第12話 室長の夏休み
月曜日の午後。じりじりと肌を焼くアスファルトの熱気から逃げるように、あたしはいつもの病院の、ひんやりとした廊下を歩いていた。手にはもちろん、新作のピーチフラペチーノと、真澄さん用の無糖ブラック。
先週、「たまにはこういうのも悪くない」とか言いながら、結局、全部飲んでくれたエスプレッソトニックは、好評だったってことでいいのかな。まあでも、やっぱ真澄さんは、いつものやつが一番落ち着くっしょ。
コツ、コツ、コツ。
いつものリズムでヒールを鳴らし、いつものドアの前に立つ。よし、今週はどんな皮肉で出迎えてくれるかな。先週の給料日攻防戦では、あたしの完勝だったしな。ちょっとくらい、反撃されてやってもいいか。
「ますみしつちょー! 今週も元気に営業に来ましたよー!」
あたしは、ノックもそこそこに、勢いよくドアノブに手をかけた。
――が、ドアは、開かなかった。
ガチャリ、と無機質な音がして、あたしの手は押し返される。
「……あれ?」
もう一度、ドアをスライドさせてみる。でも、やっぱり開かない。鍵がかかってる。
そんなこと、今まで一度もなかったのに。
急な会議? それとも、院内で何かあった?
あたしは、ポケットからスマホを取り出し、時間を確認する。いつもの、月曜の午後二時。間違いない。
(どうしよう。とりあえず、出待ちでもしとくか)
そう思って、廊下の壁に寄りかかろうとした、その時だった。
ふと、先週の、別れ際の会話が、頭の中で再生された。
『じゃ、室長、また来週!』
『ええ。……ああ、小日向さん。私、来週から一週間ほど、休みを取るから』
『え、マジすか! 夏休みってやつですか?』
『まあ、そんなところよ。だから、来週は来ても、無駄足になるわよ』
『了解でーす! じゃあ、再来週、お土産話、楽しみにしてまーす!』
……忘れてた。
完全に、すっかり、忘れてた。
うわー、マジか。あたしのバカ。
手の中の無糖ブラックは、すでにてっぺんの氷が溶け始めている。主のいない城の前で、あたしは、行き場のないコーヒーを持て余して、ただ、立ち尽くすしかなかった。
その週は、最悪だった。
ぽっかりと空いた月曜の午後のせいで、一週間のリズムが、完全に狂ってしまった。
火曜は、大事な見積書の数字を間違えて、先輩にめちゃくちゃ怒られた。水曜は、営業先のドクターの機嫌を損ねて、気まずい空気で退散。木曜には、営業車のタイヤを縁石にこすって、会社の車なのに、傷までつけちゃった。
負の連鎖が止まらない。
いつもなら、「まあ、なんとかなるっしょ!」って笑い飛ばせるはずなのに、なぜか、ちっぽけな失敗が、ずしりと重くのしかかってくる。
週末は、部屋に引きこもって、ひたすらSNSを見て過ごした。キラキラしたダチの投稿を見るたびに、自分のダメさ加減が浮き彫りになって、勝手にへこんだ。
「魂、抜けてんぞ!」
先週、先輩に言われた言葉が、頭の中でぐるぐる回る。
本当に、そうかもしれない。あたしの魂の一部は、あの殺風景な感染対策室に、吸い取られちゃってるんだ。
そして、翌週の月曜日。
あたしは、先週よりもずっと重い足取りで、あのドアの前に立っていた。今度こそ、いる。いてくれないと、困る。
ゆっくりと、祈るような気持ちで、ドアを開ける。
「しつちょー……。 今週こそ、来ました……」
すると、そこには、当たり前のように、彼女がいた。
デスクに座り、パソコンの画面を睨みつけている、いつもの室長。三上真澄さん。
その姿を見た瞬間、あたしの心に、ぶわっと温かい何かが広がっていくのが分かった。淀んでいた空気が、すーっと浄化されていく感じ。
ああ、よかった。ここに、帰ってこられた。
「あら、律儀なのね。ちゃんと、再来週に来るなんて」
彼女は、顔を上げると、少しだけ、からかうような口調で言った。
その、いつもと変わらない声を聞いただけで、先週一週間、あたしの心を支配していた重たい霧が、少しずつ晴れていく。
「……真澄室長、なんか、焼けました?」
「え?」
「いつも真っ白なのに、なんか、ほんのり小麦色っていうか……。 え、まさか、夏休み、ビーチとか行っちゃった系っすか!?」
あたしの食い気味な質問に、室長は一瞬、言葉を詰らせた。そして、少しだけ、気まずそうに視線を逸らす。
「……別に。ただ、少し、旅行に行っていただけよ」
「旅行! どこですか、どこ! 沖縄? ハワイ?」
「九州よ」
「九州! へえー! いいなー! 彼氏と?」
「一人よ」
「すごい、一人旅! 美味いもん、いっぱい食べました? もつ鍋とか、ラーメンとか!」
「まあ、それなりにね」
室長は、そう言って、お茶を濁そうとしている。でも、あたしは見逃さなかった。
彼女がひじ掛けに置いている、その腕。いつもは、白魚のように白いのに、外側だけがほんのりと、でも確実に日に焼けている。
ビーチで寝そべってできたような、全体的な日焼けじゃない。屋外で、何かをずっと見ていた人の、特徴的な焼け方。
そして、デスクの片隅に隠す様に置かれている、蜂をモチーフにした小さなマスコット人形。
「へえ、九州かあ。なんかあったんすか? 九州に、会いたい人でもいたとか?」
あたしが、冗談めかしてカマをかけると、室長は、ピクリと肩を揺らした。図星だ。
「……まあ、そんなところよ。どうしても、この目で見ておきたい人たちがいたから」
「人たち……って、複数形なんすね。ふーん?」
彼女は、しまった、という顔で口をつぐんだ。もう遅い。
これ以上、追求されないようにするためだろう。室長は、おもむろに足元の紙袋から、箱を取り出した。
「ああ、そうだわ。これ、お土産。あなた、甘いもの好きでしょう?」
そう言って差し出されたのは、九州の有名なお菓子、『通りもん』だった。
「うわ! 通りもん、大好き! あざまーす!」
あたしは、分かりやすくテンションを上げてみせる。その隙に、彼女は話題を変えようと必死だ。
「それで、今週のネイルのテーマは……」
「まあまあ、室長、そんなことより、せっかくの夏休み明けなんすから、もうちょい、お話聞かせてくださいよ」
あたしは、『通りもん』の箱を愛おしそうに撫でながら、さりげなくスマホを取り出した。そして、箱の陰で、こっそりと検索を開始する。
『九州 Jリーグ チーム マスコット 蜂』
すぐに、ヒットした。グレーの、蜂のキャラクター。アビスパ福岡の、アビー君だ。
そして、そのまま、試合日程を調べる。
あった。先週の土曜日。
『Jリーグ第27節 アビスパ福岡 vs 川崎フロンターレ』
(……ビンゴ)
会いたい人たち。それは、ピッチの上で戦う、11人の選手たちのことなんだろうな。
あたしは、込み上げてくる笑いを、ぐっと堪えた。
この人は、本当に、分かりやすい。自分の趣味を、完璧に隠せていると思っているところが、最高に可愛い。
この、いつもと変わらないやり取り。それだけで、あたしの心は、どんどん軽くなっていく。そうだ、先週の失敗なんて、大したことない。また、今日から頑張ればいいだけだ。
「その『人たち』には、ちゃんと会えたんすか?」
「ええ。まあ、遠くから、一方的にだけどね。でも、みんな、すごく良い顔をしてたわ。充実しているんでしょうね」
「そっかー。じゃあ、わざわざ九州まで行った甲斐がありましたね!」
「……そうね。行って、良かったと思ってる」
そう答える彼女の声は、いつもより、少しだけ、優しく響いた。きっと、その「会いたい人たち」の戦う姿を見て、たくさんのエネルギーをもらってきたんだろうな。
「へえー! 九州、満喫したんすね! じゃあ、その焼けた肌は、九州の熱い日差しと、その『人たち』への熱いエールの証ってことっすね!」
あたしがそう言ってニヤニヤすると、室長は「うるさいわね」と、ぶっきらぼうに呟いた。でも、その口元は、ほんの少しだけ、緩んでいるように見えた。
主の帰ってきた城は、いつもの、居心地のいい「安全地帯」に戻っていた。
あたしは、キンキンに冷えた自分のフラペチーノを飲みながら、心の中で誓った。
いつか、絶対に、この人の口から、その「会いたい人たち」への愛を、根こそぎ白状させてやろう、と。
そして、その隣で、一緒に、その「会いたい人たち」とやらを見てみたい。
そんな、新しい野望を胸に、あたし達のウィークリーミーティングは再開したのだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます