⑥ 天使の翼

空気が変わった。


(……え?)


エリカさんのフットギアが白い閃光を放ったように見えた。足が地面を蹴るたび浮き上がり、加速していく。一瞬、音が消える。そして、彼女は飛んだ。


(……なに、あれ……)


エリカさんの背中に「天使の翼」が生えている。そんな錯覚に襲われた。見てはいけないものを見てしまった気がして、息を呑む。目の前の出来事に、頭が追いつかない。


周回遅れの選手たちが止まって見えるほど、外側から一気に抜いていく。追いつけるわけがない。たとえわかっていても、追いかけないわけにはいかない。だがその瞬間、手足が急にしぼんだように感じた。


(……っ!?)


——心拍数異常、セーフティーブレーキ作動。ペースを落として走行してください。


楓の脳内に警告が鳴り響く。足裏の反発が消え、見えない鎖に引き戻される。


(違う、止まりたくない。まだ行けるのに!)


腕を振る、足を蹴る。どれだけもがいても、鉛のように重くなった太ももが沈み込む。肺が潰れる痛みに、走りながら思わず背中を丸める。体をまっすぐ起こす力も尽きた。


隣にいたエリカさんは、もう遥か遠くにかすんでいる。さっきまで湧いていた自信など、全身を伝って流れ落ちてしまった。


楓はまだ何も知らなかった。神宮寺エリカというランナーの、本当の実力を。


その後、楓に残されたのは、それまで走ってきた八周半よりずっとずっと長く感じたラスト四周だった。


* * *


アイリス女学院大学が2位で予選を突破し、みなと駅伝初出場を決めたと知らされたとき、楓は医務室のベッドにいた。あの後、ふらつきながらゴールに倒れ込んだ。


2着、16分38秒。終わってみれば目標より二十秒以上速かった。上出来だと、監督やチームメイトは褒めてくれた。


一方、エリカさんは15分48秒。その差、五十秒。捉えようによっては五十秒差で済んだとも言えるが、一緒に走った楓は、それ以上の実力差を思い知った。


最後の四周だけで五十秒。エリカさんには、それだけまだ余力があった。冷静になるにつれ、それを痛感した。周回遅れは避けたが、体感では何周も差をつけられたような後味だ。


一緒に走れたのは、エリカさんが楓のペースに合わせていたから。それなのに、並びたいだなんて思ってしまった。今日はチームの大事な試合。独りよがりな賭けに出るべきではなかった。


そもそも、どうしてエリカさんは、楓のことを助け、アドバイスを送ったのか。考えるほど、彼女のことが分からなくなった。



熱が引き、静まり返った夜のスタジアム。帰り際、偶然にもエリカさんと二人きりになった。


「ねぇ。さっきのレース、本当は誰が走っていたの?」

「ええっと、すみません。誰が、というのは……?」


何を聞かれているのか、わからなかった。


「一瞬のきらめきは、再現性のある強さには到底及ばない。あれはあなたの走り? それとも、シルフィードの気まぐれ?」


それではまるで、靴に操られていたみたいな口ぶりだ。


けれど、思い当たる節はあった。走っている最中、何度も奇妙な浮遊感に襲われた。そう、自分が自分じゃないみたいな。まさか……。


「シンクロの統制が取れていないフットギアは、ランナーの意思を無視して動くことがあるから」


その言葉で、レース中の謎が一本の線で繋がった。


——楓は、シルフィードに走らされていたのだ。


おかしいと思ったんだ。平凡な自分が、突然あんなふうに走れるわけがない。


エリカさんへの憧れが、楓の脚を加速させてくれた。そのことだけは否定したくない。けれど——。


(憧れだけじゃ、ダメなんだ……)


一基ずつスタンドの照明が落とされていく。街灯の光だけが残り、ふたりの足元を斜めに照らしていた。


「楓、あなたが精霊石に込めた願いは何?」


願いというのは、多分アレのことだ。フットラボでは、最初に自分のフットギアへ足を踏み入れる前に、自身の願いを唱える慣わしのようなものがある。楓は少し躊躇した後で、答えた。


「強い人になること、です……」


脳裏にフラッシュバックする、泣き崩れる母の肩を抱く、幼い日の記憶。あの日の言葉を嘘にしないためにも、変わらないといけない。


「その願いに向き合わなければ、フットギアは履きこなせない。あれはお飾りの儀式ではないのよ。それともあなた、フットギアが魔法の靴だとでも思っているの?」


楓はハッとする。願いを込めたはずなのに、何も変われていない。唇を噛む楓を残し、エリカさんは背を向けて行ってしまう。


「あのっ」


何か言わなければ、この出会いが一過性のものになってしまう気がして。思わず、エリカさんを引き止めた。


「エリカさんの願いって、何ですか……」


すると彼女は振り返り、迷いのない声で答えた。


「強いランナーになること」


一見、楓と似た願い。だが、すがるように願った自分と、彼女の決意は違う気がした。


「私は、止まってしまった物語を、再び動かしたいの」


(止まってしまった、物語……?)


あの夜。楓は答えられなかった。


シルフィードが走っていたのか、楓が走っていたのか——。


次にエリカさんと会うときまでに、この答えを出せるだろうか。




【第1話 運命のライバル】おわり


ここまでを、アニメ第1話と想定しています。(15,000字程度)



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