第五話:粗野な師と、異世界の初仕事
ヴァレリウス隊長の部屋を出て、ゴルンに促されるまま歩き出した猛は、再び薄暗い石の通路を歩いていた。地下牢のある階とは異なり、上層階は人の気配が強く、剣の鍛錬をしているであろう金属音が響き渡り、時折、大声で話す男たちの声が聞こえる。通路の壁には武器が掛けられ、所々に兵士らしき男たちが立っていた。ここは、砦の兵舎か、あるいは居住区なのだろう。
ゴルンは一度も振り返ることなく、先頭に立ってずんずんと進んでいく。そして、薄暗い通路を抜けた先に広がる、薄汚れた中庭のような場所で立ち止まった。そこには、数頭の馬が繋がれており、干し草の匂いと、動物特有の匂いが混じり合っていた。
「おい、てめぇ。まずはここだ」
ゴルンはそう言うと、手近な棒切れを拾い上げ、それで地面に落ちている馬糞を指した。その表情は相変わらず険しく、命令以外の感情は読み取れない。
「ここは馬小屋だ。おめぇは今日からここの掃除と、馬の世話を手伝え」
猛は息をのんだ。馬小屋の掃除。元の世界では考えられなかった仕事だ。しかも、こんなに汚れている。しかし、ゴルンは猛の返事を待つこともなく、手桶とブラシを乱暴に手渡してきた。
「この世界で生き残りたいなら、言われたことをやれ。何もできねぇやつは、誰も守ってくれねぇぞ」
ゴルンの言葉はぶっきらぼうだったが、猛はそこに、命令以上の何かを感じ取った。この世界で生きていくための、最低限のルール。猛は頷き、渡された道具を握りしめた。おとなしい性格の猛は、不平不満を口にすることなく、ただ黙々と馬糞を拾い上げ、汚れた床を磨き始めた。
慣れない重労働は、すぐに猛の体力を奪っていった。腰は痛み、腕は鉛のように重くなる。額からは汗が流れ落ち、汚れた作業着が肌にまとわりつく。しかし、ゴルンはそんな猛を気にする様子もなく、時折「もっと奥だ」「そこが汚ねぇぞ」と厳しく指示を飛ばすだけだった。
「チッ、こんな調子じゃ、日が暮れても終わらねぇぞ。おい、聞け」
ゴルンは、猛が作業をしているすぐそばまで来ると、腕を組みながら言った。
「この砦はな、この辺り一帯を守る重要な場所なんだ。山賊どもや、他領の兵がいつ攻めてくるかも分からねぇ。馬の世話一つできねぇやつが、まともに戦えるわけがねぇだろうが」
ゴルンの言葉には、この砦の役割、そしてこの世界の厳しさが込められていた。戦乱が日常であり、力を持たぬ者は生き残れない。言葉は乱暴だが、それはこの世界の現実を猛に突きつける教えだった。
「病もそうだ。汚ねぇ場所からは、すぐに病が広まる。一度病が流行りゃ、この砦は終わりだ。だから、掃除一つでも手を抜くな」
ゴルンはそう言い放つと、再び持ち場に戻っていった。猛は、ゴルンの言葉を反芻しながら、無心で手を動かした。この世界では、一つ一つの行動に意味があり、それがそのまま生存に直結する。元の世界の「普通」は、ここでは全く通用しないのだ。
体力は限界に近かったが、猛はゴルンの言葉の裏にある、ある種の「導き」を感じ取っていた。厳しいが、突き放しているわけではない。まるで、生き方を教えられているかのようだった。
その時、腕の疲労が頂点に達した瞬間、猛の体の奥底から、微かな「何か」が込み上げてくるような感覚に襲われた。視界の端に、あの透明なウィンドウがチカ、と一瞬だけ光ったように見えた。
『ステータス:更新されました』
というような、かすかな表示が見えた気がした。しかし、あまりにも疲労困憊で、猛はそれをしっかりと認識することはできなかった。ただ、体は疲れているのに、ほんの少しだけ、さっきよりも体が軽く動くような、不思議な感覚があった。これは、もしかして、あの「スキルツリー」の……?
日は傾き、中庭は夕焼けに染まり始めていた。ゴルンが戻ってきて、猛の仕事ぶりを無言で確認する。
「まあ、今日はこんなもんだ。飯は兵士食堂で食える。場所は……」
ゴルンはぶっきらぼうに砦の奥を指差し、場所を説明した。相変わらず厳しさを含んだ声だったが、その中に、わずかながらの「認め」のようなものが混じっているのを猛は感じた。
夕闇が迫る中、猛は疲労困憊の体で、ゴルンが指した方向へと歩き出した。彼の心には、まだ不安と記憶喪失の靄が立ち込めている。しかし、この粗野な門番の厳しい教えが、異世界で生き抜くための確かな一歩となることを、猛は予感し始めていた。
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