第11話 給料日の攻防

 給料日。それは、世間一般の勤労者にとって、一ヶ月の労苦が通帳に刻まれた数字という形で報われる、ささやかな祝祭の日である。

 そして、その祝祭の熱気に浮かされた人間が、後先考えずに散財という名の儀式に身を投じる、危険な日でもある。

 私の城である感染対策室は、そんな浮かれた世間の空気とは無縁の、いつも通りの静寂に包まれていた。

 院内感染の月次レポートを作成しながら、私は今日の夕食は、冷蔵庫の残り物で作る質素な野菜炒めで十分だろう、などと考えていた。


 そこへ、いつものように、廊下の向こうから軽快なヒール音が近づいてくる。

 コツ、コツ、コツ。だが、今日のその音は、いつもより心なしか弾んでいて、スキップでもしているかのような浮遊感を伴っていた。


「しつちょー! 今週もおつかれ様っす! そして、ハッピー給料日!」


 ノックは飾り。勢いよくドアを開けた小日向ひまりは、満面の笑みで敬礼してみせた。その手には、コンビニのコーヒーではなく、有名カフェチェーンのロゴが入ったドリンクが二つ。一つは、彼女自身のものだろう、クリームとチョコレートソースが山のように盛られた、見るからにハイカロリーなフラペチーノ。そして、もう一つは……。


「はい、室長! 今日は特別に、いつものブラックコーヒーじゃなくて、エスプレッソをトニックウォーターで割った、オシャンなやつです!」

「……お心遣いはありがたいけど、その分のお金は、将来のために貯金でもしておきなさい」

「ノープロブレム! 今日の私は、セレブなんで!」


 ひまりはウィンクすると、パイプ椅子に腰を下ろし、自分のフラペチーノを幸せそうに一口啜った。その瞳は、通帳に印字された数字の輝きをそのまま反射しているかのように、ギラギラと輝いている。


「いやー、やっぱ給料日って最高っすね! このために生きてるって感じ! 室長、この後、空いてます?  寿司でも食べに行きませんか? 回らないやつ!」

「遠慮しておくわ。私はこれから、スーパーでタイムセールになっている鶏むね肉を買いに行く予定だから」

「地味! 真澄室長の生活、あまりにも地味すぎません!?  せっかくの給料日なのに!」

「給料日は、浮かれる日じゃないわ。一ヶ月の自分の労働対価を冷静に評価し、今後の生活設計と資産形成について、厳粛に見直すための日よ」

「うわっ、出た! 室長の正論パンチ! でも、今日の私には効きませーん!」


 ひまりは謎のバリアを張るポーズを取ると、得意げに続けた。


「いいですか、室長。お金っていうのは、天下の回り物なんすよ。使わなきゃ、経済は回らない。私が今日、寿司を食うことで、寿司屋の職人が潤い、その職人が子供におもちゃを買い与え、おもちゃ屋が儲かり、巡り巡って、日本の景気が上向くんすよ! つまり、私の散財は、日本経済を救うためにあるんです!」

「ずいぶん、壮大な言い訳ね。感心するわ」


 私は、彼女が買ってきた洒落たコーヒーに口をつけた。エスプレッソの苦味と、トニックウォーターの爽やかな刺激が、意外にもよく合う。

 だが、値段を考えると、いつものコンビニコーヒーで十分だ、と思ってしまうあたり、私の思考回路も相当、地味なのだろう。


「で、小日向財閥の当主は、他にどんな経済政策を打ち出すおつもりなの?」


 皮肉を込めて尋ねると、ひまりは待ってましたとばかりに、目を輝かせた。


「よくぞ聞いてくれました! まずは、この後、ネイルサロンを予約済み! 今週のテーマは『札束で殴り合う石油王』なんで、ゴールドとダイヤ(もちろん偽物)でギラッギラの成金ネイルにしてきます!」

「……品がないわね」

「それがいいんじゃないすか! それから、ネットでポチっておいた、新作のワンピとバッグが今日届く予定! さらに、今週末は、ダチとホテルのアフタヌーンティーに行く約束もしてるんすよ! あー、マジで、お金使うのって、最高に気持ちいい!」


 彼女はうっとりとした表情で、自分の散財計画を語り続ける。その姿は、まるで巣作りに励む小動物のように、健気で、そして、少しだけ滑稽だった。


「それで、あなたの手元には、いくら残るのかしら」

「え?  ……そ、それは、まあ、月末の私がなんとかしてくれるんで!」

「その月末のあなたに、過剰な期待をするのはやめてあげなさい。未来の自分に借金を作るようなものよ」

「うっ……。また正論パンチが……」


 ひまりは、少しだけ顔を曇らせたが、すぐに気を取り直したように言った。


「だ、大丈夫です!  若いうちの自己投資は、将来、何倍にもなって返ってくるって言いますし!  この可愛いワンピを着て、イケてる男をゲットすれば、それはもうプライスレスな価値を生み出すわけで……」

「それは、自己投資ではなく、ただの博打よ。リターンが不確定すぎるわ」

「ぐっ……!」


 私の冷静な分析に、ひまりはついに言葉を失い、フラペチーノのクリームをヤケクソ気味に吸い込んだ。その様子がおかしくて、私は思わず、ふっと息を漏らした。


「別に、あなたのお金の使い方にとやかく言うつもりはないわ。ただ、一つだけ、私からのアドバイス」


 私は、人差し指を一本立ててみせた。


「お金っていうのはね、物を買うためだけじゃない。自由と選択肢をくれるものなのよ」

「自由と選択肢……?」


 ひまりは、きょとんとした顔で私を見つめる。


「そう。病気になった時、仕事を辞めたくなった時、誰かから逃げ出したくなった時。そういう人生の『もしも』の時に、あなたを守ってくれるのは、札束で殴り合う石油王ネイルじゃなくて、通帳に刻まれた、地味な数字の方なのよ」

「……」

「選択肢がある、というのは、心の余裕に繋がるわ。この仕事が嫌になったら、いつでも辞めて、次の道を探せる。そう思えるだけで、日々のストレスは、ずいぶん軽くなるものよ。あなたにとっての安全地帯がこの部屋なら、私にとってのそれは、銀行口座、なのかもしれないわね」


 我ながら、夢のない話だとは思う。だが、四十年間生きてきて、私が学んだ、数少ない真理の一つだった。

 ひまりは、しばらくの間、何も言わずに、カップの底に残った氷をストローでかき混ぜていた。彼女の頭の中で、壮大な経済政策と、私の地味な現実論が、激しい攻防を繰り広げているのだろう。


 やがて、彼女は顔を上げると、少しだけ吹っ切れたような、でも、どこか納得していないような、複雑な顔で言った。


「……分かりました。真澄室長の言うことも、一理あります」

「あら、素直に認めるのね」

「はい。なので、決めました。私も、室長を見習って、自己投資、始めます」

「へえ。どんな?」


 一体、この若者が、どんな高尚な自己投資を始めるというのだろうか。まさか、インデックス投資やiDeCoに目覚めたというのか。だとしたら、ずいぶん教育的効果があったものだ。

 私の、そんな淡い期待を、ひまりは一瞬で、そして鮮やかに裏切ってみせた。


「私、今日、この後、一番高いエステのコース、予約します!」

「……は?」

「だって、そうじゃないすか! 美は、一日にして成らず! 若いうちから肌に投資しておくことで、将来のシミやシワを予防し、より長く、美しい自分をキープできる! これぞ、最高のリスクヘッジであり、選択肢も増やせる! 今日の私、マジで冴えてません!?」


 そう言って、彼女はスマホを取り出し、慣れた手つきでエステサロンの予約サイトを開き始めた。その姿は、自信に満ち溢れ、一点の曇りもない。

 私の、地味で堅実な武装論は、彼女の強靭なポジティブシンキングの前では、豆腐で頭を殴るようなものだったらしい。


(……完敗だわ)


 私は、心の中で白旗を上げた。そして、気づけば、笑いが込み上げてくるのを、もう抑えることができなかった。


「そう。頑張りなさい。未来の美しい自分のために」


 私がそう言って笑うと、ひまりは「でしょー!」と、最高の笑顔で返してきた。

 給料日の攻防戦は、どうやら、日本の景気を憂う、若きセレブリティの圧勝に終わったようだ。

 まあ、いいか。彼女が楽しそうなら、それで。

 私は、飲み干した洒落たコーヒーのカップを眺めながら、今夜の野菜炒めには、牛肉を奮発して入れてやろうか、などと、ほんの少しだけ、セレブな気分に浸ってみるのだった。

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