第3話
教室にいた由紀子は一瞬、現実感を失った。
(まさか……そんな、飛び降りるわけが……!)
脳が必死に否定しようとする。
否、そんな事態はありえない。
常識がそれを否定していた。
だが——違った。
「……え?」
窓の外から差し込んでいた光がかげり、由紀子は窓が真っ黒に染まったように錯覚した。
「あ」
だが、真っ黒に染まったのではないーーーー何十人という、人が落下していた。
その次々と高速で落ちていく人影が、窓いっぱいを絶えず覆い尽くしていた。
ドンッ!グシャッ!グシャッ!
——連続する衝撃音。
まるで巨大な肉塊が、地面へと叩きつけられるかのような、生々しい音だった。
音は壁越しに、床越しに、骨の髄まで響いてきた。
由紀子の目の前の窓は、なおも黒々と染まったままだった。
曇ったガラスの向こう側を、影が絶え間なく行き交っている。
その刹那、再び別の影が窓を覆った。
闇が押し寄せ、再びガラスを塗り潰した。
窓に張り付く影の数が、一気に増えていった。
ドン、グシャッ……グチャッ。
肉が打ちつけられる、鈍い音が地面を揺らした。
由紀子の耳は、その音の正体を悟りたくなかった。
だが、それは拒絶しても耳に届いてしまう。
ドン、ドン、ドンッ。
——飛び降りている。
屋上から、全校生徒が。次々と、まるで舞うように……。
「あははははははははははは!!」
甲高い笑い声とともに——。
同時にここからでも分かるほどの、凄まじい臭気が窓を貫通して立ち上る。
決して生きた人間が放つものではない、おぞましい臓器と死の匂い。
「そーれ、いっき!いっき!いっき!いっき!」と言う場違いで無邪気な放送とともにーーーーこの校舎の真上で。
屋上という舞台の上で。
生徒たちが、教師たちが、自らの足で、歓喜に満ちた笑顔で飛び降りている。
生徒たちが、狂ったように、フェンスを蹴って、楽しげに次々と飛び降りている。
何の迷いもためらいもなく、むしろ歓喜すら滲ませながら。
また飛んだ。
また、ひとつの命が——窓の向こうから落ちていった。
(な……何百人…?全員…皆……っ……)
思考が追いつかない。
言葉が意味を成さない。
2人を覗いた全校生徒、全教師の数百人規模で行われる、この終わりの儀式に。
途切れ途切れの光と影。
まるで壊れたフィルムのように、光が差し、すぐに黒い影がそれを遮断する。
光、闇、光、闇。
規則性など存在しなかった。
重力という最後の律法に従い、奈落へと引かれていく。
その光景が、数百人規模で続いていた。
どこまで続くのか、誰も知る由もなかった。
次の瞬間、べったりとした黒い影が窓に張り付いた。
その中心には——笑ったままの少女の顔。
血に染まった頬を引きつらせたその顔が、逆さまに窓の向こうから覗き込んでいた。
「——ッ!!」
由紀子は喉を詰まらせ、身体を硬直させた。
影はぐしゃり、と音を立てて窓を滑り落ちていく。
その軌跡に、赤黒い筋がべっとりと残された。
背後で、遠矢が叫び声を上げていた。
「やめろっ!! やめろ、やめろぉぉぉっ!!」
虚しい叫びだが、まだそれだけは確かな「人の声」だった。
この地獄の中で。
この異形の世界の中で。
それは由紀子と同じく、かろうじてこの場で人として呼吸している、最後の人間性だった。
風が一瞬止み、屋上にはただひとつ、血まみれで歪んだフェンスと、そこに向かう影だけが残された。
理事長だった。
高級なスーツの裾は血と埃にまみれ、もはやそれが誰だったのかも分からない。
だが、その背筋は異様に伸びきり、反り返りすぎていた。
まるで、そこに通された操り糸が、背骨ごと引き上げているかのように。
——カラン……カラン……。
崩れかけた真っ赤なフェンスが、その動きに合わせて金属音を鳴らした。
理事長は登る。ゆっくりと、しかし迷いなく。
折れ曲がった鉄条をもろともせず、素手で握り潰しながら登っていく。
指からはすでに大量の血が滴っていた。
「さぁ……ラストのあなたも、元気よく……死にましょうっ♪」
あの声が、歪んだスローテンポで響いた。
異様な粘度を帯びた声が、空気のすべてを圧した。
次の瞬間、満面の笑みの理事長ーーーー紫藤優希は反り返りきった身体のまま、ゆっくりと宙に浮いた。
飛び降りた。
その姿はあまりにも奇怪だった。
両腕は左右に大きく開かれ、指は奇妙な角度に曲がり、まるで折れかけた蜘蛛の足のように蠢いていた。
唇は裂けそうなほど吊り上がり、瞳孔は蒼白に開ききっていた。
スローモーションの世界。
青空を背景に、その異形の肉体がゆっくりと舞い降りていく。
制服の裂けた裾がひるがえり、血のしぶきがその軌道に咲いた。
開いた掌の指先が震えながら、わずかに由紀子たちのいる教室の窓へと向かっていた。
そして——。
ガリッ。
跳躍の軌道の中、空中で一閃、一本の指がガラスにかかった。
ほんの一瞬、しかしそこに異様な力が込められていた。
ピシッ——……。
蜘蛛の巣状の細かな亀裂が、窓の一角に走った。
「ひっ!!!」
由紀子は息を呑み、身体が硬直した。
ドンッ!!
乾いた破裂音とともに、その最後の影も地へと墜ちた。
窓には、今も逆さに落ちた生徒の跡が色濃く残されていた。
静寂が訪れた。
それまで空間を埋め尽くしていた落下音が、理事長の飛び降りを最後に、唐突に途切れた。
笑い声も。
叫び声も。
すべてが止んだ。
代わりに訪れたのは、音のない空白。
まるで世界そのものが、瞬間的に息を止めたかのようだった。
由紀子は、ガタガタと震える両手を胸元に抱き締めた。
骨が鳴り、関節が軋むほどに強張った手。
屋上からの飛び降りは止まっていた。
飛び降りる人間は、もはや文字通り、「存在しなくなった」。
異様なまでの静寂。
世界の鼓動までもが消えたかのような、完璧な沈黙。
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