第5話
由紀子の目には、それがはっきりと見て取れた。
「知ってるだろ……俺んち……変な家だったって」
由紀子は、かすかに眉を寄せた。
「……霊媒師……の家、って……。前に……。まさか、あれ。本当だったんだ…」
「そう。……ほんとに。霊——ってのは、存在するんだ。幽霊ってやつも、実在する。さっきの放送も……皆が飛び降りたのも……。絶対に、それの仕業だ。でも、ここまで……ヤバすぎることは、今まで一度も起きたことはなかった。そうならないように……齋藤家は、あったのに」
由紀子は、何も言えなかった。
冗談には到底、聞こえなかった。
現につい今しがた、信じがたい出来事が、目の前で現実として起きたばかりなのだ。
理屈や常識など、とうに通用しない世界に踏み込んでいる。
「……あの女が、言ってたね。遠矢くんの家……齋藤家は……紫藤家を守るためにあるって。」
由紀子の声は低く、硬く絞り出されていた。
遠矢は、一瞬だけ目を細めた。
そして、静かに、だが確かに頷いた。
「ああ。……元は、この街でも有名な——いや。霊媒師の中でも、特に霊を払う力に特化した血筋だ。昔から、紫藤家——この街の権力者を守ることが、齋藤家の義務だった。それが、俺たちの存在理由だった」
淡々と語られるその言葉の裏には、長年の重い呪縛が色濃く滲んでいた。
「でも俺自身に大した力はなかった。齋藤家でも……ここまで力の弱い奴は、類を見ないって言われた。本家じゃ……小さいガキの時から、力が無いことを責められてさ。毎日毎日、殴られて……。力を覚醒させろって、無茶なことばっかり言われて…。最後には……家を追い出された。別の任務に当たってたっていう従兄弟の家に押し付けられてな。その後も……まあ、お察しの通りだ」
遠矢の瞳が一瞬だけ陰った。
深い影が、その瞳の奥に差した。
だがすぐに、その声に力が戻った。
「でも……今なら、わかる。あの叔父さんだけは……まだ、生きてる。」
「……叔父さん……?」
由紀子の声は自然と低くなった。
遠矢は、静かに息を整えた。
「……血の繋がった叔父さんが街のはずれに住んでる。」
「え、でも……」
由紀子は、震える声で言った。
喉が引き攣れ、言葉が細く途切れる。
「……見たじゃん……。この街……きっと、外も同じだよ……。もう……誰も生きてない……っ。」
声が、かすれた。
息を吸うたびに胸が締め付けられる。
「……あの叔父さんとやらも……。絶対……死んでるって……。」
そう言いながら、絶望の重みが、心の中へと覆い被さってきた。
言えば言うほど、それが現実味を帯びていく。
抗いがたい重さが、内側から押し寄せていた。
だが遠矢は、静かに首を振った。
「いや……。あのクズだけは絶対に死んでねぇ。」
その声は、低く静かだった。
だが、異様なほどに確信めいていた。
「この程度のことじゃ…絶対に死なないヤツだ。」
「ええ……?これを、この程度のことって……どんな人間なの、それ……。」
世界の崩壊よりも。
遠矢のその、妙な自信の方が——逆に、怖かった。
その確信は、尋常なものではなかった。
狂気すら滲んでいるように思えた。
教卓のスピーカーに赤ランプが微かに灯っている。
「……行こう。」
静かに、だがはっきりとその一言が、全てを決めた。
「……うん。……あ、でも……流石にその格好で外に出るのは、まずいかも。確か……保健室に、予備の制服があったはず。」
小さな現実的な判断。
だが、ここではそれが貴重な理性の証でもあった。
「ああ……。」
遠矢は静かに頷いた。
その動きにも、もはや迷いはなかった。
遠矢が服を着たあと、二人は学校の裏口へと向かった。玄関に出て、あの血の海を渡る勇気は無かった。
二人の靴音だけが、音もなく響いていた。
街へ出ると、道路を歩く二人の周囲には——。
積み重なった無数の死体が転がっていた。
路肩に。
歩道に。
中央分離帯にまで。
血濡れた姿が乱雑に折り重なり、もはや数を数えることさえ無意味な状態だった。
だが、奇妙なことに死に対しての感覚が、完全に麻痺してしまったわけではなかった。
むしろ頭が、それを理解することを拒んでいた。
防衛反応。
こうはなりたくないという、生への執着。
足元を取られて同じにはなりたくないという——ほとんど本能的な願望。
その必死の思いだけが、二人の足を前へと進めていた。
白昼のはずだったが、空はどこまでも陰り、太陽はまるで、意志を持ってその顔を隠しているかのようだった。
影法師のように街全体が、薄暗く沈んでいた。
濃密な灰色の空気が漂い、生温い風が、どこからともなく吹き寄せる。
その風が、死臭をたっぷりと含んでいた。
鼻腔を侵し、内臓を裏返すような匂いが常にまとわりついていた。
その中で——二人は、ただ歩いた。
互いに、言葉を交わすことが正気を保つ唯一の術だった。
話すこと。
それだけが、この異様な世界で自分たちがまだ「人」であることの証明だった。
「……ねぇ。さっきの……叔父さんって……。どんな人なの?」
由紀子が、途切れ途切れの声で訊いた。
喉が乾ききっていた。
言葉を紡ぐたび、声が擦れる。
だが、それでも言葉を発さずにはいられなかった。
沈黙が、この闇の中では何より恐ろしかった。
「……あれはな。正真正銘、人間のクズだよ。」
淡々とまるで感情というものを、完全に殺した声だった。
由紀子は、一歩足を踏み出すたびに耳へ沁み入ってくるその声に、無意識に意識を向けた。
「自己中心的で、傲慢で、腐り果てていて……アル中で、一日中酒ばっか飲んでる。……外に出りゃトラブルばっか起こすし、いろんな犯罪もやってるって話だ。霊力はめちゃくちゃ強いらしいけど、それを揉み消すくらいヤバいことしまくってたらしい」
こんな——非現実的な状況の中で、あまりにも現実的な話をされて、逆に由紀子は冷静さを取り戻していた。
思考が、今ここで崩壊しないように、どこかでバランスを保とうとしていた。
意識して死体の山を、見ないようにした。
だが、それでも、道路脇のガードレールにも。
ビルの窓にも。
ありとあらゆる場所に——死体が貼り付いていた。
首を折った者。
内臓を晒した者。
どの顔も皆、無理やりに作られた笑顔を貼り付けたまま、そこに「存在していた」。
その光景は、生きた人間のものではなかった。
空間そのものが、死の演出に支配されていた。
その中で遠矢は、言葉を継いだ。
「それなのにな。『自分は天下の齋藤家だぞ』って、逆ギレしてさ。家と金の力で、全部揉み消してきた。……でも、齋藤家もとうとう痺れを切らして、町外れの呪われた家に放り込んだってわけだ。」
由紀子は、わずかに目を見開いた。
「呪われた家……?」
声は自然と低くなった。
音に出すのもためらわれるほど、その言葉には湿った冷気が纏わりついていた。
空気が、さらに重たくなった気がした。
「……ああ。何十人も死者を出して……というより幽霊が呪い殺されて、実質齋藤家が物件を抑えて誰も立ち入らないようにしたいわく付きの家だ」
遠矢の声はなおも淡々としていた。
だが、その奥に滲むものは——生半可なものではなかった。
「……なんでも、前に住んだ人間はみんな一週間もたずに全員、首を吊って死んだらしい。この街が、こんなふうになるずっと前から。あの屋敷の呪いは凄まじかった。」
その言葉に、由紀子は背筋が冷たくなるのを感じた。
ひやりとした感覚が皮膚を這い上がる。
風が止まったように思えた
「元は大豪邸だった。資産家の家でな。女中や子供、一族が大勢暮らしていたのに……ある日、全員が、突然首を吊って見つかった。……って話さ。やばい呪いがある日理不尽に降り掛かって、家が瘴気まみれになって。瘴気は霊を呼び寄せ活性化させ、力を与える……だから一瞬にして呪われて首を吊ったって話だ」
言葉は静かに、しかし確実に空気を冷たく染めていく。
その間も二人は、死体の山をすり抜けて歩き続けていた。
一歩進むたび、視界に映るものが異様さを増していく。
街の中心部へ近づくほどビルの屋上から吊るされた死体までが、目に映り始めた。
高所からぶら下がる黒ずんだ影。
ロープの跡が食い込んだ首筋。
手足が垂れ下がり、風に微かに揺れていた。
ビルという巨大な人工物が、今や巨大な絞首台と化していた。
街全体が——死の演出装置と化している。
「それでも、叔父さんは……。そこに住んでるの……?」
由紀子の声は、細く震えていた。
冷気が喉に絡みつき、言葉が上擦った。
遠矢は、微かに息を吐いた。
「最初は騙したんだ。……甘すぎる待遇をチラつかせてな。『月に大金振り込むからそこに住め』って。……厄介払いも兼ねてたんだろうな。家の恥を。あの家の呪いに任せて——消してしまえってわけさ。」
語りながらも、遠矢の目にはわずかな怒気と諦めが交錯していた。
齋藤家というものの醜さを、骨の髄まで知る者の目だった。
「……なるほど。でも、どうしてそれ……知ってるの?」
遠矢は、苦い表情を浮かべた。
「……前に、一度だけ。どうしても、齋藤家が叔父に渡さなきゃいけない書類があったんだ。それで……俺が使いっ走りで届けさせられた。」
由紀子は息を呑んだ。
「そんな……危ない場所に?」
信じがたい話だった。
だが、遠矢は、苦笑のような影を唇に浮かべた。
「危なくても問題なかったんだろ。俺なんざ……齋藤家にとっちゃ、死んでも構わない駒だからな。呪われて死んでも……誰も困らない。」
言葉の端ににじむ絶望と冷笑が、痛々しいほどだった。
そのとき道の途中で、二人の歩みが一瞬止まった。
バスが横倒しになって道路を塞いでいた。
横転した車体の中にも、天井にも人が、貼り付いたように死んでいた。
手足が折れ曲がり、血が内外に滲んでいた。
その中には、幼い幼稚園児の姿もあった。
小さな体。
小さな靴。
小さな手が、窓ガラスに貼りついたまま冷たく固まっていた。
由紀子は、思わず目を背けた。
胸の奥に、どうしようもない痛みが走った。
「……それでその家、どうだったの。」
震えを抑え込むようにして、問いを続けた。
遠矢の声は低くなった。
「……酷いなんてもんじゃない。この世の呪いの全てをかき集めたような、凄まじい家だった。」
言葉は静かに。
だが確実に、空気を冷たく染めていった。
「玄関に立った瞬間、わかった。霊力が弱い俺でも……全身の皮膚が泡立つくらいの邪気だった。そりゃ、1週間と経たずに来るって皆首を吊る。あの天下の齋藤家ですら、あまりに強すぎる呪いに、お祓いを諦めた家だからな……」
遠矢は一瞬、息を整えた。
「でも……叔父は異様に元気だったよ。」
「元気……?」
由紀子は、聞き返さずにはいられなかった。
その言葉はあまりにも現実離れしていた。
「狂っててもおかしくない状況だった。家中酒瓶とゴミだらけだったけど……。あれは強がりなんかじゃない。本気で元気だった。むしろ今の状況を楽しんでいた」
遠矢は、肩をすくめた。
その仕草には、諦めと苦笑が混じっていた。
だが、その語り口は異様なほどに確信めいていた。
そこに誇張も虚言もなかった。
「酒がなくなりかけてたみたいでな。『足りねぇ!』って——怒鳴られて。買ってこいって言われたんだ。言う通りに買ってきたら……。今度は難癖つけられて殴られた。」
「ぶっ飛んでるね。それで?」
由紀子は答えた。
次の瞬間、また死体が視界に入りそうになった。
無意識に視線を逸らし、会話に意識を集中させた。
それだけが、いま正気を保つための最後の綱だった。
遠矢は、短く息を吐いた。
「……3年経った今も、アイツは——あの家で平気で生きてる。呑気に酒を飲んで、好き放題やってるらしい。……だから、思ったんだ。あの家や幽霊より、あの叔父の方が、よっぽどおぞましい存在だってな。」
遠矢の声には、静かな確信が宿っていた。
「……あの日から、生きてる人間の方が、怖いと思ったよ。この世で一番異常な存在は——絶対に叔父だ。」
由紀子は——言葉に詰まった。
視界の端では、また風に揺れる吊るされた影が微かに動いていた。
叔父という「生きた異常」が、いまこの死の街の中で際立って浮かび上がっていた。
しばらく、言葉もなく歩き続けた。
歩幅は自然と小さくなっていた。
やがて、由紀子は恐る恐る口を開いた。
「……それってさ……頼りになる人なの……?」
言い終えてすぐ、問いかけたこと自体にためらいが湧いた。
だが、もう引き戻すことはできなかった。
遠矢は、難しい顔をした。
足を止めずに、低く静かに答えた。
「少なくとも——あの家は、本当に呪われてた。霊力が弱すぎる俺でも、分かるくらいにな。」
呼吸を整えるように、一拍の間を置いた。
そして——ゆっくりと続けた。
「でも……簡単な話だ。叔父さんの方が——幽霊より何倍も狂ってたって話だ。」
言葉は、静かな重みをもって響いた。
「それに、今、この街には——叔父さんの家と同じくらいの瘴気と呪いが溢れかえってる。そのうちこの街も、霊で溢れかえる。……だから逆に今は——あの人ほど頼れる存在は、居ない。」
その声に由紀子は——返す言葉が出なかった。
胸の奥に、冷たいものがじわりと広がった。
この先に待つものが、何であろうとも、もはや引き返す道など、存在しなかった。
背後はすでに、死と狂気の海が広がっていた。
足を止めれば、正気も、命も容易く呑み込まれてしまうと、本能が告げていた。
道路という道路は塞がれていた。
倒れた車。
積み上がった瓦礫。
死体の山。
そのすべてが、進む道を細く狭く、ねじ曲げていた。
ビルの窓には、無数の——吊るされた死体がぶら下がっている。
高く低く、無秩序に吊られた影たちが風に揺れていた。
首筋に食い込んだ縄。
そこから滴る黒ずんだ液体が、コンクリートの壁をゆっくり染めていた。
倒れた車の中には目を見開いたまま、冷たくなった運転手たちがいた。
その目は、いまだ何かを見ようとしているようで——だが、そこにはもう何も映っていなかった。
時折、遠矢がふと立ち止まった。
何かに耳を澄ませるように、動きを止める。
由紀子も、息を殺して見守った。
「……深くなってきた。」
低く呟く声が、湿った空気を震わせた。
「……何が?」
由紀子の声は、思わず細くなった。
遠矢は眉をひそめたまま、ゆっくりと答えた。
「街全体の瘴気が一段と濃くなってきてる。急ごう。目に見えなくても……俺の皮膚がざわついてる。どんどん瘴気が凝集されて……そうなると…呪いとなって、霊が実態を持てるようになる。この町全体のどこでも、俺たちに干渉できるようになる」
由紀子は、息を呑んだ。
空気がさらに、冷たく湿ってきているように思えた。
風が止まり、重苦しい沈黙が周囲を覆っていた。
「本当に……なんで、こんなことになってるんだ?こうならないために——齋藤家があったんだろ……。」
遠矢の声に、わずかな苛立ちと混乱が滲んでいた。
ただ、今この街で「見えないもの」が確実に濃度を増しているのは——由紀子にも分かっていた。
皮膚の奥が、ひりひりと痛んでいた。
歩き続けてどれほどの時間が経ったのか。
足元の感覚が、徐々に鈍くなるほどの距離を踏みしめていた。
気がつけば建物が途切れはじめていた。
街外れ。町境の林道へと、差し掛かっていた。
そこは、異様なほどに静まり返っていた。
音が消えていた。
風も、木の葉の擦れ合う音も。
遠くのざわめきも届いてこなかった。
道の脇には折れた電柱が、無残に倒れていた。
潰れた看板が、ひしゃげた鉄の塊となって転がっている。
血の跡はまだ続いていた。乾きかけた紅が、途切れ途切れに舗装の上を引いている。
だが屋敷に近づくに連れて、露骨に死体は——まばらになっていた。
死さえ拒む存在が、そこには鎮座しているかのように。
死の気配が遠ざかっているはずなのに、それとはまた違って思わず身構えてしまうように、空間の異様さが際立っていた。
「……近いな……。」
遠矢が、低く呟いた。
その声は、空気を震わせるほどに重かった。
「……叔父さんの屋敷は——この先の坂を登った先だ。」
言葉を聞いた瞬間。
林道の先に伸びる闇の道筋が、異様なほど遠く感じられた。
そこに、何が待っているのか。
二人とも、胸の奥で言い知れぬ重さを抱えていた。
だが、止まる理由は——もうどこにもなかった。
坂道を登る途中、空気は、さらに一層澱んでいった。
やがて黒ずんだ門が——視界に近づきはじめた。
その存在感は、道を塞ぐ壁のようだった。
由紀子は、胸の奥がざわついていた。
心臓の鼓動が、耳の奥で不規則なリズムを刻んでいた。
耐えきれずに——口を開いた。
「……あんまり言いたくないけどさ……。こんな、地獄のような状況で……。本当に怖いのはあんなに人を狂わせて、惨殺して——幽霊じゃなくて……。その叔父さんの方が怖いって、断言できるってさ。逆に……心配になってきた。本当……どんな人間なの?私は……幽霊の方が何倍も怖いんだけど……。」
声が、自然と震えていた。
足が止まりそうになる。
遠矢は——振り返らなかった。背中越しに、低く答えた。
「……会えばわかるさ。」
短く、だが異様な確信に満ちた声だった。
「……会ったら——絶対に、わかる。」
その一言に由紀子は、それ以上——何も言えなかった。
遠矢は黙って門を押し開けた。
ギィィ……。
錆びついた軋み音が、林道の沈黙を裂いた。
庭に足を踏み入れた途端に——異様な匂いが、鼻をついた。
街に漂っていた並々ならぬ死臭とはまた違う、単純に酸っぱい酒と腐敗物が混じった空気。
ゴミ屋敷が放つ、生きた人間の出す匂いが入り混じり、濃密に漂っていた。
息をするだけで、喉が焼けつくような悪臭。
その中に大きな和風の屋敷が、そびえていた。
月光を遮るその輪郭は、まるで——異界から這い出した獣のように、不気味な存在感を放っていた。
その時だった——。
林道と屋敷を包んでいた、張り詰めた沈黙を引き裂くように。
「だーはっはっはっ!!!」
——耳障りな爆笑が、突如頭上から響いた。
空気を震わせ、鼓膜を削るような不協和音のような笑い声。
由紀子は、驚いて顔を上げた。
そして言葉を見失った。
屋敷の——屋根の上。
そこに腹の出た、太った中年男が、ビール缶片手に腰を下ろしていた。
破れたシャツ。
だらしなく垂れた短パン。
脂でべたついた肌に、醜悪なまでに張り付いた笑顔。
その顔は、この世のものとは思えないほど——汚れた陽気さで満ちていた。
「おおっとぉ! 下僕じゃねぇか!」
声は異様に甲高く、上機嫌で、場にそぐわないほど底なしの明るさが不気味に響いた。
遠矢の口元が歪んだ。
「……勘助叔父さん……」
名を口にした瞬間、その男はさらに満面の笑顔で遠矢に叫んだ。
「つっまんねぇなァ、生きてたのかよ!!けど、まあその様子だと、お前も見たんだろ〜?さっきの祭りをよぉ〜〜〜。あれはすげぇなぁ、最高だったわ!!録画しておきゃ良かったわ、ワッハッハ!!」
その声は——もはや、人間の心を通っていない。
狂気がそのまま発声器官を通って漏れ出しているだけだった。
遠矢の拳が震えていた。
指が食い込み、血の気が引くほどに強く握られていた。
歯を食いしばり、顔が怒りで紅潮していた。
「……やっぱり……あんたは……異常だ……っ……!」
声が低く、震えていた。
由紀子は、息を止めたまま立ち尽くしていた。
遠矢の「異常だ」という言葉が、あの屋敷全体にぴたりと貼りついているように感じられた。
勘助の笑い声が、まだ空に響いていた。
まるで、何もかもを嗤い尽くす獣のように。
だがその異様な空気の中で。
さらに由紀子の目を奪うものがあった。
「え……っ……?」
声が漏れた。
屋敷の——軒先。
そこに無数の“死体”が吊り下がっていた。
女中の服を着た女の影。
スーツ姿の男。
そして——子供のような小さな影までもが。
首を吊られた影たちが、音もなく風に揺れていた。
ロープが軋み。
衣服がかすかにひらめいた。
だが、その場にあるのは死の静謐だった。
「きゃあっ!!」
由紀子は悲鳴を上げた。
膝が崩れそうになる。
視界が、震えた。
だがその前に、由紀子を守るように遠矢がすっと立ちふさがった。
その視線は、鋭く叔父を睨みつけていた。
「……違う……これ。全員、人間じゃない……。」
遠矢の目が、細められた。
視線の奥が、冷たく光っていた。
「……霊体だ。」
その一言が、空気をさらに冷やした。
屋根の上から勘助が——ゲラゲラと笑い声を響かせた。
「こいつらか?朝からよぉ〜。『首吊れ、首吊れ』って——うっせぇんだわ!!だからよォ。お前が吊れやって、わざわざ吊ってやったんだよォ!!感謝して欲しいくらいだ!!」
ヒャッハッハ!!!
その狂った高笑いが、夜空に響いた。
勘助はビールをゴクリと飲んだ。
その仕草に、一片の罪悪感もなかった。
「そんでもってよォ。三時間くらい鬱憤晴らしにぶん殴りまくってたら、動かなくなっちまってなァ!!最近の若者幽霊は、すーぐ壊れやがる。つまんねぇ玩具だなァ!!ヒャッハッハ!!!」
由紀子は、青ざめた。
顔から血の気が引き、全身の震えが止まらなかった。
「っ……そんな……。そんなの……。」
言葉が、喉の奥で崩れた。
声にならない悲鳴が、胸の奥で渦巻いた。
そこにあるのは、死さえ否定するほどの紛れもない狂気そのものだった。
しかもそれは幽霊以上に、生きたままの異常さを持って、そこにいた。
勘助は——肩をすくめた。
「あぁ?おいおい。なんだその、生意気な顔は?」
醜悪な笑顔がさらに広がった。
「幽霊に人権なんざ——ねぇだろォ?何やっても無罪だ!だって悪いのはコイツらだろ?生まれて来たこと自体が罪なんだよ、奴らは!生まれながら何やってもOKなゴミだ!はははははっ!!殺されてもだぁれも文句を言わないってのは最高だ!」
言葉の一つひとつが、空気をさらに濁らせた。
そう笑い転げる叔父ーーーー勘助。
その姿に、由紀子は納得した。
(これは、す、すごい……なんてものじゃない……確かに遠矢くんの、あの絶対的な自信も納得する……)
その狂気は、想像を遥かに超えていた。
存在そのものが「異常」の具現だった。
そんな由紀子の気配を、遠矢は察したのか。
わずかに身を傾け、小声で言った。
「……だろ?言ったろ……。会えば分かるって……。」
由紀子は——返す言葉を持たなかった。
声が出なかった。
恐怖の意味が——根底から覆されていた。
(……狂ってる。でも……こいつだけが、生き残ってる……。それが事実。そして生き残った理由も……何となく、わかる……)
幽霊すらも玩具にするこの男。
由紀子は理解した。
——幽霊よりも。呪いよりも。この男こそが、最も異常な存在だ。
それが、この家の「真実」だった。
由紀子が、一歩、前に出た。
その動きは、あまりにも静かだった。
「……どうか。私たちを、助けてもらえませんか?」
声は、驚くほど滑らかだった。
一片の震えもなかった。
むしろ、場の空気そのものを捻じ曲げるような確信を帯びていた。
それほどに、由紀子にとって勘助は異様で、今、たった一つの光だった。
「……何でもします。……何でも、しますので。」
心からの由紀子の言葉の響きに、遠矢が——驚愕して振り向いた。
「なっ…………っ……!」
目を見開き、口を開けたまま、言葉が出なかった。
屋根の上で勘助は、一瞬——ほう、という顔をした。
下卑た笑いも止まった。
だが——次の瞬間すぐに、下品な笑い声を上げた。
「いいこと言うじゃねえか!何でもするってかァ!?んじゃあ——もちろんただでヤらせてくれるよなぁ!?一生俺の下僕になれや!!ワッハッハ!!」
空気が——さらに濁った。
だが由紀子は、一瞬も怯まず静かに、頷いた。
「はい。それでこの家に入れてくれるのなら——良いですよ。」
その言葉は、氷のように冷たく澄んでいた。
屋根の上の勘助の笑い声が、一瞬止まった。
遠矢は愕然として叫んだ。
「はああ!?何言ってんだお前!!言ってる意味、分かってんのか!!正気か!!」
遠矢の声は裏返っていた。
だが由紀子は、一歩も引かなかった。
縋りたい。ただその気持ちが強かった。
あんなたくさんの死体の山を見たあとなのだから、どんな腐った人間性でも、凄まじい異常性を孕んでいても、間違いなく生きた人間なのだ。
その上、由紀子や遠矢と同じく理由は不明瞭だが、あの大量虐殺すら自力で跳ね除けて、回避した……。
さらには取り乱した様子もなく、心の底から楽しみ大笑いしている。
こんな状況だからこそ、恐怖を凌駕するほどに、あまりにも頼もしく感じられた。
死に溢れ、すぐ間近に死があるこの街で、勘助という生者は、歪ではあるが、あまりにも輝いて見えた。
縋れるものがあるというのは、心の支えだ。何よりも、最低限話が通じる。
その低姿勢の毅然さが気に入ったのか、勘助はゲラゲラと笑い転げた。
「おもしれぇ!!気に入った!!!家に入っていいぞ!!」
そう言うと勘助は——屋根から、ドスン、と飛び降りた。
不快な重低音だった。
「……ちょっと待ってろやァ。今、ビール持ってくるわ。」
そう吐き捨てるように言い残すと、玄関の方へ消えていった。
そのたるんだ背中が、闇の中へと沈んでいく。
その背を見送りながら由紀子と遠矢は、顔を見合わせた。
玄関前に立つ。
途端に遠矢が——震える声で言った。
「……おいっ!あんなこと……言うなんてっ……!!」
由紀子は、小さく息をついた。
「……いや。あんな大物——媚び売っとかないと。……あれは確かに、ただ者じゃない。……こんな状況で、逆に——あの人ほど頼りがいがありすぎる。逆に、あの人抜きで私たち二人で……生き残れるとは、到底思えない。遠矢くんが最初に言い出したんだよ、あの人しか頼れないって。実際、遠矢くんは正しかった」
「それは……確かに……俺が言い出したことだけど、そうなんだけどな…やっぱり受け入れられないくらいくらい、狂ってるというか……」
「だからこそ、だよ。……私だって、あんなことを言うなんて……もう、気が狂ってるのかもしれない。でも、そうでもしなきゃ生きられない。今は強者にへりくだらないと、2人とも生き残れないと思う」
「……っ……でも……。」
由紀子は、淡々と告げた。
「その考えは正しい。……だけど今、正論とか道徳とか……綺麗事が、優しさが、化け物相手に通用するとは思えない。……生き残るのが、最優先だから」
その一言が場の空気を引き締めた。
遠矢は、何も言い返せなかった。
二人は——無言のまま玄関を跨いだ。
その一歩は、まるで異界への境界線を超えるかのような、重さを帯びていた。
空間そのものが——。
まるでどす黒い液体に沈んでいるかのような感覚だった。
空気は重く濁り、肌にまとわりついた。
一歩足を踏み入れるたび、身体の芯が軋むような感覚が走る。
壁という壁。
そこには、黒ずんだ染みがじわりと広がっていた。
滲んだ墨が生き物のように脈打ち、じっとりと壁を蝕んでいる。
腐った酒瓶。
食い散らかした食べ物の残骸。
異臭が鼻腔を犯した。
床には無数の空き缶と、割れたガラスが散乱していた。
踏めば鈍い音が返ってくる。
だが、それだけではなかった。
その周囲——。
「っ、あれは……。」
由紀子は思わず声を漏らした。
床や天井から無数の手足がはみ出していた。
それは生者のものではなかった。
青黒く、半ば透けた霊体の腕や脚。
節くれだった指。
ひしゃげた膝。
ありえぬ向きで曲がった肘。
壁の四方八方に貼り付いた霊たちが、かすれた呻き声を上げていた。
そんな中で、「うぅ……あぁ……。」と、その音は、鼓膜の奥に刺さるように滲み込んできた。
だが部屋の中央。
勘助は、そんな光景を意にも介さなかった。
悠々とビールを飲み干し、霊体に空き缶を投げつけた。
「っ……!!」
空き缶が霊体に当たる。
霊体は苦しげに震え、その身を引っ込めた。
勘助のその動きは、明らかに投げ慣れていたーーーーまるで、こうするのが日常だったかのように滑らかだった。
「ほんっとに、すーぐ壊れやがる!!根性ねぇなぁ、もっと根性ある幽霊寄越せや!」
耳障りな狂笑に、部屋の空気がさらに濁った。
(……やっぱり……異常だ……。でも……今——頼れるのは……こいつしかいない……!)
しかしここまでくれば由紀子も遠矢も受け入れるしかない。
正義も倫理も無力。
由紀子の言った通り生き延びること。ただ、それだけが絶対の指針だった。
そしてそのために、この男の狂気に身を委ねるしかなかった。
広間は—腐臭と、霊の呻き声に満ちていた。
空気はどろりと淀み、喉の奥に腐敗の甘酸っぱい匂いが絡みつく。
由紀子も、遠矢もソファの端の方に腰を下ろしていた。
わずかに沈んだソファのクッションは、湿り気を帯びていた。
そこに座ること自体が、一つの試練だったが。休める時に休もうという根性が、2人を躊躇うことなく座らせた。
「ヒャッ、ヒャッ、ヒャッ……。いやぁ、さっきの祭りは壮観だったなぁ?あんな見事な飛び降り大会、人生で初めて見たわ。だろ〜?たまんねえ祭りだったわぁ。」
その声色はまるで、人の死など、何の価値もないと言わんばかりだった。
「……あれは……。一体、何が……。」
震える声で、遠矢が——訊いた。
喉の奥から搾り出すような声だった。
勘助はニヤリと笑った。
「お?知りたいかぁ?知りたいよなぁ〜?でもなぁ〜、教えてやる義理はねぇんだがなぁ〜。」
その節回しは、悪意の遊戯そのものだった。
ビールをぐいと煽り、次の瞬間。霊の一体を足で蹴り飛ばした。
「ウギャ……ァ……。」
青黒い霊体が、床を滑った。
指先をばたつかせ、空気を掴むようにかすれた呻きを漏らした。
だが勘助の目には、何の感慨もなかった。
それはただの——退屈しのぎの玩具。
本来なら人に仇なす霊体を、気まぐれに蹴り飛ばす嗜虐の笑みを浮かべている。
「……頼む……。教えてくれ。」
遠矢は、拳を握りしめて言った。
声が震えていた。
その声は、憤りと恐怖と焦燥の入り混じった響きを帯びていた。
勘助は——しばらく、わざとらしく沈黙した。
その間、ニヤニヤと——笑っていた。
口元の歪んだ笑みが、暗がりに滲んだ。
「まぁ、いいや。面白れぇ顔してるからなぁ?教えてやるよ?」
勘助は、ビール缶を軽く振りながら続けた。
「……ありゃなぁ。簡単に言やぁ、封印に失敗して——ろくでもねえバケモンが出てきたってだけだ」
その言葉が、鈍く脳髄を叩いた。
「……バケモン……って……?」
由紀子は、震える声で訊いた。
喉の奥に、冷たい痛みが走った。
勘助は、指で天井をくるりと回した。
その仕草は、異様なほどに芝居がかっていた。
「お前らも、声を聞いたんじゃねえか〜?俺もなぁ——爆音で町内放送してたガキの声、聞いたぞ〜。」
ビールを、ぽんと置き。
「んでもって今なぁ。この町全体が——丸ごと“祭壇”になってんだよぉ〜。おっかねぇだろ〜?」
その言葉は、空気をさらに重たく染めた。
由紀子は——息を呑んだ。
(町全体が……?)
背筋が氷の柱に貫かれたかのような冷たさが走った。
言葉の意味が、すぐには理解できなかった。
だが、身体は本能的にそれが「途方もない異常」であることを悟っていた。
「鐘の音、聞いたろぉ?あれが合図だったんだなぁ。んでもって——全員、呼ばれたんだろうなぁ。『死ね』ってなぁ?」
言葉が空気を切り裂いた。
「そ、そんな……っ。」
遠矢の声が震えた。
喉が詰まるような悲鳴だった。
「いやぁ、面白ぇわぁ。まさか、この街の全員イカれて飛び降りとはなぁ?録画しときゃよかったなぁ。逆に——お前らはなんで生きてんだ?って話だが……。まぁ、おおかた気に入られたんだろうなぁ。」
勘助の笑い声が、湿気を帯びた空気にじんわりと染みていく。
由紀子は、喉の奥に冷たい棘が突き刺さったような感覚に襲われた。
「気に入られた?……何に…?……まさかあの校内放送の……やっぱりあれの正体を知ってるんですか?」
問いは、自分でも意図せず漏れたものだった。
勘助はにやりと笑う。
「教えねぇよ〜だぁ。」
その嗜虐的な声音に、由紀子はふと下腹の奥がひやりと凍るのを感じた。
意識せず瞼が伏せられる。
だが、次の瞬間には息を静かに吸い込み、顔を上げた。
「……。……今から、私たちが助かる……方法は……。あるんですか。」
声はわずかに掠れたが、意識的に抑えた低さとともに発せられた。
口が乾いている。舌先が上顎に微かに張り付く。
本能から出た問いだった。けれど、その響きにはまだ論理のかけらが残っていた。
勘助はゲラゲラと笑った。
「あるわけねぇだろ?そんな都合のいい話がよぉ。なに?生き延びたけりゃ、俺に媚び売ってりゃいいさぁ。ま、俺は——楽しくやらせてもらうがなぁ〜。」
声は耳朶に重く、粘りついた糸のように絡みついてくる。
「……てめぇ……!ふざけた口ばっか叩いてんじゃねぇぞっ……このクソ外道がっ……!!」
遠矢の声が爆ぜた。
拳を握る指の関節が軋むほど力がこもっていた。
息は荒く、歯の奥で噛み締めた怒りが血の味に変わっていくのがわかった。
(……わかってる……。こいつに逆らったらマズい。でも……言わずには……っ)
脳裏に浮かんだのは、夥しい死体と無様に吊られた罪なき人々の影だった。
勘助は、口の端を吊り上げてビールを煽った。
「おうおう、キレてんのかぁ?出ていってもいいんだぜぇ〜?もうすぐこの屋敷の外は危険だらけになるっつうのになぁ。生き残りたきゃ——この屋敷しか安全圏はねぇぞ〜?」
その言葉に、肌を撫でる空気の温度さえ僅かに下がった気がした。
(……奴は事実を言っている……それだけは間違いない。)
勘助は再び霊たちに空き缶を投げつける。
「ヒャッハッハ!!」
甲高い金属音と共に、笑い声が広間に反響した。
呻き声がかすれ、室内の空気が妙に重苦しくなる。
由紀子は、顔を伏せた。
額に張り付いた微かな汗の感覚が、異様に現実的だった。
(……やっぱり……。幽霊よりも……この男のほうが遥かに怖い。)
しかし、恐怖の輪郭はすでに薄れつつあった。
恐怖は、生き残るための計算を妨げるだけだ。
(……この状況で一番怖いのは、「感情に飲まれて判断を誤ること」……。)
その意識が、知らず知らずのうちに彼女の呼吸を整えていた。
自分でも驚いたほど、喉の奥の震えは消えていた。
(……そう。いっそ「この男に従う」ことで、安全圏を確保する……。それが今の“最善手”……。)
冷静さが戻った、というより——冷静であろうと、自分を作り替えていた。
広間の床を転がるビール缶の残響が遠のく。
由紀子は顔を上げ、静かな眼差しで勘助を見た。
彼女の内心に浮かんだのは——ただ一つの分析。
(……私たちが「気に入られた」理由……それが、次に生き残れる鍵になる……はず。)
勘助はそんな視線にも気付いたのか、口元を歪めて嗤った。
「ヒャヒャ……そう睨むなぁ〜?なに、ちゃんと従順にしてりゃぁ、もっと教えてやるかもなぁ〜?……“あっち”が、お前らにどんな興味を持ったのかもよぉ〜…な」
一拍、意味深に間を置いて言い放つ。
その言葉に遠矢も由紀子も、一瞬だけ胸の奥が冷えた。
(………私たちを気に入った存在……何故気に入ったのか、それがどんな存在なのか……まず間違いなく多分今、勘助さんに聞いても教えてくれないだろうな……)
明確な名は出さぬまま、勘助はにやにやと笑い続けた。
「さぁて、そんじゃ次は……もっと面白れぇもんが見れるかもなぁ?……だろ?」
悪意に満ちた言葉が、これから始まる地獄の予兆のように空間に漂った。
由紀子は淡々と問いかけた。
「なるほど。情報の提示ありがとうございます。じゃあ……。私たち、ここにいれば——当分は安全なんですね」
勘助は——ビールをゴクリと一瞬で飲み干した。
またもや空き缶を——ぽい、と投げた。
その缶が転がる音だけが、一瞬、広間を支配した。
「そうだ。だが、それは——お前ら次第だなぁ?俺の機嫌、損ねたら……。追い出すだけだ。そうだろ?」
嗜虐に満ちた笑みが、口元に貼りついていた。
その言葉は、逃げ場のなさを、改めて突きつけていた。
由紀子は——すっと、微笑んだ。
その微笑みは、淀みなく滑らかだった。
「もちろん……。ご迷惑はかけませんよ。お手伝いでもなんでも、しますから。」
声は柔らかかった。だが、その裏にあるものは、平静さだった。
勘助は低く喉を鳴らして笑う
「……やっぱ面白ぇわ、お前。なかなか見所あるじゃねぇか〜」
遠矢は、こめかみに浮いた汗を指先で拭った。
だが視線は逸らさず、勘助を睨み据えている。
(……なんなんだ……。こんな時にまで、この男は飄々と……!橘さんもなんで適応出来るんだよ……)
喉奥に生まれた怒りと苛立ちが、鉄のように硬く絡まり合った吐息として漏れた。
それでも、正しいのは由紀子だった。
この化け物の傘の下に入る以外、今は生き延びる術などない。
由紀子は一度、細く息を吐き、小さく頷いた。
「ありがとうございます……」
由紀子の声音は、張り詰めた絹糸のようにしなやかだった。
「礼なんざいらねぇよ〜。その代わり、退屈させるんじゃねぇぞぉ?」
嗜虐の笑みを浮かべながら、勘助は背もたれに身体を預けた。
酒瓶の蓋を回す音がやけに乾いた響きを部屋に刻む。
「……極楽だなぁ〜。こんな時こそ、酒が旨ぇ!」
言葉は湿った埃のように空気に沈む。
その瞬間——遠矢は椅子を蹴るように立ち上がった。
「……ふざけんな……っ!! 情報があるなら、全部吐けっ!! 俺たちは……死ぬかもしれねぇんだぞっ!!」
張り裂けそうな怒気が声に滲む。
だが勘助は目だけをこちらに向け、氷のような無機質な視線を滑らせた。
そのまま酒に口をつけ、笑う。
「はあ? 何キレてんだぁ? ……ちょっとずつ教えてやってんだろうが〜。全部まとめて教えてやる義理なんざ、どこにもねぇよ」
瓶の口から酒が滴り、指先を濡らす。
その仕草すら、嘲弄そのものだった。
遠矢は拳を握りしめたまま、声を押し殺した。
次いで、由紀子の声が静かに割って入る。
「……先ほど、“祭壇”と言っていましたね。つまり……儀式はこれから始まるのではなく、すでに——」
言葉は研ぎ澄まされた刃のように淡々としていた。
勘助の手は止まらない。
その動きの中に、わずかな愉悦が滲んでいた。
由紀子はさらに問う。
「それと……あなたは自分が死なない、と言い切れるのですか? あの影たちや霊体に……殺されることは?」
声音は変わらず冷静だが、瞳の奥にかすかな探究の光が灯っていた。
勘助は細めた目の奥に嗤いを刻んだ。
「お前、面白ぇ女だな?その訊き方、気に入ったぜ」
酒瓶を卓に置き、片肘を突く。
低く、粘ついた声が続く。
「死んだらそれもまた一興だがなぁ、俺は死なねぇよ。俺の方が“強ぇ”んだよ。あの程度の影じゃあ、俺をやるには千年早ぇわ」
由紀子はわずかに眉を寄せた。
「……強い、のですね。」
勘助の口元が緩む。
「強ぇともよ。この家には長く住み着いてるからな。全ての霊は俺にとって玩具だ!……まあ全部とは言わねぇが。俺自身も……いろいろ“喰って”きたしなぁ〜?」
言葉の端が妙に湿っていた。
由紀子の背筋を冷たい感触が撫でた。
(……“喰って”……?)
意味を追う間もなく、喉奥が硬く締め付けられる。
今は追及すべきではない。そう、内なる警鐘が響いていた。
勘助は勝ち誇るように杯を満たし、滑らかに指を滑らせる。
「それに……儀式はもうとっくに終わってんだわぁ!今回の“これ”はな、天下の齋藤家様がやらかしてくれたおかげだ。……ざまぁねぇよな!」
遠矢は目を見開いた。
「……っ……。今、何を……!?」
勘助は肩を揺らして声を低く震わせた。
「本当に使えねえよなぁ!封印だの結界だの、そんなもんで抑え込める相手じゃなかったんだよ〜……それが今頃になって暴れ始めてるってわけだ」
「……齋藤家……。封印……。」
遠矢の思考が渦を巻いた。
(……まさか……あのときの……。)
脳裏に幼い頃の景色が甦る。
家の奥の部屋——重苦しい気配の祭壇。
幾度となく唱えられた結界の言葉。
(……あれが……失敗した……?)
瞬間、立ち上がった。
「……行く……! 俺は、齋藤家に行く!! 何が起きてるか、確かめなきゃならない!!」
声が広間の空気を震わせた。
その声に——漂っていた酒の匂いも、霊の呻きも、一瞬だけ凪いだかのように感じられた。
だが——その瞬間。
「おぉ。坊っちゃん、行くんだなぁ。」
わざとらしく。
勘助が——間延びした声で言った。
「なら、せっかくだし。お前を引き取ってやってた……齋藤俊彦……あー、今はなんか任務で北山とか名乗ってんだったか。ま、やつらの安否でも確認してきたらどうだ!心配じゃねぇのかぁ〜?一応はお前の育て親だろ〜?はっはっはっ!!」
乾いた笑い声が、広間の闇をさらに濁らせた。
遠矢の顔が——瞬時に険しくなった。
「……てめぇ……っ。」
拳が震えた。
北山家——従兄弟一家。
齋藤本家から押し付けられた遠矢を虐待し、物扱いしてきた奴ら。
勘助は——それを知っていた。
知った上で、わざと言ってきている。そして、北山家がもう死んでいるだろうことも。
悪意の針が、遠矢の胸の奥深くに突き刺さった。
霊の呻き声が、薄く、ねじれた音色で響いていた。
その時だった。
ふと勘助が——広間の奥のガラス窓に、視線を向けた。
「……んん?なんだぁ〜?大道芸人かぁ〜?」
ビールを煽りながら——にやにやと指差した。
「……え?」
由紀子と遠矢は——つられて外を見た。
次の瞬間 二人は、息を呑んだ。
「な……なに……あれ……っ!!」
庭の先——。
そこに、異様な影が——あった。
ねじれたような長い腕。
ひしゃげた腰。
地面に引きずられるような足。
顔の位置は、異様に高かった。
皮膚は——青黒く、ただれていた。
その異形は——。
両手で人間の“頭部”を五つ。
お手玉のように回していた。
ニタァ……。
歪んだ笑みを——浮かべながら。
遠矢は——顔を真っ青にして叫んだ。
「頭は……。本物の人間の頭だ……っ!!あいつ……あの霊体……!!死体から頭を……もぎ取って……っ!!」
由紀子は——吐き気に襲われた。
口元を押さえて、その場に座り込んだ。
「うっ……う……っ……。」
喉の奥が攪拌されるような吐き気。
視界が——ぐらりと揺れた。
だが勘助は——グラスを揺らしながら。
不快なほど愉快そうな顔をしていた。
「ひゃーーーっはっはっはっ!!こりゃ傑作だわぁ〜!いいぞ〜もっとやれやれぇ〜!!なぁ?
もっと俺を楽しませろや〜?」
グラス片手に——庭に出て。
大声で叫んだ。
「おーい!そこのバケモン!!お前の頭も——取れねぇのかぁ〜?バケモンなんだからよ〜!お前の頭も——もぎ取って見せろや〜、だなぁ〜!!」
その言葉に異形の動きが——止まった。
ギィ……ギギギギギギ……!
歪んだ奇声が、闇に響いた。
次の瞬間——凄まじい勢いで勘助に向かって突進してきた。
「きゃあっ!!」
「っ……くそっ……!!」
由紀子と遠矢は——とっさに後退った。
その刹那だった。
勘助の身体が、まるで次元の違う速さで滑るように動いた。
一歩、ほんの一歩踏み出しただけで。
次の瞬間。その右手が、無駄のない軌跡で異形の首元へ閃いた。
「パァン——!」と、空気が一度だけ破裂したような音。
見えたのは、わずかに開いた五指が異形の頸椎に正確に噛みつく瞬間だけだった。
ギギギ……ギギィ……グチャッ。
異様な軋みの音とともに、異形の首がひしゃげた獣のような角度へと折れ曲がった。
一拍遅れて。
ブシャアァッ!!
黒い血液が破裂音と共に噴き出した。
異形の身体は力なく倒れ、勘助は眉をひそめ舌打ちした。
「ちっ……。もう動かなくなった。つまんねぇ〜。今晩の晩飯にもならねぇなぁ〜?」
勘助は、異形の倒れた頭部の前でぴたりと足を止めた。
そしてグラス片手を傾けたまま、僅かに首を傾げた。
笑っているのにひどく冷たい、温度の欠片もない視線が、潰れた頭部へと静かに落ちた。
まるでそこに石ころ一つでも転がっているだけであるかのように。
一拍、長い沈黙。
次いで、にやりと歪んだ口元が再び吊り上がりーーー異形の切り離された頭部を。
グリリ、と感慨なく足で踏み潰した。
「グチャッ……。」
あまりの光景に由紀子は顔を背けた。
喉の奥が攪拌される。
目を閉じても、その音が耳から離れなかった。
遠矢は——その瞬間、理解してしまった。
(……まさか……。こいつ……こいつ……幽霊を……“喰ってる”……!!)
青ざめた顔で——勘助を見た。
勘助は——グラスを掲げた。
愉快そうに——笑い続けていた。
「さぁ〜て。次は——どんなバケモンが来てくれるかなぁ〜?楽しみだなぁ〜?だろ〜?」
その声が——広間の闇をさらに濃く染めていた。
遠矢は震える声で言った。
「……お前……。やりすぎだ……!!一線を……超えすぎている……っ!!」
怒りが、声に滲んでいた。
「やっていい事と——悪い事がある……っ!!お前の行動は……もうそんな次元じゃない!!」
勘助は——ニヤリと笑った。
グラスを掲げた。
「おいおい。幽霊なんざに人権はねぇよ〜?だなぁ〜?その点——人間を喰ったら罪だが。こいつらは——最高だなぁ〜!」
ビールを一口。
「どれだけボコっても無罪。何やっても喰っても——犯しても罪にならねぇ〜!最高のサンドバッグだわ〜?」
ゲラゲラと——笑い声が広間を濁らせた。
「だいたいよぉ〜。あの街はほんっと退屈だったわ〜。ちょっと悪さしただけで——犯罪だの被害者だの。ゴミがギャーギャーわめきやがってよ〜。あいつらに払う金も勿体ねぇ〜わ!」
グラスを机に——叩きつけるように置いた。
乾いた衝撃音が、広間に響いた。
「その点。この屋敷の暮らしは——ほんっと最高だったわ〜?勝手に食料兼。何してもいい!何をやっても裁かれない!最高な無料の奴隷が——大量に湧いてくんだわぁ!!なぁ〜?世の中、こうじゃねぇとなぁ!!」
歪んだ論理を——誇らしげに語る勘助。
遠矢は——顔を歪めた。
「……最低だ……っ。そんな理屈が通るわけがない……っ……!」
だが——その時。
由紀子が——静かに口を開いた。
声は澄んでいた。
広間の濁った空気を——一瞬だけ切り裂いた。
「……でも。実際——幽霊に人権は無い。」
由紀子は——静かに言った。
遠矢は——驚いて彼女を見た。
目を見開いた。
由紀子は——落ち着いた目で。
勘助と遠矢を見比べた。
「それに……。町中の人間——クラスの連中も……。呪いで——殺された。……今だって。叔父さん……。勘助さんがやり返さなかったら。さっきの化け物に——勘助さんが殺されてた」
一瞬——遠矢は、言葉を失った。
「……な、なんで……。そんな奴を……かばうんだよ……っ……。」
声は——震えていた。
だが——由紀子は淡々と続けた。
「私は、かばってるわけじゃない。ただ事実を言ってるだけ。…やられなきゃ、やられてた。……それだけ。」
言い返せなかった。
「……っ……。」
遠矢は——拳を握り締めた。
何も——言えなかった。
その様子に勘助は大声で爆笑した。
「ヒャーーーッハッハッハッ!!面白ぇ〜女だなお前はぁ〜!だろ〜?その通りだわ〜!!そうじゃなきゃ——今頃俺の頭がコロコロ転がってたわ〜?はっはっはっ!!」
由紀子は、ふと視線を下げた。
そして静かに、勘助の足元を指差す。
「……あの人たちの“頭”……埋めてあげよう」
一瞬、遠矢は呆けたように彼女を見た。
「えっ……? あ……あの化け物が持ってきた……人間の“頭”が……。うっ……」
勘助の足元には、既に——先程まで異形が“弄んでいた”生首たちが転がっていた。
脳漿の半ば飛び出したもの、髪に泥が絡みついたもの、瞳孔が半開きで空を見たままのもの。
異形が死した今、弄ぶ者もなく——静かに“そこに在る”。
異様の残滓。
視線を逸らしたくなる光景。
だが、叫び出すこともせず、むしろ自らの「慣れ」に気づき、由紀子は内心にわずかな自嘲を含んだ達観を覚えていた。
「この屋敷を出ない限り……私たちは、呪われて殺されることはない。……あの人たちが誰かは知らない。でも——同じ“人間”だった。だから……あのまま放置するのは、あまりに哀れだと思うの。」
その言葉に、遠矢はわずかに瞬いた。
そして、短く——
「……そうだな。」と呟いた。
由紀子は、改めて声を向けた。
「勘助さん。スコップを、お借りできますか。」
「おうおう、そこの棚にあるわ。好きにやれやぁ〜?ヒャッハッハッ!!!そういうの肴に飲む酒がまた旨ぇんだわ〜?」
倒錯した歓喜が笑い声に混じって響く。
由紀子は、無言で立ち上がり、棚から土工用の古びたスコップを取り出した。
その手のひらは薄く汗ばんでいた。
柄を握り込む指先が——わずかに震えているのが自分でもわかった。
それでも、静かに歩き出す。
足元に転がる“頭部”たちには、もはや恐怖より——奇妙な哀れさが込み上げていた。
遠矢に視線を向けた。
「……手伝って。」
遠矢は——言葉を返せなかった。
一瞬だけ目を逸らし、拳を握ったまま——迷いの色が瞳に揺れた。
だが、一拍の間ののち、無言で頷いた。
二人は——庭の隅へと歩いた。
湿った土が、僅かにぬかるんでいた。
由紀子は、スコップを静かに地面に立てる。
——一呼吸。
それから、柄を深く握り込んだ。
最初の一掘り。
刃が土へと差し入れられる、その瞬間——手の震えが止まらなかった。
だが、掬わねばならない。
深く息を吐き、ぐっと柄に体重をかけた。
ザクッ。
重く湿った土が音を立ててめくれた。
その音に——遠矢は、僅かに身を竦めた。
目の前の現実を受け止めきれず、一瞬だけ動きを止めた。
だが、由紀子が黙々と掬い続ける姿を見て、拳を緩め、スコップに手を伸ばした。
二人は——無言のまま掘り続けた。
スコップの金属音が、湿った土を断ち切る音だけが夜気に響いた。
背後では——勘助の下卑た笑い声が遠ざかるように響いていたが、今は耳に入れなかった
やがて——十分な深さの穴が掘り上がった。
由紀子は、震える手で死体に手を伸ばしーーーー遠矢が口を開いた。
「……俺がやるよ」
そして一つひとつ、“頭部”を両手で持つ。
泥と血に塗れた髪が、ぬるりと手の中で滑った。
だが、顔を歪めず——ただ静かに、穴の中へと納めていった。
目は伏せられたままだった。
全てを納め終えたのは、深夜の静寂が最も濃くなる頃だった。
由紀子は、スコップの刃をわずかに傾け、最初の一掬いを静かに落とした。
——サラ、サラ……。
その音が、夜の空気に溶けた。
遠矢も、震えを堪えながら土をかけた。
次第に——地の底へと“人間の痕跡”は沈んでいった。
最後の一掬い。
由紀子は、わずかに手を止めた。
そして——深く息を吸い込み。
静かに、最後の土を被せた。
土の下に消えた“それ”に向けて。
二人は——自然と、両手を合わせた。
言葉はなかった。
一拍——長い沈黙。
遠くで勘助の笑い声が——また響き始めていた。
だがその一拍だけは、この庭の空気に澄んだ静けさが流れていた。
勘助はソファに身を沈め、グラスを傾けながら——ねっとりとにやけた笑みを浮かべていた。
「ハァー……。いい景色だなぁ〜?まったく、今夜は最高だわ」
その声は狂気に満ちていた。
埋葬を終えた由紀子と遠矢はスコップの刃を払うように、手を払って立ち上がる。
そして、道具を元の棚へと戻した。
沈黙が支配するその空間でただ一人、狂った神を気取る男が、飽くことなく酒を啜っていた。
「……話が、それたな。」
遠矢は強い眼差しを以て——勘助を見据えた。
声は硬く——張り詰めていた。
「……俺は、齋藤家に行く。封印がどうなったのか、確かめなきゃならない。……叔父さん。ーーー—一緒に来てくれ。お願いします。」
その言葉が、空間を震わせた。
一瞬勘助の目が細められた。
(……ふうん?まぁ俺がいなきゃ行けねぇのは分かってんだろ〜が。中々面白くなってきたぞ〜?)
心の内では行く気満々だった。
しかしながらわざと、ふてぶてしい顔を作った。
「おぉ?今さら——頼みごとぉ〜?だがなぁ〜……。」
言葉の尾を引きながら、勘助はビール缶を持ち上げた。
中身を傾けるが……一滴も出ない。
それを、わざとらしく二人に見せつける。
「……酒が、なくなった!!」
ドン、とソファの肘掛けを——力任せに叩いた。
音が——重苦しく広間に響いた。
一拍の間が落ちた。
まるでその「一音」が広間全体の空気を染め変えたかのように。
「……酒がねぇと——俺は動かねぇ!!」
ズズッと一歩、ソファの上で身体を前に乗り出す。
その姿は、猛獣が餌を要求するかのような異様な迫力を持っていた。
「外にゃ影が歩いてんだろ〜?おー怖い怖い。んなトコに酒なしで付き合ってやれるかぁ〜?」
わざとらしく——そっぽを向く。
肩を揺らして、あからさまな芝居がかった態度。
「それになぁ?俺がいなきゃ——お前ら、外に出た瞬間に死ぬぞ〜?齋藤家に——たどり着く前に犬死に確定だな?だろぉ?」
ゲラゲラと——悪意の笑い声が広間を満たした。
遠矢は——悔しげに唇を噛んだ。
「……っ……。わかった……っ……。じゃあ、酒を手に入れれば——いいんだな?」
「そーだ。だったら動いてやってもいいぞ。なぁ?」
由紀子は——冷静な声で割って入った。
「……コンビニなら——まだあるかもしれない。……行きましょう。」
「いい心意気だな。だったら行くかぁ。」
勘助の目が一瞬だけ光った。
わずかに瞳孔が開いたその瞬間に、「獲物を追う捕食者の目」が見えた。
嬉々として——脅すように言い放った。
そして、立ち上がる。
腰をグイと伸ばし、骨がギリ、と鳴った。
「お前ら——前に立てよ?俺は後ろからゆぅっくり見物させてもらうとするからな。」
「……いいですよ。ちゃんと、守ってくださいね。」
「おぉおぉ〜。その態度いいねぇ?」
玄関の扉が開かれるとともに、氷の刃にも似た冷気が、肌を鋭く刺した。
外界はなお、変わらず——血と死臭と、朽ち果てた骸の支配する異界であった。
車体は潰れ、斃れたまま鉄屑と化し。
歩道には、重なり合った死体の山。
腐敗と血膿の甘くも凶悪な香気が、夜気の中に濃密に漂っていた。
高楼の窓という窓には、吊るされた死体がなおも揺れていた。
その揺れは——風というより、夜そのものが呼吸しているかのような、ゆるやかな律動であった。
勘助は両手を頭の後ろに組み、悠然と歩み出す。
「ヒャッハッハッ……こりゃぁ芸術作品だなぁ〜?だろ〜?」
声音は——遊興と耽溺に満ちていた。
由紀子と遠矢は——表情を引き締めていた。
眉目一つ緩めず。
音を立てぬよう、慎重に歩みを進めた。
(……早く……。早くコンビニに辿り着き、酒を——手に入れなければ……。)
だがこの街は、もはやただの死者の街ではなかった。
地の底より這い上がる気配が——確実にあった。
影。
名もなきものの気配が、確かに地を這い、三人の背後から、周囲から、蠢き寄っていた。
死臭と血と瘴気に満ちた街路を——三人は進んだ。
誰一人、言葉は発さず倒れた電柱を、破砕された車両を、静かに迂回していく。
そのたびに、影の気配が微かに濃度を増していく。
呼吸が乱れぬよう、歩を乱さぬよう——慎重に。
やがて遠くの闇の中に、一つだけ微かな人工の光が見えた。
かろうじて原型を留めたコンビニの看板。
霧の中に滲むように、そこだけが異様に浮かび上がっていた。
そこが、目的地——今は唯一の“希望”の灯火であった。
「……ちょっと待て。」
ふと、遠矢が歩みを止めた。
「……酒……買う金が、ない…」
言われて——由紀子も僅かに顔を曇らせた。
「……確かに……。この状況でお金なんて持ってる訳無いし…」
ふてぶてしい笑い声が、夜の空気を裂いた。
「はぁぁ〜〜?お前ら正気かぁ〜?こんな状況で真面目に物なんざ買ってられるかよぉ〜?」
勘助は、手にしたビール片手に片手を振った。
「どうせコンビニも——無人だろぉ〜?盗みたい放題だ、今さら倫理とか気にしてんのかぁ〜?」
由紀子は静かに息を吐き、目を細めた。
(……狂っているのは確か……。でも、この男は遊んでいるように見えて、街の異質さの流れをきっちり読んでいる……相変わらず、霊については本当にずば抜けてる……。なんだかんだ言いつつ、影に襲われないのはこいつがいるから……それが、今の私たちを守っているロジック……)
言葉は飲み込み、視線を勘助に向ける。
眉間に深く皺を刻む。
(……確かに今、倫理とか……そんなもの無意味だってわかる、けど……けどこれは……受け入れなきゃならないんだよな、生き残るには……この男を……くそ、くそ……っ)
怒り、嫌悪、無力感。
それが剥き出しの針となって心を刺す。
だが抗ったところで、何が変わる。
拳が自然と震えていた。
その様子を見て勘助は、わざとらしく大きくため息をついた。
「ったくぅ〜。ほんっと——坊っちゃんと嬢ちゃんはピュアだなぁ〜しゃーねぇ、俺が見本見せてやるわ〜」
そう言うと——道端の追突して大破した車両へと向かった。
フロントガラスは粉砕され、車内には——血塗れの運転手が項垂れたまま、そこに在った。
「……やめろ……。」
遠矢の声が、咄嗟に漏れた。
勘助は気にも留めず、窓に手を突っ込み、冷たく硬化した死体のポケットを漁る。
さも当然の仕草で……まるでそれが最初から自分の財布だったかのように、器用に財布から指先で札を選びーーーひらりと札を振って見せた。
「ほらよ〜。出た出た〜。これで金ができたぞぉ〜?」
にやりと歪んだ笑みを浮かべ——札をひらひらさせて見せつけた。
由紀子は唇を引き結んだ。
「……倫理の話は、もう通用しない場所だってわかってる……。でも、それは……。」
遠矢も苦い声を絞り出した。
「……流石に……やりすぎだ……。」
だが勘助は一片の呵責もなかった。
「はぁ〜?アホかぁ〜?この街の人間は俺ら以外皆、死んでんだぞ〜?こいつの家族も身内もこの街にいりゃ、どーせ皆死んでるってのぉ〜?死人にとって札なんて、ただの紙クズだろ?ヒャッハッハッ!!もったいねえから生きてる俺が使ってやるよ!!」
けたけたと笑うその声は、夜の死臭に濁った空気をさらに穢した。
由紀子は小さく吐息をついた。
(……狂っているだけじゃない。この男、この狂気の街を理解して……全力で楽しんで利用している……もはや、生半可な狂人の域じゃないな……)
遠矢は口を閉ざした。
(……コイツしか頼れないのは……分かってるんだけど……逆に恐怖とは別の意味で、心がすり減りそうだ……)
そうして到着したコンビニの自動扉は壊れることなく、3人を受け入れる。
ポーン、と聞きなれた開閉の際に流れる音も、壊れておらず自然な音だった。
コンビニ内部は異様に明るく、天井の灯は息絶えていない。
商品棚は全く荒れておらず、特に問題なくずらりと並んでいた。
ただ、蛍光灯の光が時折低く脈動し、そのたびに「ジ……ジジ……」という湿った電気音が天井から降ってきた。
街全体が死に果て、異様な静けさだからこそ、小さい音ではあるが、やけに大きく聞こえた。
店員は当然のようにおらず、カウンターにも誰かの死体がある、という訳でもない。
酒の棚にも、綺麗なボトルが佇んでいた。ワインの瓶も割れることなく、ただ沈黙している。
ここだけ異変前に、時間が止まっているかのようだった。
「ハァー。こりゃ良い。選び放題だ。上出来だなぁ。いつもこう盗み放題なら良いんだが……さぁて……今日はどれにするかな」
その言葉に、勘助が普段から盗みを働いていたことをそれとなく察する。
勘助は——楽しげに棚の前にしゃがみ込み。
肉厚の指先で一本一本、瓶の首筋をなぞるように撫でていた。
時折、爪の先でコツ、コツと瓶を叩き、その硬質な音がコンビニの静寂に孤独に響いた。
由紀子と遠矢は——無言のまま、周囲の空気に耳を澄ませていた。ただ、慎重に。
冷えた酒瓶を両手に抱えた勘助は、やがてカウンター前にどっかりと腰を下ろした。
「ひゃーーっはっはっ!!こりゃ極上だわぁ。やっぱこの時期はこれだわ」
グビッ、グビグビッ。
瓶から直接、無造作に飲み下す。
既にボトル一本の半ばを空けており、次に手を伸ばしていた。
由紀子と遠矢は——冷たい眼差しでその姿を見ていた。
——だがこの場で——この男の機嫌を損ねることは、最悪の選択肢である。
それは、ふたりとも心得ていた。
「おーーーっし。じゃあ——最後にゃぁこれだ」
勘助は、死体より奪い取った札束を、レジカウンターへと、バサリと叩きつけた。
液晶は既に真っ黒なまま——反応はない。
だが勘助は——その無言の機械に向かって、高らかに宣言した。
「ちゃーーんと払ったからなぁ。真面目に善行をしたら気持ち良いなぁ!ヒャッハッハッ!!」
言葉の末尾が——酒気と狂気にまみれて震えていた。
グラス代わりのペットボトルに酒を注ぎ、勘助はさらに一口、酒をあおり、上機嫌で笑い転げた。
その笑い声が、コンビニの蛍光灯の脈動に重なるように響いていた。
両手に酒瓶を抱えたまま。
ひょいと、軽やかに立ち上がる。
「よし〜!歩いて行くかぁ〜?齋藤本家——久々だなぁ〜!ちょいと顔出しにゃぁ、良い頃合いだわぁ〜?ヒャッハッハッ!!」
歩き出す勘助の背を見て。
由紀子と遠矢も——無言のまま後に続いた。
そして、街の様相は完全に一変していた。
夜が裂けたように黒く、深く、裂けた中央道路……その亀裂から滲み出すものは血の川だった。
街の中央を貫く幹線道路は、もはや道路ではなかった。
アスファルトの継ぎ目から溢れ出した赤黒い液体が、まるで街そのものが断末魔の血を流しているかのように、ねっとりと音を立てて流れていた。
「……悪趣味だな」
勘助は何処吹く風で、酒を抱えて上機嫌に2人の前を歩いている。
勘助という存在を見て、いまさら何を恐れるのかという話だが……それでもやはり怖いものは怖い。
恐怖に慣れるということはない。
遠矢が足元を見つめたまま、声を絞り出すように言った。足元に漂うぬるりとした液体は、粘性をもってスニーカーの裏に絡みつき、歩くたびに重たく靴音を引きずった。
そこかしこに、吊るされている……信号機の支柱に、電線に、街路樹に、無数の「死」がくくりつけられていた。
首を括った者、串刺しにされた者、捻じれた肢体を晒す者。
しかも彼らは——歌っていた。
「ド……レ……ミ……ふぁ……そぉ……♪」
「お・か・あ・さ・ん・に、さ・よ・な・ら……♪」
「つぎは、お・ま・え・の、番……♪」
不協和音だ。
音程が狂い、言葉の意味が歪んでいても、それは明らかに「歌」だった。
まるで全員が、共通の楽譜を与えられたかのように、静かに、しかし確実に、こちらを包囲するようにその合唱は響き続けており。
歌の節回しに合わせるように、首を括られた死体たちの影が、わずかに揺れ、リズムを刻むかのように揺動していた。
それはあまりにも不自然で、本来動かない死体を無理やり駆動させて操っているかのような、壊れかけの機械のような動きだった。
由紀子は、思わず足を止めそうになった。
鼓膜の奥を撫でるような不気味な旋律。
誰かが後ろで囁いている気がする——いや、違う。
"ゆきちゃん、おかえり……お母さんは、ずっと待ってたのよ"
"どうして逃げるの……そんなに、私のこと嫌いだった?"
それを聞いて……振り返る気が一瞬で失せた。
振り返ってはいけないと恐怖するよりは……出来の良すぎるファンタジーで恐怖の舞台劇を見ていたのに、急に現実の話をされて水を刺された。そんな冷めた気持ちになる。
「……遠矢くん、聞こえる?」
「ああ。聞こえてる。……俺の母親の声だ。無能だなんだ、生まれて来なきゃ良かったって散々罵ってきて。最終的に北山んとこに俺を捨てた奴のな。あいつが俺のことを大好きだなんて言うわけがねえ。誰がお前の言うことなんか聞くかよ、バーカ……」
それは軽い悪口に聞こえるが、遠矢の事情を知るものなら最大限の拒絶と罵倒だった。
あの心優しく、偽善だと罵られても、善の心を忘れない遠矢が、明確に口にした悪意。それに由紀子も同意する。
「分かるよ、それ。完全に同意。あいつが、あの母親が、私の事ゆきちゃんだなんて一度も呼ぶわけない。あのカスが、私の事なんて言ってたと思う?粗大ゴミ、よ。今じゃ死体の仲間入りだけどね。せいせいする」
凄まじい怒り様に由紀子も失笑する。
"よく頑張ったね、とうや。疲れたでしょう? 休んでいいんだよ……ねえ、一緒に、眠ろうよ……"
声が甘い。とろけるように、優しく、飴のように絡みつく。
それは、真冬の毛布のような安心感と、深海に沈むような安らぎを同時に与えてくる。
だが、ため息をついた。
目を逸らさず、前だけを見据える。
「…残念だけど…家族に、暖かい思い出があれば、今頃釣られてたかもね。あーあ、なんか羨ましくなってきちゃった。優しい家族があるって。だけど、あいにくクソみたいな家族だったから。家族というものに愛着は、全くない。むしろ……大嫌い」
その言葉に、遠矢は苦笑するように息を吐いた。
「同感だよ。今さら、愛してるなんて誘われても、俺たちには響かないよな」
二人の前を、声なき影が立ちはだかる。
異形の、人ならざるシルエット。
けれどもそれは、母の顔をしていた。父の顔をしていた。
そして、生皮が剥がれかけ、眼球は空ろなままこちらを見据えていた。
"帰っておいで……ここが、あなたの居場所よ……"
だが、二人は一歩も止まらなかった。
血の川を踏みしめ、吊るされた死の合唱を背に、偽りの声を斬り捨てるように、ただ真っ直ぐに、狂気の根源・齋藤家へと向かった。
そして。
「……ここが……。」
遠矢は足を止め、わずかに息を呑んだ。
「……齋藤家……本家……。もう何年ぶり、だろうな……あの時から、何も変わっていない……劣化すらしていない。はー……」
「大丈夫?」
「大丈夫、だ。けど……」
大門を通って、敷地内に入る。
目の前にそびえていたのは、勘助の屋敷など到底比較にならぬ——異形の大豪邸だった。
「なんだ、この空気……」
だが、異様だった。
異様すぎた。
門を通り抜けた途端に、空気が切り替わるのが分かった。
門も、屋敷も、その奥に広がる庭園までもが——異常なまでに“整いすぎて”いた。
静謐そのものの中庭が広がっていた。
血の跡も、死体も、ない。
むしろその存在すら初めから許されていなかったかのように、完璧に整えられていた。
澄み渡る石畳は一片の埃さえ許さず、まるで鏡面のような輝きを湛えていた。剪定の行き届いた植栽や木々は一糸乱れぬ剪定が施され、苔むすことも落葉もなかった。
死に満ちた街のただ中にありながら、この空間は、まったく異質な別種の“死”の冷たさを漂わせていた。
それは生の終焉でも暴力的な死でもない。
もっと静かで、もっと根深い。
ここまで静かで、ここまで涼やかであるのに、空気は澄みきっていない。
むしろ、淀んでいた。
深く、暗く、何かが底に沈殿しているかのように。
「ここ、こんなだったか?昔過ぎて、ほとんど覚えていないけど……」
まるで、時間そのものが静止しているかのように。
そこには生の営みも、死の残滓も、一切存在していなかった。
敷地内に、一体の死体も影一つとして存在しなかった。
血の臭いも、死の気配も、幽霊も、記憶すら剥ぎ取られたような空白が広がっていた。
さらに不可解だったのは、人の気配すら漂っていなかったことだ。
だが今、そこにあるのは、あまりに純粋すぎる空白だった。
「齋藤家のやつら……ほんとに、どこに行ったんだよ……」
異様な静謐と、過剰な“空”が、却って恐怖を掻き立てる。
由紀子も静かに眉をひそめ、低く呟いた。
「……たしかに、静かすぎる。何も……いない…幽霊すら、いないのは不自然かも」
遠矢も、顔を強張らせていた。
額に薄く汗が滲んでいる。それは、この静けさだけでなくこの空間自体が、彼にとってトラウマであることを意味していた。
「……結界も……切れてる……。あれだけ強い結界だったのに……。」
結界は、確かに齋藤家本家を厳重に守っていたはずだった。
それが、跡形もなく消失している。
何者かが、それを破壊したのか。
あるいは——内側から解かれたのか。
「齋藤家が行方不明の今、結界も壊れているんでしょ?多分霊が入り放題、だよね」
「ああ、だけど幽霊すら居ない。不気味すぎる」
思考を巡らせる間にも、凍りついたような沈黙は続いていた。
周囲の空気は重く、まるで肺の中に澱んだ水が溜まってゆくような圧迫感があった。
呼吸一つするたびに、静寂が耳の奥にねじ込まれる。
生きていること自体が異物であるかのように。
そんな中、勘助はいつもの薄ら笑いを浮かべていた。
「ヒャッハッハッ! 相変わらず立派だわぁ〜? ま、開けてくれるとは限らねぇがなぁ〜?」
そして、勘助が門扉に手をかけたその瞬間鈍く湿った金属音が空気を裂いた。
門の金具が、微かに、だが不気味なほど澄んだ音を響かせる。
何も、いない。それゆえにこそ、恐ろしい。
異様な静けさが、豪邸全体を呑み込んでいた。
それは単なる“静けさ”ではない。
むしろ——何かが訪れる直前の、世界が息を潜めた瞬間だった。
次の一歩が、何を引き起こすのか。
何を目覚めさせてしまうのか。
誰にも、わからなかった。
わかるはずがなかった——。
ギィィ……。
鈍く軋む音が、まるで時の裂け目のように、周囲の静寂に亀裂を走らせた。
齋藤家の門は、勘助が指先で弾いただけで、その反動でゆっくりと開かれていった。
だが、その先には——
「……行こう。」
遠矢は喉を鳴らし、唾を飲み込んだ。
その音すら、場違いなほど響いた。
重たく、一歩を踏み出す。
由紀子も、それに続く。
最後に——酒瓶を両手に抱えた勘助が、愉快そうに口笛を吹きながら歩を進めた。
「ヒャッハッハッ……。こりゃまた、掃除が行き届いてんなぁ〜?だろ〜?」
その声すら、無遠慮な異物のように空間に突き刺さった。
だが——誰もそれに応じるものはいなかった。
館の扉もまた、抵抗を見せることなく彼らを迎え入れた。
開け放たれた瞬間、冷たい空気が肌を撫でた。
それは単なる冷気ではなかった。
まるで——空間そのものが“死んでいる”かのような冷たさだった。
整然としているのに、生者を拒む何かがあった。
生きたものの鼓動そのものが、ここでは禁忌の響きのように感じられた。
そして、齋藤本家の内部も同じように静けさで満ちていた。
廊下の漆黒の床板は、深淵のような艶を帯び、一片の曇りもなかった。
壁にも埃一つ見当たらず、掛け軸や花瓶は整然と配置されていた。
遠矢は声を絞り出すように呟いた。
「……おかしい……。何も……いない……。誰も……それどころか、幽霊の気配も……ない。まるで……。」
勘助は平然と口角を吊り上げた。
座敷も、仏間も、台所も、寝室すらも全てが、完璧に保たれた状態だった。
「パニックに陥った気配もない……」
それはもはや、単なる清潔さではなかった。
むしろ、そこに在るべき“何か”を、狂気的な執念でもって隠しきろうとしているかのようだった。
「……こんなわけない……だって昔は、あんなに札まみれだったのに……本当に……何も……っ……普通の高貴な家みたいな……様相になってるなんて……。なんで、何も無いんだよ……!?誰もいないんだよ!おい、誰かいないのかよ!!」
書斎に来たところで、遠矢が叫んだ、その時。
「……ったくぅ〜、しょうがねぇなぁ〜。」
ふと、勘助が足を止めた。
その目が、ふと何かを見た。
手にした酒瓶を、傍らの床へ——無造作に。
カラン……。
瓶底が木の床を叩く音が、異様に大きく響いた。
「見つからねぇなら——こうするのが手っ取り早ぇんだわ。だろ〜?」
その言葉が終わるより早く、勘助は唐突に動いた。
両手で壁際の巨大な本棚へ——全体重を叩きつけるように預け、咆哮にも似た勢いで押し倒した。
ガシャアアンッッ!!
凄絶な轟音が館の静謐を鋭利に裂き割った。
床と壁に反響し、異様な持続音となって空間の隅々へ染み渡る。
積まれていた書物は——怒濤のように床へ飛び散った。
古書の頁が羽虫の群れのように宙を舞い、闇の中でひらひらと降り積もっていく。
「っ!!」
由紀子と遠矢は——反射的に身を引いた。
だが、その背後に、“それ”は、あった。
——壁の奥。
倒された本棚の裏に、わずかな隙間が覗いていた。
そこから、煤けた闇が、濃密な液体のように静かに漏れ出していた。
異臭はない。
だが、その暗がりには、空間そのものがじわりと腐食していくような気配が漂っていた。
「……隠し部屋……っ……。」
遠矢は、声を潜めたまま息を呑んだ。
喉の奥が焼けつくような痛みを覚える。
勘助は——口角を吊り上げた。
その笑みは、いつもの軽薄さに加えて、どこか下卑た愉悦が滲んでいた。
「ヒャッ……。映画でよく見る——ありきたりの方法だろ〜?なぁ〜?」
言い放つや否や、扉へと近寄り、迷いの欠片もなく乱暴に押し開けた。
その中へ——一歩。
足を踏み入れたその瞬間——。
由紀子と遠矢は、凍りついた。
——天井も、壁も、床すら——一面が札に覆われていた。
赤黒く滲んだ古の呪符。
血の色も生々しい、新たな札。
夥しい数の札が、幾重にも重なり貼り込められ、壁そのものが——封じられた“肉”のように脈打っているかのようだった。
中央には——異様な仏壇が鎮座していた。
黒漆の台座。
その上に敷かれた、赤黒く染みた真紅の布。
仏像の顔は、その布で厳重に覆い隠されていた。
判別不能。
だが、布の下で何かが蠢いているような錯覚が視界を侵した。
周囲に並ぶ供物は——供え物とも呪物とも判じ難い奇怪な品々だった。
人形の頭部、
乾ききらぬ骨片、
意味不明の符文が刻まれた硝子片、
逆さ吊りにされた木製の仮面。
ありとあらゆる“不浄の意志”の集積が、そこには祀られていた。
その時——。
生温い風が、どこからともなく吹き込んできた。
明確な風源は存在しなかった。
だが、風は確かに存在していた。
そして、それは——生き物の吐息に近かった。
「っ……!!」
由紀子は、喉が痙攣しそうになった。
胸の奥を圧し潰されるような感覚に耐え、必死に呼吸を整えようとする。
遠矢は顔面蒼白のまま、肩を僅かに震わせていた。
両の瞳が、恐怖に裏返ったまま固定されている。
「……なんだ……これ……っ……。」
——その時。
「ヒャッハッハッ……。まぁ、無駄で余計な“見栄”と“プライド”張らずに、俺に頼ってりゃぁ〜?
惨めで無惨に死なずに済んだのになぁ〜?」
酒を煽りつつ、勘助がにやりと嗤った。
その笑みの裏に、あからさまな確信と何かへの挑発が見えた。
だが——その瞬間。
背後の札の一枚が、ぴたりと剥がれ落ちた。
誰も、動いてなどいなかった。
それでも、札は——ゆっくりと、音もなく舞い降りていた。
「だがまぁ。これで終わりじゃねぇわ〜?だろ〜?」
勘助は酒瓶片手に、涼しい声でそう言い残すと——。
仏壇脇の台座を、何の躊躇もなく蹴り飛ばした。
ガンッ——。
鈍く腹に響くような衝撃音が、密閉された室内を震わせた。
仏壇下の床が、ガクン、と不自然な角度で沈み込む。
ギィ……ギギギギギギ……。
古びた機構が呻き声を上げるかのように歪み動き、黒き裂け目が口を開いた。
そこに現れたのは——隠された階段だった。
禍々しく口を開けた奈落が、彼らの足元にぽっかりと口を開けていた。
階段の奥から吹き上がるのは、底知れぬ闇の気配。
冷たいはずの空気が、なぜかねっとりと湿り、肌を舐める。
それはまるで、見えざる生き物の舌のようだった。
「は……なんだこれ…………。屋敷の地図にも……こんな地下は……存在しないはずだ……。叔父さんは、全部知ってた、のか……?」
遠矢は、言葉の端々に怯えと驚愕の色をにじませた。
その視線の先には、まったく未知の空間が待ち構えていた。
「さぁ〜て。お楽しみはこれからだわ。」
勘助は遠矢の問いに答えることなく、にやりと口角を吊り上げた。
酒瓶を軽く揺らし、その緩慢な音だけが場の静けさを裂いた。
階段の先に待つものは、誰にも知れなかった。
勘助は、悠然と一歩を踏み出した。
その足音は、重く軋みながら階段を満たしていく。
ギ……ギギ……ギ……。
降りるごとに、空気はさらに冷え込み、密度を増していった。
呼吸のたびに肺の奥まで冷気が滲み、血が凍えてゆくようだった。
由紀子と遠矢は——恐怖に肩を震わせながらも、黙ってその後を追った。
階段は——異様に深かった。
降りても、降りても底が見えぬ。
段差の数はすでに数え切れなくなっていた。
途中から、周囲の壁には不気味なひび割れと、黒き滲みが走っていた。
まるで、何かが内側から這い出そうとした痕跡のように。
それは乾いたものではなく、生きたものの傷痕に見えた。
「……っ……これ……。」
遠矢が、一瞬、足を止めかけた。
足元の段が微かに軋むのを感じ、本能的な恐怖に身を強張らせた。
だが——。
「止まんなよぉ〜?ここまで来といて、ビビるとかねぇだろ〜?」
勘助の声が、鋭く裂けるように背後から飛んだ。
その声に、遠矢は反射的に膝を動かした。
一歩、一歩、深き闇の底へと——踏み進んでいく。
周囲の空間は、もはや生きたもののための場ではなかった。
ようやく階段の先が開けた時。
彼らの目の前に広がっていたのは異様な空間だった。
二人は——息を呑んだ。
その微かな音すら、館の静謐を一層深く濁らせた。
そこは巨大な石造りの部屋だった。
天井は、異様なほど高かった。
否——地下深く、幾層にも掘り下げられた造りこそが、異形の深淵を思わせた。
空間全体が、深ければ深いほど良い。できるだけ地上に近づけたくない不浄なものをしまう場所かのように感じられた。
壁という壁には、びっしりと古びた呪符や護符が貼り巡らされていた。
だが——半ば以上は破れ、焼け焦げ、あるいは剥がれ落ちていた。
それは単なる経年劣化ではなかった。
何かが、内側から破った痕跡に見えた。
「……これ……。封印が……っ……」
遠矢の声は、喉奥からかすれたように震えていた。
部屋の中央。そこには巨大な円形の魔法陣が、刻まれていた。
だが、その大半は——黒く焼け焦げ、無数の亀裂が走っていた。
まるで、凄絶な力で押し破られた直後のように。
「……やっぱり……失敗した……っ……。封印が……。」
「ハァー。やっぱりなぁ〜? だろ〜?」
勘助は酒瓶を煽りつつ、悠然と歩みを進めた。
「ま、俺は最初っから分かってたけどなぁ〜?封印だぁ?そんなもん、このレベルのもんにゃ役に立たねぇ〜ってのぉ〜。俺を最初っから頼りゃぁ良かったのになぁ〜。」
由紀子と遠矢は、蒼ざめた顔のまま魔法陣の中心を凝視した。
そこには——巨大な黒き染みが残っていた。
焦げ跡とも、血痕ともつかぬ。
否——まるで「何かが、そこに“在った”」かのような。鎮座していたかのような。
生きた影のような痕跡。
階段を降りる時に、両脇の壁に擦り付けるようにしてあった染みと同じだ。
それは今も、じわじわと闇の残り香を滲ませていた。
部屋全体の空気に、低く重い唸りのような振動が混ざり始めていた。
「……これは……っ……。なにかが……っ……。ここに座ってて、ここから出た……のか……?それで——あの、校内放送の……。」
遠矢は背筋を凍えさせた。
由紀子も、足がすくみそうになった。
だが、それでも目を逸らすことができなかった。
勘助は、にやりと嗤った。
「あーあ。まぁ、無駄で余計な“見栄”と“プライド”張らずに、俺に頼ってりゃぁ?惨めで無惨に死なずに済んだのになぁ?愚かな奴らだわ、ほんと。あーあ、だな。」
珍しく嘲笑混じりの口調を抑え、淡々と語ったその言葉は、逆に侮蔑と冒涜の色を一層濃くしていた。
魔法陣の中心へとずかずかと歩を進め、黒き染みをぐりぐりと踏みつけた。
「ほれほれぇ〜?ここにいた奴、今ごろ外で暴れてんだろ〜?今こそ齋藤家の出番じゃねえのか?あれれ〜?天下の齋藤家様は、皆どこに行ったんだぁ〜?」
狂気じみた笑い声が、石の空間にこだました。
その音が反響するたびに、部屋の隅々にまで寒気のような波紋が広がっていく。
由紀子と遠矢は、ただ——背筋を這い上がる恐怖に呑み込まれていた。
(……これは……。とんでもないものが……。解き放たれたんだ……っ……。)
階段の奥より、ひときわ強烈な冷気と——影の気配が這い寄ってきた。
それは今までのものとは質が違っていた。
冷気はもはや空気ではなく、意志を持った存在の手のように、彼らの皮膚をなぞってきた。
勘助は、にやりと笑った。
酒瓶を高々と掲げた。
「さぁ〜て……次は、もっと面白ぇモンが出てくんじゃねぇかぁ〜?だなぁ〜?」
封印の失敗は、既に取り返しのつかぬ領域へ踏み込んでいた。
階段の奥には、さらに重たそうな扉がそびえていた。
その表面には、無数の焼け焦げた札と、新たな滲みの痕が散っていた。
その下からは——べっとりと濃い血が滲み出していた。
赤黒い液体は、どろりと重く床を這い、扉の前に広がっていた。
曇った鏡のように、鈍く光を反射している——否、時折わずかにうねりを孕んで見えた。
「……っ……これは……。」
由紀子が眉をひそめた。
だが眉間の奥から——鼻腔を突き破るような鉄錆の臭いが、脳の裏側をじわじわと焦がしていく。
「……開けるのか……?」
遠矢は、戸惑いを隠さない。
足が、わずかに震えている。
(この先は……"見てはならないもの"だ……。でも、もう引けない……。)
内心の警鐘は激しく鳴り響いていた。
だが、逃げる選択肢はすでに剥奪されていた。
あまりに凄惨な光景が、この先に待っていることは明白だった。
「……やめた方が……。」
由紀子が、小さく声をかけかけたその瞬間。
ドゴォッ!!
「邪魔くせぇわぁ〜!!」
勘助が酒瓶片手に、逆足で扉を豪快に蹴り飛ばした。
鈍い衝撃音が、密閉された空間に凄絶な破砕音となって響き渡る。
扉はひしゃげた金属音とともに吹き飛んだ。
ぶわっ——。
扉の奥からは、生温い風とともに——濃密な鉄錆の臭いが波のように押し寄せた。
遠矢の喉が、きゅっ、と掠れた悲鳴のように鳴った。
膝が自然と引けそうになる。
だが、勘助は躊躇なくその奥へと踏み出した。
二人は、思わず口元を押さえた。
喉の奥を焼けた刃物が撫でるような嘔気が、こみ上げた。
そこに広がっていたのは——。
——齋藤家の人間たちの死体の山だった。
男女問わず。
若者も老人も。
子供までが混じっていた。
そのすべての顔が、苦悶と恐怖に凍りついていた。
瞬間の絶叫がそのまま肉の仮面に焼き付けられたような表情だった。
目は、見開かれたまま充血し、乾き、崩れかけていた。
四肢を無理やり引き裂かれた身体。
肉はまるで硬質なものに引き裂かれたかのように、裂け目が鋭角だった。
筋肉は断裂し、骨は粉砕されて突き出ていた。
内臓を引きずり出された骸が、あちこちに散乱していた。
悪趣味なんてものではない、卑劣極まりない光景だ。
そして、首だけが整然と並べられた一角。
その異様な整列には、悪意にも似た意図が見て取れた。
一糸乱れぬ正確さ。
目の高さをそろえ、顔の角度すら微妙にこちらを向くように整えられていた。
それはもう、ただの殺戮ではなかった。
無秩序であるはずの虐殺の中に、ねじれた意図の影が濃密に漂っていた。
まさに地獄絵図だった。
「……っ!!」
遠矢は、その場に崩れかけた。
膝がひときわ強く震え、それでも両膝に力を込めてどうにか耐えた。
だが、喉の奥からは噛み殺した呻き声が漏れた。
「お……叔父さん……っ……これは……っ……」
視界が歪んだ。
空間の輪郭がぐにゃりと軋み、床も壁も異様に遠ざかっていくように見えた。
(これが……"我が家"の、齋藤家の末路……?)
血筋の誇りも。
守ろうとしていた封印も。
そのすべてが、この惨状に変わっていた。
怒りが込み上げる。
だが、悔しさと無力感がそれに絡みつき、思考を蝕んでいた。
指先までが痺れ、拳を握りしめても血が戻ってこない感覚に囚われていた。
由紀子は、わずかに息を整えた。
だが、その肺に取り込まれる空気すら、血と腐敗の重さにまみれていた。
(…………偶発的な殺戮じゃない。
意図がある……。"見せ方"に妙な一貫性がある……っ。……これは……。)
冷静さを取り戻しつつも、流石の由紀子も、気付いた事実にショックを隠せなかった。
(遊びながら、殺したんだ。齋藤家の人たちを。圧倒的な力差をもって、明確に"人の命"で遊ぶ意志を持って……。あの封印から解かれた怪物が……真っ先に彼らを殺したんだ。)
自分の呼吸のリズムが意識できるほどに——冷静に状況を観察していた。
だが、その冷静さ自体が壊れかけた精神の最後の砦だった。
(この部屋の外には、死体を引きずった跡も無かった。つまりは皆、この部屋に籠って封印の儀式をしていた?だけど封印が失敗して……。あの校内放送も、この齋藤家の惨殺も……。封印から解かれた怪物がやったとしたら………。)
その思考の渦に沈んでいた刹那、
首だけの列の奥から、ひとつの瞳がわずかに動いた……ような気がした。
見開かれたままの眼球が——極わずかに震えたのだった。
由紀子は——思考が止まった。
心臓が氷のように締め付けられた。
(……今……見間違い……?……だよ、ね。)
だがその時、真横から、唐突にフラッシュの閃光が走った。
カシャ、カシャ、カシャ。
不快なシャッター音が、静謐を裂いて鳴り響いた。
光の残滓が、視界の奥に焼き付く。
死体の山が——白々しく照らし出された。
断末魔の表情が、瞬間ごとに光と闇に切り取られ、定着していった。
「ヒャッハッハッ!! こりゃ見事だなぁ!」
声の主は、勘助だった。
スマホを取り出し、無造作に死体を接写していく。
その手つきは職人めいた手際の良さすら感じさせた。
「……何をしてるんですか?まさか、探偵みたいに情報収集してる訳でもないでしょうし。」
由紀子の声は、冷たく硬質だった。
だが、それに対して勘助はふふん、と鼻で笑った。
「ヒャッハッハッ!! そんな堅苦しい理由じゃねぇわ。
物好きな愛好家に売るに決まってんだろぉ。」
スマホを器用に動かしながら、続けた。
フラッシュが再び光る。
その度に死の情景が切り裂かれるように露出していった。
「あの霊媒師の間では超有名な、誉れ高き齋藤家の末路……!本物のゴア画像だぞぉ?しかも元々全員、揃いも揃って美男美女ときたらなぁ。それがこんなグッチャグチャになって!見るも無惨に殺されたんだわ。高値がつくにちげぇねぇぞ。俺ってば天才だ、ワッハッハッ!!」
カシャッ。
カシャッ。
カシャッ。
死体の凍りついた瞳が、一瞬ずつ光を反射し、虚ろに煌めいた。
空間の温度が、さらに一段冷え込んだ気がした。
それは、倫理がこの場から完全に蒸発したからだった。
由紀子は、静かに吐息をついた。
「……救いようがないですね。」
低い声で言い添えた。
その声音は刃のように鋭い。
だが、勘助はにやりと嗤い返した。
「はぁ〜? そんなん知ったこっちゃねぇわ。齋藤家からの送金が途絶えた今、金になるものはなんでも。」
唇の端に、楽しげな影が刻まれた。
あらゆる倫理観が瓦解してなお、悦に浸る者の顔だった。
「祭りは終わってねぇ。今のは、ほんの余興だわ」
「これを余興扱い、ですか……。」
由紀子は視線を逸らさずに言った。
だが、その目の奥には冷え切った炎が灯っていた。
「そういうお前も、慣れてきたなぁ。もっとピーピーわめき出す方が俺好みなんだがなぁ。」
「……そんなくだらない妄言に、返す言葉はありません。」
そこで怒声が、空間を裂いた。
「ふざけるなっ……!!」
遠矢だった。
拳を握りしめ、顔を真っ赤に染め、その全身が震えていた。
「ふざけるなっ!! ……こんな時に……!!お前はっ……っ……人の死を……冒涜して……っ!!そんな訳ないっ!!齋藤家は強いんだ、齋藤家はどんな悪霊にも!!神にさえ負けない!!何度だってどんな凶悪な神にも勝ってきた!!齋藤家は最強の霊媒師一族だ!」
声が割れ、喉が枯れるほどの叫びだった。
それは初めて、付き合いの長い由紀子が目にする遠矢の姿だった。
激情と絶望と執着が剥き出しになった、彼の“核”の部分が——そこにあった。
勘助は、ふっと冷めた目を向けた。
「……あのなぁ。」
スマホの撮影を止め、肩越しに冷笑を投げかけた。
その声は妙に低く、氷のように冷たかった。
「突然なんの脈絡もなしに殺しに来るバケモンを庇う。虐げていた齋藤家の奴らを庇う……。お前の方がおかしいぞ?偽善者とはまた話が違うわなぁ。」
その声音は、ナイフの刃渡りをなぞるような滑らかさを帯びていた。
空気がぐんと冷え、由紀子は自然と呼吸を潜めた。
「まさかぁ〜?あんな仕打ちを受けておきながら齋藤家が好きです〜。正義の味方です〜。僕ちゃんは齋藤家の奴隷なんでちゅ〜。なんてほざくのかぁ?なぁ?」
一音一音が鋭利な鉤爪となって、遠矢の心を抉っていった。
「違うっ!!」
遠矢は食い下がった。
その声は、震え、擦れ、血の混じった音になっていた。
「……齋藤家の人間は……この街を守ろうとして……っ!!」
全身を震わせ、なお叫ぶ。
しかし彼の脳裏にばかり移るのは、誇り高く街の人間から慕われる表の齋藤家ではなくーーーー。
彼が実際に受けた、口にするのもおぞましい齋藤家からの暴力と暴言の嵐だった。
「だ、だから……っ」
本家の屋敷にいた時、彼を守り愛してくれるような人間は一人もいなかった。
皆鬼のように高いプライドともはや傲慢めいた責任を持っており、力の弱い遠矢は迫害された。
稀代の失敗作。皆がそう言い、遠矢を疎んだ。
愛していた母は、遠矢が小さい頃から1度も好意的な言葉を掛けてくれなかった。
父親は、遠矢は呪われた子だと憎み、1度も会いに来なかった。
早々に2人に育児を放棄され、世話係に回された後も遠矢の地獄は終わらない。
ときたま、血の繋がる親戚が「殴れば力が覚醒すんじゃないか?」と、鬱憤晴らしのサンドバッグのように殴り続けていた。
泣き叫んでも誰も助けてくれない。
その後生まれた弟は当然のように齋藤家の力を引き継いでおり、母からも父からも愛され……それを見てしまった遠矢はショックで泣き叫んだ。
そんな彼を彼を待ち受けていたのは……齋藤家ではあるが、外向きの任務のため北山と名乗る従兄弟の一家の家に行けという指示だった。
だがそれでも、現実を受け入れたくなかった。
「この封印だって……!封印から解けて街を襲おうとしていた……悪神——禍神を……再封印しようとしてたんだろ!!」
その叫びは、空虚に反響した。
血塗られた石の壁に、虚ろな音が返ってきた。
勘助は鼻で、笑った。
「ヒャッハッ……そぉ〜かぁ〜?」
湿った嗤い声が、血の香る空気を震わせた。
「それでもよぉ〜、あの齋藤家から——。ゴミだのクズだの恥知らずだの言われてぇ〜、俺よりも悲惨な仕打ちを受けてぇ——。まだそんな事言うのかぁ〜?」
勘助の目が細く光った。
蛇の目だった。
そこに映るものは、肉も血も、心すらも餌にしか映っていなかった。
「偽善者通り越して愚かだなぁ。だろ〜?この街だってそうだぞぉ?散々コケにされて、それでも庇う価値があるのかぁ?」
一歩。
さらに一歩。
顔を至近まで寄せ、低く濁った囁きが遠矢の耳朶を刺した。
「本当は安堵してんだろ?お前をボコボコにして笑いものにした学校の奴らが全員死んだのも。従兄弟……北山のやつらが殺されたのも。散々コケにしてバカにして正義面してきた齋藤家が、己の未熟さで死んだのも——。それでいて、認めたくなかったんだろ。思い込みたかったんだろ?自分を捨てるくらい力に頓着してんだから、齋藤家には強くあり続けて欲しかったという願望の現れだろ?」
言葉は、刃の先をゆっくりと肉に押し当てるように進んでいた。
遠矢は——顔面蒼白になった。
「……っ……」
全身の力が、骨の芯から抜けていくようだった。
膝が震え、喉が干からびた。
(違う……違う……そんな風に思ったことは……いや、でも——)
胸の奥底を、否定しきれない黒い感情がひたひたと這い上がってきた。
(俺は……どこかで……。あいつらが滅んだことに、ほっとしていたのか……?)
その一瞬の迷いを勘助は見逃さなかった。
にやりと笑った。
その口端が吊り上がり、スマホを再びゆっくりと構えた。
死体の山にフレームを向けながら、そのレンズの冷たさが、同時に遠矢の心臓まで覗き込んでいるかのようだった。
「ヒャッ……顔に出てんぞ〜?坊っちゃん〜?」
カシャ。
乾いたシャッター音が空虚に響いた。
そのたびに、空間がさらに冷たく圧縮されていく。
由紀子は、その場で両者を静かに見ていた。
その瞳は、底の見えない湖面のように冷えていた。
(……煽りでも正義でもない。今ここに残っているのは、ただ——。"選ぶしかない選択"だけ。この地獄の中で、何を取るか、何を捨てるか——。私はそれを見極める。冷静に。)
勘助の嘲る声が、血の沁みた地下空間に響いていた。
遠矢は、歯を食いしばった。
拳を震わせていた。
言い返せなかった。
言い返せなかった自分自身への怒りが、胸の奥を焼いていた。
その焼けるような痛みは、もはや理性の枠を超えていた。
怒りでもなく、絶望でもなく、もっと原始的な、赤黒い衝動だった。
——その時だった。
ゴ……ッ……ゴゴゴ……ッ……ゴッ……。
地下の空気が——重く、低く、腹の底に響くような唸りを上げた。
それは音というより、空間そのものの呻きだった。
「……っ!?」
由紀子が、鋭く顔を上げた。
その目は一瞬の間に警戒の色へと変わっていた。
遠矢も、反射的に振り返る。
——空間が、歪んでいた。
天井に貼られていた呪符が、一枚、また一枚と、音もなく剥がれ、宙を舞った。
その舞いは重力を拒むかのような滑らかさだった。
壁のひび割れは静かに広がり、そこから黒い染みのような影が滲み出していた。
それは液体のようでもあり、生き物のように脈打つ何かでもあった。
空間そのものが軋み、呻き、ひとつの意志を孕みはじめていた。
「……なんだ、これ……っ!!」
遠矢の顔が青ざめた。
声が震えていた。
由紀子は、冷や汗をにじませつつも、全方位に視線を走らせていた。
だがその瞳は、恐怖というより、冷徹な観察の色を宿していた。
その時もなお勘助は平然と、酒瓶を煽っていた。
「ヒャッ……例のアレが、俺らに気付いてちょっかいかけてきたみたいだなぁ?」
その声には一片の恐怖もなかった。
むしろ——興が乗っている気配すら漂っていた。
「……逃げなきゃ……っ!!」
遠矢が叫んだ、その瞬間——。
ギィ……ギィ……ギィ……。
奥の闇の中から、巨大な影の気配が近づいてきた。
それは——存在そのものが空間をねじ曲げているかのようだった。
壁の呪符は、次々と赤黒い火花を散らして燃え尽き、
影の先端が床を這うように進んでくる。
その動きは不気味なまでに静かで、圧倒的な意志の重さを纏っていた。
「はー、酒がうまいなぁ。」
勘助は肩を揺らして笑いながら、酒瓶を片手にふらりと、影の方へと歩き出しかけた。
「……っ!! やめろ!! 逃げるぞ!!」
だが、勘助はとんでもないことを言い始めた。
「おーい!影さんよぉ!封印されてた親玉さんよぉ〜!俺と仲良くする気はねえかぁ?聞けば声は幼女だったしなぁ。幼女なら大歓迎だぜぇ、俺は!!この俺が仲良くしてやってやるっつってんだ。こんな破格の待遇、今だけだぞ〜!!」
——その声は、石の空間を滑るように響いた。
そして、影の動きが、一瞬、緩やかになった。
それは返答だったのか、あるいは単なる異変の兆候だったのか。挑発だったのかは、分からない。
「…こんな時に…何ふざけたこと言ってんだ!!向こうは会話の通じない、たくさんの人を惨殺した……。正真正銘のバケモンだ……。いや……叔父さんも、十分匹敵する化け物だな……。仲良く出来るのか?」
遠矢は声を荒げたが、同時に自分の言葉の矛盾に、顔を歪めた。
「今はそんな悠長なこと言ってる場合じゃない!!」
その叫びすら、今や空間に吸い込まれて消えていくかのようだった。
声は——まるで、深い海の底に沈められたかのように。
だが、勘助は止まらない。
その背には、まるでこの空間ごと支配しているかのような、確固たる風格と、絶対的な圧が漂っていた。
(……この男は……恐れてなどいない。この状況をも——楽しんでいる……!)
由紀子は、胸の奥で冷ややかに思考を巡らせた。
(このままでは……。この狂気の均衡が、完全に崩れる……。)
——その時。
影の中心が、ねじれながら、ゆっくりと形を成しはじめた。
ねっとりと絡み合う黒が、螺旋を描き、
その内部から、より濃い闇が滴り落ちていた。
影は着実に近づいてきていた。
影の先端が床の石畳をなぞるたび、
そこに触れた呪符は、一瞬で青白い火花を噴き、燃え尽きた。
黒い染みだけが、その跡にじわじわと滲み出していた。
——まるで、"足場を奪いながら"進んでくるかのように。
その動きには、知性すら感じさせる意図があった。
それは単なる怪異ではなく——意志そのものだった。
勘助の嘲るような声が、ふたたび濁流のように響いた。
「ヒャッ……。仲良くしてえのかぁ?いいぜぇ〜、迎えに来いやぁ〜!!」
その声は命乞いでもなければ、恐怖の裏返しでもなかった。
純然たる愉悦だった。
殺意と狂気を正面から迎え撃つ悦びそのものだった。
空間の歪みは、さらに深まっていた。
天井が僅かに撓み、壁のひび割れは今や血管のように脈動していた。
石床の至るところに、黒の血糊のような染みが広がっていた。
それは生きていた。
這い、滲み、絡みつき、吸い込んでいた。
空気はもう、空気ではなかった。
粘性を帯びた闇が、肺の奥まで染み込んでいた。
これが——“禍神”。
齋藤家が、血の代償を払ってまで封じようとしていた正体。
知覚そのものを侵す存在だった。
視線を向ければ、見えたものが歪む。
音を聴けば、耳鳴りが脳を食う。
皮膚は凍え、骨の芯が軋みを上げる。
ただ一人。
勘助だけが、それをまるで。
最上の玩具であるかのように見つめている。
ギィ……ギィ……。
影は、すでに床を這い、足元を覆い始めていた。
黒の繊維のようなものが、石の目地をなぞり、舐め、絡みつきながら広がっていた。
それは血でも水でもなく、存在そのものを侵食する、意思を帯びた暗黒だった。
由紀子は、冷徹な瞳で状況を見極めていた。
(……空間が収束している……。影がこの場を掌握しつつある……。ここは——もう限界……。逃げなきゃ……!!)
その思考の中でも、心拍はひどく冷えた音を打っていた。
「さぁ〜、俺と一緒に“お友達”になるかぁ〜?どうする、影様よぉ〜。」
嗤う声が、空間に滑った。
——影はさらに深く、闇の圧を強めていた。
床を覆う黒は、次第に膝下にまで迫ってきた。
冷たいという感覚すら超えた、感覚を侵す圧だった。
生き残れる道は、もはやほんの一筋の選択に過ぎなかった——。
そんな中でも酒瓶を掲げ、狂気に満ちた笑みを浮かべている勘助の姿は——もはやこの地獄の演出家のようだった。
(……結局……。俺はまた……!またこの男に縋らなきゃ、生き残れないのか……っ……!!)
遠矢は拳を震わせた。
悔しさに、爪が掌に深く食い込み、鈍い痛みが脳髄を刺していた。
「……なんだよ。」
程なくして、勘助の声が、一段低く落ちた。
「俺と馴れ合うつもりはねぇのか?へっ、つまんねぇわ。」
そのまま、ふん、と鼻で笑った。
そして。
影に背を向け、堂々と——歩き出した。
「飽きた。帰る。」
その言葉に遠矢も、由紀子も目を見張った。
「なっ……なにを……っ……!!」
「影が……っ……来てるのに……!!飽きたって……」
だが、勘助はまるで日常の散歩のように、歩を進めて来た道を戻り始める。
その歩みは、空間全体に逆らうような重さと確信を帯びていた。
崩れかけた天井や壁の瓦礫は、勘助の歩く軌道にだけは、不自然に落ちてこなかった。
まるで彼を避けているようだった。
影の、触手のようなものも。
一瞬、勘助に向かって伸びかけて——。
ヒュン、と鋭く後退していった。
空間が、明確に"彼を恐れていた"。
それは理屈ではなかった。
この異形の存在すら、勘助という異質な異常さを本能で感知し、迂回した。
由紀子の背中を、冷たい汗が一筋落ちた。
(……これは……。この男は……。この“禍神”すら、触れられない、のか……。何者なんだ、この異常な男は……!?)
遠矢は、歯を噛み締めたまま震えていた。
目の奥に浮かんだのは、もはや——。
恐怖でも怒りでもない。
理解不能な絶望の色だった。
勘助はなおも、ひとり悠然と歩を進め、
その背中が今や、空間の中心そのものを塗り替えているようにすら見えた。
「ほれ、お二方!
ついてくるなら勝手に来りゃいいわぁ〜?
ま、俺の通る道は邪魔がねぇんだよ〜? だなぁ〜?」
そう言って、二人に笑う余裕まで見せる勘助。
その口元には、今や興が乗った残酷な愉悦が薄く漂っていた。
遠矢はそれを見ながら、唇を噛み締めた。
(……ふざけるな……っ……。だが今は——。理屈も正義もない……っ……。生き延びなきゃ……っ……!!)
その瞬間影の這い進む音が一層大きく響いた。
ドクン……ドクン……。
空間そのものが呼吸しているかのような脈動が、
二人の鼓膜を震わせた。
空気が脈打っていた。
由紀子は、一瞬の判断で声を上げた。
「……今は……選ぶ余地はない!!行こう!!」
遠矢も、その言葉に最後の迷いを振り切った。
「……くそっ……行くしかねぇ……!!」
二人は、勘助の背中を追うように、
滑る床を蹴り上げ、足元を這う黒い影を振り払うように駆け出した。
——背後では、影の塊がなおもその形を歪めながら、
確実にその質量を増していた。
ギィ……ギィ……。
床が、軋むように呻いた。
闇の質感そのものが、空間を塗り替えていく。
勘助はあくまで余裕たっぷりに歩いていた。
「ヒャッ……。ったく、ガキが本気で遊んでくれるかと思ったのによ〜?だなぁ〜?ちょっとは**“楽しい遊び相手”になるかと期待したんだけどな〜?**」
酒瓶を軽く揺らしながら、悠々と階段を上っていく。
その背中を、必死に二人は追っていた。
「……っ……もう少し……っ……!!」
崩れかけた階段も勘助の歩いた後はなぜか安定していた。
そこだけが、まるで異空間のように歪みを拒んでいた。
(……何が……起きている……っ……!?)
遠矢は、頭の中を混乱させながら、それでも必死に追った。
三人は崩壊寸前の隠し部屋の地上側へと飛び出した。否、勘助は悠悠としていたが。
背後では、影が未だに地下空間を埋め尽くし、黒い触手のようなものが階段の途中まで這い上がっていた。
しかしその影は、階段の半ばで、まるで——“意志”を持ったかのように進行を止めた。
僅かにその形を変えながら、じっと、階段口の闇の中に佇んでいる。
(……見逃した……?それとも、観察している……?)
由紀子は走りながら、
背後の影の挙動を冷静に分析していた。
「……普通の暴走じゃない。知性がある。意識の一部は、今も——。私たちを“計って”いる……。」
低く呟いたその声に遠矢も、一瞬ゾクリとする。
やがて、三人は廃墟と化した街を縫うようにして歩き続け、ようやく勘助の屋敷へと辿り着いた。
「……何とか、戻れた……っ……」
膝をつく遠矢の隣で、由紀子も額の汗を拭っていた。
「ヒャッハッハッ!ま、俺がいたからだなぁ〜?だろ〜?」
冗談めかしてそう言ったが——。
(……否定は……できない……)
由紀子は、冷ややかに胸の内で認めざるを得なかった。
この異常な狂気の中を生き残った理由は、それ以上に異常なこの男がいたからこそだった。
その思考の最後に、由紀子はふと背後の空へ目をやった。
影は、もうそこに無い気がした。
地下の闇の口に蠢く意志の影は感じられない。なのになおもこちらを観察されている……そんな気がした。
対して遠矢は悔しさ、怒り、そして何よりも屈辱感が胸を灼いていた。
何とか脱出したあと由紀子が、静かに言った。
「……ひとつ、いい?皆を飛び降りさせたあの声の主と、封印されてた化け物……影は——おそらく一緒。齋藤家の皆の死体、真新しかった……。タイミングと一致する。禍神……だったっけ」
「ああ、禍神……幼い声をしているが、その正体は悪神だ……でも、数百年前にかつて齋藤家を作った人間……最強の陰陽師である、齋藤明に封じられたはずだったのに……封印されてからもずっと封印結界を毎年貼り直していて、完璧だったはずなのに…それしか、俺は知らない。知らされていない。けど、橘さんは……そこまで観察して見抜いてたのか。橘さんは……凄いな。俺は……。取り乱して叫んで、逃げて、それしかできなかった。」
声が少し、震えていた。
悔しさが、言葉の端に滲んでいた。
「いや。いくら齋藤家に虐げられたって言っても……。一族全員、あんなふうになったら取り乱して当然だよ。」
由紀子の声は、彼女にしては珍しく柔らかさを帯びていた。
「逆に齋藤家に長年迫害されてたのに、きちんと齋藤家がやっていたことを……。遠矢くんは俯瞰で評価してた。私には……それこそ出来ない。それは嘘偽りのない“正義感”だよ。」
微かな吐息とともに、彼女は続けた。
「確かに今この状況で、そんなものは、何の役にも立たない。でも持っていることこそ、意味がある。私は……少なくともそう思う。思わされた。散々、倫理なんて無意味だって、思ったけど……。あの言葉に心打たれたよ。」
由紀子は静かに言葉を紡いだ。
だが——その胸の奥では。
冷たい何かが、ひたひたと波紋を広げていた。
(……まだ見ている……。見られている気がする。終わってなんかいない……。)
由紀子は、深呼吸する。
その呼吸一つにさえ、未だこの地の支配圏に在る禍神の意志が、微かな影を落としていた。
——屋敷の扉を開けた瞬間だった。
違和感が、全員の背を貫いた。
玄関の中央。
赤い絨毯の真ん中に、一人の幼子が座っていた。
長い黒髪。白いワンピース。
肌は——蝋のように白く、微動だにしない。
「……っ……!!」
「やっほ〜」
由紀子と遠矢は、息を呑んだ。
こちらを振り向かずに幼子が発したその声は、あまりにも聞き覚えがあり過ぎた。脳裏に焼き付いていた。
「……まさか……」
刹那。幼女の首が、**ギギギギ……**と異様な音を立てながら。
189度、不自然な角度までゆっくりと回転した。
「やっほー。ひさしぶりだね、みんなぁ〜?封印、すっかりとけたんだもん。遊ばなきゃ、つまんないでしょ〜?」
——あの声だった。
あの時。
**校内放送で狂気に満ちた「おはようございます」**を響かせた、あの声。
今、こうして具現化し、禍神として目の前に現れたのだ。
次の瞬間だった。
「じゃ、まずはおじちゃんから遊んであげるね〜!」
無邪気な声とともに、空間が捩じれた。
——ズバァン!!
「……っ!?」
勘助の両足が、膝下から突然消し飛んだ。
骨も肉も血も、物理法則を無視して——。
「消し飛んだ」という表現が正しかった。
「ひ、ひいぃっ……!!」
遠矢が、悲鳴を上げた。
(……っ……。最強の叔父さんが……それが今……。こんな理不尽な力の前に……。あっけなく……!!も、もうだめだ!!皆死ぬんだ!!神にはかなわない!!)
由紀子も、青ざめて立ち尽くした。
血が滝のように床に噴き出す。
ーーーー勘助は、声ひとつ上げなかった。
無言のまま、片手でアイロン台の上に転がっていたアイロンを拾い上げ——。
「………」
スイッチを入れた。
数秒後、ジジジ……と熱を帯びた鉄板が赤く光る。
そのまま。
噴き出す血の両足の断面に——。
アイロンを押し付けた。
——ジュウウウウウウウウ……!!!!
「は、あっ……!?」
由紀子は本能的に顔を背けた。
幼女——禍神も、一瞬笑うのをやめた。
「………。っ……。あ、あれぇ?泣かないのぉ?叫ばないのぉ?」
ジュウウウウ……。
煙と血の焼ける臭いが、屋敷に充満していく。
明らかに尋常でない激痛を伴う行為だ。
普通の人間なら耐え難い痛みに発狂し悶え転がり、絶大な苦しみからは逃れられない。最悪止血を通り越して、発狂死も考えられる。
なのに勘助は涼しい顔で「ふん……面倒な手間かけさせやがって。」と、吐き捨てた。
両断面を焼き固め、血の噴出を止めると。
「さぁて、と。」
そして当たり前のように。
ぬるりと逆立ちの体勢に入り、ひょいと片手で体を支えながら——。
「ヒャッ……これが俺の流儀だわ〜?だなぁ〜?
どんなに欠けても、楽しまなきゃ意味ねぇだろ〜?」
ニヤリと笑った。
幼女の瞳が、一瞬だけ僅かに細められた。
そこには僅かな揺らぎがあったが、また無邪気な笑みが戻った。
「面白くない……。本当は悔しくて痛いはずなのに——。狂人のフリしちゃって。まあいいや。もっともっと遊ぼーよぉ〜!」
「ああ、良いぜぇ?」
両手で地面を支え、器用に逆立ちになりながら。
——狂気が笑う。幽霊よりも、神よりも、この世で最も狂った男が笑った。
「さぁて、お遊びの時間はまだ終わってねぇんだがぁ〜?ずぅっと長年の夢だったんだよなぁ!! 幼女の踊り食いをなぁ!!」
「ふうん、面白いこと言うねえ〜。……出来るの?そんなこと〜」
幼子が身体から影を勘助に向かって伸ばす。
「じゃ、おじさんバイバーイ」
だが瞬間……影は目にも止まらぬ速さで、勘助に食いちぎられた。
「っ……は?? 影……食ったの?」
禍神が珍しく怯えの表情を見せた。
「え……なに……それ……いや、死んでよ!! 足飛んだなら死んでよ!! なにそれ!!齋藤家の最強の玩具さんだって! 両足飛ばしたら動けなくなって直ぐに出血多量で死んだのにっ!!」
バタバタと廊下へ逃げ出す禍神。
だが、廊下は突然異常なほど長く伸び始めた。
「っ……えっ……!? おいっ、この家も呪いそのものだろっ!! 私は禍神だ! 呪いの神なの! 私の言うこと聞けやっ!!」
全力で走っても、扉までの距離が変わらない。
「なんで、なんでなんでなんでぇっ!!」
背後では逆立ちのまま、ものすごい速さで迫る勘助。
ドスンッ、ドスンッ、ズガンッ……ゴウゥン……!!
「おぉ〜?逃げんのかぁ〜?だがなぁ〜?お前、俺が本気で追ったら逃げ切れねぇわぁ」
禍神の顔が恐怖に染まる。
「このはずじゃなかった……! こんな“不純な存在”は来てないはずだったのにぃっ!!な……なんでこの家はっ!!この男を選ぶのおおおおお!!」
ズガンッ!!
一歩、一歩、異様な迫力で逆立ちした勘助が後ろから迫ってくる。
異様に引き伸ばされた廊下が、禍神を出口から遠ざけ続けていた。
由紀子は恐怖に震える身体を抑え、必死に思考を巡らせていた。
必死に禍神は走る、走る、全速力で走る。
人間よりも何十倍もの速さで走っているというのに、後ろからの音が近付いてきている。
背後の恐ろしい音が、着実に。少しずつ……距離を詰めてきている。
逆立ちで走る、勘助の方が早いのだ。
(……この空間……この呪い……屋敷の意志が……勘助さんに“順応”している……!?)
遠矢は汗にまみれた顔で、叔父の逆立つ狂気の姿を見つめていた。
(……お前の方が神よりも化け物じゃねえか!!……)
「なぁ〜?もっと遊ぼうぜぇ〜?なぁ〜?」
逆立ちのまま禍神に手を伸ばそうとする勘助に、禍神は発狂した。
「早く早く早く早く早くっ早く!!間に合え間に合え間に合え間に合え間に合え間に合え間に合え間に合ええええっっ!!」
次の瞬間——禍神はそう絶叫を上げ、一瞬で虚空に消え去った。
静寂が訪れた。
勘助は逆立ちの体勢のままぴたりと止まり、ふぅっと息をついた。
「ま……逃げたか。まぁ今日はこんなもんだわ〜? だなぁ〜?」
くるりと回転して普通の姿勢に戻り、血塗れの床に座り込んだ。
酒瓶を煽りながら、にやりと笑う。
「ヒャッ……ま、俺は“あれ”とはあんまウマが合わねぇみたいだなぁ」
呆然と立ち尽くす由紀子と遠矢は、その異様な光景の意味を咀嚼することすらできなかった。
——あまりにも異常な光景だった。
両足を失いながらも物理的に焼き固めて止血し、逆立ちで禍神を追い詰めた勘助。
禍神は恐怖の叫びとともに虚空に消え去った。
残されたのは、血塗れの廊下と異様な静けさだった。
由紀子と遠矢はまだ震えが止まらなかった。
膝を抱え込み、肩を震わせて座り込む遠矢。
(……っ……俺は……。なにを……見た……叔父さんは……一体……っ……!!)
喉の奥が焼けつきそうだった。息が詰まる。
由紀子も壁際に手をつき、必死に呼吸を整えていた。
(……この空間自体……おそらく、屋敷ごと“彼の側”に傾いている……?……いや、彼の一部に……飲み込まれている……?)
勘助はというと、血の池の中にどっかりと座り込み、酒瓶を煽っていた。
「ヒャッ……ま、逃げたかぁ〜? ちょいと肩透かしだったがなぁ〜? だなぁ〜?」
まるで日常の一コマのような口ぶりだった。
由紀子は、恐る恐る、それでも理性を振り絞って問いかけた。
「……な、なに……いったい、あなたは……。あの神……禍神ですら……この屋敷まで……あなたに従っている……? それは、あなたの“意志”の影響……それとも、もっと……別の……」
ふふん、と鼻で笑う。
「ヒャッ……なぁ〜んも難しい話じゃねぇわ〜?呪いも強いものに従うってだけだろ。この家もその気になりゃ、俺は呪いごと壊せるが……何かと色々都合が良くて、俺も自分の意思で居座ってるだけだ。まぁ、強い俺に呪いが媚びるのは当然のことだろ?」
酒瓶を揺らしてご機嫌に笑った。
その時、空気がまた震えた。
——ギィ……ギィ……ギギギ……
外の影が“呼吸するように”波打つ。
「っ……!? ま、まさか……!!」
由紀子が警戒して立ち上がった。
勘助はふぁ〜とあくびをし、酒瓶をもう一本手に取った。
「ヒャッ……ま、アイツもすぐには帰れねぇだろ〜? 一回負けたまんまで終わるような性格じゃねぇからなぁ〜?」
その言葉に、遠矢の顔が青ざめた。
「じゃあ……また、来るのか……っ……!!」
勘助はニヤリと笑った。
「当たり前だわ〜? 次はもっと派手に来るかもなぁ〜?ヒャッハッハッ!! どうせ逃げられないんだ……【俺】からはなぁ〜?……あのガキもそれは分かってるはずだわ」
——静かな、けれど 異様に深く染み入る不穏さ が、血の匂いの漂う空間に満ちていった。
その時——外から異様な轟音が聞こえてきた。
ゴゴゴゴゴゴゴゴゴ……ッ!!
「っ……今度は何だ……っ……!?」
由紀子と遠矢が駆け寄ってカーテンを開けた瞬間——息を呑んだ。
街全体が異常化していた。
街路樹は黒く煤け、枝の表面が石化したようにざらついている。
建物の壁には、血管のような赤い脈動する模様が走っていた。
道路はひび割れ、内部からガスのような黒い靄が噴き出す。
吊られたままの死体はすべて消えていた。
その代わりに、意志を持つように漂う影の塊が無数に揺らめいている。
「……っ……街が……もう……崩壊し始めてる……!!」
遠矢は唇を噛みしめた。
勘助はその光景をまるで娯楽番組でも観ているかのように笑っていた。
「ヒャッ……いいじゃねぇかぁ〜? やっと盛り上がってきたわ〜? だなぁ〜?」
由紀子は、決断を迫られていた。
(……この状況で……私たちだけじゃもう何もできない……でも……この叔父さん……こいつに頼るしか……っ……)
震える手を握りしめ、由紀子は意を決して声をかけた。
「……次は、どうするんですか……勘助さん……っ……」
勘助はにやりと口元を吊り上げた。
「ヒャッ……次の準備だわ〜? だなぁ〜? 遊び相手が“本気”出してくるなら、こっちも準備しとかなきゃなぁ〜? なぁ〜?」
そう言いながら、立ち上がった。
血塗れの床の上に両手をつき、逆立ちの構えを一瞬見せ、そのまま軽やかに跳ねて着地する。
「ま、坊っちゃんと嬢ちゃんはついてきたきゃ、ついてきなぁ〜? 置いて行っても良いがぁ〜? だなぁ〜?」
——この瞬間、二人は理解していた。
こいつの背中を追わなければ、生き残れない。
だが同時に、それがどんな地獄に繋がる道なのかも——わかりすぎるほどわかっていた。
(……もう、引き返せない……っ……!!)
勘助の背中が、再び歩き出す。
二人はその後を、重たい足取りで追いかけた。
——次なる恐怖の幕は、すでに上がっていた。
廊下に血と焦げた臭いが残る屋敷の中。
勘助は軽やかな足取りで奥へと歩き出した。
「ヒャッ……ちょっと“準備”しねぇとなぁ〜? なぁ〜?」
その言葉に、由紀子と遠矢は顔を見合わせた。
(……次の準備……? 一体何を……)
だが今は、逆らうという選択肢は存在しなかった。
あの禍神すら追い詰めた異常な存在——それが、この叔父だった。
勘助の背中を追って屋敷の奥へと進む。
途中、割れた酒瓶や血まみれの床を淡々と踏み越えていくその姿には、まるで死を恐れぬ狂人の風格が漂っていた。
だが——その目の奥には明確な知略の光も見えていた。
(……狂ってるけど……頭は冴えてる……この叔父は……)
由紀子は冷静に観察し続けていた。
「よしっと……着いた着いた〜?」
勘助が止まったのは、物置きのような小部屋だった。
扉を開けると、中には奇妙な骨董品や呪符、古びた本が山積みにされていた。
「ヒャッ……こいつぁ役に立つかもなぁ〜? だなぁ〜?」
酒を煽りつつ、意味不明な図形が描かれた札や、黒い縄を取り出して腰に巻き付け始める。
「……っ……なにを……してるんですか……」
遠矢が声を震わせて聞いた。
勘助はにやりと笑った。
「ヒャッ……どうせ幼女に今の状況見られてるだろうから、禍神の資料の写しを取り出してんだよ。
ほら、映画やアニメによくある話だろ?ラスボスの弱点が書かれてる資料を見つけてラスボスを倒す!こういうのが良いんだろ、お前らは」
「そんなものがあったなんて……どうして最初から教えて……!いや、教える必要ないか……そんなもの、叔父さんには不要だな」
「…完全に楽しんでいますね。禍神よりも、あなたがいちばん楽しんでいるんじゃないですか?」
「もちろんそうとも。あのガキはなぁ。自分の欲望のままに齋藤家と街のヤツら惨殺したあとは…おおかた、お前らがこの街に迫害された存在だって知って…“遊び相手”として選んだんだろうなぁ。だが俺の存在は完全に誤算だった。何とかして、俺を退けてお気に入りのお前らが欲しいってところか。いやぁ、羨ましいなぁ〜。俺も街のヤツら皆殺しにしたかったわぁ。ま、だからあの幼女の“遊び”に付き合ってやる準備ってこったわ〜?」
「私と遠矢くんと、禍神の遊びに……ですよね。準備って…何もいらないですよね。…まさか心の準備ですか?」
「ん〜まあ、なんだ!とにかくそうそう、心の準備だよ!それだそれだ!」
適当なことばかりほざく勘助に、遠矢と由紀子は恐怖を通り越して心底呆れ果てた。
(……何を……言ってるんだ……この状況で準備だなんて……)
(……違う。“遊び相手”にされているのは……あの禍神だけじゃない。私たちも、同じだ……)
もはや由紀子にとっては、一周まわって勘助こそ警戒すべきラスボスである。
自分たちも勘助の玩具なのだと思ってしまう。
それくらいぶっ飛びすぎていた。
…そう。本番の、はずだった。
本来ならば。ここで禍神に二人が襲われ、弄ばれ、それでも足掻き戦う姿を見せるはずだった。
しかし、その“定番”はもう根底から崩壊していた。
そもそも成り立っていなかった。
走り続けながら、由紀子は冷静に考える。
(……いや……これ……禍神の化け物から逃げてるけど……結局、勘助さんが鬼ごっこを楽しんでるだけじゃ……?私たち、ただ利用されてるだけだわ……悲壮感が全然湧かない……)
それは、恐怖ではなく奇妙な倦怠にも似た感覚だった。
遠矢は無言のまま、必死にその後を追っていた。
そして——勘助はふと立ち止まり、にやりと笑った。
「さてぇ〜? 次は“アイツ”がどう出てくるか見物だわ」
狂気の“遊び”は、なおも加速していく——。
ギィイイイイ……!!
影の化け物たちとの鬼ごっこが続く中——突如、空間が震えた。
ゴゴゴゴゴゴゴ……!!
巨大なメリーゴーランドが霧のように消失し、空間の中央に黒い渦が生じた。
そこから——禍神の姿が現れた。
あの時と同じ幼女の姿。
だが、その表情は怒りと苛立ちに満ちていた。
「……遊んでる……っ……遊んでるでしょ……!!私でっ!!この私でぇっ!!」
低くつぶやいたかと思えば、
「わざわざ私の書物を探すなんて、無駄なことしてっ!! 私で……私で遊んでるなんてっ!!!」
叫びは一気に甲高く跳ね、サイレンのように街中に響き渡った。
「お気に入りで遊ぼうって思ってたのに!! ずっと……ずっと遊びたかったのに!! 私で遊ぶなんて……許さないいいいっっっ!!!」
その目が、ぐにゃりと歪んだ笑みのような形に変わりながら、遠矢と由紀子に向けられた。
「君たちで……遊ぶのを……楽しみにしてたのにっ……私はぁ……っ!!」
幼女の顔がわずかに歪む。
「君たちが……壊れるのを……泣き叫ぶのを……楽しみにしてたのに……っ……どうして……ぇぇっ……!!」
そして、一瞬詰まったその声が。
「なんで……なんでなんでなんでえええええっっっ!!!!」
甲高い叫びとなって街中に響き渡った。
だが——その叫びの裏には、焦燥と苛立ちが滲んでいた。
なぜなら——勘助が居るからだった。
圧倒的な神による蹂躙。
それをずっと、最強の陰陽師、齋藤明に封印されたあの時から禍神は楽しみにしていた。
神なのだから、人間を殺しても傲慢に振る舞っても、許される。
自分はすごい存在なのだから。
あの明でさえ、完全に祓うことは出来なかったのだから。
自分がこの世でいちばん強いのだから。
強い神は、全てが許されるのだから。
自分を封印しようと必死に抗っていた愚かな明の子孫……齋藤家たちを弄びながら惨殺した後。
街の人々を無惨に屠り。
最後は、お気に入りとして残した二人を、じっくり壊して味わうはずだったのに。
——規格外の男が現れた。
その傲慢さも、醜さも、身勝手さも。強さすらも。
何もかもが格上だった。
そして、勘助は相変わらず逆立ちのまま、悠然と異常な速さで進んでいる。
異常。怪物。化け物。——正しくこの男のためにある言葉だった。
禍神は悟りかけていた。
——今や己こそが、“お楽しみの玩具”になりつつあることを。
わざわざ禍神の資料を探し、演出まで加えて遊ぶ。
そこに意味などない。
純粋に、全力で遊びたいからだ。そのための余興に過ぎない。
ポジションは完全に逆転していた。
禍神はもう “恐れさせる存在”ではなく、“恐れてしまう存在”になりかけていた。
「ヒャッ……やれやれ〜? 全然面白くねぇガキだわ〜? なぁ〜? だなぁ〜」
その飄々とした態度に。
禍神の顔は、幼児が見知らぬ、恐ろしい悪意を持った最悪の大人に見下ろされた時のような、恐怖に歪んだ表情を浮かべた。
「うるさい!! うるさいうるさいうるさいっっ!!」
禍神は手を振り上げ、空間そのものを捻じ曲げようとする。
空が裂け、地面が波打つ。
影の化け物が再び無数に湧き出した。
だが勘助の進行するルートだけは、すべてが“拒絶”していた。
黒い靄も、裂けた大地も、勘助が逆立ちで歩いた後は静謐そのもの。
影の化け物たちは、彼の半径数歩にすら踏み込もうとしない。
「なっ……なにそれっ!! なんでぇ!!」
禍神は顔を真っ赤に染め、声を張り上げた。
「なんでそんなのが居るのよっ!!」
由紀子はその光景を冷静に見据えていた。
禍神の怒りと焦りが、手に取るように分かる。
「……今はただ、壊れていくだけの幼児そのものよ……きっとこのメリーゴーランドだって、封印が解かれた時から……お気に入りである私たちと遊ぶために用意した最高の舞台で、渾身の出来だったはず。本来なら……ここで私たちは命懸けの鬼ごっこをして、それを見るのを禍神はとても……とても、楽しみにしていたのだろうけど……」
「……っ……」
「もはやあの子には……遊ぶ権利なんてない」
遠矢はただ息を呑んだ。
禍神は最後の反撃に出た。
巨大な影の手を具現化し、勘助へと叩きつける。
ゴゴゴゴゴ……!!
だが、勘助は逆立ちのまま、片手を伸ばして影の手をくいっと押し返した。
——バァンッ!!
影の手は破裂し、四散した。
「ヒャッ……つまんねぇわ〜? なぁ〜? もっと面白いモン持ってこいよ」
禍神の顔が引き攣った。
次の瞬間、震える声が空間に響いた。
「やだ……っ……やだっ……やだぁぁぁっ……!!」
その声色には、怒りでも嘲りでもなかった。
純粋な恐怖と、幼児の泣き声だった。
——神はもう、いなかった。
そこにいたのは、ただひとりの“幼い少女”だった。
「バカぁっ……っ……バカぁっ……っ!!」
「わたし……っ……悪くないもんっ……!!」
「罰なんかっ……っ……下らないもんっ……!!」
「やだぁぁっ……いやぁっ……!! こっち来ないでぇぇぇぇえええええ!!」
禍神は空間操作で逃げ場を作ろうとするが、空間そのものが正常化しつつあった。
逃げ場は、なかった。
勘助は逆立ちのまま、高速で接近していた。
禍神は泣きながら叫んだ。
「お願いっっっ!!! わたし、もう遊ばないからっ!! 消えるからぁぁっっ!! お願いっっっっっ!!」
だがその叫びは——届くはずもなかった。
「ヒャッ……遅いわ」
次の瞬間。禍神の細い肩を、逆立ちのままがしっと掴んだ。
「捕まえたわ〜?だなぁ〜?」
禍神は狂ったように喚いた。
「やだぁぁぁああああああっっっ!!!やだやだやだやだやだやだやだやだやだあああああああああああっっっっっっ!!!!!!!」
——だが、その叫び声はもう、哀れな泣き声でしかなかった。
勘助はにやりと嗤った。
「ヒャッ……幼女を合法的に食えるとか最高だわ〜? だなぁ〜?やっぱ呪いも幽霊も、最高だわ〜?」
そのまま片腕で逆立ちを維持したまま、禍神を片手で逆さ吊りにし、裂けた口腔をゆっくりと開いた。
禍神の小さな身体を徐々に覆いはじめた。
禍神は断末魔の叫びをあげた。
「やだあああああああああっっっっっ!!!!!!いやぁぁぁあああっっっっっっ!!!! わたしっ……消えたくないっっっっっ!!!!遊びたかっただけぇぇぇぇええええええええええっっっっ!!!!!!」
だが無情に、勘助の裂けた口が幼い肩に沈み込み、
——ぐちゅっ、ずるりと肉が裂けた音が響く。
黒い靄が噴き出す中、禍神の絶叫は途切れ途切れになっていく。
「ひっ……ぁっ……あ……」
最後の声すら震えて消えた。
勘助は咀嚼しながら、舌なめずりするように言った。
「ヒャッ……美味ぇわ〜? だなぁ〜?やっぱ“生”は格別だわ〜? なぁ〜?」
くちゃ、くちゃっ……ずるっ……
咀嚼の音だけが、静まり返った街に響き渡っていた——。
その日、全校生徒と全教員385人が、屋上から同時に身を投げた。狂ったように笑いながら。 ももも @mituroazusa
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