを後ろからポンプみたいに押し出してくる。限界を超える、いや、限界のラインがめりめりと押し上げられていく感覚だ。


(……そういうことか!)


初めてフットギアを履いたとき、フットラボで教わった。「フットギアは、ランナーの気持ちとシンクロする」——この感覚なんだ。苦しいはずなのに、脚が強く蹴り上がる。痛いのに、不思議とスピードは落ちない。


(憧れが、フットギアを加速させてるんだ!)


楓のフットギアが反応した。シルフィードが一気に加速する。直線でアウトコースに膨らみ、横へ並ぶ。エリカさんの隣へ。


(この人と同じ景色を、見たい……!)


会場の声援が波を打って湧き上がった。


「おいおい。神宮寺さんと並んだぞ」

「何者なんだ、あの子は!」

「まだ1年生らしいよ?」

「マジ?」


観客席が騒然となる。そんなこと、楓は知るよしもなかった。グラウンドでは、ジャスミン大の神宮寺監督の怒号が飛ぶ。


「エリカ、何をやっているんだ! さっさと突き放せ!」


今、エリカさんと肩を並べている。後ろについていた時よりも一体感がある。走るたびに、呼吸がぴたりと重なっていく。


込み上げてくる自信が止められない。


まるで自分が自分じゃないような感覚が、全身を支配していく。トップスピードに乗っているのに、怖くない。むしろ、心地いい。


しかも、こんな大勝負に出ておいて、まだ会場の大型スクリーンを確認する余裕すらあった。だが、その映像は何かがおかしい。違和感が這い寄る。途端に、血の気がサーっと引く。喉元のナイフにそこで気がついた。


自分がアウトコースにいるはずなのに、スクリーンの映像ではエリカさんのほうが外側にいた。


(……え? いつの間に!?)


いつからだろうか。エリカさんの目つきが顕著に鋭くなっていた。気づいたときには、もう遅かったのかもしれない。冷たい汗が背中を伝う。そして浅くなった呼吸に、肩口から激しい声が被さった。


「ねえ!!」


背すじが凍りつく。


(今の、エリカさんの声?)


低く、貫かれるようで。今までのトーンとまるで違う……。


「さっきからそれ、スパートのつもり?」


(えっ!?)


「ペースをジリジリ上げるだけじゃ、相手はちっとも怖くないんだよ?」


ビクッと肩が揺れる。突き刺すような声に、梯子を踏み外した。楽しくて、ただ隣に並びたかっただけの自分が急に恥ずかしくなった。


(私、何をやってるんだ……)


何も言えなかった。舞い上がっていた。いつもなら絶対にしなかった。チームの大事なレースで、どうして自分のスリルを優先してしまったのだろう。


けれど、そんな自省の暇も許さず、エリカさんが動いた。


「いい? スパートっていうのは……こうやるんだよっ!」


真横から目撃した、好戦的に煮えたぎるあの闘志の顔つき。まばたきなど、できるはずもなかった。



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