第13話 花火大会と浴衣
九月に入ったというのに、真夏はまだ、居座る気満々らしい。じりじりと照りつける西日が、感染対策室のブラインドの隙間から、鋭い光の矢を放っている。その光の中で、エアコンの冷気が白く見えるようだった。
そんな、夏の終わりの気怠い午後の静寂を、竜巻のような勢いで打ち破る声が響いた。
「しつちょー! 事件です! マジで、超ド級の事件が発生しました!」
週に一度の嵐、小日向ひまりは、ドアを開けるなり、興奮で顔を真っ赤にさせていた。その手には、いつものコーヒーではなく、なぜかファッション雑誌が握られている。
「どうしたの。ついに、あなたの会社の不正でも見つかった?」
「違いますよ! そんな些細な事じゃなくて、もっと、こう、個人的で、重大な事件です!」
ひまりはパイプ椅子に大げさに倒れ込むと、ぜえはあと息を整え、一枚のチラシを私に見せつけてきた。近隣の市で開催される、九月の花火大会の案内だ。季節外れのようだが、最近はこういう時期に開催されることも珍しくない。
「花火大会? それが事件なの?」
「事件なのは、花火大会じゃなくて、メンツです! メンバーが、事件なんです!」
「……落ち着いて、順を追って説明しなさい」
私の冷静な声に、ひまりは一度、深呼吸をした。そして、声を潜め、まるで国家機密でも打ち明けるかのように、話し始めた。
「覚えてます? この前、あたしが地元のダチの結婚式に行った話」
「ええ。あなたが、ワンチャンあるかもしれないと、息巻いていた、あの」
「そう、それです! その、ワンチャンあったかもしれない、新郎側の友人の、田中さんって人がいるんすけど……」
田中さん。ひまり曰く、爽やかで、笑顔が素敵で、しかも大手企業勤務という、絵に描いたような優良物件らしい。結婚式では、連絡先を交換するところまで漕ぎ着けたと、得意げに報告してきたのを覚えている。
「その田中さんから、連絡が来たんすよ! 『今週末の花火大会、みんなで行かない?』って!」
「……みんなで」
「そう! 田中さんと、あたしと、あと、結婚式で一緒だった、あたしのダチのミカと、田中さんの友達の四人で!」
「なるほど。それで、気合いが入っている、と」
「当たり前じゃないすか! これはもう、ただの花火大会じゃない。あたしの未来を賭けた、一大決戦なんです! 絶対に負けられない戦いがそこにはあるんです!」
ひまりは、サッカー日本代表のTV中継のキャッチフレーズを言いながら、握りしめたファッション雑誌をバサバサと開き始めた。浴衣の特集ページだ。色とりどりの浴衣を着たモデルたちが、こちらに微笑みかけている。
「見てくださいよ、真澄室長! この日のために、浴衣、新調しようと思って! 田中さん、どっちのタイプが好きかなあ。こういう、王道の清楚系? それとも、こっちの、ちょっと大人っぽい、色気のある感じ?」
彼女は、真剣な顔で、二つの浴衣の写真を交互に指差す。その瞳は、恋する乙女、というよりは、獲物を前にした、飢えた肉食獣のそれに近かった。
私は、彼女のただならぬ気迫に、少しだけ気圧されながら、冷静に尋ねた。
「……その、田中さんという人は、あなたに気があるのかしら」
「え? そりゃ、もちろん! じゃなきゃ、わざわざ誘ってこないじゃないすか!」
ひまりは、何の疑いもなく、そう断言した。その、根拠のない自信は、どこから湧いてくるのだろう。若さ、という言葉だけでは、説明がつかない。
「でも、あなたの友人の、ミカさんも一緒なのでしょう? 彼が、どちらに気があるかなんて、まだ分からないんじゃないの」
「だーいじょうぶです! ミカは、どっちかっていうと、おとなしくて地味なタイプなんで。こういう場では、あたしみたいな、明るくて話せる女が、絶対勝つに決まってるんすよ!」
ひまりは、ガッツポーズまでしてみせた。その、勝利を確信したような笑顔を見ていると、私の脳裏に、ある、苦い記憶が蘇ってきた。
あれは、私がまだ、二十代の後半だった頃。
合コン、というものに、一度だけ、参加したことがある。同僚に、人数合わせで、無理やり連れていかれたのだ。
その席で、私は、一人の男性と、少しだけ、いい雰囲気になった。物静かな、読書が好きだという、私と少し似たタイプの男性だった。
帰り道、彼から「連絡先を交換しませんか」と言われた。私は、柄にもなく、少しだけ、浮かれていたのかもしれない。
だが、その数日後、彼から来たメールの内容は、私の淡い期待を、無残に打ち砕いた。
『この前の合コン、ありがとうございました。もしよかったら、幹事をしていた、三上さんのご友人の、Aさんの連絡先を、教えていただけませんか』
結局、彼は、私ではなく、明るくて、よく笑う、華やかな同僚のことが、気になっていたのだ。
私と話が弾んだのは、ただ、彼女の情報を引き出すための、布石に過ぎなかった。
あの時の、恥ずかしさと、みじめさ。自分は、ただの、当て馬だったのだと、思い知らされた、あの屈辱。
「……男って生き物はね」
私は、気づけば、そう口にしていた。
「目の前の女に優しくするからといって、その女に気があるとは、限らないものよ」
「え、何すか、急に! 経験者は語る、みたいな?」
「……別に」
「大丈夫ですよ、真澄室長! あたしには、長年の経験で培った、男を見る目があるんで! 田中さんの、あの、あたしを見る時の、熱っぽい視線! あれは、絶対、あたしに向かってた!」
そう言って、彼女は再び、雑誌の浴衣に視線を戻した。
その、一点の曇りもない瞳を見ていると、私は、何も言えなくなってしまった。
今、私が、どんな正論を言ったところで、恋という熱病に浮かされた彼女の耳には、届かないだろう。
それに、もしかしたら、本当に、彼女の言う通りなのかもしれない。私の、過去の経験則など、この太陽のような彼女の前では、何の役にも立たないのかもしれない。
「……そう。なら、いいんだけど」
「で、どっちがいいと思います? 浴衣!」
「……そうね」
私は、彼女が指差す二つの浴衣を、改めて見つめた。
片方は、白地に撫子の、清楚な浴衣。
もう片方は、黒地に牡丹の、華やかで、少しだけ背伸びしたような浴衣。
私の経験則が、警鐘を鳴らしている。
ここで、彼女が、あまりに気合いを入れすぎると、空回りするのではないか。少し、肩の力を抜いた方が、いい結果に繋がるのではないか。
そう思って、私は、白地の浴衣を、指差そうとした。
だが、その指が、止まった。
今の彼女に必要なのは、冷静なアドバイスだろうか。
違う。彼女が、今、求めているのは、自分の恋を、一緒に応援してくれる、味方なのではないだろうか。
「……こっちじゃないかしら」
私は、指先をずらし、黒地に牡丹の、華やかな浴衣を指した。
「夜の花火の下では、これくらい、はっきりした色の方が、きっと映えるわ。あなたの、雰囲気にも、合っていると思う」
私の意外な選択に、ひまりは、目を輝かせた。
「え、マジすか!? 真澄室長も、そう思います!?」
「ええ。彼に、あなたの魅力を、存分に見せつけてきなさい」
「やったー! さすが室長! 分かってるー!」
彼女は、すっかり気を良くして、その浴衣に合わせた髪型や、ネイルのデザインについて、一人で盛り上がり始めた。
その、幸せそうな横顔を見ながら、私は、静かに、コーヒーを啜った。
この、夏の終わりの、一夜の夢。
それが、甘い夢で終わるのか、それとも、苦い悪夢に変わるのか。
ただ、どんな結果になろうとも、その時は、この城で、彼女の帰りを待っていよう。
キンキンに冷えた無糖ブラックと、それから、ほんの少しの、優しい言葉を用意して。
そんなことを考えながら、私は、窓の外の、燃えるような夕焼けを、静かに見つめていた。
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