第4話

「……」


 由紀子は、血まみれの窓ガラスに手を伸ばした。


 震える指が、赤黒く汚れたガラス面をそっと押した。


 わずかな音を立てて、窓が開く。


 軋んだ音が、世界の静寂を引き裂く唯一の音だった。


 指が窓枠にかかる。


 ——見ては、いけない。


 分かっている。


 だが、その衝動を、どうしても抑えることが出来なかった。


 抗えなかった。


 窓枠を両手でしっかりと掴み——ゆっくりと。


 身を乗り出して、下を覗き込んだ。

 そこに在ったものは——。


 窓の真下には、もはや誰の面影も残っていなかった。


 ただ、そこに広がっていたのは。


 ——血の池。


 地上一面に広がる、濃く淀んだ紅。


 ぐしゃぐしゃに潰れた肉塊が折り重なり、さらにその上に、別の肉塊が幾層にも積み重なっている。


 手や足の断片が、信じがたい角度に捻じれ、折れ曲がっていた。


 砕けた骨が、皮膚を突き破って白く覗いていた。


 髪が絡まり合い、かつては白かったはずの制服は、赤黒い泥のような色彩に染め上げられていた。


 血、肉、髪、衣服。

 それらが、もはや個体としての「人間」という概念を失った姿で、そこに在った。


 まさしく——臓物と肉塊の山。


 この世のものとは思えぬ光景。

 地獄の断片が、そこに現出していた。


 ——しかし。

 不思議なことに吐き気は、こみ上げてこなかった。


 目の前に広がる惨状は、言葉では形容し難いものだった。


 恐怖は——確かに、未だにあった。


 背筋は凍え、胸の奥は今にも引き裂かれそうにきしんでいた。


 絶望しかけた心は、何度も砕けかけている。


 が。否、正確には、理屈としては吐き気を催すべきだったのだ。


 しかしこの学校が、この全生徒が、学校ぐるみで、喜び勇んで由紀子と遠矢に、悲惨な仕打ちを繰り返していた。


 そのことを、由紀子は、骨の髄まで理解していた。


 彼らは笑っていた。

 嬲っていた。

 奪っていた。

 壊していた。


 それもこれもすべて、つい今しがた、肉塊の仲間入りを果たした、この街の権力者にして、この学校の理事長の娘であり、同じクラスメイトでもあった存在——紫藤奏羽の指示によるものだった。


 紫藤奏羽は権力者の娘だ。

 彼女は由紀子には、こう言い放っていた。


「なんか気に食わないから。」

 ただそれだけの理由で。


 そして遠矢に対しては——。

「紫藤家を守るべき、齋藤家の恥さらし。」

 その理由は理解不能だった。


 論理も整合性もない。

 だが、その言葉ひとつで、この学校はこの牢獄となった。


 紫藤奏羽は暴君だった。

 教室内では、女王の如く振る舞い、周囲の者たちは皆、尻尾を振って従った。


 だがそんな彼女もまた、今は、肉塊のひとつにすぎなかった。


 この惨劇のただ中に堆く積み上がった、無名の肉塊の中に。


 ちらりと遠矢を見やる。

 彼は、いつの間にか腰を抜かしていたらしい。

 窓辺に手をかけたままの由紀子の動きに誘われたのか。


 彼の顔にもまた、ほの暗い好奇の色が浮かんでいた。


「……」


 由紀子は、そっと声を落とした。

「見ない方が良いよ……。一生、トラウマになるかも。」


 それは忠告だった。

 だが遠矢は、その忠告には耳を貸さなかった。


 黙って、彼女の横に立った。

 そして——。

 その視線が、下へと降りた。

 程なくして。


 彼は、その場に座り込み、吐き始めた。

 喉の奥から逆流する音が、沈黙の教室に乾いた響きを刻んだ。


 それ以外に、音はなかった。

 教室の外に、足音は聞こえなかった。

 廊下も——。

 階段も——。

 屋上も——。

 誰一人、動いてはいなかった。


 空間そのものが、死の気配に覆われていた。


「……ここを、出ないと…」

 遠矢の声は震えていた。


 喉の奥から掠れた声が、やっとのことで漏れ出していた。


 由紀子は、かすかに唇を噛んだ。


「……けど……」


 声が自然と細くなった。

 逃げたところで——どこへ?


 そう問いかける思考が、言葉を曖昧に絡め取っていた。


「……じゃあ、ここに……ずっといるのか?」

 遠矢の返す言葉には、理屈ではない切迫が滲んでいた。


 言葉の裏には、もう「耐える」という選択肢は存在していなかった。


 スピーカーは沈黙していた。

 不気味なほど、何のノイズも発していなかった。


 無音。

 それがかえって更なる恐怖を際立たせていた。


「…確かに…もう……ここには……いたくないけど……どこに、行くの……」


 言いかけた言葉の途中で、喉が引き攣れた。

 それは言葉の問題ではなかった。


 帰る家など、存在しなかったのだ。

 由紀子の父は暴力を振るった。母も喜んでその加担をした。

 そこに「愛」など、一片もなかった。


 それどころか。紫藤家に「良い玩具を提供してくれているお礼」と称し、多額の金を受け取っていた。


 そのことも、由紀子は知っていた。


 この街で、紫藤家という家の「力」は、それほどまでに凄まじかった。


 夜に帰ったところでそこに待つのは——また別の地獄。


 この学校の外側にさえ、救いはなかった。

 それは、遠矢も同じだった。


 あんな状況でさすがに、2人とも互いに味方意識のようなものは抱いていた。


 二人きりで、話をしたことも幾度かある。


 共通していたのは、身内さえ味方がいないこと。


 この地獄から抜け出すすべを持たないこと。


 お互いあまり家のことは詳しく話さなかった。


 だが。

 遠矢も、時折ぽつりと漏らしていた。

 家でもよく、身内に殴られているのだと。


 その声には、諦めにも似た滲みがあった。

 由紀子が俯いた。


 影が長く伸びた。


 そのとき、遠矢はわずかに、息を吸い込んだ。

 決意にも、戸惑いにも似た音が、その静寂の中でわずかに響いた。


「……俺には……行くあてが、ある。」


 低く、掠れた声だった。

 その響きに、由紀子は驚いて顔を上げた。


「……そんなとこ……あるの……?こんな状況で……?」


 声が自然と小さくなった。

 疑問というより、願望にも似た響きが、そこにはあった。


 由紀子は血まみれの窓へ視線を向けた。


 ガラスの汚れた向こう側に広がる街の景色。


 遠く、建物のあちこちから煙が立ち昇っていた。


 重たい灰色の煙柱が空へとねじれている。


 車のけたたましいサイレンが、断続的に響いてきた。明らかに街からの音だ。


 その音は、ここまで届いていた。


 この異常は——この学校だけに留まるものではなかった。


 明らかに、街全体が何らかの異常事態に飲み込まれている。


 遠矢はゆっくりと立ち上がった。

 まだ全裸のままだった。


 傷痕に青黒い痣が滲んだままのその身体。

 しかし彼の顔には確かな意志の灯火が、灯りはじめていた。


 由紀子の目には、それがはっきりと見て取れた。

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