朽木少年は、霊と関わりたくない

三葉 空

原稿

      プロローグ




 俺はもう二度と霊と関わりたくない。



 そのように決意して、田舎から飛び出した。

 霊とは幽霊や妖怪など、人間が持ちえない特別な力を持った存在を便宜上一括りにしてそう呼んでいる。

生まれつき強い霊体質を持っていたせいで、俺は毎日のように霊に囲まれていた。

世にもおどろおどろしいハーレムだった。ちっとも嬉しくなかった。だから、俺は村を出ることにした。



 爺さんに怒られた。霊能士の家系に生まれた者として、その責務を全うすべきだと。爺さんは俺の師匠だった。霊に関して色々なことを教えてくれた。だから、俺はそんな爺さんに対して最大限の敬意を払い、「うるせえ、クソジジイ!」と言って家を飛び出した。



 都会に行こう。俺はそう思った。

 そこに行けば、もう二度と霊と関わらなくても済むと思った。

 俺は霊と関わりのない平穏な日常を送りたい。

 ただ、それだけだったんだ。











      第一話 バラ斬鬼




      1




 その朝は爽やかな目覚めだった。

「……ん」

 朝日が差し込む窓辺に立ち、俺はぐっと背伸びをした。

 市街地にほど近いこの六畳一間のアパートは、毎朝道路を行き交う車の音が響いて来る。それが俺にとっては心地良い。まさに都会という感じだ。

 ポットのお湯でインスタントコーヒーを作る。もちろん砂糖は入れない。ノンシュガーだ。

 カップを傾けて一口すする。

「……にがっ」

 俺は思わず眉をひそめて呟く。しかし全く問題はない。俺はまだ都会人一年目、これから徐々にブラックコーヒーの味に慣れて行けば良い。田舎くさいお茶なんてもう二度と飲まない。

 ちらり、と時計に目をやる。

「あ、もうこんな時間か」

 俺は急いで肩にブレザーを引っかけ、ロクに整理をしていない鞄を担いでから部屋を飛び出す。

 一人暮らしを始めてからというもの、あまり朝にゆとりがない。起こしてくれる人もいなければ朝食を用意してくれる人もいない。本当なら悠々と朝のコーヒータイムなんぞ嗜んでいる場合ではなかった。少し調子に乗り過ぎたと反省している。

 しかしそんな俺には強い味方がいる。それは『コンビニ』だ。生活に必要な物を手軽に買うことが出来る素晴らしい場所なのだ。

「ありがとうございましたー」

 俺は焼きそばパンを買った。実家にいる時は毎日のように米ばかり食わされていたから、パンを食べる機会はほとんどなかった。俺は袋を開けて、その焼きそばパンを頬張る。

「うーん、美味い」

 その味に舌鼓を打ちながら、俺は意気揚々と学校に向かって走り出す。

「おーい、ちょっと待ってくれよ」

 ふいに、背後から呼び止められた。振り返ると、俺の方へと駆け寄って来る少年の姿が見えた。同じワイシャツにブレザーを着ている。しかし、前のボタンを開けてシャツの裾がズボンからはみ出している。おまけに髪は派手な金色だ。もし実家にいた時あのような格好をしていたら俺は間違いなく爺さんから張り手を食らい、その上みぞおちを正拳突きで連打されていただろう。だが、もうあの目障りな爺さんはいない。髪の色はともかく、俺もあんな風に都会チックな制服の着こなしをするべきなんだろうか。

「君って、確か転校生の朽木(くちき)くんだろ?」

 制服を着崩した彼に言われて、俺は頷く。

「え、そうだけど……君は?」

「俺は中本だよ。同じクラスじゃん?」

「ごめん、まだ転校したばかりだからクラスメイトの顔と名前を憶えていなくて……」

「まあ良いけどさ。つーか、何で焼きそばパン食いながら登校してんの?」

「いや、実は寝坊しちゃってさ」

 はは、と俺は後頭部を掻きながら言う。

「えー。朽木くんって真面目そうに見えて、実は不良だったりするの?」

 中本くんが興味深そうな目を向けてきた。

「そんなことはないよ。ただ、慣れない一人暮らしだからさ」

「良いなー、朽木くん一人暮らしなんだ。色々とやりたい放題じゃん。彼女とか作ったら連れ込んでヤリたい放題じゃん」

「彼女?」

 俺は少し目を丸くして素っ頓狂な声を発してしまう。

「そうそう。もしかして、前住んでいた所に彼女とかいたの?」

「あー、いや。彼女はいなかったよ……」

「そうなの? だったら、こっちで彼女作ってバンバンとヤっちゃいなよ」

 ぐっと親指を立てながら中本くんが言う。

 俺はそんな彼に対して、少し間を置いてから笑って頷いた。




 その後中本くんと一緒になって走り、何とか遅刻ギリギリで青原高校の二年A組の教室に滑り込むことが出来た。

「ふう……」

 窓際最後列の自分の席に座り、俺は人心地つく。汗をかいたこともあり、俺は制服のボタンを外してワイシャツの裾をズボンから出す。

よし、さりげなく都会チックな着こなしが出来たぞ。

「朽木くん」

 その時、前の席に座っているメガネをかけた小太りの男子が俺に声をかけてきた。彼は首にタオルを巻き、額に浮かぶ汗を拭っている。

「えーと……」

 口ごもる俺に対して、

「内田だよ」

 と優しく微笑みを浮かべながら小太りの男子は言った。

「そうだ、内田くん。えーと、俺に何か用かな?」

「いや、朽木くんが制服を着崩しているからどうしたのかなって」

「ああ、これは中本くんの格好を真似したんだ。都会の人はみんなこんな感じで着崩しているみたいだから」

 俺が言うと、内田くんは顔をしかめた。

「朽木くん、別に中本くんの格好が都会のスタンダードじゃないからね」

「えっ?」

「むしろ、彼みたいに制服を着崩すのはみっともないからやめた方が良いよ」

 何と、俺はそんなミスを犯していたのか。おのれ中本くんめ、何も知らない田舎者の俺を謀ったな。

それにしてもわざわざそんなことを教えてくれるなんて、この内田くんは優しい人のようだ。

「ところで内田くん。さっきからすごい汗だけど、君も遅刻ギリギリだったの?」

 俺が尋ねると、内田くんは苦笑する。

「いや、僕は余裕を持って登校したよ。ただこの教室は暑いからね~」

 内田くんに言われて周りを見渡すが、他のクラスメイト達はそれほど暑がる素振りを見せていない。

「きゃはは、相変わらずウッチーは暑がりだな。よっ、おデブ!」

 ふいに中本くんがやって来た。俺はとんでもない恥をかきそうになったことに対して文句を言ってやろうと思った。

「――誰がデブだ、コラぁ!?」

 急に内田くんがキレ始めた。あまりの豹変ぶりに、俺は思わずひっくり返りそうになってしまう。

「デブのことをデブっつって何が悪いんだよ?」

 応戦するように、中本くんも険しい表情で内田くんを睨む。

「恰幅が良いとか、もっと他に言い様があるだろうが!」

「そんなまどろっこしいこと言ってられるかよ! 近づくんじゃねえ、暑苦しいんだよ!」

 中本くんが吐き捨てるように言うと、内田くんがより強く眉間にしわを寄せる。

「言わせておけば……僕は知っているんだよ、君が実は粋がっているだけのへたれヤンキーだってことを。まだ童貞なんだろう?」

 その瞬間、中本くんは顔を強張らせて大きく目を見開いた。

「なっ、そ、そそ、そんな訳ねえだろうが! 俺なんてもうバンバンとヤリまくりだっつーの!」

「君この前、隣のクラスの早川さんを強引に押し倒そうとしてフラれただろ?」

「いやっ、それは……」

「やだなー、早く童貞を捨てようと焦って女の子を無理やり犯そうとするなんて。だから君はモテないんだよ」

 内田くんはにやりとほくそ笑んだ。

「うるせえよ! 少なくとも、テメエにだけは言われたくねえよ、このデブメガネ!」

「だからデブって言うなっつったろうがぁ!」

 ギャーギャーと、二人の口論はさらにヒートアップする。俺はどうすることも出来ず、その光景をただ見守っていた。

 その時ガラガラと教室の扉が開き、担任の川野先生がやって来た。

「おーい、お前ら席に着け」

 どこか気の抜けた口調で言う。そんな緩い感じでこの喧騒が止むのかと思ったが、以外にも中本くんと内田くんはあっさりと口論をやめた。

「おい、デブ。次はボコボコにしてやるからな」

「はん、童貞が。寝言は寝て言いなよ」

 互いに捨て台詞を言い合って、各々の席に着いた。

「よーし、それじゃあ朝のHRやるぞ」

 気だるそうな様子で川野先生は言った。

「えー、今日は少し大事な知らせがある。最近、この辺りで殺傷事件が起きているらしい。遺体はみんなバラバラにされているそうだ。犯人はまだ捕まっていないらしいから、お前らも気を付けろよー。以上」

 大事な知らせという割には随分とあっさりしたものだった。周りのクラスメイト達も話半分にしか聞いていない。俺が前にいた田舎の学校は、こういう時もっとみんなが関心を持って聞いていたものだが。やはり都会の人たちはドライなのだろうか。とは言え、俺もどちらかと言えばそちら側の方なのだが。その後も川野先生は緩くHRを進めて行った。




      2




 一通り授業が終わり、俺は学校から自宅のアパートに向けて歩いていた。

 大体、徒歩二、三十分くらいでたどり着くことが出来る。本当ならもっと学校に近いアパートに住みたかったがあまり空きがなく、そもそも家賃の相場も高いため、仕方なく今のアパートに住むことにしたのだ。一応バスを使って通学も出来るが、そこまでお金に余裕はない。とは言え、通学に多少時間がかかることを除けば、それなりに住み心地の良い部屋なので問題はない。

 そんなことを考えながら歩いていると、住宅街の一角にある公園の前に差し掛かる。

緑豊かな木々に囲まれた公園だ。都会といえども、こういった場所があることに俺は少なからず安心感を覚えてしまう。都会での一人暮らしは新鮮で楽しいが、それと同じくらい不安な気持ちも抱いてしまう。高層ビルやおしゃれな店が立ち並ぶ市街地を歩くのは、まだ少し緊張してしまうのだ。

 俺はふらりと公園に足を踏み入れた。穏やかな日差しの下で子供たちが元気いっぱいに駆け回り、その様子を母親が優しい表情で見守っている。

 ふと、一本の木が目に入った。他のそれと比べてひときわ大きい。その木陰に着流し姿の男が佇んでいた。その男はとても美しい顔立ちをしている。

 都会でもあのような格好をしている人がいるのか。

 意外に思って俺が見つめていると、ふいに着流しの男がこちらに気が付き、視線が合った。俺は一瞬ドキリとするが、彼は薄らと微笑みを浮かべる。

「やあ」

 そして、気さくにあいさつをしてきた。その反応が意外だったので、俺は「どうも」と気の抜けた返事をしてしまう。

「学校からの帰りかい?」

 着流しの男が尋ねてくる。

「あ、そうです」

「学校は楽しいかい?」

「いや、まだこっちに引っ越してきたばかりなので何とも言えませんが」

 俺が言うと、着流しの男はからからと笑った。

「そうか。ところで、君はこれから何か用事はあるのかい?」

「いえ、特にないですけど」

「それならば、少し僕に付き合ってくれないかな?」

 いきなりそのような誘いを受けて俺は困惑してしまう。初対面の相手だし断ろうと思ったが、着流しの男のにこやかな笑みを見ていると、自然と頷いてしまう。

「ありがとう。じゃあ、行こうか」

 そう言って、着流しの男はゆっくりと歩き出す。

 俺は戸惑いながらも彼の後を追った。




 着流しの男に連れられてやって来たのは、住宅街を抜けた先にある港だった。

 目の前にはどこまで広く、青い海がある。田舎の村は山に囲まれた内陸にあったので、海を見る機会はほぼ無かった。川や湖で遊ぶことはあったが、やはり海の雄大さは凄まじい。俺はついつい見入ってしまう。

「こっちだよ」

 そんな俺に対して、着流しの男は優しく呼びかける。俺はハッと我に返り、再び彼の後を追う。彼が身に付けている着流しの背中には、鬼の刺繍が施されている。それを見て俺はもしや怖い人なのではないかと内心震えた。

やがてゆったりとした彼の歩みが止まったのは、とある倉庫の前だった。少し寂れた雰囲気が漂っている。

「じゃあ、入ろうか」

 着流しの男はゆっくりと倉庫の扉を開けた。倉庫の中は薄暗い。ところどころに、使い古した木材や灯油缶が転がっているのが見えた。

 暗闇の中をきょろきょろと見渡す俺をよそに、着流しの男はより闇の濃い奥の方へと向かって行く。不安になった俺が「待ってくれ」と言いかけた時。

「うっ」

 急に眩い光が放たれて、俺は呻き声を上げてしまう。光に目が慣れたところで、ぱっと視線を動かして辺りの状況を確認しようと試みる。

 そこには複数の人間がいた。天井から縄で吊るされて、だらんと佇んでいる。照明の光を受けてきらきらと輝いて見えた。

「……何だこれは?」

 俺は頭が真っ白になり、呆然としながら呟いた。

今俺の前にいる人間は、みな一様に死んでいる。目が虚ろで光を失っていた。

「どうだい、僕の作品は?」

 ふいに、着流しの男がそのようなことを言った。

「作品……だと?」

「そうだよ」

 頷いて、着流しの男はその作品とやらを見渡しながら口を開く。

「僕は美しいものが好きだ。しかし、逆に醜いものは嫌いでね。必然的に醜い人間も嫌いということになる。けれども、どんなに醜い人間にも一つや二つ美しいパーツはある。僕はそのパーツを組み合わせて、美しい人間として再構築してあげているんだよ」

 にこりと微笑みながら着流しの男は言う。

 俺は足が震えるのを堪えて、ゆっくりとその再構築されたという人間に歩み寄る。遠目にはよく分からなかったが、その人間はところどころ糸で縫いつけられた跡がある。さらに、身体の表面には蝋が塗られている。それによって、表面が滑らかにコーティングされ、きらきらと輝いているように見えたのだ。

「どうだい美しいだろう? 自分で言うのもなんだけど、僕は手先が器用だからね。バラバラにした人間のパーツを縫い合わせることぐらい造作もないことなんだよ」

 その言葉を聞いて、俺はハッとした顔になり、着流しの男を見る。

「バラバラにした……?」

「そうだよ」

 着流しの男は微笑みを浮かべたまま頷く。するとおもむろに口を開き、何を思ったのかその中に手を突っ込んだ。

「おぇっ……おえぇぇ」

 その美しい容貌に似つかわしくない醜態を晒す着流しの男を、俺はただ呆然と見つめることしか出来ない。しばらくして、彼の喉の奥でぎらりと何かが光った。

「ううぅ、おええぇ!」

 ひときわ大きな呻き声を上げて、着流しの男は喉の奥にある何かを掴み、ぐっと勢い良く引き抜いた。

 現れたのは、美しい湾曲のラインを描く刀だった。

 着流しの男は口の端に垂れたよだれを拭いながら、にやりとほくそ笑む。

「はあ、はあ……どうだい、美しいだろう?」

 ハッキリ言って、キモいっす。

美しいものが好きとか言っておきながら、よだれをダラダラと垂らしてみっともない。もしかして、自分のよだれは美しいとか言うナルシスト思考の持ち主なのだろうか。

 あまりの衝撃を受けて固まっている俺をよそに、着流しの男は嬉々とした様子で語り出す。

「これは僕の愛刀で名を〈美鬼(びき)〉という。美しい鬼と書いて美鬼だ。どうだ、その名の通り鬼のように美しい刀だろう?」

 着流しの男は、自分の刀に陶然として見惚れている。

 俺はふと、今朝のHRで川野先生が話していたことを思い出す。

「最近、この辺りでバラバラの殺人事件が起きているのはお前の仕業か?」

「ああ、そうだよ」

 着流しの男は、あっさりと認めた。その様子を見て、俺は思わず一歩後退ってしまう。

「大丈夫だよ、そんなに怖がらなくても。君のことは殺さないから」

「何でだよ?」

「君は特別美しい容姿をしている訳ではない。けれども、全体的にバランスが整っているからきれいだ。だから、僕は君のことを殺しはしないよ」

 男のくせに妖艶な微笑みを見せる彼を見て、俺は先ほどからずっと胸の内に留めていた言葉を口にする。

「……お前、人間じゃないだろ?」

「ああ、そうだよ」

 またしても、着流しの男はあっさりと答える。

「僕の名前は鬼丸(おにまる)。江戸時代より多くの人間達を切り刻んできた。その人間達からは、〈斬鬼(ざんき)〉と呼ばれていたよ」

 妖艶な微笑みを浮かべたまま着流しの男――鬼丸は改めて俺の方を見た。

「君こそただの人間じゃないだろう? 強い霊体質を持った、特別な家系に生まれている。そうだろう?」

 鬼丸の問いかけに対して俺は無言のままだった。

それを肯定と受け取ったのか、彼はにこりと微笑む。

「君の名前は?」

 再び問われて、しかし俺はそれでも無言を貫く。この男には名前を知られたくない。

 しばらく沈黙の時が続き、鬼丸は小さく肩をすくめた。

「ところで、この後はどうするんだい? もし良ければ僕の狩りを見物するかい?」

「誰がそんなことをするか」

 俺は嫌悪感をたっぷり含ませた声で言い放つ。それに対して、鬼丸は苦笑しながら扉の方に向かった。

「そうかい。じゃあ、僕はもう行くよ。君も気を付けて帰るんだよ」

 そう言い残して、鬼丸は扉から外に消え去った。

 俺はただ、呆然とその場に立ち尽くしていた。




      3




 あれから自宅のアパートに戻った俺はまるで抜け殻のようになり、何もせずにボーっとしていた。

 数時間前に見たあの光景が、まだ瞼の裏に焼き付いて離れない。

「……何でだよ」

 俺はぽつりと呟く。

 もう二度と関わりたくなかった。古めかしいあの田舎の村から抜け出せば、もう二度と関わることは無いと思っていたのに。都会に出ればもう二度と出会うことは無いと思っていたのに。

「……何でこんな所で、あんな霊が出て来るんだよ」

 くしゃり、と髪の毛を握り締めて俺は苦悶の表情で唸る。

 その時、ふいにピリリと電子音が鳴る。テーブルに置いていたケータイが着信を告げていた。

 俺は緩慢な動きでケータイを手に取り、通話ボタンを押す。

「もしもし」

 やや不機嫌な声が漏れてしまう。

『あ、もしもし。巧くん?』

 受話口を通して聞こえたのは鈴を転がしたようにきれいな声だった。その声を聞いた瞬間、俺は急にビシっと背筋を伸ばす。

「も、もしかして香織か?」

 問いかける俺は、少し声が上ずってしまう。

『うん、そうだよ。久しぶりだね』

「久しぶりって、俺がそっちを出てからまだ一週間ちょっとしか経っていないだろう?」

『そうなんだけど、やっぱり巧くんに会えないのは寂しくて……』

「そ、そうか」

 照れくさくなり、俺は指先で頬をかいた。

『ところで、そっちの生活はどう? もう慣れた?』

「まあ、少しだけな。けどまだ戸惑うことも多くてさ。朝はなかなか起きられないし、メシもロクに食わない時があるからな」

 俺が苦笑交じりに言うと、香織が小さく引きつったように息を吸う音が聞こえた。

『そうなんだ。あまりご飯を食べていないんだね……うん、分かった。待っていてね』

「え? ああ、うん」

 よく意味が分からないまま、俺は適当に返事をしてしまう。

 それから二、三言葉を交わして、香織との通話は終わった。

「待っていてって、どういうことだ?」

 俺はその言葉を反芻する。しばらく考えてからふと思い至った。

「ああ、もしかして田舎の野菜とか送ってくれるのかな」

 もしそうだとしたら助かる。正直に言ってあまり金銭的に余裕のある生活ではないので、食材を初めとした生活に必要な物資の仕送りはありがたい。

「よし、風呂でも入るか」

 少し元気を取り戻した俺は、立ち上がって風呂に入る支度を始めた。




 香織から電話を受けた翌日。

 俺はいつもよりもさらに遅く起きてしまった。久しぶりに幼なじみの香織と話せたのが嬉しくて、電話越しだけれども彼女の優しい笑顔が脳裏に浮かんで、昨晩は少し興奮をして眠れなかったのだ。決して彼女をおかずにいかがわしい妄想をした訳ではない。いや、少しそれに近いことをしてしまったかもしれないが……とにかく、今の俺は遅刻しそうで大ピンチなのだ!

「ヤバい、ヤバい!」

 俺は久しぶりに全力で焦りながら制服に着替えて鞄を担ぎ、勢い良く玄関のドアを開け放った。

 すると、隣の部屋の方が何やら慌ただしい様子だった。数人の作業服を着た男達が段ボールを抱えて息を弾ませている。何事かと思ったが、そう言えば隣の部屋が空室だったことを思い出す。

なるほど誰かが引っ越して来るんだな。それにしてもこんな朝早くから引っ越し作業だなんて大変だな。

「……って、そんなことを考えている場合じゃない!」

慌てて駆け出そうとした時、ふいに隣の部屋から出て来た人影とぶつかってしまう。

「きゃっ」

 小さな悲鳴が上がる。

 俺は一瞬よろけたがすぐに持ち直し、

「すみません、大丈夫ですか?」

 とぶつかった相手に対して声をかける。

「は、はい。大丈夫です……」

 その相手がおもむろに顔を上げた瞬間、俺は目を大きく見開いた。

「……か、香織?」

「あ、巧くんだ」

 驚愕して固まる俺に対して、香織はにこやかな笑みを浮かべる。

「お、お前……何でここにいるんだよ?」

 俺は激しく戸惑いながら問いかける。

「だって、昨日言ったでしょ? 待っていてねって」

「確かに言ったけど……あれって、こういう意味だったのか?」

「そうだよ」

 微笑みを浮かべたまま、香織は言う。

「すみませーん、荷物運び終わりました!」

 作業服を着た男が声を張り上げた。

「あ、はーい。ご苦労様です」

 香織が丁寧にお辞儀をして言うと、作業服の男達は会釈をしてからぞろぞろと去って行った。

「巧くん、それが今通っている学校の制服なの? 似合うね」

 香織に言われて、俺は「へ、そ、そうか?」などと素っ頓狂な声を上げてしまう。

「あっ」

 ハッとした俺はケータイの時刻を見る。全力で走って、ギリギリ遅刻を免れるかという時間だった。

 ちらり、と隣の部屋の中を見る。そこには段ボールが山積みになっていた。

「……引っ越しの荷解き、手伝おうか?」

 俺が言うと、香織は目を丸くした。

「でも、巧くんこれから学校なんでしょ?」

「良いよ。今日は学校を休んで、香織の引っ越しの手伝いをする」

「そんな、私のために悪いよ」

「良いんだよ。二人でやれば早く終わるだろ?」

「巧くん……ありがとう」

 香織はにこりと笑みを浮かべて言った。

「お、おう」

 俺はその笑顔を見て、赤面していた。




 俺と香織は二人で協力して、荷解きをしていた。

 お昼頃までに基本的な家具や衣服は一通り出し終えたが、まだ段ボールはたくさん残っている。

「何でこんなに荷物が多いんだ?」

 香織は慎ましい性格のため、あれやこれやと物を持ち込むイメージは無いのだが。

「ああ、これは全部食材だよ」

「えっ?」

「巧くん、あまりご飯を食べていないって言ったから。たくさん用意したの」

「香織……」

 その健気さに俺は思わず感激してしまう。

「けど、俺と電話したのはつい昨日のことだろ?」

「うん。実はその時、ちょうど引っ越しの荷物を積んでいたところでね。巧くんの話を聞いてから急遽、この食材を積み込んだの」

「そ、そうなのか」

 俺は驚きのあまり目が点になってしまう。

「けど、さすがにこれは多すぎじゃないのか?」

 俺が言うと、途端に香織は悲しそうな顔で俯いた。

「ごめんね。やっぱり迷惑だったのかな?」

 落ち込む香織を見て、俺は慌てて口を開く。

「い、いや。そんなことはないぞ。すげえ助かる、ありがとう」

「そう? なら良かった」

 再び香織が笑みを浮かべたので、俺はほっと一安心する。

 その時、俺の腹の虫がぐぅと勢い良く鳴いた。

「そういえば、朝飯食っていなかったな……」

 俺は赤面しながら腹をさすさすと撫でる。

「そうなの? じゃあ、すぐにお昼ごはん作るから待っていてね」

 香織はぱたぱたとスリッパを鳴らしながら、エプロンを着てキッチンの方に向かう。段ボールから野菜を取り出し、慣れた手つきで刻み始めた。

 田舎の村を出ると決めた時、俺はようやく多くの霊が蔓延る場所から解放されるということで、清々しい気持ちだった。

ただそんな中で、幼なじみの香織と離れることだけは辛かった。本当は一緒に来て欲しいと言おうと思ったが、結局その勇気が湧かずに一人で都会にやって来た。香織のことは諦めたつもりでいたが、まさか彼女が自分からこちらに来てくれるなんて。しかも、こうしてキッチンに立って彼女が料理をする姿を見ることが出来るなんて感激だった。

 香織は黒髪を少し大きめのリボンで結い上げている。それによって、白く滑らかなうなじが露わになっている。俺は思わず息を呑んだ。

 すると、ふいに香織がこちらに振り返る。

「ん、どうしたの?」

「い、いや何でもない」

 俺はドギマギしながら答える。

「そう?」

 香織は小首を傾げて、再び野菜を刻み始める。

 規則的なそのリズムを聞きながら、俺は心を落ち着かせようとする。

 しばらくして、俺の目の前に料理が並んだ。里芋の煮っ転がしやほうれん草のおひたしなど、田舎に住んでいた頃によく食べていた素朴な料理達だ。

「ごめんね、巧くん。私こんな物しか作れないから。都会の人が食べるようなお洒落な料理は知らなくて……」

 香織は悲しそうに眉尻を下げて言う。

「構わないよ。別に、田舎の料理が嫌いになった訳じゃないし。せっかくお前が作ってくれたのに文句を言う訳ないだろ?」

 俺は照れ臭いので、そっぽを向きながらそう言った。

「巧くん……ありがとう」

 香織は安心したように笑みを浮かべる。

「じゃあ、いただきます」

 俺は箸で大根の煮付けを取り、口に運ぶ。

「うん、美味いよ」

 俺が言うと、香織は嬉しそうに微笑む。

「なあ、香織」

「ん、何?」

「どうして、田舎からこっちに出て来たんだ?」

 味噌汁をすすってから、俺は尋ねる。

 すると、急に香織が頬を膨らませた。

「巧くんこそ、どうして村を出たの?」

 逆に訊き返されて、俺はにわかに焦りを感じる。

「それは……もう霊と関わりたくなかったから」

 誤魔化しても仕方がないので、俺は正直に理由を話す。

「香織も知っているだろ、俺が強い霊体質の持ち主だって。あんな田舎の村にいたら、俺はずっと霊に付き纏われちまう。そんなの、もう御免なんだよ」

 ついつい、ささくれ立ったような口調になってしまう。しかし、香織はそれに対して特に気分を害した様子はなく、真剣な眼差しで俺のことを見つめている。

「知っているよ、巧くんが大変な思いをしていたことは。……けれども、それなら私に一言くらい相談して欲しかったな。直前まで黙っていなくなっちゃうなんてひどいよ」

 香織はぐっと俺の方に顔を近付ける。その瞳はどこまでも澄んで美しく、つい引き込まれそうになってしまう。

しかしそれ以上に俺の目を引くのは、その耳だ。彼女の耳は少し特徴的で立っているのだ。さらに普通よりも丸みを帯びている。だから、そちらの方に目が行ってしまう。以前、本人は少しコンプレックスを抱いていると言っていたが、俺はそんな彼女の耳が好きだった。本人に言ったことはないけど。

「ねえ、巧くん聞いているの?」

 ハッとして香織の顔を見ると、彼女は先ほどよりも頬を膨らませてぷりぷりと怒っている。

「ああ、すまない。何となく言うタイミングを逃しちゃって。……けど、こうしてお前が来てくれたのは嬉しい……かな」

 俺は例の如く照れ臭くなり、頬をぽりぽりと指でかく。

「巧くん……」

 香織がこちらをじっと見つめている。俺は心臓の鼓動が早まるのを感じながら、改めて料理に箸を伸ばす。

「さ、さてと。料理が冷めない内に食べないとな」

 我ながら、取り繕う演技が下手過ぎる。

「うん、そうだね」

 香織もどこかぎこちない笑みを浮かべている。

 俺はなるべく無心になり、料理を頬張った。




      4




 二年A組の教室に入ると、今日も金髪が眩しい中本くんが歩み寄って来た。

「お、クッチー!」

「クッチー?」

 唐突な呼び名に、俺は困惑してしまう。

「そう。朽木くんだから、クッチー。ナイスなネーミングだろ?」

 中本くんは胸を張って誇らしげに言う。

「ところで、クッチー。昨日は何で学校を休んだんだよ? サボリか?」

 にやけ面になりながら、中本くんが尋ねてくる。

「あー、いや……実は幼なじみが引っ越して来たから、その手伝いをしていたんだ。ちなみに、今日からこのクラスに転校して来るんだよ」

「え、マジで? ちなみにその幼なじみって男、それとも女?」

「ん、女だけど」

「へー、マジで? あーでも、田舎から出て来る子ってイモっぽいんだろうな……っと、悪い悪い、そんなこと言っちゃ失礼だよな」

 片手を上げて謝る中本くんの背後に、ぬっと大きな影が現れる。

「童貞の中本くんには、田舎の素朴な女の子がちょうど良いんじゃないの?」

 ハッとした顔で中本くんが振り返る。

「テメエ、ウッチー。今何つったよ?」

「童貞でへたれヤンキーの中本くんは、まずはランクを落として田舎の女子から攻略したらどうだいって提案しているんだよ」

「黙れや、クソデブがぁ!」

「だから、デブって言うなぁ!」

 ギャーギャーとケンカを始める二人。俺は間に割って入ろうかと思ったが、そろそろ担任の川野先生が来る時間なので止めておく。

 数秒後、ガラガラと音を立てて川野先生が入って来た。

「おーい、お前ら席に着け」

 相変わらずやる気のない様子で川野先生は言う。しかし不思議なもので、こんな気の抜けた号令にクラスメイト達は素直に従う。それは激しいケンカを繰り広げていた中本くんと内田くんも例外に漏れず。

「ちっ、今日はこの辺りにしておいてやるよ、デブが」

「はっ、次は吠え面かかせてやるよ、童貞が」

 互いに捨て台詞を吐いて、各々の席に着いた。

「えー、今日はお前らに転校生を紹介する。……おーい、入って良いぞ」

 川野先生が廊下に向かって呼びかける。

「はい」

 きれいな声を響かせて、香織が教室に入って来た。

 その瞬間、ガタッと数名が椅子から立ち上がる音が聞こえた。教室内がにわかにざわつき始める。香織が教壇の脇に立った。

「じゃあ、自己紹介してくれ」

 川野先生が促す。

「みなさん初めまして。篠塚香織(しのづか かおり)です。出身は梅干(ばいかん)村というとても田舎なので、都会の眉前(まゆさき)市では知らないことばかりです。だから、色々と教えて下さい」

 香織がにこりと微笑んで言うと、クラスメイト達(主に男子共)が歓喜の声を上げた。




「おい、クッチー!」

 朝のHRが終わった直後、中本くんが凄い勢いで俺の所までやって来た。

「あの子がクッチーの幼なじみなのか!?」

 中本くんは、クラスメイトたちに囲まれている香織を指差して言った。

「え、ああそうだけど」

「マジかよ……あんな可愛い幼なじみがいるとか反則だろ。おまけに胸も大きいしさ。なあ、香織ちゃんって何カップあるんだよ?」

 中本くんは目をぎらつかせながら尋ねてくる。

「いや、それは分からない」

「えー、何でだよ。幼なじみなんだろ?」

 中本くんは不満げにそう漏らす。

「89のFカップ」

 ふいに声がした。前の席に座っていた内田くんが、くるりと振り返る。

「ちなみにウエスト58、ヒップ89。あえて陳腐な言葉で表現するならば、見事なボンッキュッボン! ……という訳だ」

 メガネをくいっと押し上げて内田くんは言う。その額には今日も大量の汗が浮かんでおり、首にかけたタオルで拭っている。

「おい、ウッチー。それはマジなのかよ?」

「ふっ、当然だ。僕の鍛え上げた眼力は正確に女体のサイズを計測することが出来る」

「ウッチー、お前マジでパネェよ! デブのくせにやるじゃんか!」

「だからデブって言うな!」

 内田くんは一瞬だけかっと目を見開いたが、すぐに落ち着いた表情を取り戻す。

「それにしても朽木くん。あんなに可愛い幼なじみがいるのに、何で眉前市に引っ越して来たんだい?」

 タオルで汗を拭き拭きしながら、内田くんが尋ねてくる。

「いや、それは……」

 彼らに自分の霊体質のことを話すのは憚られるので、俺は口ごもってしまう。

 そんな俺の様子を察してくれたのか、内田くんは小さく吐息を漏らす。

「まあそれにしてもすごい人気だね、篠塚さん。朽木くん、気を付けた方が良いよ」

「え、何が?」

「慣れない都会の学校に来て、変な男にちょっかい出されないように見張っていた方が良いってことだよ。例えば中本くんみたいな……ああ、でも彼は童貞のへたれヤンキーだから問題ないか」

「んだとぉ! よーし、分かった。俺が速攻で香織ちゃんにアタック仕掛けて落としてやるよ!」

 そう言って、中本くんは猛烈な勢いで群衆をかき分けて香織の前に立った。

「香織ちゃん! 俺と付き合って下さい!」

 中本くんは割れんばかりの声で叫んだ。

 突然の事態に当人の香織はもちろん、周りのクラスメイト達も困惑している。

「え、えーと……ごめんなさい。私、好きな人がいるんです」

 香織は口元に手を置いて、恥じらうようにそう言った。

「ガーン!」

 中本くんは天を仰ぎ、そのまま硬直した。彼の脇をすっと通り過ぎて、香織がこちらにやって来る。

「巧くん、いきなりあんなこと言われて驚いちゃった」

 香織が言う。しかし、俺も内心穏やかではなかった。

 今しがた中本くんからの告白を断る際に、香織は好きな人がいるからと言った。香織に好きな奴がいるなんて初めて聞いたから驚いた。一体誰なんだそいつは。まさか、田舎にいた時に仲の良かった三郎、伝助、いや浜吉かもしれない。クソ、誰が香織をたぶらかしやがったんだ。俺の中で怒りと嫉妬が入り混じった情念が燃え上がる。

「巧くん、どうしたの?」

 だが香織が小首を傾げて俺の様子を気にかけるので、燃え上がった情念はさっと鎮火された。

「いや、何でもない」

「そう? あのね、私たちの村の名前が梅干(うめぼし)って書いて梅干(ばいかん)って言うでしょ。それが面白いってみんなが言うの」

「香織、お前よくクラスのみんなに田舎の話が出来るな。俺なんて恥ずかしいから村のこととか一切話してないぞ」

「えー、だって私たちの生まれ育った故郷じゃない。もっと誇りに思ってよ」

 香織は頬を膨らませて言う。

「ああ、そうだな……」

「もう、また適当な返事をして。……それにしても、都会の子ってみんなお洒落で可愛いね。私なんて地味で恥ずかしいな」

 苦笑交じりに香織は言う。

 俺は小さい頃から香織を知っている。彼女は頭が良い。勉強もそうだが、家事などの仕事の面でもテキパキとこなす。だから、周りの同年代からは羨望の眼差しを受け、大人からはとても褒められていた。

 だがしかし、俺はそんな彼女に対してどうしても言ってやりたい。

 お前はバカか、と。

 周りの都会のお洒落な少女達と比べても、自分が圧倒的に可愛いということに気が付いていない。しかも、都会の少女達は総じてバッチリとメイクを決めている。対する香織はスッピンだ。メイクなんてほぼしたことがない。田舎の祭りの時に、軽く白粉を塗ったことがあるくらいだろう。それにも関わらず、自分が圧倒的に可愛いと言うことに彼女は気が付いていない。

 もう一度だけ言おう。

 お前はバカか、と。

 そして、そんな香織に「お前が一番可愛いよ」といった言葉をかけることが出来ない俺の方こそバカだ。大バカだ。まあそんなことが言えたら、こんな苦労はしないんだろうけど。

「朽木くん」

 ふいに、内田くんがぽんと俺の肩に手を置いた。

「彼女は素晴らしく完璧な美少女だね」

「まさか、内田くんも香織のことを……?」

 恐る恐る俺が尋ねると、内田くんはふっと唇に笑みを浮かべる。

「安心してくれ。僕は彼女に迫るような真似はしない」

 その言葉を聞いて、俺はほっととする。

「まあもし、ドラえもんのタイムふろしきで彼女を小学生くらいに戻せるなら話は別だけど」

「は?」

「それが駄目なら、スモールライトで小さくすることで妥協しよう」

 スチャとメガネのフレームを持ち上げて、内田くんは不敵に笑う。田舎者の俺には彼が何を言っているのかさっぱり分からないが、とても高度な話をしているんだろうなと思った。

「ねえ、巧くん。その人は……?」

 香織が内田くんの方を見ながら尋ねてくる。

「ああ、彼は内田くん。俺の友達だよ」

「そうなの?」

「どうも、内田です」

 先ほどの不敵な笑みから平常の朗らかな笑みに戻り、内田くんは言った。

「ちなみにさっき香織に告白した男子は中本くん。彼も俺の友達だよ」

「あ、そうなの?」

 香織は目を丸くした。

「そうなんだよ。童貞へたれヤンキーの分際で、篠塚さんみたいな完璧美少女に告白する身の程知らずなんだ。代わりに僕が謝罪するよ」

 内田くんがそう言った直後、ショックで固まっていた中本くんが急に息を吹き返し、こちらに全力疾走して来た。

「おい、ウッチー! テメェ、何好き勝手なこと言ってくれてんだよ!」

「だって、事実だろう?」

「クッソ、相変わらずムカつくデブだな」

「誰がデブだコラァ!」

 それから例の如く二人の取っ組み合いが始まる。いきなりこんな光景を見せられて香織が引いてしまわないか不安になったが、思いのほか落ち着いた様子でいる。

「巧くんも昔、伝助くんや浜吉くん達とこんな風に遊んでいたよね」

 その当時の様子を思い出しているのか、微笑ましい顔で香織は言う。まさか、さっき言っていた好きな奴のことを思い浮かべているのか?

「あのさ、香織……」

「ん、何?」

 香織は無垢な表情で俺を見つめる。

「……いや、何でもない」

 結局俺は聞きたいことも聞けずに、始業のチャイムが鳴ったので渋々席に着いた。




      5




 深夜零時。

 俺は未だに寝付けず、ベッドの上で身悶えをしていた。

「う~……」

 枕を抱き締めて、ベッドの上でゴロゴロと転がっている。

「香織が好きな奴って誰なんだ」

 そのことが気になって、気になって仕方がないのだ。

「……コンビニ行こ」

 俺はベッドから起き上がり、さっと身支度を整えて部屋を出る。隣にある香織の部屋の前を通る瞬間に立ち止まりかけたが、すぐにまた歩き出す。階段を降りて道路に出た。

 日中は春の温かな気候に包まれているが、夜は冷たい風が吹いているから少し肌寒い。

 俺はさっさとコンビニで適当に夜食を買って、アパートに帰るため歩くペースを上げる。

 その時、前方から足音が聞こえてきた。俺はおもむろに顔を上げる。

 街灯に照らし出されたのは、着流しを纏った美しい男――鬼丸だった。

 俺はその姿を見た瞬間、身を硬直させる。

 すると鬼丸こちらに気が付いて、ふっと妖艶な笑みを浮かべる。

「やあ、朽木くんじゃないか」

 そう呼ばれて、俺は眉をひそめる。

「なぜ、俺の名前を知っているんだ? 前に会った時、俺は名乗らなかったはずだ」

「さあ、何でだろうね」

 鬼丸はからかうような笑みを見せる。

 そんな彼に対して俺は眉をひそめる。ふと、彼が何かを引きずっていることに気が付いた。

 それはベージュ色の袋だった。所々に赤く滲んだ跡がある。

 俺の視線に気が付いた鬼丸は、

「見るかい?」

 と言って、口元に笑みを浮かべる。

 俺はわざわざ見るまでもなく、その中身が何なのか分かった。

「ふざけんな。いつまで人を殺し続ける気だ?」

 俺は激しい憤りを感じて、鬼丸を睨み付ける。

「この世から醜いものが無くなるまでだよ」

 事もなげに鬼丸は言ってのける。

「お前は狂っている……」

 俺は唇を噛み締めた。

「そんなことを言うなら、君が僕のことを止めなよ」

「は?」

「ただ霊体質を持っているだけじゃなくて、霊と相対する術も身に付けているんだろう?」

 まるでこちらを見透かしたかのように鬼丸は言う。

 そうだ、今この男を止めることが出来るのは俺しかいない。俺が止めれば、これ以上被害者が増えなくて済むかもしれない。

 けれども、俺はもう二度と霊とは関わらないと決めた。今こうして向かい合っているだけでも十分過ぎるほど霊と関わってしまっている。その上戦って退治なんてした日には、もう二度と普通の人間としての生活は送れなくなってしまう。

 俺は俯いたまま歩き出す。鬼丸の脇を素通りした。

 これで良い。俺はこいつのことなんて知らない。関わりは無かったんだ。もし仮に戦ったとしても、勝てる保証など無いのだから。

「――あの黒髪ポニーテールの女の子、篠塚香織だっけ?」

 瞬間、俺は足を止めて俊敏な動きで振り返る。

「何で、お前が香織のことを知っているんだ?」

「さあ、何でだろうね。それはともかく、彼女はとても魅力的な少女だね。清楚で美しい顔立ちながら、豊満な胸とくびれた腰回りという扇情的な身体付きをしている。いやはや、素晴らしい美少女だと思うよ」

 鬼丸は語る。俺はこいつが香織を手にかけようとしているのかと思った。しかし、こいつは既に美しいものには手を出さない。だから香織は大丈夫だろうと、胸を撫で下ろしかけた時だった。

「……ただ、完璧ではないね」

 鬼丸の言葉を受けて、俺は再び緊迫した空気に包まれる。

「何だと? 香織のどこに問題があるって言うんだ?」

「耳だよ」

 鬼丸は端的に答える。

「彼女、少し特徴的な耳をしているよね。立ち耳って言うのかな? その上普通よりも少し丸みを帯びている。まあとにかく、あの耳が目立って顔のバランスが崩れちゃっているんだよ」

「そんなことはない。俺は、香織のあの耳が好きなんだ」

「あはは、その発言ってちょっと変態的だよ」

「お前には言われたくない」

 俺はきっと鬼丸を睨み付ける。

「これは一本取られたね。……まあ、彼女は今のままでも十分なくらい美少女なんだけど、せっかくだから完璧にしてあげたいと思ってね」

「まさか、お前……」

 俺はにわかに震えた声を出す。それを受けて鬼丸はにこりと微笑み、おもむろに口を開けてそこに手を突っ込んだ。

「おぇ、おえええぇ!」

 また例の如くえずきながら、その体内に収めている物を取り出そうとする。

 やがて現れたのは、小さな刀だった。

「はあ、はあ……僕はこの小刀〈小美鬼(こびき)〉を使って彼女の耳を削ぎ落し、もっと美しい耳と取り換えてあげるよ」

 鬼丸はより一層深い笑みを浮かべて、こちらに対して背を向けた。それからゆっくりと歩き出す。

「待て!」

 俺はその背中に追いすがろうとするが、鬼丸の姿は夜闇に溶けて消えてしまった。

 数秒間、俺は呆然としていたが、ハッと我に返る。

「香織!」

 叫んで、俺は走り出す。

 あんな気色の悪い奴、徹底的に無視をするつもりだった。

 けど奴の狙いが香織になった以上、見過ごす訳にはいかない。

 俺は焦燥感に駆られて疾走する。

 やがてアパートまで戻ると階段を猛烈な勢いで駆け上がる。香織の部屋の前にたどり着いた時には、肩で大きく息をしていた。

 俺は呼吸を整えてインターホンを押す。しかし反応はない。それからすぐにドアノブに手をかける。鍵は開けられていた。

「香織!」

 ドアを勢いよく開けて部屋の中に入る。

「香織、居るなら返事をしてくれ!」

 俺は必死に香織のことを呼びながらキッチンを通り抜けて、その奥にあるリビングのドアを開けた。

「香織!」

 部屋の中は薄暗い。目を凝らすと、ベッドに横たわり安らかな寝息を立てている香織の姿を確認した。

「良かった、無事だった……」

 直後、俺は極度の緊張から解放されたことで脱力した。

 するとそれまで眠っていた香織がおもむろに瞼を開けて、ぼんやりとした目で俺の方を見た。

「……巧くん?」

 俺の姿を認識すると、香織はにわかに驚いた顔つきになる。

「どうしてここに?」

「え、いや、その……」

 俺は必死に言い訳を考えて口ごもる。

「と、ところで香織。玄関のドアのカギが開けっ放しだったぞ」

「え、本当に?」

「都会は変質者が多いみたいだから、そんなことじゃ駄目だぞ」

 というか、今の俺の行為が変質者のそれに近いような気がする。

「うん、分かった」

 そんな俺に対して突っ込むことなく、香織は素直に頷いた。

「なあ、香織」

「何?」

「今晩、俺ここにいるよ」

「へ、急にどうしたの?」

 香織は困惑した表情を見せる。

 俺はきちんと事情を話すべきか迷ったが、香織を怯えさせたくなかったので、それは伏せておくことにした。

「えーと、その……たまには夜中に語るのも良いだろ?」

 我ながら随分と苦しい言い訳だ。

「うん、分かった」

 香織はまたしても素直に頷いてくれた。

 少しは人を疑った方が良いと思うが、今はただ香織の純粋さに感謝するばかりだった。




      6




 翌朝。

 俺は目の下にくまを作りながら、学校に向かって歩いていた。

「巧くん、大丈夫?」

 隣を歩いている香織が心配そうに声をかけてきた。

「ああ、大丈夫だよ」

 俺は何とか微笑みを浮かべて見せる。

 昨晩は語っている途中で香織が寝てからも、いつ鬼丸が襲って来るかも分からないので夜通し起きていた。そのせいで俺はひどい寝不足だった。ただ、香織にしっかりとした朝食を作ってもらったおかげで何とか持ち堪えている。

 その後、学校に着いてからも俺はずっと香織のそばに付いている。

「なあ、クッチー」

 授業の合間の休み時間に、中本くんが俺に声をかけてきた。

「どうしたの?」

「クッチーは、俺に見せつけてくれちゃってんのか?」

「は?」

「朝登校してからクッチーと香織ちゃんはずっとイチャイチャとくっつき合って。羨ましいんだよ、こんちくしょう!」

 中本くんが拳を握り締めて叫んだ。俺と香織はびくりと肩を震わせる。

「え、いや俺はそんなつもりは……」

 俺は困惑しながら否定するが。

「じゃあ、どういうつもりなんだよ!」

 中本くんは怒りを鎮めてくれない。

「朽木くん、中本くんの言うことは気にしなくても良いよ」

 すると、内田くんが会話に入って来た。

「君達が仲睦まじくしている光景は、童貞の彼にとっては目に毒なんだよ」

 ふっとほくそ笑みながら内田くんは言う。

「んだと、コラァ? お前こそこんな風に二人がイチャついているのを見て何とも思わないのかよ?」

 中本くんが内田くんに噛み付くように言った。

「ふっ、平気だよ。僕はそれよりも、可愛らしい小学生の妹を連れている奴を見た時の方がよほど激しい嫉妬と殺意を覚えるよ」

 メガネの奥で内田くんの目がぎらりと輝く。

「お前、相変わらずロリコンだな。キモいぞ」

 中本くんがげんなりしたように言う。

「ふっ、ロリコン大いに結構。それはむしろ、褒め言葉として受け取っておくよ」

「引くわー、このデブ」

「誰がデブだコラぁ!?」

 内田くんは急激に怒りを露わにして叫ぶ。

「つーか、お前汗かき過ぎなんだよ! 見ているだけで暑苦しいわ!」

「バカか、君は。汗を流すってことは体内の毒素をデトックスしているんだよ!」

「その癖にお前はキモいロリコンのままじゃねえか!」

「ロリコンはキモくなんかない! 小さな生命を慈しむ素晴らしい趣向じゃないか!」

 ギャーギャーと、毎度のごとく言い争いを繰り広げる二人。

 俺はその様子を見守っていた時、そばにいた香織が俺の肩を叩く。

「巧くん、私ちょっとトレイに行って来るね」

「分かった。じゃあ、俺も付いて行こう」

「え?」

 香織は目を丸くする。

「どうした?」

「いや、さすがにトイレはちょっと……」

 気まずそうに俯く香織を見て、俺もハッとする。鬼丸から彼女を守ることで頭がいっぱいだったが、よく考えてみると女子がトイレに行く際に付いて行くのは、少し配慮が欠けているのかもしれない。

「わ、悪い。俺は教室で待っているから」

「うん、すぐに戻るからね」

 香織はにこりと微笑んで、教室から廊下に出て行った。




 休み時間が終わって次の授業を担当する先生が来る頃には、中本くんと内田くんのケンカは終わっていた。

 ただ、香織は未だに戻って来なかった。

 もしかしてトイレで具合が悪くなったのかと思ったが、それにしても遅い。

 俺は嫌な予感に駆られて、すっと瞳を閉じて意識を集中した。田舎にいた頃、爺さんに霊能士としての術を色々と叩きこまれた。その際に、霊を索敵する術も習っていた。俺は自らの体内の宿っている霊力を使って校舎内を索敵する。

 そして見つけた。学校の屋上から強い霊力が感じられる。

「――っ!」

 俺はすぐさま椅子から立ち上がり、周りの制止を無視して教室を飛び出す。廊下を猛スピードで走る。

香織、無事でいてくれ。

俺は心の中で叫びながら、屋上目がけて階段を駆け上がる。

やがて屋上の扉に前にたどり着くと、間を置くことなくそれを開け放つ。

「やあ、朽木くん」

 直後、俺の目に映ったのは上品な微笑みを浮かべている鬼丸の姿だった。彼は〈小美鬼〉を持った状態で、香織を羽交い絞めにしていた。

「香織!」

 その光景を見て、俺は必死の形相で叫び声上げる。

「巧くん……」

 俺の顔を見た瞬間、強張っていた香織の表情が幾分か和らいだ。俺はそんな彼女に対して優しく微笑みかけ、すぐさま鬼丸を睨み付ける。

「お前、香織に何をしているんだ?」

「昨日言っただろう? 彼女の耳を切り落とすって。そして代わりに、もっと良い耳を付けてあげるって」

「ふざけんな! 香織に手を出したらぶっ殺すぞ!」

 激しい怒気を滲ませて俺が言うと、鬼丸は苦笑した。

「嫌だなぁ、殺すなんて物騒なことを言わないでよ。僕は親愛なる君のために、彼女をより美しくしてあげようと思っているだけなのに」

 そう言って、鬼丸は〈小美鬼〉を香織の耳へと押し当てる。小さな切れ込みが生じて、そこから血がぽたりと流れ出す。

「ひっ」

 香織が引きつった悲鳴を上げる。

 俺はもう、我慢の限界だった。

「――テメェ、俺の香織に触んじゃねえ!」

 獣のように咆哮を上げながら、俺は鬼丸に向かって行く。

 体内の霊力を右拳へと集める。そのまま鬼丸へと肉薄し、奴に目がけて右拳を放つ。

 その瞬間、鬼丸は忽然と姿を消した。俺の右拳は虚しく空を切った。

 そのまま前につんのめり、香織とぶつかりそうになるが何とか堪えた。

「香織、大丈夫か?」

 俺が問いかけると、香織は小さく頷いた。

「う、うん」

 少し頬が紅潮しているように見えたがひとまず無事なのを確認して、俺は安堵の息を漏らす。

「ひどいな、いきなり殴りかかるなんて」

 振り返ると、いつの間にか鬼丸が俺の背後に立っていた。

「今のは霊的格闘術の〈破頑(はがん)〉だろう?」

 鬼丸が問いかけてくる。

「ああ。今からこの力で、テメェをぶっ飛ばす」

「あはは、朽木くんって意外と好戦的なんだね。そんなに彼女のことが大切なのかい?」

「黙れ、それ以上喋るな」

 鋭い口調で俺が言うと、鬼丸は小さく肩をすくめた。

「やれやれ、仕方がないね」

 そう言って、鬼丸は手の口の中に突っ込んだ。

「おえ、おえええぇ!」

 激しい喘ぎ声を上げながら、体内に眠っている奴の愛刀である〈美鬼〉が姿を現す。

「はあ、はあ……さてと」

 鬼丸は口の端から涎をこぼして、恍惚の笑みを浮かべる。

「あまり気が向かないけど、君のことを斬ろうかな」

「その割には、随分と乗り気みたいじゃないか」

「あはは、そんなことはないよ」

 高笑いをしながら、鬼丸は〈美鬼〉を構えた。

 俺も相対するために両手を上げて、軽く右手を引いた状態で構える。

 穏やかな春風が吹く中で、場の緊張感はより一層高まって行く。

「はっ」

鋭く呼気を吐いて、俺の方から動き出す。

 己の体内にある霊力を拳や足に宿らせて戦う〈破頑〉は、田舎の実家にいた時に爺さんから叩きこまれた。ベースは主に空手の技が多い。

 俺は霊力を集めた右拳をぐっと握り、鬼丸の顔面に正拳付きを放つ。だが、奴は余裕の笑みを浮かべながらかわす。直後、上段に構えた〈美鬼〉を俺の右肩に向けて振り下ろす。俺は瞬時に反応して飛び退った。直撃は避けたが、前髪がわずかに切り裂かれた。

「君の力は強いけど、刀と拳ではリーチの面でこちらの方が有利だよ」

 にこりと微笑みながら鬼丸は言う。

「ああ、確かにお前の言う通りだ。だから、その分……」

 俺は力を溜めるようにして身を屈める。

「スピードを上げてカバーをする!」

 直後、俺は凄まじい脚力で地面を蹴って走り出す。霊力を足に宿らせることで、常人よりも遥かに速く動くことが出来るのだ。

 俺はあっという間に鬼丸の眼前にまで移動する。地面に手を突いて足を思い切り振り上げた。突進の勢いが加わり、威力の増した蹴りが鬼丸の額を捉えた。

 蹴りを決めた後、俺はすぐさま後退して態勢を整える。

 鬼丸は蹴られた額を押さえている。皮膚が破れて血筋が垂れていた。鬼丸はそれを指先で拭って、おもむろに口に運ぶ。

「……自分の血はあまり美味しくないな」

 呟いて、鬼丸は再び〈美鬼〉を構える。

「やっぱり、他人の血の方が美味しいよね」

 薄らと微笑んだ直後、鬼丸はこちらに向けて駆け出す。対する俺も迎え撃つようにして走り出す。その途中で、ふいに鬼丸が懐から小刀の〈小美鬼〉を取り出し、俺に目がけて投じた。俺は命中する寸でのところで回避する。だが、そこで一瞬息を吐いたのが間違いだった。

 気が付けば、いつの間にか鬼丸が肉薄していた。

「もらったよ」

 口元で怪しく微笑んだ鬼丸が、俺の身体を袈裟切りした。

 あまりにも鋭い斬撃だったので、俺は一瞬硬直して反応が遅れる。

「……ぐあああぁ!」

 俺の身体から鮮血が飛び散った。制服のブレザーが血の色によって濃く染まる。俺はたまらずその場にうずくまった。

「巧くん!」

 香織の悲鳴が響き渡った。

「いやー、凄い勢いで飛び散ったね。朽木くんの血」

 微笑んで、鬼丸は〈美鬼〉に付いた血のりを舌で舐める。

「ふふ、君の血はなかなかに美味だよ」

「ふざけんじゃねえ……変態野郎が」

 俺は息も切れ切れになりながら、言葉を発する。

「ひどいな、変態呼ばわりするなんて」

「人を殺してまるで玩具みたいに組み立てている奴は、どう考えても変態だろうが」

 俺が言うと、鬼丸は眉尻を下げた。

「だってさ、人は醜いよりも美しい方が良いだろう?」

 鬼丸の問いかけに対して俺は口ごもる。

「確かにそうかもしれないが……」

「僕はね、人間だった頃に奉行所の役人として務めていたんだよ。ある時、打ち首獄門に処された男の生首が街道に晒されることになったんだ。けれどもその男は醜い顔をしていた。僕はこの顔で大衆の目に晒されるのは不憫に感じた。その時、ふと思い付いたんだよ。不細工なパーツを他の生首の者と交換すれば、幾分か美しくなるのでは無いかと。だから僕は刀で不細工なパーツを削いで、代わりにきれいなパーツを縫い付けてあげた。すると、不細工だった男の顔が前よりも美しくなったんだよ。

 それからも僕は、晒し首にされる者たちを同じ要領で美しくしてあげた。ただ、その内に生きている不細工な人間も美しくしてあげたいと思うようになったんだ。僕は愛刀の〈美鬼〉と〈小美鬼〉を携えて、不細工な人間をバラバラにして、比較的美しいパーツを組み合わせてあげたんだ。まあ、そんなことをしている内に僕はお奉行様から死刑を言い渡されちゃうんだよね。ただ打ち首は嫌だから、心臓を一突きで殺してもらったよ。あれは痛かったなぁ。まあその後、すぐに亡霊として復活したんだけどね」

 当時の光景を思い出すようにして鬼丸は言う。

「お前はそんな自分勝手な気持ちで、多くの人間を殺したっていうのか?」

「そうだよ。だってさ、醜いまま生きるよりも美しくなって死んだ方が良いと思わない?」

「……思う訳ねえだろうが」

 俺は痛みに震える身体を鼓舞して、何とか立ち上がる。

「おいおい、あまり無理をしない方が良いよ?」

「黙れ、今すぐテメェをぶっ飛ばしてやるからよ」

 俺はぎろりと鬼丸を睨む。

 勢い良く啖呵を切ったものの、あの鬼丸は相当な手練れだ。闇雲に突っ込んだのでは勝つことは出来ない。もしここで俺が負ければ、香織の耳が削がれてしまう。

 そんなこと絶対に許さない。

「うおおおぉ!」

 俺は雄叫びを上げて、鬼丸に突進して行く。

「やれやれ、懲りない奴だな君も」

 鬼丸は軽く吐息を漏らして俺に対して駆け出す。〈美鬼〉を真正面に突き出して、自身もその一部になったように襲いかかって来る。

 その強靭な一撃が俺の左脇腹を抉った。

「ぐあっ!」

 俺は苦悶の表情で悲鳴を上げる。

「これで終わりだね」

 やや興ざめしたように鬼丸は言った。

「ああ、終わりだよ……お前がな」

「えっ?」

 俺は〈美鬼〉の束をぐっと掴んで固定をする。右の拳に最大限の霊力を集める。

「まさか、初めからこれを狙っていたのか?」

 にわかに鬼丸が焦りの表情を浮かべる。

「俺はな……テメェの澄ました顔がずっと気に食わなかったんだ!」

 腹の底から叫び声を上げて、俺はおびただしい霊力を纏った右拳を繰り出す。それは寸分の狂いもなく、鬼丸のみぞおちを捉えた。

「ぐげぇ!?」

 まるで喉がひっくり返ったような呻き声を上げる。うずくまり、口から大量の胃液を吐き出す。

「どうだ? お前ゲロするのが好きなんだろ?」

 俺が見下ろしながら言うと、鬼丸は身体を痙攣させながら苦笑する。

「……ひどいな、朽木くん。僕はただ、みんなが美しくなって欲しかっただけなのに。こんな仕打ちを受けるなんて……」

 どこか憂いを帯びた表情を浮かべて鬼丸は言う。

 俺はその様子を見て、指先で頬をかく。

「お前の気持ちも分からないでもないが、やっぱり間違っているんだよ」

 そう言って、俺はおもむろに右手を顔の位置にまで上げて念じる。すると、右手を淡い光が包み込む。俺はその右手で鬼丸の額に掌底を放つ。

 その瞬間、衝撃によって周辺に旋風が巻き起こる。

 鬼丸の身体が足の方から消失を始める。

「ふふ、悪霊退散ってことか」

 鬼丸は自嘲するように言う。

「当たり前だ。香織に手出しをする奴は許さん」

「はは、よほど彼女のことが大切なんだね」

 鬼丸は乾いた笑い声を漏らす。

「最後に一つ聞いても良いかな?」

「何だよ?」

「君にとって、僕はどんな存在かな?」

 問われて、俺は一瞬間を置いた。

「二度と関わりたくないクソ野郎に決まってんだろ」

 俺がそう答えると、鬼丸はふっと口元で笑みを浮かべる。

 そして、そのまま彼は消えて無くなった。

 その直後、俺の身体からふっと力が抜けて、その場に崩れ落ちてしまう。

「巧くん!」

 そんな俺の下に香織が駆け寄り、優しく抱き起してくれた。

「巧くん、大丈夫?」

「ああ、何とかな……」

 俺は苦笑交じりに言う。

 少し血を流し過ぎたせいで、頭がぼんやりとして視界も霞む。ただ、香織の耳が無事なことを確認すると安堵する。

そして俺は何を思ったのか、香織の耳を甘噛みした。

「へっ?」

 当然のことながら、香織は驚いて目を丸くする。

 俺はふと我に返った。

「わ、悪い! 実は俺、香織の耳が好きだからつい……」

 非常に罰の悪い思いで俺は俯く。

「……耳だけ?」

「え?」

「私の耳だけしか好きじゃないの?」

 香織は少し目尻を吊り上げ、口の先を尖らせて言う。

 その問いかけに対して俺は言葉を詰まらせる。しかし、意を決し口を開く。

「……耳だけじゃない。俺は香織の全部が好きだ」

 言った直後、頬が激しく紅潮するのを感じた。

「私も」

「え?」

「私も、巧くんのことが好きだよ。ずっと昔から……」

 香織は頬を真っ赤に染めながら言う。

 俺はそんな香織のことをじっと見つめた。呼応するように、彼女も俺のことを見つめる。

 そのまま、俺と香織は唇を重ね合った。




 こうして、俺と香織は付き合うことになった。




























      第二話 ハピネス童子(わらし)




      1




 俺は心地良いまどろみの中にいた。

 都会の眉前市に引っ越してからというもの、すっかり怠惰な生活が身に付いてしまった。田舎の梅干村にいた頃は、早朝から爺さんに稽古を付けられていた。そのことを思うと、今こうして心行くまで惰眠を貪れる時がたまらなく嬉しい。

「ねえ、起きて」

 その時、俺を呼ぶ声がした。

「ねえ、起きてよ」

 また同じ声が呼ぶ。

 誰だ、せっかく人が気持ちの良い朝の二度寝を楽しんでいる時に。

 俺が激しく不快感を覚えていた時。

「ねえ、起きてよ。巧くん」

 その瞬間、俺はハッとして目が覚めた。

 虚ろな目をこすって視線を巡らせると、ベッドのそばに制服姿の香織がいた。

「あ、おはよう巧くん」

 にこりと微笑んで香織は言う。

「え、何でここにいるんだ?」

 俺は目を丸くして言う。

「だってこの前、合い鍵を作ったでしょ?」

 そう言って、香織は部屋の鍵を俺に見せてくる。

「ああ、そうだったな」

「もう、そんな気の抜けた返事をしないで。朝ごはんはどうするの?」

「えっと、コンビニでパンでも買おうかなと……」

「そんなのダメ! 私が作ってあげるから、早く起きて顔を洗って」

「わ、分かった」

 俺は香織に言われるがまま、ベッドから飛び起きる。洗面所に行き冷たい水で顔を洗うと、ようやく目が冴えてきた。

「待っていてね、すぐに作るから」

 香織は制服の上からエプロンを着て、フライパンを手に取った。

 俺はテーブルの前で胡坐をかき、キッチンに立つ香織を見つめる。

 しっかり者の香織は、元々が怠け者の俺の面倒をよく見てくれる。もし香織と結婚をしたら、俺はきっと尻に敷かれてしまうだろう。けれども、香織が毎日俺のために料理をしてくれる姿を拝めるなんて素晴らしい……いやいや、結婚とか先走っているんだ俺は。

「はい、どうぞ」

 俺が妄想にふけっている内に、香織は手際よく朝食の用意を済ませた。ごはんと味噌汁、それから目玉焼きに付け合わせの漬物がある。

「いただきます」

 俺は空腹と、それから香織が作ってくれたということも相まって、物凄い勢いでごはんをかき込む。

「……むぐっ!」

 そのせいで、喉に仕えた。

「巧くん、大丈夫?」

 香織は慌てて冷たいお茶を渡してくれる。俺はそれを受け取り、一気に飲み干す。

「もう、そんなに慌てて食べちゃダメだよ」

「ぷはっ……すまん。その、香織の料理は美味いから、つい」

「本当に?」

 俺の言葉を受けて、香織が嬉しそうに笑みを浮かべる。その笑顔を見た俺は胸がどきり、と高鳴る。自然と彼女の口元に目線が行く。あぁ、キスしたい。

 しかし、今の俺は食事中で口周りとかが汚れているので大人しく諦める。

「ごちそうさまでした」

 それから俺は急いで身支度を整えて、香織と一緒に部屋を出た。

 俺と香織が住んでいるアパートは六階建てで、俺たちの部屋は四階にある。ここには学生以外にもサラリーマン家族も住まっている。

「あ、巧お兄ちゃん。おはよう」

 二階に差し掛かった時、ランドセルを背負った女の子が俺の方へとやって来た。

「ああ、真央ちゃんおはよう」

 俺はあいさつを返す。

「香織お姉ちゃんもおはよう」

「おはよう、真央ちゃん」

 真央ちゃんは無垢な笑みを俺たちに向けている。

「お、朽木くんじゃないか」

 そう言ったのは、真央ちゃんの後ろに立っているスーツ姿の男性だ。彼は真央ちゃんの父で笹木正浩(ささき まさひろ)さんと言う。

「あ、おはようございます」

「おはようございます」

 俺と香織があいさつをする。

「ああ、おはよう」

 正浩さんは眉前市内の会社に勤めるサラリーマンらしい。今はこのアパートで奥さん、真央ちゃんと三人暮らしをしている。

「ねえねえ、巧お兄ちゃん」

 真央ちゃんが俺のブレザーの裾を掴んで呼んだ。

「何だい?」

「巧お兄ちゃんと香織お姉ちゃんは、付き合っているの?」

「えっ?」

 突然の問いかけに対して、俺は激しく赤面をしてしまう。それは香織も同様だった。

「い、いきなりどうしたんだ?」

「だって、二人はいつも仲良しさんだもん。だから、将来はお父さんとお母さんみたいに結婚して、真央みたいな子供を産むのかなって思って」

「真央!」

 正浩さんが焦って声を上げ、真央ちゃんの身体をぐいと自分の方に引き寄せる。

「はは、すまない。うちの娘が変なことを言って」

「い、いえ」

 俺は赤面したまま答える。

「じゃあ、そろそろ会社に行く時間だから。ほら、真央も学校に行くぞ」

「はーい」

 真央ちゃんは間延びした返事をして、正浩さんの後に付いて行く。

 その場に残された俺と香織の間には、少し気まずい空気が流れていた。

「……俺達も行くか」

 ぽつり、と俺が声をかける。

「そ、そうだね」

 香織はぎこちなく答えた。




 俺と香織は気恥ずかしさのあまりロクに会話もせず、二年A組の教室にたどり着いた。

「よう、クッチー。朝からアツアツだな、こんちくしょう!」

「おはよう、朽木くん」

 教室に入ると、中本くんと内田くんがあいさつをしてきた。

 彼らを初めとしたクラスメイトたちには、もう俺と香織が付き合っていることは知られている。

「ああ、おはよう」

 俺は彼らにあいさつを返す。

「おっはよーん!」

 直後、突然甲高い声が響き渡った。

「きゃっ!」

 香織が驚いたように声を発する。

 気が付けば、香織の背後にショートヘアの少女が立っていた。その少女は、香織の胸を後ろから鷲掴みにしていた。

「うわ、すっげー! カオリンのおっぱい、めちゃんこデッケー!」

 ショートヘアの少女は歓喜の雄叫びを上げる。

「ちょ、亜希子ちゃん? 何をして……ひゃん!」

「ぐへへ、カオリンのおっぱいプルプルしてやがるぜぃ。もっと揉ませろ、あたしに至福の感触を与えておくれー!」

「やだ亜希子ちゃん、やめて……んっ、あぁん!」

 激しく胸を揉みしだかれることで、香織が嬌声を上げる。

「いやー、カオリンの胸は本当に揉み応えがあるねー。あたしも興奮してついやり過ぎちゃったよー」

 後頭部を押さえながらショートヘアの少女――水沢亜希子(みずさわ あきこ)は言う。

「もう、亜希子ちゃんったらやめてよね」

 香織は胸を両手で隠しながら言う。

「あはは。ごめん、ごめん」

 それに対して、水沢さんはあっけらかんとして答える。彼女は気さくな性格の持ち主であり、クラスの中でも香織と仲が良いのだが、如何せん言動がぶっ飛んでいるのが難点だ。正直に言って香織の胸を揉みしだくなんて羨まし……けしからんことを。俺だってまだまともに触ったことも無いのに、ぐぬぬ。

「でも良いなー、カオリン。90のFカップとか夢のサイズだよ」

 水沢さんが香織の胸に羨望の眼差しを向けながら言う。

「90のFカップだと?」

 ふいに、内田くんが声を発した。何やら不穏な空気を纏っている。

「僕の見立てでは、篠塚さんは89のFカップのはずだが?」

 内田くんが言うと、

「チッチッチ。甘いね、ウッチー」

 水沢さんは不敵な笑みを浮かべる。

「僕が甘いだと?」

「そうだよ。良いかい、女子の胸っていうのはその日の体調によって変化しているんだよ。前にウッチーがその目で計測した時は89センチだったカオリンの胸も、今日は調子が良くて90センチになっているという訳さ」

「そんな、バカな……」

 内田くんはメガネのフレームに指を置き、じっと香織の胸を見つめる。

「た、確かに。今の篠塚さんの胸は前よりも少し大きい……」

「ふふ、ウッチー。あたしは同性という立場を生かし、クラスの女子のおっぱいを揉みまくっている。直に揉むことでより正確におっぱいの大きさを測ることが出来るのさ。残念だったね、ソッチ方面の情報通だったウッチーのプライドを打ち砕いちゃったかな?」

 水沢さんはにやりとほくそ笑みながら言う。

「ぐぅ……」

 内田くんはとても悔しそうに唸る。その額からはいつも以上に汗が流れている。

「この〈おっぱいマイスター〉であるあたしに勝とうなんて百年早いんだよ!」

 あっはっは! 水沢さんは天を仰いで高笑いをする。それに対して、内田くんは無様な敗者のように床にひざまずいている。

「あたしの見立てだと、カオリンの胸は最大で92センチくらいにまで膨らむ。限りなくGカップに近いFカップだから、調子が良い時にはFカップからGカップにグレードアップするよ」

「FからGに……だと?」

 内田くんは驚愕の表情を浮かべる。その隣で中本くんも「Gカップって、マジでヤバくね?」と興奮している。

「クッチー」

 ふいに、水沢さんが俺の肩に手を置いた。

「君が揉んであげれば、カオリンの胸がまた一段とデカくなるぜ」

「は?」

「楽しみにしているよ」

 そう言い残して、水沢さんは去って行った。

「くそ、小さい女の子の計測なら負けないのに……」

 何やら背後で内田くんが呟いているが、俺は無視をすることにした。




 学校の授業が終わると、俺は香織と一緒に帰る。そこに中本くんと内田くん、それから水沢さんも付いて来ている。今日は彼らが俺の部屋に遊びに来たいと言うので、俺はそれを承諾した。

「ところでさ、クッチーって何で眉前市に引っ越して来たんだよ?」

 道中で、中本くんが尋ねてきた。

 以前も内田くんから同じ質問を受けた時、俺は口ごもって答えられなかった。その際は内田くんが気を利かせてあまり追及されることは無かった。しかし、中本くんはそこまで気を遣ってくれるように見えなかったので、俺は口を開く。

「その……都会に憧れていたんだ」

 とりあえず、無難に答えておく。

 実際は、都会に来れば田舎のように霊が蔓延っていないと思ったことが理由なのだが。

「へー、そうなんだ。けどさ、それなら東京の方に行けば良かったじゃん。眉前市よりもずっと都会だぜ?」

 そう指摘されて、俺は思わずぎくりとする。

「いや、その……いきなり東京に行くのは怖かったから」

 モロに小心な田舎者発言をしてしまう。

「あー、それ分かるわ」

 しかし、意外にも中本くんは同調してくれる。

「俺らも東京行く時は、まず一回埼玉でワンクッション置いて慣らすからなー」

「そうなのか?」

「おう。眉前も一応関東圏で都会の部類に入るけど、やっぱり東京はレベルが違うわ」

 肩をすくめて中本くんが言う。

「ありがとう中本くん。少し気が楽になったよ」

「そうか?」

「うん。初めて会った時は少し怖いと思っていたけど、やっぱりへたれヤンキーなんだね」

「お前まで言うか!」

 中本くんが叫ぶ。

「そうだよ、朽木くん。中本くんはへたれな上に童貞なんだよ」

 内田くんがメガネをきらんと輝かせて言う。

「テメェ、ウッチー! そもそもお前こそ童貞のくせに俺のこと馬鹿にすんじゃねえよ!」

「君はヤンキー風のくせに童貞だから馬鹿にされているんだよ! それが嫌なら、あからさまに童貞な真面目風にイメチェンすれば良いだろ?」

「うるせえよ、このクソデブが!」

「誰がデブだゴラアァ!」

 例の如く、内田くんが激昂する。

 そんな彼の様子を見ていた水沢さんが、

「やーい、ウッチーはおデブ!」

 まるで火に油を注ぐようなことを言う。

「ほら、デーブ、デーブ!」

 ここぞとばかりに中本くんが反撃に打って出る。

「うおおおぉ! 僕のことをデブって言うなあああぁ!」

 案の定、内田くんはさらに怒りをヒートアップさせる。彼は巨体のため、まるで暴れ回る怪獣を彷彿とさせる。彼は怒りの咆哮を上げながら、中本くんと水沢さんに襲いかかろうとする。

「うお、来るなデブ!」

「ぎゃあ、汗まみれになっちゃう!」

 二人が悲鳴を上げる。

 俺が暴走した内田くんを止めようとした時。

「あ、巧お兄ちゃん!」

 突然、あどけない声が響いた。

 振り向くと、そこに真央ちゃんがいた。

「おー、真央ちゃん。学校帰りか?」

「うん、そうだよ」

 真央ちゃんは無邪気な笑みを浮かべる。

 俺はふと、真央ちゃんの隣にもう一人少女が立っていることに気が付く。その少女は白いワンピースを身に纏っている。また、黒い髪が腰の辺りまで伸びている。見たところ、真央ちゃんと同じくらいの年齢だろうか。

「真央ちゃん、その子は?」

「あのね、さっき学校から帰る途中で会ったの。一人で寂しそうにしていたから、一緒に歩いて来たんだ」

 にこりと無垢な笑みを浮かべて真央ちゃんは言う。

 すると、その隣に立っていた少女がぺこりと頭を下げた。

「初めまして、わたしは座子(すわりこ)と言います」

「あ、どうも」

 年の割に随分と礼儀正しくあいさつをされたので、俺はついかしこまってしまう。

 その時、背後に気配を感じて振り返る。それまで怒りに震えて暴れていた内田くんが、じっと真央ちゃんたちを見つめていた。

「君、真央ちゃんと言ったね? 小学何年生だい?」

 唐突に、そのようなことを尋ねる内田くん。

「あたし? あたしは小学六年生だよ」

「ほう」

 内田くんのメガネがきらりと光る。

「僕は朽木くんの友人の内田っていうんだ」

「巧お兄ちゃんのお友達?」

「ああ、そうだよ」

 内田くんはメガネを怪しく光らせたまま頷く。

「おーい、ウッチー。今お前から限りなく犯罪者に近い匂いが漂ってんだけど」

 内田くんの背後から中本くんが言う。

 すると、内田くんは素早く振り向く。

「今僕は大事な話をしているんだ。へたれヤンキーは黙っていろ!」

 物凄い剣幕を見せる内田くんに対して、中本くんは顔を歪めてたじろぐ。

 内田くんは荒く鼻を鳴らし、再び真央ちゃんの方に振り向く。

「ねえ、僕のこともお兄ちゃんって呼んでくれないかな?」

 至極真面目な顔つきで、内田くんは言う。

「うん、良いよ。おデブのお兄ちゃん!」

 その瞬間、場の空気が凍った。

無邪気ゆえに、真央ちゃんはさらりと内田くんいとってのNGワードを言ってしまう。

俺達は再び内田くんが暴れてしまうのではと思った。

内田くんは静かに膝を曲げて、真央ちゃんと目線を合わせる。すっと右手を上げた。

マズい、真央ちゃんの身が危ない!

「……うん、僕はおデブのお兄ちゃんだよ」

 しかし予想に反して、内田くんは優しい口調でそう言った。よく見ると、彼はにこりと微笑みを浮かべている。右手で真央ちゃんの頭を撫でている。

「わーい、お腹ぽよぽよ!」

 真央ちゃんはふざけて内田くんのお腹をいじっている。だが、内田くんは全く嫌がる素振りを見せずに、むしろ喜んでいるように見える。

「へえ、内田くんって子供が好きなんだ」

 俺は思わず感心したように言う。

「いや、子供好きって言うか……」

 そんな俺に対して、中本くんが何やら苦々しい表情を浮かべている。

「真央ちゃん、ダメだよ。初対面のお兄さんに対して、そんな失礼なことを言ったら」

 座子ちゃんが言った。

「えー、でもこのお兄ちゃんおデブじゃん」

「真央ちゃん、もしこのお兄さんがそのことを気にしていたらどうするの?」

 そう言って、真央ちゃんは内田くんに顔を向ける。

「ごめんなさい、お兄さん。真央ちゃんも悪気があって言った訳じゃないんです」

 丁寧にお辞儀をして詫びる座子ちゃんを見て、内田くんがにわかに震えた。

「……素晴らしい」

「へ?」

「いや、何でもない。ありがとう、座子ちゃんは良い子だね」

「そんなことないです。あの、内田お兄さんってお呼びしてもよろしいですか?」

 座子ちゃんがおずおずとした様子で言う。

「はうっ!」

 すると、内田くんはまるで見えない矢に心臓を射抜かれたように、びくんと震えた。

「……く、朽木くん」

 震える声で、内田くんは俺のことを呼ぶ。

「どうしたの?」

「この子達と君はどういう関係なんだい?」

「え? 真央ちゃんは同じアパートに住んでいるんだよ。座子ちゃんとは今日が初対面だ」

「そうか……なあ、頼みがあるんだけど」

「頼み?」

「ああ。この子達を僕にくれないか?」

「は?」

「この子達がいれば、僕は秘蔵のお宝コレクションを捨てても構わない」

「えーと……君は何を言っているんだ?」

 正直意味が分からず俺が問いかける。

「だから、この子たちを僕にくれって言ってるんだよ、分からないかなぁ!?」

 内田くんが急に激昂して立ち上がる。

「分かるかボケ!」

 そんな内田くんの頬を、中本くんが思い切り殴り飛ばした。その後に続くように水沢さんも彼の腹に蹴りをかます。

「ぐほっ!」

 内田くんは呻き声を上げてアスファルトに沈んだ。その背中に中本くんと水沢さんがゲシゲシと蹴りを入れている。

 俺がその光景を呆然と見つめていた時、真央ちゃんがちょいちょいとブレザーの裾を掴んできた。

「ねえ、巧お兄ちゃん。これから一緒に公園で遊ばない?」

「これから? えーと、どうしようかな……」

 俺が悩んでいると、

「良いんじゃないかしら?」

 と香織が言った。

「せっかく誘ってくれているんだもの」

 香織はにこりと微笑む。

「わーい、ありがとう香織お姉ちゃん!」

 すると、中本くんと水沢さんにやられていた内田くんがむくりと起き上がる。

「僕も賛成だ」

 ぐっと親指を立てて言う。

「お前はダメだろ、このロリコン野郎が」

 中本くんが嫌悪感たっぷりに言うが、内田くんは平然としている。

「ふっ、それは僕にとって褒め言葉なんだよ」

「じゃあ、クソデブ」

「誰がデブだ、ゴラアアァ!?」

 内田くんは激しく怒る。

「あはは。巧お兄ちゃんのお友達、みんな面白いね」

 そんな光景を見て、真央ちゃんは無邪気に笑う。その隣で座子ちゃんも笑う。

 俺はふと、座子ちゃんのことを見つめた。

「どうしたの、クッチー?」

 ふいに、水沢さんが声をかけてきた。

「いや、ちょっと……」

「もしかして、あの子のこと見つめていたの? やだ、まさかクッチーもロリコンなの?」

「ロリコン? いや、俺は違うぞ」

 慌てて否定する。

「そう? じゃあ何で見つめていたのさ?」

 問われて、俺は答えに窮する。

「……何でもないよ」

 俺は誤魔化す。

「巧お兄ちゃーん、早く行こうよ!」

「あ、真央ちゃんが呼んでいるし行こうか」

 俺がそう言って歩き出すと、水沢さんは「怪しい~」と言いながら後に付いて来た。

 その際、俺はもう一度ちらりと座子ちゃんを見つめる。

 彼女は上品な微笑みを浮かべていた。




      2




 平日の朝。

 俺は今日も今日とて香織に起こしてもらい、おまけに朝食まで用意してもらった。

「悪いな、毎度毎度」

「ううん、気にしないで」

 香織はにこりと微笑みながら言ってくれる。その健気さに胸を打たれながら、俺はアパートの階段を下りて行く。

「あ、巧お兄ちゃん!」

 すると途中で、麻里ちゃんの元気な声が聞こえてきた。

「おー、真央ちゃん。おはよう」

「おはよう!」

 麻里ちゃんは今日も明るい笑みを浮かべている。

「おはようございます」

 するとその隣に座子ちゃんがやって来て、俺たちにあいさつをした。

「ああ、おはよう」

 俺は少しぎこちなく答えてから、座子ちゃんのことを見つめる。

「どうしたんですか、巧お兄さん?」

 座子ちゃんが小首を傾げる。

「……いや、何でもないよ」

 その時バタンと玄関のドアが開いて、正浩さんがやって来た。

「やあ、朽木くん。おはよう」

「おはようございます」

 俺は軽く頭を下げてあいさつをする。

「あの、その子……座子ちゃんは?」

「ああ、この子かい? 話を聞いていると何だか行く当てもないみたいだから、しばらくうちで預かることにしたんだよ」

「え、そうなんですか?」

 俺は目を丸くする。

「ごめんなさい、図々しくて」

 座子ちゃんが眉尻を下げ、申し訳なさそうにする。

「そんなことないよ。ねえ、お父さん?」

 麻里ちゃんが言う。

「ああ、もちろんだよ」

 正浩さんはにこりと微笑みながら頷く。

「真央ちゃん、お父さま、ありがとうございます」

 座子ちゃんは丁寧にお辞儀をした。

「じゃあ、早く学校に行こう!」

 麻里ちゃんが元気な声を上げる。

「けど、わたし何も勉強道具とか持っていないよ?」

「大丈夫、あたしが貸してあげるから。ほら、早く早く」

 真央ちゃんは座子ちゃんの手を取って走り出す。

 その様子を正浩さんが微笑ましく見つめていた。

「さてと、僕も行くかな。ん、どうしたんだ朽木くん? さっきからボーっとして」

「いえ、何でもありません」

「そうか? あまりぼんやりしていると学校に遅刻してしまうよ?」

 そう言って、正浩さんはスタスタと歩いて行った。

「巧くん、私たちも行きましょう?」

 隣で香織が呼びかけてくる。

「ああ、そうだな」

 俺は小さく頷いて、ゆっくりと歩き出した。




「やあ、朽木くん。おはよう」

 俺は教室で席に着くなり、前の席に座る内田くんに声をかけられた。

 心なしか今日の彼は肌がやたらとツヤツヤしている気がする。相変わらず汗の量はすごいが。

「ああ、おはよう」

「いやぁ、昨日は楽しかったね」

 内田くんは、にこにことしながら言う。

「昨日?」

「ほら、真央ちゃんと座子ちゃんと一緒に遊んだじゃないか」

「ああ、そうだったね」

「なあ、朽木くん。幼い女の子って、何であんなにも無垢で愛らしいんだろうね?」

 急に内田くんがそんなことを語り始める。

「は?」

「彼女たちを見ていると、こんな腐った世の中にも救いがあるんじゃないかって思うんだよ」

「はあ」

「朽木くん、君もそう思わないかい?」

「えーと……」

 何だろう、内田くんは物凄い笑顔なのに、どこか不穏な空気が漂っている。

「おーい、クッチー気を付けろ。そいつ、お前のことをロリコン仲間に勧誘してんぞ」

 金髪をくしゃりと撫でながら、中本くんが言った。

「あはは、人聞きが悪いな。僕は勧誘なんて真似はしない。ただ、幼い少女の魅力を彼に語っているだけさ」

「だから、それが勧誘だって言ってんだよ。このロリコン教祖が」

「ふっ、そんな風に呼ばれるなんて光栄の至りだね」

「じゃあ、クソデブ」

「誰がデブだ、コラアァ!?」

「悪い悪い、ロリコンデブ」

「む、ロリコン呼ばわりなら許す……けどデブって言うなぁ!」

 何だか二人は忙しいやり取りをしている。

 幼い少女の魅力……か。

「まさかな……」

 俺はぽつりと呟く。

「ん、今何か言ったか?」

 すると、中本くんが尋ねてきた。

「いや、何でもないよ」

「ん、そっか」

 頷いて、中本くんは再び内田くんと取っ組み合いを始めた。

 俺はその光景を見つめながら、湧き上がる不安を押さえ付けていた。




 俺は学校からの帰り道を一人で歩いていた。

 いつもなら香織と一緒に帰っているところだが、今日は水沢さんに誘われて街に買い物へ行くらしい。女の子同士であるが、何だか不安だ。また、中本くんと内田くんも今日は用事があるらしい。だから、俺は一人で寂しく下校をしているという訳だ。

「おーい、巧お兄ちゃん!」

 そんな俺の耳に、元気いっぱいの声が届いてきた。

「真央ちゃん」

「あれ、今日は一人なの?」

 つぶらな瞳を向けて、真央ちゃんは尋ねてくる。

「ああ、そうなんだよ」

「ふぅん。じゃあ、また一緒に遊ぼうよ!」

「これからかい?」

「うん、座子ちゃんも一緒に」

 真央ちゃんはにこりと笑みを浮かべながら、座子ちゃんの手を握っている。

「ねえ、座子ちゃんも巧お兄ちゃんと一緒に遊びたいよね?」

 真央ちゃんが問いかける。

「うん」

 座子ちゃんは微笑んで頷いた。

「よーし、じゃあこれから遊ぼう! ほら、巧お兄ちゃん早く行こう?」

「え? ああ、分かったよ」

 俺は麻里ちゃんの無邪気さに押されて歩き出す。

 その最中、にこりと上品な笑みを浮かべている座子ちゃんを見つめた。

「なあ」

 僕は思わず声を発してしまう。

「はい、どうしましたか?」

 座子ちゃんは振り向いて尋ねてくる。

 その黒い目は、じっと俺のことを見ている。

「……いや、何でもない」

「そうですか?」

 座子ちゃんは特に気に留める様子もなく、真央ちゃんと並んで歩いて行く。

「巧お兄ちゃん、ボーっとしてないで早く行こうよ!」

 先を行く真央ちゃんが声をかけてくる。

「ごめん、すぐ行く」

 俺は慌てて走り出した。




      3




 その日の朝、俺は早起きをした。

 いつも香織に起こしてもらっていては申し訳ないからだ。

 しかし、なぜか香織がそんな俺を見て残念そうな顔をした。俺は首を傾げながら、自分で朝食を用意しようとしたが、楽勝と思っていた目玉焼きすらまともに作れなかった。そんな俺を見て、香織は嬉々として朝食の用意をしてくれた。やっぱり香織の料理はとても美味かった。

 それから二人で玄関を出てまた二階に差し掛かった時。

「巧お兄ちゃん、おはよう!」

 今日も元気いっぱいの真央ちゃんがあいさつをしてきた。

「おはよう」

「香織お姉ちゃんもおはよう!」

「うん、おはよう」

 香織はにこりと微笑んで言う。

「おはようございます」

 すると、座子ちゃんがやって来た。彼女の背中には真っ赤なランドセルがある。

「あれ、そのランドセルはどうしたの?」

 香織が尋ねる。

「これはお父さまに買ってもらいました」

 座子ちゃんは言う。

 がちゃり、とドアが開いて正浩さんがやって来た。

「やあ、朽木くんおはよう」

 正浩さんは快活なあいさつをしてくる。元々子持ちの割に若々しい人ではあるが、今日はまた一段と若々しい。

「あの、座子ちゃんにランドセルを買ってあげたんですか?」

 俺が尋ねる。

「ああ、そうだよ。この子はもう、うちの子も同然だからね。真央も姉が出来たみたいで喜んでいるんだよ」

「違うよ、お父さん。麻里の方がお姉ちゃんだもん」

「けれども、座子ちゃんの方が大人しくてしっかりしているだろう?」

「むぅ~」

 真央ちゃんは不満そうに頬を膨らませる。

「わたしは、真央ちゃんの方がお姉さんだと思っているよ?」

 座子ちゃんが言うと、麻里ちゃんはパッと笑みを浮かべる。

「本当に?」

「ええ、本当よ。さあ、学校に行きましょう?」

「うん!」

 真央ちゃんは飛び跳ねるようして歩き出す。座子ちゃんは「あんまりはしゃぐと怪我をするわよ?」とたしなめている。その様子を見ながら、正浩さんは微笑んでいる。

「おっと、僕もそろそろ行かないと」

 それじゃあ、また。

 正浩さんはスキップでもしそうな勢いで去って行った。

 明るい朝の光景。しかし、俺は浮かない気分だった。

「どうしたの?」

 香織が心配するように尋ねてくる。

 俺は一瞬、今自分が抱えている思いを打ち明けようかとも思ったが、首を横に振った。

「何でもないよ。行こう」

 そう言って、俺はにこりと微笑んで見せた。




 それからしばらくは、平穏な日々が続いた。

 座子ちゃんはすっかり笹木家に馴染んでいた。真央ちゃんとはまるで姉妹のように仲が良く、一緒に遊んでいる。俺たちも学校帰りに出くわすと、一緒に遊んであげた。特に内田くんのテンションが異常に高かった。遊んでいる最中、何度かお巡りさんに声をかけられていた。それでも彼は気にせず幼い少女たちと遊ぶ時間を心行くまで楽しんでいた。

「はあ……」

 俺は机に頬杖を突いて、窓から外の景色を眺めていた。今は前の席に内田くんがいないため、一人でぼんやりとしていた。

「よっ、クッチー」

 そんな俺に声をかけてきたのは、ショートヘアをなびかせる水沢さんだった。

「ああ、何か用?」

「どうした、クッチー元気ないよ?」

「いや、そんなことはないけど」

「ふぅん? ところでさ、クッチーに耳よりな情報があるんだよ。これを聞けばクッチーのテンションもうなぎ上りになること請け合いだよ」

「へ、へえ」

 俺はぎこちなく笑みを浮かべる。

「前にさ、カオリンの胸の話をしたでしょ? その日の調子によって大きさが変わるって」

 突然そんなことを言い出すので、俺は困惑してしまう。

「そんでさ、今日のカオリンなんだけど……絶好調。つまり、92のGカップにグレードアップしているんだよ」

「えっ?」

「見てごらんよ、カオリンの胸。今日は一段とデカくないかい?」

 俺はちらりと香織の方を見る。彼女は今、他の女子たちと話している。

「大きさだけじゃなく、張りと弾力も今日が最高のコンディションだよ。クッチー、言わせてもらおう。ユー、揉んじゃいなよ」

「は?」

「今日学校が終わったら、カオリンを部屋に連れ込んで、あの大きなGカップおっぱいを揉んじゃいなよ」

「はあぁ!?」

 俺は思わず大声を出して、すぐさま口をつぐむ。

「本当なら、あたしもあの最高の状態にあるカオリンのおっぱいを揉みたいところだけど、ここは彼氏であるクッチーに譲ってあげるよ。二人きりの部屋で、心行くまで揉みしだいちゃえ!」

「いや、俺は……」

 口ごもる俺の肩に、水沢さんはぽんと手を置く。

「揉んだら感想、聞かせてくれよ?」

 水沢さんはぐっと親指を立てそう言い、俺の前から去って行った。

 俺はただ、呆然とすることしか出来なかった。




 学校のからの帰り道。

 俺は悶々とした思いを抱えながら歩いていた。

 ちらり、と隣を歩く香織の方を見る。視線はそのまま、ブレザーを押し上げる豊かな双丘へと引き寄せられる。

 ――ユー、揉んじゃいなよ!

 その言葉が脳内で強烈に響き渡る。

 簡単に言ってくれる。俺だって出来ることなら香織のおっぱいを揉みたい。心行くまで揉みしだきたい。けれども、どうしたって躊躇してしまう。いきなりそんなことをして、香織が引いてしまわないかとか。嫌われちゃうんじゃないかとか。考えてしまう。

 いや、俺は香織の彼氏なんだ。彼氏なら彼女のおっぱいを揉むのは当たり前じゃないのか?しかし、いくら彼氏彼女の関係であっても、何でも許されるという訳では……

「……みくん。巧くん」

 俺はハッとして香織の方に振り向く。

「ど、どうした?」

 俺は焦りながら尋ねる。

「今日の夕飯、何か食べたい物ある?」

「え? 作ってくれるのか?」

「もちろん。だって、私は巧くんの彼女ですから」

 にこりと微笑んで香織は言う。

 やべえ、抱き締めたい。

 俺はそのような衝動に駆られるが、公共の場でそれは憚られるので堪えておく。

「……じゃあ、うどんが食べたいかな」

「うん、良いよ」

 香織は頷く。

 俺は顔が火照るのを感じていた。

 ふと、住宅街にある公園の前を通りかかった時、見覚えのある人影を見つけた。

「真央ちゃん……?」

 公園にあるベンチにぽつんと一人で座る真央ちゃんの姿が見えた。

「どうしたの?」

 香織が尋ねてくる。

「いや、真央ちゃんが……」

「あ、本当だ。どうしたのかしら?」

「ちょっと行ってみるか」

 俺は香織と一緒に、真央ちゃんの下へと歩み寄る。

「真央ちゃん?」

 俺が声をかけると、真央ちゃんはぼんやりとした目をこちらに向けてきた。

「あ、巧お兄ちゃんと香織お姉ちゃん……」

 その声にはいつものような張りが無かった。

「どうしたんだ、こんなところで?」

「うん、ちょっとね」

 真央ちゃんは苦笑を浮かべる。

「そういえば、今日は座子ちゃんと一緒じゃないのか?」

 俺が問いかけると、真央ちゃんの表情が強張る。

「真央ちゃん?」

 直後、真央ちゃんの目からぼろぼろと涙がこぼれた。

「えっ?」

 突然のことに俺は焦ってしまう。

「お、おい。大丈夫か?」

 しばらくしてから、真央ちゃんが口を開く。

「あのね……お父さんがね……座子ちゃんのことばかり可愛がっているの」

「正浩さんが?」

 真央ちゃんはこくりと頷く。

「あたしがお洋服とかお人形さんとかおねだりしても買ってくれないのに、座子ちゃんが頼むとすぐに買ってあげるの。だからあたし聞いたの。何で座子ちゃんのことばかり可愛がるのかって。そしたら、座子ちゃんの方が良い子だからって、お父さんが……」

 訥々と語る真央ちゃんを見て、俺は胸がズキリと痛んだ。

「ねえ、巧お兄ちゃん。あたしはその内、お父さんに捨てられちゃうのかな?」

 真央ちゃんは泣きじゃくりながら言う。

 俺はそんな真央ちゃんの頭に、優しく手を置く。

「そんなことある訳ないだろ? だって、正浩さんは真央ちゃんのお父さんなんだから」

「本当に? あたしは家を追い出されたりしない?」

「ああ、大丈夫だよ。だからもう、泣かないで」

 微笑みながら俺が言うと、麻里ちゃんは目元をこすった。

「……うん、分かった」

「よし、偉いぞ」

 その時、俺は優しく笑みを浮かべながら、複雑な思いを抱いていた。




 麻里ちゃんを送ってから、俺は香織と一緒に自分の部屋に帰った。

「じゃあ、すぐに夕飯の支度をするから待っていてね」

 制服姿のままエプロンを着て、香織が言う。

「あ、うん」

 楽しそうに料理を始める香織に対して、俺は座布団に座って苦悩していた。

 真央ちゃんが悲しんでいるのは、正直に言って俺のせいだ。俺がある事実に気が付いていながら、それを俺が関わりたくないと無視をしていたせいだ。けれども、真央ちゃんに被害が出ている以上、このまま見過ごしておく訳にはいかない。俺はもう逃げるのをやめる決意をした。

 ただ、今の俺にはもう一つ重要な懸案事項がある。

 ――ユー、揉んじゃいなよ!

自称〈おっぱいソムリエ〉である水沢さんの言葉が、激しく脳内リフレインする。俺は正直に言って、香織のおっぱいを揉みたいのだ。

しかし麻里ちゃんが大変な目に遭っている時に、俺はそんなことをして良いものかと考えてしまう。苦しむ知り合いの少女を脇に置いて、俺は彼女とイチャつくなんてことをして良いのか。くそ、俺はどうしたら良いんだ。

 ふと、キッチンに立つ香織の姿が目に入る。制服にエプロン。もう何度も見ているその姿に、俺は未だにドキドキしてしまう。ワイシャツ、ブレザー、それからエプロンという三重の衣服さえも跳ね飛ばす勢いの豊かな胸に、目線が釘付けになってしまう。

 触りたい。香織の大きなおっぱいに触りたい。俺は強く思う。

 そうだ、我慢をしていても仕方がない。こんな悶々とした気持ちを抱えてままでは、それこそ事に当たる際、集中力を欠いてしまうかもしれない。そう考えると、俺は今欲望を抑えることなく、行動した方が良いのかもしれない。

 俺はおもむろに立ち上がる。ゆっくりとした足取りで、キッチンで料理をする香織の下へと向かう。

「ん、どうしたの巧くん?」

 俺がそばに立つと、香織が首を傾げて尋ねてくる。

 だが俺はそれに答えることはせず、じっと香織の胸を見つめる。確かに、今日の香織の胸はいつもより迫力があるかもしれない。今にも身に纏っている衣服を突き破ってしまいそうなくらいだ。

「巧くん?」

 香織は少し不安げな表情で俺のことを呼ぶ。

「……なあ、香織」

 やがて、俺は口を開く。

「お前に頼みがあるんだけど」

「私に頼み? 良いよ、何でも言って」

 優しく微笑みながら香織は言う。

「そ、そうか。何でも良いんだな?」

 よし、俺は言うぞ。おっぱいを揉ませてくれって言うんだ!

「か、香織! 俺――!」

 その時だった。

「――巧お兄さん」

 ふいに背後から声がした。

 俺はびくりと肩を震わせる。それから、恐る恐る振り返る。

「……座子ちゃん」

 俺が声を漏らすと、目の前に立っている座子ちゃんはにこりと微笑んだ。

「こんばんは。ごめんなさい、突然お邪魔しちゃって」

 座子ちゃんは言う。彼女は華やかなピンクのブラウスを着て、首や腕にネックレスやブレスレッドなどの装飾品を付けている。

「それは、正浩さんに買ってもらったのか?」

 俺が尋ねると、座子ちゃんは一瞬きょとんとするが、

「はい、そうです」

 すぐに笑みを浮かべる。

「そっか……ところで、俺に何か用事でもあるのか?」

「くす、巧お兄さんってば意地が悪いですよ。本当は分かっているんでしょう、わたしがここに来た理由を」

「ああ、そうだな。まどろっこしいことは抜きで行こう」

 そう言って、俺は改めて座子ちゃんを見据える。

「座子ちゃん、君は普通の人間じゃない。君の正体は座敷童子だ……ただし、落ちこぼれのな」

 俺が言うと、座子ちゃんは口元に怪しい笑みを浮かべる。

「ひどいですよ、落ちこぼれだなんて」

「だってそうだろう? 座敷童子ってのは本来、居座った家に幸福をもたらす存在だ。けど君は逆に幸福を奪おうとしている。正浩さんに色々と物を買わせて金を奪い、その気を自分にばかり集中させることで真央ちゃんから父の愛情を奪った。だから、君は落ちこぼれだ」

 俺は座子ちゃんに鋭い視線を向ける。

「それは仕方のないことです。わたしが良い子だからお父さまは可愛がり、真央ちゃんは相手にされないのです。強いて言うならば、わたしに魅力があり過ぎることが罪なのかもしれませんね」

 そんなことを、座子ちゃんはあくまでも微笑みながら言う。

 俺は眉をひそめた。

「だったらわざわざ他人の父親ではなく、自分の父親に可愛がってもらえば良いだろ?」

 俺が言った瞬間、座子ちゃんの笑みが固まった。俺は訝しく思って彼女を見つめる。

「……今のわたしにとって、父親は正浩お父さまです。それ以外にお父さまなんていません」

 それまでとは打って変わって、座子ちゃんは険の込もった目で俺のことを睨んできた。

 しばらく室内に沈黙が落ちる。

「……それでは、わたしはそろそろ戻ります。巧お兄さん、くれぐれもわたしの邪魔をしないで下さいね」

 座子ちゃんは愛想の良い笑みを浮かべて言う。

「お邪魔しました」

 座子ちゃんは丁寧にお辞儀をしてから、部屋を後にした。

「まさか、座子ちゃんが霊だったなんて……」

 香織がショックを受けたように声を漏らす。

「ああ。本当のところ、俺はもっと前から気が付いていたんだ。けれども、また霊に関わるのが嫌だからずっと気が付かないフリをしていたんだ。最低だよな」

 俺はそう言って、唇を噛み締める。

「ううん、そんなことないよ。巧くんが梅干村で霊に囲まれて大変だったことを、私は知っているから」

 そんな俺に対して、香織は優しい言葉をかけてくれる。

「香織……」

 俺がその温かさに胸を打たれていた時。

「ところで巧くん。さっき私に何を言おうとしたの?」

 ふいに尋ねられて、俺は返答に窮してしまう。

「えーと……」

 香織の澄んだ眼差しが、俺のことをじっと見つめている。

「その……香織の作った夕飯が食べたいなーって思ったんだよ」

 苦し紛れに俺は言う。

「そうだったの? 巧くんったら、仕方がないんだから」

 香織は俺が誤魔化したことに気が付いた様子もなく、にこやかに笑みを浮かべた。

 俺は内心でほっと安堵の息を吐きながらも、香織のおっぱいを揉めずにひどくがっかりしていた。




      4




 今日という朝も、俺は香織に起こしてもらった。

 以前に香織に迷惑がかかると思って自力で起きることを決意したのだが、それも長続きはしなかった。「巧くん、朝だよ」という香織の柔らかな声と、優しく肩を揺する手によって俺はふっと目を覚ます。その後、俺が身支度を整えている間に、香織が朝食の用意をしてくれる。その時、俺はしみじみと幸せを感じる。それから二人並んで学校に登校する時も幸せだ。途中で会ったクラスメイトたちに冷やかされるが、それでも幸せだ。

 しかし学校にたどり着くと俺はふと我に返り、気分が沈んで行く。

 座敷童子の座子ちゃん。但し、落ちこぼれ。

 座敷童子はその名の通り、座敷に住み着く霊だ。しかし、現代においては座敷の有無に関係なく人々の家に住み着くものだと、以前に爺さんから聞いたような気がする。ただ、それでも他の霊と同様に、都会にはあまり現れないはずだが。

 ともかく座子ちゃんは座敷童子として、本来ならば住み着いた家に幸福をもたらすはずが、逆に不幸をもたらしている。

 許せない奴だ。ただそれ以上に許せないのは、彼女の正体を知っておきながら逃げていた俺自身だ。もう二度と霊とは関わりたくないと今でも思っている。けれども、真央ちゃんの泣き顔を思い出すと、そんなことは言っていられないと強く思う。

「よっす、クッチー」

 俺が自分の机で考え込んでいると、飄々とした様子で水沢さんがやって来た。

「水沢さん、どうしたの?」

「おいおい、クッチー。何か大事なことを忘れちゃいないかい?」

「大事なこと……って?」

 きょとんとして俺が言うと、水沢さんはかっと目を見開く。

「カオリンのおっぱいの件だよ」

「あっ」

 言われて、俺は思わず口を半開きにしてしまう。

「もしかして、揉んでいないの?」

「ああ、すまない。ちょっと色々あって……」

「バッカ野郎! 昨日のカオリンの胸はまさに最高の状態だった。それをみすみす逃すなんて……クッチーは大バカ野郎だよ! ああもう、こんなことなあたしが揉みしだいておけば良かったぁ!」

 水沢さんは心底悔しそうな表情で叫ぶ。

「こうなったら放課後に特訓だよ。クッチーがカオリンのおっぱいを揉むための!」

「いや、どんな特訓だよそれ……ていうか、ごめん。俺、今日は他に用事があるからダメだ」

「大事な用事? それは、カオリンのおっぱいを揉むことよりも大事な用事なのかい?」

「いや、頼むからおっぱいから離れてくれ」

 俺が呆れたように言うと、水沢さんは「ちぇー、何だよ」とふてくされながらも、大人しくなってくれた。

「けど、マジで何をするの?」

 水沢さんが少し真剣な眼差しを俺に向けてくる。

 俺は返答に悩むが、

「真央ちゃんが悩んでいるみたいだから、それを解決してあげるんだ」

 と答えた。

「真央ちゃんに何かあったのかい!?」

 すると、前の席の内田くんが物凄い勢いで振り向いた。

「僕の真央ちゃんに何かあったのかい!?」

 いや、決して君のではないだろうと言いかけたが、何だが怖かったので無視をする。

「ああ、ちょっとね。昨日学校の帰りに、公園で一人ベンチに座って泣いていたから。助けてやらなきゃと思って」

「何だと……」

 内田くんが驚愕の表情を浮かべる。

「くそ! 僕がその場にいれば隣に座って悩みを聞いてあげて、それから家に連れて帰るのに!」

「うん、それは真央ちゃんの家ってことだよね?」

 俺の問いかけに対して内田くんは答えることなく、額から大量の汗を流してハアハアと言っている。ヤバい、彼は霊なんかよりもずっと怖いかもしれない。

「まあ、ロリコンのウッチーは置いといて。……んで、真央ちゃんは何で困っているんだい?」

 水沢さんが問いかけてくる。

「えーと、座子ちゃんとケンカをしちゃったみたいでさ」

 あながち間違いでは無いので、俺はそのように説明した。

「何だって!? 幼い少女同士が争うなんて絶対にダメだ! みんな仲良くしなくちゃ!」

 そしたら内田くんが発狂した。

「あー、もう鬱陶しいな」

 水沢さんが露骨に顔をしかめる。それから教室のある方向を見つめた。

「おーい、なかもっちゃん! ウッチーが君のことを万年童貞のへたれヤンキーって言っているよ!」

 すると他の友達と談笑をしていた中本くんが、すぐさま振り返ってきっと内田くんのことを睨む。

「何だと、このクソデブがああぁ!」

 中本くんが大声で叫ぶ。

「誰がデブじゃ、コラアアァ!」

 内田くんも負けじと叫ぶ。

 二人はズンズンと教室の後ろの通路に向かって行き、そこでいつもの取っ組み合いを始めた。

「ふぅ、これでキモい汚物は消えたよ。スッキリンコだね☆」

 水沢さんが清々しい笑顔で言う。

 前言撤回。強かな女子ほど、怖いものはない。

「そんで、クッチー。どうやって麻里ちゃんと座子ちゃんを仲直りさせるんだい?」

「まあ、それは……秘密だ」

「えー、教えてよぅ」

「ダメだ」

 頑として俺が断ると、水沢さんがムッとした顔になる。

「良いもん。そんなこと言うなら、もうクッチーにカオリンのおっぱい情報あげないからね。いつ揉み時かなんて教えてあげないんだから!」

 プンと頬を膨らませる水沢さん。

 俺は一瞬言葉に詰まるが、負けじと口を開く

「ふん、君に聞くまでもない。俺は自分で直に触って、香織のおっぱいのことを知るから」

 すると水沢さんが目を丸くして、それから愉快そうに笑みを浮かべる。

「ふうん、言ったね? じゃあクッチーの男気を見せてもらおうか?」

「ああ。麻里ちゃんの問題を解決したら、俺は香織のおっぱいを揉む」

「よっしゃ、よく言った! もしこれで揉まなかったら、クッチーもなかもっちゃんと同じへたれ同盟に入れてやるからね。覚悟しておきなよ?」

「分かったよ」

 俺は笑みを浮かべて頷いた。




 学校の授業が終わると、俺は一人でアパートに帰って来た。大事な戦いの前に集中するためだ。香織は今日も水沢さんと買い物に出かけている。問題が解決する頃には帰って来るだろう。

「よし」

 俺は意気込んで、アパートの階段を上って行く。

 そして、二階にある笹木家の部屋の前に立った。

 小さく深呼吸をしてから、俺はインターホンを鳴らす。

『はい、どちらさまでしょうか』

 中から、しとやかな少女の声が聞こえてくる。

 俺は鼻をつまむ。

「こんちはー、宅急便でーす!」

 俺が言うと、

『あ、はーい。少々お待ちください』

 直後、がちゃりとドアが開く。

 愛想の良い笑みを浮かべた、座子ちゃんが顔を出した。

「いつもお勤めご苦労さまで……」

 俺の顔を見た瞬間、その笑みが引きつった。

「よう、邪魔しても良いかな?」

 俺が言うと座子ちゃんは眉をひそめるが、ため息をしながら頷く。

「……どうぞ」

 俺は玄関で靴を脱ぎ、座子ちゃんの後を追ってリビングへと向かう。

 座子ちゃんはソファの前に行くと、ドカッと身を沈めた。

「それでわざわざ人を騙してまで家に入り込んで、何のご用ですか?」

「家に入り込んだのは君の方だろう? 落ちこぼれの座子ちゃん」

 俺が言うと、座子ちゃんはきっと睨み付けてくる。

 どうやらその「落ちこぼれ」というワードに敏感みたいなので、俺はしばらくその言葉を伏せておくことにする。

「単刀直入に言わせてもらう。この笹木家から出て行ってくれ」

「お断りします」

 にべもなく座子ちゃんは言う。

「それは何でだ?」

「昨日も言いましたけど、お父さまはわたしのことをとても可愛がっているんですよ。もしわたしが居なくなったら、お父さまが悲しみます」

「けれどもこのままじゃ、真央ちゃんが可哀想だ。君の面妖な力でお父さんを取られて」

「そんなの、あの子に魅力が無いのがいけないんでしょう? お父さまだってあの子が居なくなって、代わりにわたしが本当の子になった方がずっと嬉しいはずですよ」

 座子ちゃんは冷笑しながら言う。

 その時、俺の背後でドサッと何かが落ちる音が聞こえた。

「……真央ちゃん」

 振り向くと、そこには呆然とした表情で佇む麻里ちゃんがいた。

「座子ちゃん、今言ったことは本当なの? お父さんはあたしよりも、座子ちゃんの方が大切だって」

 震える声で麻里ちゃんが尋ねる。その様子を見た座子ちゃんはほくそ笑む。

「ええ、そうよ。あなた自身も、もう気が付いているんじゃないの?」

 嘲るように座子ちゃんが言うと、真央ちゃんはその顔を悲しみに歪める。

「うふふ、どうしたの真央ちゃん? 今にも泣きそうな顔をしているわよ?」

 座子ちゃんは愉快気に言う。対する真央ちゃんは、小さな肩を震わせて堪えている。ただその様子を見て座子ちゃんはより一層笑みを深くする。

「うふふ、麻里ちゃん。もういっそのこと、この家から出て行ったら? そうすれば、もう悲しい思いをしなくても済むわよ?」

 そう言って、座子ちゃんはアハハと高笑いをする。

「――出て行くのはお前の方だ」

 突然、低い声が響いた。

 すると座子ちゃんはぴたりと笑いを止めて、かすかに肩を震わせる。

 俺は室内を見渡す。

 直後、どこからともなくゆらりと人影が現れる。それは一人の中年の男性だ。細身の身体に紺色の衣服を身に纏っている。

「あなたは?」

 俺が問いかけると、その男は小さく頭を下げる。

「突然お邪魔して申し訳ない。私は座敷童男(ざしきわらお)の奉念(ほうねん)という者です。この度は、不躾な娘を連れ戻しに参った次第でございます」

 男――奉念さんはそう言って、おもむろに視線を座子ちゃんの方へと向ける。

「いつまでそこに座っている。もう帰るぞ」

 奉念さんは静かな口調で言う。

「……嫌です」

 それに対して、座子ちゃんは拒絶の反応を示す。

「わたしはもう、あの場所には戻りません」

 はっきりと座子ちゃんは言う。

「なぜだ?」

 奉念さんは眉をひそめて訊く。

「みすぼらしいからです」

 座子ちゃんが言うと、奉念さんは鋭い眼光を放つ。

「すみません。あの場所っていうのは……?」

 俺が会話に割って入り尋ねる。

「娘が言っているあの場所というのは、〈童子(わらし)の館〉のことです」

 奉念さんが答える。

「その〈童子の館〉っていうのは何ですか?」

「〈童子の館〉は、一人前の座敷童子になるために修行をする場所です」

「一人前の座敷童子?」

「そうです。ご存じの通り、座敷童子は他人様の家に住み着くことで幸福をもたらす者です。ただ、他人に幸福を与えるということは、自分はその分質素にならなければならない。着る物、食べる物、住む所、みんな質素なものです。けれども、そうまでしても他人様を幸せにしてあげたいと思う心。それが座敷童子にとって一番必要なことなんです。つまりは、自分のことばかり考えている者は半人前も良いところなのです」

 奉念さんはそこで言葉を切り、ちらりと座子ちゃんを見る。

「ですから、あのようにしこたま着飾っている者は、半人前なんですよ」

 奉念が言うと、座子ちゃんは唇を噛み締める。

「……他人を幸せにすることが、そんなに偉いことなんですか?」

 喉の奥から搾り出すようにして、座子ちゃんは言う。

「自分がいっぱい贅沢をして幸せになっちゃいけないんですか?」

「自分の幸せばかりを考えている人間に、本当に幸せなんて訪れない。〈童子の館〉で散々教え込まれただろう?」

「そんなの、あなた方がそれらしいことを言って、わたしたちを洗脳しようとしているのではありませんか?」

「何だと……?」

 にわかに奉念さんの声に怒りが滲む。しかし、座子ちゃんは自分の考えを曲げようとしない。

「……あのさ、ちょっと良いか」

 その時、俺は声を上げた。

「こんなこと言うのもなんだけど、俺は座子ちゃんの気持ちが少し分かるかもしれない」

「えっ?」

 俺の言葉を受けて、座子ちゃんが目を丸くする。

「実は俺もさ、小さい頃から霊能士になるために厳しい指導を受けていたんだよ。まあ俺の場合は父親じゃなくて爺さんなんだけど。来る日も来る日も霊力や格闘術の鍛錬ばかりでもう嫌気が差していたんだ。何度も逃げ出そうとした。ていうか、今まさに絶賛逃走中なんだけどさ。ただ今になって、ふっと思うことがあるんだよ。爺さんは俺に立派な霊能士になって欲しいから厳しく接していたんだって」

 俺の紡ぐ言葉を、座子ちゃんは黙って聞いている。

「それでさ、何で立派になって欲しいのかと言えば、やっぱり俺のことを大切に思っていてくれたんだと思う。自分で言うのも何だけど。もしどうでも良い相手なら、構うことなく放って置かれると思うんだ。ほら、よく言うだろう? 怒られる内が華だって」

 すると座子ちゃんがハッとして奉念の方を見た。彼の頬はかすかに赤く染まり、どこか気まずそうな顔をしている。

「……お父さま」

 その時、座子ちゃんがこの場で初めて、奉念さんのことをそのように呼んだ。

 奉念さんはどうやら不器用な性質(たち)のようで、こういった時に気の利いた言葉が思い付かないようだ。けれども、それが逆に彼の娘に対する思いを浮き彫りにしていた。

 すると、座子ちゃんがおもむろにソファから立ち上がり、ゆっくりとした足取りで真央ちゃんの下へと向かう。

「あの……」

 真央ちゃんの前に立ち、座子ちゃんは目を伏せる。

「さっきはひどいことを言ってごめんなさい。それから、今まで真央ちゃんのことを苦しめてしまって、ごめんなさい」

 座子ちゃんは両手を前で重ねて、深々と頭を下げる。

 対する麻里ちゃんは、その姿をじっと見つめていた。

「……座子ちゃん」

 麻里ちゃんが口を開くと、座子ちゃんはびくりと肩を震わせる。

「良かったね、お父さんが迎えに来てくれて」

「え?」

 座子ちゃんは顔を上げる。麻里ちゃんがひだまりのような笑みを浮かべていた。

「もう親子ゲンカをしちゃダメだよ?」

「真央ちゃん……もう、怒っていないの?」

「うん、もう怒っていないよ。だってあたし、座子ちゃんと一緒に遊んで楽しかったもん」

「真央ちゃん……」

 すると、座子ちゃんの顔がくしゃりとなり、涙がぼろぼろとこぼれる。

「あはは、座子ちゃんも泣き虫さんだね」

 真央ちゃんが笑いながら言う。

「うん、そうだね」

 座子ちゃんも同様に微笑んだ。

「おい、座子。そろそろ行くぞ」

 その時、奉念さんが言った。

「はい、お父さま」

 座子ちゃんは素直に頷き、奉念さんのそばに寄った。

「座子ちゃん、もう行っちゃうの?」

 真央ちゃんが言う。

「うん。真央ちゃん、短い間だったけど今までありがとう。麻里ちゃんのお父さまにもよろしくね」

 座子ちゃんが言うと、真央ちゃんはこくりと頷く。

「では、失礼します」

 そう言い残して、座子ちゃんと奉念さんの姿は消え去った。




      5




 笹木家に蔓延っていた問題は解決した。

 水沢さんには俺が自信のあるように言ったが、正直なところ座子ちゃんの父親である奉念さんが現れなければ事態は難航したかもしれない。彼の存在があって、俺の言葉に説得力が出来た。ただまあ、ここ最近元気の無かった真央ちゃんが元気になってくれたので良しとしよう。

 だがしかし、俺にはもう一つ、戦いが残っている。

 俺の部屋のキッチンの方から、香ばしいみその香りが漂ってくる。水沢さんとの買い物から帰った香織が、今日も夕飯の支度をしてくれているのだ。

 俺は先ほどから何度も、ちらちらと料理をする香織に視線を向けている。時折視線がぶつかると、俺はすぐさま視線を逸らす。

まずい、このままではへたれ認定を受けてしまう。俺は男だ。ここで男を見せなければ。

 意を決し、俺は立ち上がる。

 ゆっくりと、料理をしている香織の下に歩み寄る。

「香織」

 俺が呼ぶと、香織はおたまを持った状態で振り向く。

「どうしたの?」

「いや、その……」

「あ、分かった。味見したいんでしょ?」

 そう言って、香織は小皿にみそ汁を注ぎ、俺に手渡す。

「どう、味の方は?」

「うん、美味いよ」

「本当に? 良かった」

 香織はにこりと微笑んで言う。俺も同様に笑みを浮かべる。

 いや、そうじゃなくて!

「なあ、香織」

 もう一度俺が呼ぶと、香織は小首を傾げる。

「どうしたの?」

「いや、その……」

 俺はまた同じように口ごもってしまう。

 このままではダメだ。言わなければ。

「香織! 俺はお前のおっぱいが揉みたいんだ!」

 俺の叫び声が部屋の壁に反響した。

 その場がしんと静まり返る。みそ汁を煮る音だけが聞こえていた。

 やってしまったぁ!

 俺は心の中で絶叫し、がっくりとひざまずく。

 冷静になって考えてみれば、面と向かっておっぱい揉ませてとかおかしいだろ。いくら彼氏が相手でもドン引きしちゃうだろうが。俺は今更、激しい後悔の念に捕らわれる。

「……うん、良いよ」

 ふいに香織が声を発した。

「え……?」

 俺は俯けていた顔を上げ、香織をまじまじと見つめる。

「い、良いのか?」

「うん、少しだけなら。……その代わり、優しくね?」

 香織は頬を赤く染めてそう言った。

「分かった、優しくするよ」

 俺はゆっくりと右手を伸ばし、香織の胸に触れた。

 その時に感じた至福の柔らかみを、俺はずっと忘れることは無いだろう。




 こうして、俺と香織の関係はまた一歩進んだ。








      第三話 フォーリン天女




      1




「ねえ、巧くん。こっちに来て」

 ベッドの上に座っている香織が、俺のことを呼ぶ。しかし俺は、一歩を踏み出せずに躊躇をしている。なぜなら、今の彼女は一糸纏わぬ姿でそこに佇んでいる。白いシーツを羽織っているだけで、その肌がほとんど露出しているのだ。

「どうしたの、巧くん? 早くこっちに来てよ」

 尚も香織が俺のことを呼ぶので、俺は意を決し一歩を踏み出す。

「巧くん。私、もう我慢出来ないよ」

 俺がそばに行くと、香織はどこか切ない表情を浮かべて言う。

「だから……ね?」

 香織は瞳を潤ませて、俺のことを見つめる。

 俺はごくりと生唾を飲み込み、そっと彼女に手を伸ばした。




 右手に柔らかい感触が走った。

 俺はゆっくりと目を開ける。

 気が付けば俺の右手が、ベッドの脇に立っていた香織の胸を鷲掴みにしていた。

「えっ?」

 制服姿の香織は、目を丸くしている。

「えっ?」

 俺も同様に驚きの声を漏らす。

 そこから俺は徐々に意識を覚醒させて行く。それと同時に、こめかみに冷や汗が流れる

「……す、すまん! わざとじゃないんだ!」

 俺はベッドから飛び起きて必死に訴える。

 対する香織は頬を赤く染めて、俺のことをじっと見つめている。

「本当に?」

「当たり前だろ? そんないきなり胸を揉むなんてことはしないよ」

「けど巧くんはこの前、私の胸を揉んだから……」

 香織は口元に手を当てて、恥じらうように言う。

「いや、それはまあ……」

 しばしの間、気まずい沈黙が流れる。

「……あ、そうだ。腹が減ったなー。香織、悪いんだけど朝ごはん作ってくれないか?」

 その場を取り繕うようにして俺が言う。

「う、うん。分かった、少し待っていてね」

 香織は慌てながら、キッチンの方に行く。

 俺も身支度を整えるために、ベッドから下りて洗面所に向かった。




 学校に着いてから、クラスで俺が前の席の内田くんと談笑をしていた時。

「おーい、クッチー&ウッチー!」

 中本くんが意気揚々として、俺たちの下にやって来た。

「ん、どうしたんだ中本くん?」

 俺が尋ねる。

「お前たちに見せたい物があるんだよ」

 そう言って、彼は小脇に抱えていた物を俺たちに見せる。

 それは雑誌だった。ただその表紙は、過剰に露出をした女性の姿が載っている。

 俺は驚愕のあまり口をあんぐりと開けてしまう。

「ほう、風俗雑誌か」

 しかし、内田くんは至って冷静にその雑誌を見つめている。

「ああ。それは親父の雑誌なんだけどさ、こっそり持って来ちまったぜ」

 中本くんはパラパラとページをめくる。

「ほら、見ろよこの人。めちゃくちゃきれいだろ? ああ、こんなきれいなお姉さんとエッチなことしてえな」

 しみじみと中本くんは言う。

「なるほど。一般の素人には相手にしてもらえないから、ついにプロの人に金を払って童貞を捨てようとしている訳だな? けど、そうすると素人童貞っていう不名誉が残るよ?」

 内田くんが呆れたように言う。

「べ、別にそんなつもりはねえよ! ふざけたこと言ってんじゃねえよ、デブが!」

「だからデブって言うなやぁ!」

 またいつものように取っ組み合いを始める二人。

「けど、中本くん。学校にこういう雑誌を持って来るのは、あまり良くないんじゃないか?」

 俺が言うと、中本くんは内田くんの胸倉を掴みながら振り向く。

「何言ってんだよ、クッチー。学校に持って来ちゃいけないからこそ、興奮するんだろうが。それにクッチーだって実は興味あるんだろ? クッチーって、ムッツリスケベっぽいからな」

「うっ」

 悔しいが否定しきれない。

「そういえばさ、クッチーって香織ちゃんとどこまで進んでいるんだよ?」

 ふいに、中本くんが尋ねてくる。

「え?」

「あ、僕も気になるなーそれ」

 内田くんも便乗して来る。

「ほら、どうなんだよクッチー?」

 中本くんと内田くんが珍しく結託をして、ニヤニヤとしながら俺に迫って来る。

 俺は困惑しながら身を引くが、彼らが逃がしてくれそうにないので仕方なく口を開く。

「……とりあえずキスをして、あと胸を揉んだよ」

 訥々とした口調で俺が言うと、二人はにわかに色めき立つ。

「すっげー、クッチー意外とやるじゃん。もう、AとBを済ましちゃったのか。だったら後はCを実行するだけだな」

「えーと、そのAとかBとかCって何のことだ?」

 俺は首を傾げる。

「は? クッチー男女のABCって知らないのか?」

 中本くんが目を丸くする。

「Aはキス、Bは乳揉み。そんで、Cはセックスだよ」

「セッ……」

 俺は思わず言葉を失い、ごくりと唾を飲み込む。

「だからさ、クッチーもヤッちゃいなよ。ダチとして俺らも応援してやっからよ」

 中本くんは俺の肩に腕を回して言う。内田くんもメガネをきらんと輝かせて頷く。

「おーい、お前ら」

 突然、背後で声がした。

 振り向くと、そこには担任の川野先生が立っていた。

 焦る俺たちをよそに、川野先生は机に乗っていた風俗雑誌を手に取って、パラパラとめくる。

「おー、このお姉ちゃん前に相手してもらったんだけど、気持ち良かったぞ」

 何気ない口調で川野先生が言うと俺たちだけじゃなく、クラスメイトたちも驚愕の表情を浮かべた。

「……なんて、冗談だ。お前らこれ没収だからな」

 そう言って、川野先生は教壇の方へと戻って行った。




 俺はベッドの上で悶々としていた。

 朝の一件以降、俺の中でますますいかがわしい妄想が膨らんで行く。

「巧くん……私、巧くんのことが好きでたまらないの」

 香織が艶めかしい声で俺に迫って来る。

 違う、香織はこんな嫌らしい女じゃない。もっと清楚で可憐なんだ。

「ねえ、巧くんはこんな私のこと、嫌い?」

 香織が悲しそうな声で俺を見つめる。

 俺が香織のことを嫌う訳がない。だがしかし、このまま一線を越えても良いのか。

「良いんだよ、巧くん。来て……」

 香織が優しい笑みを浮かべて、俺のことを誘う。

 俺は欲望の赴くまま、香織のことを抱いて……

「……って、何やってんだ俺は」

 ベッドから起き上がり時計を見る。

 時刻は深夜の一時を回ったところだった。

「……散歩でもするか」

 思い立ち、俺はベッドから下りる。それから玄関のドアを開けて外に出る。

 冷たい夜風が頬を撫でた。火照った頭と頬を覚ますには丁度良い。

 俺はアパートを出て、すっかり静まり返った住宅街を歩く。

 空を見上げると、無数の星が瞬いていた。

 中々美しい光景だと思うが正直な所、田舎の星空の方がきれいだったと思う。

 ぼんやりとそんなことを考えていた時、頭上に何かが見えた。

 あれは何だろう? 俺が首を傾げてしばらく見つめていると、薄らと人の形に見えた。どうやら落下しているようで、次第に確かな輪郭を浮かべて地面へと迫って来る。

「――っ!」

 俺は咄嗟に霊力を足に集めて、猛烈な勢いで駆け出す。

 そのおかげで、俺はその人が地面に落下する前に受け止めることが出来た。

 俺はかなりの衝撃を覚悟したが、不思議とそれは無かった。その人はふわりと俺の腕に抱かれる。俺はほっと胸を撫で下ろすが、直後に驚愕する。

 今俺の腕に抱かれているのは女だった。しかもその女は一糸纏わぬ姿でいる。

 つまり、俺は全裸の女を抱いていた。

 月明かりに照らされる女の顔はとても美しい。肩の辺りで切り揃えた髪は艶やかで、白い肌はどこまでも滑らかだ。不覚にも、俺はその姿に見惚れていた。

「……ん」

 すると、ふいに女が身じろぎをする。俺はびくりと肩を震わせた。

 女はゆっくりとその瞼を開く。美しい瞳が現れて、俺のことを見つめた。

「……あんたが、うちのことを助けてくれたんか?」

 女は言う。

「え、ああ。そうだけど……」

 俺は頷く。

「おおきに。……なあ、あんたに抱かれたままでもええんやけど、さすがに道のど真ん中でって言うのはうちも恥ずかしいわ。どこか身を落ち着けられる所に連れて行ってもらえんやろか?」

 女に言われて俺はハッとする。幸い深夜なので辺りに人気は無いが、道のど真ん中で男が裸の女を抱いている姿は確かにまずい。

「わ、分かった」

 俺は慌ててアパートに引き返した。




 アパートの部屋に戻ると、俺はすぐにクローゼットの中を漁り始めた。

 何せ拾って来た女は何も着る物を持っていないようなので、俺が何か衣服を貸してあげなければならない。

「あー、でも女が着るような服なんて無いからな」

 俺が焦りながらぶつぶつと呟く。

「ねえ、あんた。うちはこれでええよ」

 背後で女が声をかけるので振り向く。彼女はベッドの上に座り、裸の上に白いシーツを一枚羽織っていた。

「なっ」

 俺はその姿を見て色々な意味で衝撃を受ける。その格好は、俺の夢の中で香織がしていたのと全く同じ格好だった。もちろん女は香織ではない。しかし、俺は思わずどきまぎしてしまう。

「どや、似合うとる?」

 女は妖艶な微笑みを湛えて、俺に尋ねてくる。

「バ、バカなこと言ってんじゃねえよ」

 俺はさっと視線を逸らして言う。

「何や、照れ屋さんやな」

 女はくすくすとおかしそうに笑う。

 くそ、俺は気を落ち着けるために散歩に出かけたというのに、こんな変な女を拾ってしまうなんて。

「……ていうか、お前は何者だ? 当然、ただの人間じゃないんだろ?」

「せや、うちはただの人間やない。うちは天界に住んでおる天女や」

「天女だと……?」

「いや、正確には住んでおった、やな。今のうちは天界から落とされた堕天女や」

 女は少し物憂げな表情で言う。

「天界から落とされた? 何か悪いことでもしたのか?」

 俺は眉をひそめて問いかける。

「せやで」

 そう言って、女はシーツを羽織ったままベッドから下り、俺の方へと歩み寄って来る。

「な、何だよ」

 俺はたじろぎ、思わず後ずさりをする。しかし、女は構うことなく俺の間近に迫る。

「うちな、この美貌で天界の男神(おがみ)をことごとく落としたんや。そしたら罰として、今度はうちが天界から落とされたっちゅう訳や」

 女はからからと笑いながら言ってのける。

「つまり、お前は色々な男に手を出すアバズレということで、天界から追い出されたという訳か?」

「そない言い方ひどいわ~。うちはただ、男を癒したかっただけやねん。まあもちろん、うちが好き者やっちゅうこともあるけどな」

「まあ良いけど……ところでお前」

 俺が言うと、女は眉をひそめる。

「さっきからお前、お前って。うちには更言三月売命(サラコトミツキノウズメ)っちゅう、立派な名前があるんや。みんなからは、お更(さら)って呼ばれてたんやで」

「ああ、そうかよ」

「せやから、あんたもうちのこと、お更って呼んでや」

 にこりと微笑みながら女は言う。

「ところで、あんたの名前は?」

「え? 朽木巧だけど……」

「へえ。ほなら、あんたのことはタクミンって呼ぶわ」

「ちょっと待て、何でそうなる」

「ええやん、タクミン。可愛らしいやろ?」

「別に可愛らしさなんか求めていない。普通に呼んでくれ。ていうか、もう出て行け」

「何でや? うち、タクミンのこと気に入ったからここにおるー」

 そう言って、女は俺に抱き付く。

「やめろ、ひっつくな! そもそも何で裸のまま落ちて来たんだよ? 天女は羽衣を纏っているもんだろうが」

「それはな、落とされる直前に天界のお偉いさんと致しておったからや。その最中に落とされたから、うちはあられもない姿のままなんや」

「お前、バカじゃないのか?」

 俺は顔を赤面させて、額に手を置く。

「あれ、もしかしてタクミン照れとるん? めっちゃ可愛いやん」

「あーもう黙れ! つーか、俺は明日学校があるから寝ないとなんだよ。ベッドはお前に貸してやるからさっさと寝ろ」

「えー、二人一緒にベッドで寝たらええやん」

「バカ、そんなこと出来る訳ないだろうが」

 口の先を尖らせて不満を漏らす女を無視して、俺は床に枕を置いて横になる。

 最悪だ。また霊と関わることになってしまった。しかも、こんな淫猥な堕天女と。

 俺は心の中で大きくため息を吐いた。




      2




 ちゅんちゅん、とスズメの鳴き声が聞こえて来る。

 カーテンの隙間から差し込む朝日を受けて、俺はゆっくりと目を覚ました。

「うぅん……」

 やはり、床に寝ていたせいで背中が少し痛む。

 直後、すぐそばから甘い香りが漂って来た。まだ虚ろな目でその方を見つめると、そこにはお更がいた。裸に白いシーツを引っかけただけの格好で、俺のすぐ隣に寝ている。

「……ん」

 すると、お更がゆっくりと目を開けた。

「あ、タクミン。おはよう」

 驚愕する俺をよそに、お更は至って落ち着いた顔をしている。

「な、何で俺の隣に寝ているんだよ?」

「だって、人肌が恋しかったんやもん。タクミンの身体をぎゅっとしたかったんやもん」

 そう言って、お更は細くしなやかな腕で俺のことを抱き締める。

「や、やめろ」

「そない照れなくてもええやん」

「別に照れてねえよ!」

 俺は叫ぶ。

 その時、バタンと玄関のドアが開く音がした。

「巧くん、おはよう。もう起きているかな……」

 部屋に入って来た香織は、俺たちの姿を見るなり硬直した。

 俺は口をあんぐりと開ける。全身から冷や汗が噴き出して止まらない。

「……なあ、タクミン。この女は誰や?」

 空気の読めないお更が尋ねてくる。

 俺はきっとお更を睨み、それから恐る恐る香織の方を見る。

 すると、香織はとびきりの笑みを浮かべていた。

「……ねえ、巧くん。まだ朝ご飯は食べていないよね? これから用意をするね」

 そう言って、香織はいつものように制服の上からエプロンを着て、キッチンの方に立つ。

 俺はいそいそと身支度を整えて、リビングのテーブルの前に座る。その隣に、まだ寝起きの気だるさを引きずったお更が座る。

 キッチンの方では、香織が包丁で野菜を刻んでいる。規則正しいリズムだ。

「なあ、タクミン。あの女は誰なん?」

 お更が尋ねてくる。

「香織はその……俺の彼女だよ」

 俺は少し照れながら答える。

「えー、嘘やろ。タクミン彼女おったん? 昨日の夜、その一見細身ながらも引き締まった身体でうちのこと抱きしめてくれたのに」

「なっ、俺はそんなことしてねえだろ!」

 ダンッ! と強くまな板を叩く音が聞こえた。香織の包丁のリズムが乱れている。

「ちょっと、気ぃ付けや。包丁の扱いは慎重にやで」

 お更が声をかけると、香織は笑顔で振り返る。

「ええ、そうですね。包丁は慎重に扱います」

 そう言って、香織は再び料理の方に集中する。

「お前、頼むからもう喋らないでくれ」

 俺がお更に言う。

「えー、何でなん。うちもっとタクミンとお喋りしたいわ」

 拗ねたようにお更は言う。

 するとまた、香織の包丁に乱れが生じる。

 俺は色々な意味で冷や汗が止まらなかった。




 その食卓は不思議な光景だった。

「タクミン、あーん」

「やめろ、自分で食えるから」

「えー、そない冷たいこと言わんでよ」

 俺はいつも通り彼女である香織が作った料理を、一緒に向かい合って食べている。ただ、そんな俺の隣に別の女であるお更がいるのだ。

 当然、俺は香織一筋で浮気などする訳がない。

だがしかし、この状況は何だ。

「ねえ、巧くん」

 その時、香織が俺のことを呼んだ。

「な、何だ?」

「聞きそびれちゃったけど、そちらの方はどちら様?」

「え、ああ。それは……」

 俺が答えようとした時、

「うちはタクミンの愛人やで」

 お更が突拍子もないことを言った。香織の表情が固まる。

「おまっ……適当なこと言ってんじゃねえよ!」

「適当ちゃうもん。うちタクミンのこと好きになったから、愛人にしてもらうねん」

 ダンッ! と机を強く叩く音がする。香織の箸が机に突き立っていた。

「ごめんなさい、手が滑っちゃった」

 香織は言う。

「もう、気を付けてや」

 お更が咎めるように言う。

「うふふ、ごめんなさいね」

 香織は先ほどから終始笑顔だ。それにも関わらずめちゃくちゃ怖いのは何でだろう? 香織は顔こそ笑っているが、その背後には凄まじい殺気が漂っているような気がしてならない。

「あ、あのな香織。彼女は天界から落ちて来た堕天女で、お更って言うんだ。昨日の夜に散歩をしていたらいきなり裸のまま落ちて来て、それで仕方なく連れて帰って来たんだ」

 慌てながら俺が説明する。

「そうなんだ。だから食事中にも関わらず、そんなはしたない格好をしているのね」

 香織は笑顔で棘のある言葉を放つ。

「言ってくれるやないの小娘。うちは天界におった頃は上品な女って言われておったんやで」

「そうですか」

「うん、とても上品に喘ぐ女やって」

 お更が言うと、香織は目を丸くして顔を赤らめた。

「おや、赤くなって。うぶな小娘やな」

「しょ、食事中に下品な話をしないで下さい」

「ええやないの。案外、猥談を交えた方が食事も進むんやで?」

 二人の間に険悪なムードが漂う。

「な、なあ香織」

 俺は遠慮がちに声をかける。

「何、巧くん?」

 香織は少し冷たい声で訊いてくる。

「あのさ、悪いんだけどこいつに服を貸してやってくれないか?」

「私がこの人に?」

「そう。頼むよ、このまま裸でいられると困るからさ」

「えー、嫌やわ。こんな小娘の服なんか着たら、うちがみすぼらしくなってまうやん」

 お更がまた余計な一言を言う。

 すると、香織の頬が一瞬引きつったように見えた。

「そうですか。それならずっと裸のままでいて下さい。というか、早く元の居場所に帰って下さい」

「それは無理や。うち羽衣がないから天界に帰られへん。せやから、これからずっとタクミンと一緒におるんや」

 そう言って、お更が俺に抱き付いて来る。

「だから、ひっつくなって!」

「えー、ひどい。タクミンはうちのこと嫌い?」

「そういう問題じゃないだろ。とにかく、離れろって」

「嫌や。うちはずっとタクミンにくっついとるんや」

「お前、いい加減に……」

 その瞬間、ズゴゴゴと凄まじい威圧感が放たれる。

「巧くん、早く食べないと冷めちゃうよ?」

 香織は飛び切りの笑顔でそう言った。




 史上最高に気まずい朝食を終えて、俺は学校に行くため部屋を出る。

「ねえタクミン、いってらっしゃいのチューしたる」

 玄関先でお更がそんなことを言い出す。

「はあ? 何でそんなことしなきゃなんだよ?」

「ええやん、ラブラブの新婚夫婦みたいで」

「俺とお前は夫婦でも何でもないだろ」

「ひどい、一晩一緒に寝た仲なのに……」

 お更はぐすりと涙ぐむ素振りを見せる。

「そ、それはお前が勝手に俺の隣に来たんだろうが!」

 俺は慌てて否定をする。

「とにかく、俺たちはもう学校に行くから。絶対に部屋から出るなよ!」

 俺は念を押すように強く言い、玄関のドアを閉める。

 何か登校する前なのにすでに疲労困憊だ。

「……さてと、行こうぜ香織」

 俺は香織に声をかける。しかし、なぜか香織は黙ったまま返事をしない。

「香織? どうしたんだよ?」

 俺は顔を覗き込むようにして尋ねる。だが、尚も香織は反応しない。

「あの、香織さん?」

 俺が慎重な声音で呼ぶ。すると、ようやく香織が顔を上げる。俺はほっと安堵の息を漏らしかけるが、香織は鋭い目で俺のことを睨んでいた。

 俺は思わずたじろいでしまう。

「行きましょう?」

 香織に言われて、俺はハッとして歩き出す。

 無言でスタスタと歩く香織の背中を、俺は気まずい思いで追いかけた。




      3




 学校の廊下を、俺は一人でとぼとぼ歩いていた。

「はあ~……」

 口から盛大なため息が漏れる。

 アパートを出て学校へと向かう道中、俺は朝の失態をフォローすべく必死で香織に話しかけたが、全て冷たくあしらわれてしまった。今まで自分に対して常に優しい笑みを浮かべていた香織にそのような態度を取られて、俺は意気消沈していた。

「はあ……マジでどうしよう」

 がっくりと肩を落とした直後、

「とりゃぁ!」

思い切り背中をどつかれた。

「ごふっ……!」

 俺はくぐもった呻き声を漏らし、後方に振り返る。

「よっす、クッチー」

 軽い調子で言ったのは水沢さんだった。

「何だ、水沢さんか。いきなり誰かと思ったよ」

「ふっふ、甘いぜクッチー。いつ何時でも敵に後ろを取られちゃいけないよ」

 なぜかにやりとほくそ笑みながら水沢さんが言う。

 俺は苦笑するしか無かった。

「それにしてもクッチー、凄い落ち込みっぷりだね。どうしたんだい?」

 水沢さんが尋ねてくる。

「いや、そんなことは無いよ」

「嘘だね、今思いっきりため息吐いていたじゃん。カオリンも何かご機嫌ナナメみたいだし、何かあったんでしょう?」

 水沢さんはまじまじと俺のことを見つめてくる。

 俺はそんな彼女の迫力に押されて、事のあらましを話す。ただし、霊に関することは伏せて。

「ふむふむ、なるほどね」

 水沢さんは腕を組んで、しきりに頷いている。

「それは百パーセントクッチーが悪いね」

「ですよね……」

 俺はがっくりと肩を落とす。

「何でそんな女を家に連れ込んだの?」

 咎めるように水沢さんが言う。

「いや、そのまま放って置く訳にもいかなかったから」

 俺が言うと、水沢さんは大きくため息を漏らす。

「あのさ、カオリンってクッチーのことが大好きなんだよ。カオリンの話題はほとんどクッチーのことだし。いつも『巧くんがね、巧くんがね』って。本当に健気で良い子だよカオリンは。そんな子の前で、他の女とイチャつくなんてクッチーはもう……」

「いや、俺だってそんなことをするつもりは……」

「お黙り! 言い訳は聞きたくなくってよ!」

 突然、水沢さんが鋭い口調でキレ始めた。

「あんな可愛くて、おっぱいが大きくて、健気で、おっぱいが大きくて、おっぱいが大きい子を悲しませるなんて!」

「いや、君が思う香織の魅力はおっぱいが大半じゃないか」

「黙らっしゃい! とにかく、あんな素敵なカオリンを悲しませた罪は重いよ。反省しなさい!」

 言い募られて、俺はへこんでしまう。

「……はい、面目次第もございません」

「あたしに謝っても仕方が無いでしょ。カオリンに謝りなさい!」

 何だか今日の水沢さんは厳しい。彼女はクラスの中でも香織と仲が良いから、友人として俺の行動に憤りを感じているんだろうか。

「とにかく、クッチーはカオリンにきちんと謝りなさい!」

「は、はい」

 俺は思わず背筋を正す。

「うんうん、分かればよろしい」

 しきりに頷いて、それから水沢さんが何か閃いたように顔になる。

「今日の放課後さ、みんなで遊びに行かない?」

「みんなで遊びに?」

「うん。いきなりカオリンと二人きりになるよりも、みんなと遊ぶ中で自然と会話した方が仲直りしやすいかなと思って」

 水沢さんは言う。

「なるほど、確かにそうかもしれないな」

「でしょー? じゃあさ、なかもっちゃんとウッチーにも声をかけて五人で遊びに行こうぜぃ」

「分かった」




     4




 青原高校からバスに乗って十分ほどで、市街地に到着した。

 街には俺たちの他にも制服姿の学生が多く見受けられる。思えば、俺は眉前市に引っ越して来てから街に出るのは初めてかもしれない。

「香織は水沢さんと何度か買い物に来ているんだよな?」

 さり気なく俺が尋ねる。

「うん、そうだよ」

 対する香織は、少し冷たい声で答える。

 俺は出鼻を挫かれたようでがっくりと肩を落とす。

「大丈夫か、クッチー?」

 心配するように声をかけてきたのは中本くんだ。

「聞いたぜ、香織ちゃんとケンカしてんだって?」

「ああ、実はそうなんだ。ちょっと色々とあってさ」

 俺はため息交じりに言う。

「そっか、そっか。まあ男と女ってのは難しいもんだからな。もし何かあったら俺に相談しろよ。ビシッと解決するためのアドバイスをしてやるからよ」

 中本くんは胸を張って誇らしげに言う。

「対して女子と上手く関われていないへたれヤンキーが何を言ってるんだか」

 呆れるように言ったのは内田くんだ。

「何だと、クソデブが!」

「誰がデブだコラアァ!」

 二人はいつものように取っ組み合いを始める。

「はいはい、お二人さんストップ、ストップ。ここは教室じゃないんだよ」

 二人を仲裁するのは水沢さんだ。彼女は互いに激しく睨み合っている二人を、どうどうと猛獣使いよろしくたしなめている。すると、二人はまだ鼻息が荒いながらも、互いに身を引いた。

「よーしよし、良い子だねー。……さてと、これからどこに行こうか?」

 水沢さんが俺たちに問いかける。

「俺はハンバーガーが食いてえな」

 中本くんが言う。

「うーん、ハンバーガー屋も良いけどさ。ファミレスの方が色々メニューがあって良いんじゃないかな?」

 水沢さんが提案する。

「うん、確かにファミレスの方が良いかもしれないね。ここの近くにあるから、あまり歩かなくて済むし」

 内田くんが水沢さんの意見に賛同する。

「ちっ、デブなんだから歩けよ」

 中本くんがぼそりと呟く。

「だから、デブって言うんじゃねえ!」

 内田くんは凄まじい反射神経を見せる。

「はいはい、落ち着いて。なかもっちゃん、いい加減にしときなよ。ウッチーも、もう少しデブ耐性身に付けなきゃダメだよ」

「悪い……」

「ごめん……」

 中本くんと内田くんはしゅんと肩を落とす。

すごいな、水沢さん。あの二人を見事にコントロールしている。先ほどから発揮しているリーダーシップと言い、実はすごい人なのかもしれない。

「カオリンもファミレスで良いかな?」

水沢さんが尋ねる。

「うん、亜希子ちゃんに任せるよ」

にこりと笑いながら言った。

「そんじゃあ、ファミレスに向かってレッツゴー!」

意気揚々と先頭に立つ水沢さんの後に付いて、俺たちは歩き出す。

その時、ふいに街の通りがざわついた。

「何だ、何だ?」

俺たちもパッとそちらに視線を向ける。

そこには一人の女がいた。

胸元が大胆に開いた服を着て、首からは大きな真珠のネックレスを下げている。派手な服装をした華やかな女が街の通りを闊歩している。美しい女がそんな事をしているものだから、否が応でも人目を引く。

「すっげー、どエライ美人がいるぞ。良いなー俺あんなお姉さんとエッチなことしてえよ」

 そんな風に声を上げたのは中本くんだ。

「確かにすごい美人だね。僕の守備範囲では無いけど」

 内田くんが冷静に言う。

「ん、クッチーどうしたんだい?」

 女の姿を見て固まっている俺に、水沢さんが尋ねてくる。

 その時、派手な女がこちらの方に振り向いた。

「――あ、タクミーン!」

 派手な女が、大声を上げてこちらに手を振った。

 俺は無言のままそっぽを向く。

「ねえ、タクミンってばー!」

 尚も派手な女は声を張り上げる。

「何かあの女の人、クッチーのこと呼んでいない?」

 水沢さんが訝る視線を俺に向けて来る。

「いや、何かの聞き間違いだよ」

 俺は乾いた笑い声を漏らす。

「こっち向いてや、朽木巧ぃ!」

「フルネームで呼ぶな!」

 言った直後、俺は「あっ」と声を漏らす。

「あ、タクミンやっと反応してくれたわー」

 派手な女――お更は嬉々とした表情で言い、俺のそばに歩み寄って来る。

 それから、俺の腕に抱き付いた。

「なあ、タクミン。何でうちが呼んだの無視したんや? めっちゃ寂しいやん」

 お更は眉尻を下げて悲しそうに言う。

「そんな派手な格好で歩いている奴と、知り合いだと思われたく無かったんだよ。ていうか、部屋から一歩も出るなって言っただろうが!」

「だって、ずっと部屋に一人でおっても退屈なんやもん」

「我慢しろよ! ていうか、その服とかどうしたんだよ?」

「ああ、これはあの人たちに買うてもろうたんや」

 お更が振り向いた先には、大勢の男たちがいた。

「うちな、裸にシーツ一枚引っかけた格好で街をうろついてん。そこで会った男に『服を買うてや』って頼んだら、二つ返事で頼みを聞いてくれたわ。人間界の男も中々紳士的でうち好きになりそうやわ」

「お前な……」

 俺は頭を抱えて唸る。

「何やタクミン、もしかして嫉妬してるんかいな? 心配せんでも、うちはタクミンが一番好きやで」

「バ、バカなこと言ってんじゃねえよ!」

「もう、タクミンはほんまに照れ屋さんやなー」

 楽しそうに笑いながらお更は言う。

「お、おいクッチー。その超美人なお姉さんはクッチーの何なんだ?」

 にわかに震える声で尋ねてきたのは中本くんだ。

「いや、こいつは……」

 俺が口を開きかけた時、

「うちはタクミンの愛人やで」

 お更がさらっと言った。

「あ、愛人!?」

「何やそこにおる乳のデカい小娘がタクミンの彼女とか言うとるけど、うちの方がタクミンにふさわしいと思うねん。せやから、うちはタクミンの本命の座を奪い取る愛人や」

 お更は香織の方を見つめながら、そう言った。

 彼女の衝撃的な発言によって、中本くんたちは驚愕の表情を浮かべたまま固まっている。

 ただその中で、香織だけは冷静な顔をしていた。

 やがて香織はくるりと踵を返してこちらに背を向ける。

「か、香織? どうしたんだ?」

 俺が声をかけると、香織はしばらく間を置いてから口を開く。

「私、他に用事を思い出したから。ねえ、亜希子ちゃん。良かったら付き合ってくれない?」

 香織が言うと、水沢さんは目を丸くした。

「さあ、行きましょう」

 そう言って、香織はスタスタと歩き出す。

「ま、待ってよカオリン!」

 その後を慌てて水沢さんが追う。

「香織!」

 俺もすぐさまその後を追うために駆け出す。

 しかし、背後からぎゅっと抱き付かれた。

「タクミン、行っちゃあかんで」

 顔だけ振り向くと、お更がにこりと微笑んでそう言った。

「お前……邪魔しないでくれ!」

「ええやん。他に用事があるっちゅうんやから、放って置けば」

「良いから離せって!」

 俺は強引に振りほどこうとするが、お更は意外にも力が強く、抜け出すことが出来ない。

 そうこうしている内に、香織の姿は人ごみの中に消えてしまった。

「あ……」

 俺は途端に脱力して、だらんと首を垂れる。

「あの小娘、どっかに行ってもうたな」

 お更が言う。

「まあ、ええやん。そんなことよりも、これからうちと二人きりでおデートしようや」

「はあ? 誰がお前なんかと……」

「ええから、ええから」

 お更はまた見かけに寄らない力を発揮して、俺のことをぐいぐいと引っ張って行く。

 ちらりと振り返ると、その場に残された中本くんと内田くんが呆然と俺のことを見つめていた。俺は彼らと、それからすでに居なくなってしまった香織のことを思って胸が痛んだ。




      5




 街の日は沈み、次第にネオンの光が輝き出す。

 行き交う人々の中に学生たちの姿は少なくなり、代わりにサラリーマンのような大人たちへと変わって行く。

「なあ、タクミン。次はどこに行くぅ?」

 すぐそばで、お更の艶めかしい声がする。

 しかし今の俺は完全に憔悴しきった状態なので、まともに反応することが出来ない。

 あれから、俺はお更に翻弄されっぱなしだった。

 買い物に付き合わされたり、ご飯に付き合わされたり、また買い物に付き合わされたりと。

 慣れていないはずの人間界で自由奔放に振る舞うお更に、俺は辟易としていた。

「もう、帰ろうぜ」

 俺が言うと、お更は口の先を尖らせる。

「何でや? もっといっぱいデートしようや」

「あのな、俺は一刻も早く帰って香織と話をしなくちゃいけないんだよ。だから、もう勘弁してくれよ」

「ふん、あの小娘のことなんてどうでもええやないか」

 お更は不機嫌そうに鼻を鳴らしてそっぽを向く。

 俺はどうしたものかと、後頭部をかきながら悩む。

「……分かったわ。そこまで言うんやったら、もうデートは終わりにしたる」

 意外にも、お更の方が折れた。

「ただし、最後に付き合うてもらいたいとこがあるんや」

「あー、分かったよ。で、どこに付き合えば良いんだ?」

「あれや」

 お更が指差す先に視線を向ける。

 遠くの方におぼろげながら見えたのは、遊園地の観覧車だった。

「お前、あれに乗りたいのか?」

 少し意外に思って俺が聞くと、

「うん、乗りたい」

 と、お更は頷く。

「分かった。これで本当に最後だからな」

「おおきに」

 お更はにこりと微笑んだ。




 夕方以降はほとんどのアトラクションが終了となるが、夜に観覧車だけは動いているようだった。

「ここの観覧車は、カップルで訪れる人気スポットなんやって」

 お更が言う。

 薄暗い園内において、観覧車だけがスポットライトを浴びて浮かび上がっている。まるでそこだけ、別世界の空間があるように感じられる。

「ほな行こか、タクミン」

 お更に促されて、俺たちは観覧車のゴンドラへと乗り込む。そして向かい合う形で座った。

「ん、どないしたんやタクミン? 何や落ち着かん様子やな?」

 お更が首を傾げて言う。

「いや、まあ……」

 俺は口ごもる。

 俺の実家である梅干村はド田舎のため、当然ながら遊園などという洒落たものは無かった。だから俺は観覧車を初めて体験するということで、戸惑いと緊張を感じていた。

「くす、タクミン可愛えの」

「うるせえよ。ていうか、お前も初めてなんだろ? 戸惑ったりしねえのかよ?」

「うちは肝が座っておるさかい、平気や。むしろ、ワクワクしておるくらいやで」

 にこりと微笑んでお更は言う。

「あっ、そうかよ……うぉ!」

 急にゴンドラが動き出したので、俺はびくりと反応してしまう。

「タクミン、ビビり過ぎやで。ほんま可愛えなぁ」

「うるせえよ」

 俺は少しムッとしてそっぽを向く。

「つーか、何で観覧車に乗りたいなんて言い出したんだよ?」

「タクミンと二人きりで話がしたかったんや。ここなら誰にも邪魔されないし」

「邪魔って何の邪魔だよ?」

「うちとタクミンがラブラブする邪魔や」

「お前はまたそんなことを言って……」

 俺が眉をひそめながら呆れた時。

「うちな、めちゃくちゃ美人やからモテるねん」

 唐突に、お更がそんなことを言い出す。

「それは自慢か?」

「うん、自慢や。大概の男はうちに惚れておったし、落とせんことは無かった。うちが歩けば男の視線が釘付けになるし、この美貌と身体を堪能するために言い寄って来る。一人二人、最高で十人以上は同時に相手にしたこともあったな。みんなうちの魅了にメロメロやったんや」

「はあ、それはそれは素晴らしいことで」

 俺は適当に相槌を打つ。

「……けどな、そんなうちも落とせないもんがあったんや」

 お更の声のトーンが下がる。

「ほとんどの男はうちに惚れこんだ。……せやけど、ほんまに好きな男はうちに惚れてはくれなかったんや」

 ふいに憂いを帯びたお更の顔を見て、俺は少しどきりとした。

「その男には他に好きな女がおったんや。ただ、その男にどうしてもうちのこと好きになってもらいたくて、精一杯アピールをしたんや。せやけど、その男がうちに振り向いてくれることは無かったんや。その鬱憤を晴らす意味も込めて、うちはそれまで以上に多くの男と交わり、必死で心の空白を埋めようとしたんや。そうしたら、天界から追い出されて堕天女になってしもうたんやけどな」

 自嘲するようにお更は言う。

「うちは汚れた女や。色々な男と交じり合って、娼婦みたいなもんやな。そんな女が一丁前に本気の恋をしようなんて、間違うとったんやろうな」

「――そんなこと言うなよ」

「え?」

 俺が言うと、お更は目を見開く。

「自分のことを汚れた女なんて言うなよ」

「せやかて、うちは堕天女や。天界に住まう美しい天女とちゃうんやで?」

「お前が多くの男と交じり合ったからか?」

「そうやで」

 俺は少し間を置く。

「……俺はそういった経験は無いからよく分からない。けれども、お前はお前なりに必死に考えてそんな振る舞いをしていたんだろ? それはそれで、立派な生き様なんじゃないか?」

 お更はじっと俺のことを見つめている。

「お前と交わることで癒された男も多いだろうし、もっと誇っても良いことなんじゃないか? だから、そんな風に自分を卑下するようなことを言うなよ」

「タクミン……」

 お更が声を漏らす。

「やっぱりタクミンは良い男やな。さすが、うちが惚れた男やで」

「え?」

「うちな、本気でタクミンのことが好きなんよ。タクミンはうちがふざけて言いよる思うとったかもしれんけど、うちはほんまにタクミンのことが好きで、精一杯アピールをしておったんや」

 突然の告白を受けて、俺は少なからず動揺してしまう。

「な、何で俺のことを……?」

 少し声が上ずる俺を見て、お更はおかしそうに笑う。

「だって、タクミンはうちのことを助けてくれたやん」

「助けたって……お前が空から落ちて来た時に俺が受け止めたことか?」

「そうや。天界から落とされた時、うちはもう死ぬんやって思ったんよ。けれどもふっと目を覚ますと、うちの身体を抱きかかえるタクミンの顔が見えてな。うち、すっかり惚れてしまったんよ。この人のためなら全部を捧げてもええって、ほんまに思ったんやで」

 すると、お更はおもむろに席から立ち上がり、俺の隣に座る。

 おかしい、彼女からすり寄られるのは慣れているはずなのに、今この時はなぜだか胸の鼓動が高鳴る。間近で感じる彼女の存在が、妙に艶めかしく感じられた。

「タクミン」

 お更の甘い吐息が、俺の耳元をくすぐる。

「さっきも言うたけど、タクミンが望むならうちの全部をあげる。毎日好きなだけ抱いてもええ。メチャクチャにしてくれても構わへん。そう思ってしまうくらい、うちはタクミンのことが好きなんやで」

 俺は緊張のあまりお更を直視することが出来ない。密着する肌から彼女の体温が伝わって来る。豊かな胸の奥にある心臓の鼓動も伝わって来る。それは俺に負けないくらい、早鐘を打っていた。俺は思わず、ごくりと生唾を飲み込んでしまう。

 おもむろに顔をお更の方に向けると、それまで余裕の笑みを浮かべていた彼女が、激しく赤面をしていた。ここまで来れば男女経験に乏しい俺も、彼女の気持ちが本気であることが分かった。

「……ありがとうな」

 ぽつり、と俺がその言葉を漏らす。

「本気で俺のことを思ってくれて、嬉しいよ」

「タクミン……」

 俺は小さく息を吸う。

「――でも、ごめん。俺は他に好きな女がいるんだ。だから、お前の気持ちを受け入れることは出来ない」

 俺は言った。彼女の目をしっかりと見つめて、そう言った。

 しばらくの間、沈黙の時が訪れる。

俺たちはただ、ゴンドラの静かな揺れだけを感じていた。

「……そっか」

 お更が静かに呟く。

「やっぱり、タクミンはあの小娘を選ぶんやね」

「ああ」

 俺は静かに頷く。

「そんなにあの小娘のことが好きなんか?」

 お更が問いかけてくる。

「俺は香織のことだけが好きだ」

 俺はハッキリと強い口調で言った。

「妬けるなぁ、ほんまに」

 お更は言う。

「何でうちが本気で惚れる男には、いつもきちんとした相手がおるんやろな? もしかしたら、そういう宿命なんかもしれんな。うちは一生幸せにはなれへん」

 憂いに沈んだ表情で、お更は切なそうに吐息を漏らす。

「だから、そんな風にネガティブな思考をすんなって言っただろうが」

 俺が言うと、お更はふっと顔を上げる。

「何だかんだでお前はきれいだし、性格もそんなに悪くないから、その内きっと良い相手が見つかるよ」

「タクミン、うちのこと慰めてくれるん?」

「まあ……な」

 俺は照れ臭くなり、そっぽを向く。

「うちのこと、フッたくせに?」

 痛いところを突かれて、俺はうっと呻いてしまう。

「冗談やって。ありがとうな、タクミン」

「どういたしまして」

 俺は少しぶっきらぼうな調子で答えてしまう。

「なあ、タクミン。最後に一つだけお願いがあるんやけど」

「お願い?」

「あのな、『お更は良い女だ』って言うてくれへんか?」

「えっ?」

「頼むわ。それを言ってもらえれば、タクミンのこときっぱりと諦めることが出来るんや」

 ふいに、お更が真剣な顔付きになる。

「わ、分かった」

 俺はつい頷いてしまう。

「――お更は良い女だ」

 少しぎこちないながらも、言うことが出来た。

「ありがとな」

 そう言って、お更はふいに俺の頬にキスをした。

「はっ?」

 俺は突然のことに、一瞬呆然としてしまう。

「うちのお願いを聞いてくれたお礼やで」

 片目をぱちりと閉じて、お更は言った。

「お前な……」

 俺が文句を言おうとした時、ゴンドラが停止した。

「着いたみたいやね」

 そう言ってお更は立ち上がり、軽やかな動きでゴンドラから降りた。俺も慌ててその後を追う。

「おい、ちょっと待てよ」

 俺はご機嫌な調子で歩いて行くお更を呼び止める。

「なあ、タクミン」

 お更が振り返って口を開く。

「うちな、やっぱり天界に帰ろうと思うねん」

「え? けど、羽衣がないから帰れないんだろ?」

「そうやねんけどな。この街の外れに神社があるみたいやから、そこにおる神様に頼んで天界に帰してもらおうと思ってんねん」

「そんな簡単に帰れるもんなのか?」

「大丈夫や。うちは良い女やから、神様もきっと助けてくれるわ」

 お更は言う。

 俺はそんな彼女を見て、思わず口を開く。

「おい。もし、神様に断られたら……そん時はまた俺の所に来い。お前が天界に帰れるまで、面倒を見てやるよ」

 俺がそう言うと、お更は一瞬目をぱちくりとさせ、それから笑い声を上げる。

「何やタクミン、やっぱりうちと別れるのが寂しいんか?」

「なっ……そんな訳ねえだろうが。人が本気で心配してやってんのに、茶化すんじゃねえよ」

「おおきに。けど、遠慮しておくわ。タクミンと小娘がイチャつくところを間近に見るなんてごめんやからな」

「お前な」

「それから、うちも前向きに生きたいから。いつまでもタクミンに執着したくないねん。せやから、ここでお別れや」

 お更はにこりと微笑みながら言った。

「ああ、元気でな」

 俺が言うと、お更は笑みを浮かべたまま頷いた。




      6




 俺は自宅のアパートの前に立っていた。

 お更と別れた後、携帯で香織に連絡を入れた。もしかしたら無視をされてしまったかもしれない。それでも、俺は彼女のことを信じて自分の部屋へと向かう。

 玄関ドアの前に立つと、俺は緊張を解きほぐすために深呼吸をする。

 そして、しっかりと気持ちを固めてドアを開けた。

 室内を見渡すと、彼女の姿があった。

「……お帰りなさい」

 こちらに気が付いて、彼女は静かな声で言う。

「ただいま、香織」

 俺はゆっくりと、テーブルの前に座る香織の下へと向かう。

「良かったよ、ちゃんと来てくれて。どうしても、香織に話したいことがあったんだ」

 俺は言って、香織のそばに腰を下ろす。

「話って何?」

 香織は冷たい口調で言う。俺は少したじろいでしまうが、逃げようとする気持ちを振り払い、香織のことを真っ直ぐ見つめる。

「香織、ごめん」

 俺は頭を下げる。

「決してそんなつもりは無かったとはいえ、お更の一件でお前に嫌な思いをさせてしまった。本当に、彼氏として俺は最低だと思う」

 俺はまた顔を上げて、香織を見つめる。

「けど、俺は香織のことが好きなんだ。香織のことだけが好きなんだ。だから、許してくれないか?」

 俺は必死の思いで香織に言った。

「……本当に悪いと思っているの?」

 香織が言う。

「ああ、本当に悪いと思っている」

「そう……けど、簡単には信じられないな」

「えっ?」

「言葉だけじゃ伝わらないよ……」

 香織がいつになく真剣な眼差しで、俺に訴えて来る。

「……分かったよ」

 頷いてから俺は香織の華奢な肩を抱き、まじまじと彼女の顔を見つめる。

 言葉で伝わらないのなら、態度で示すしかない。

 これまでに俺は香織とキスをした。胸も揉んだ。

 そして、その次に来るものは――

 ごくり、と生唾を飲み込む。緊張のあまり手が震える。香織はそんな俺の様子を真剣な目で見つめている。

 ここで逃げる訳には行かない。もしここで逃げたら、俺は男として失格だ。自分に必死で言い聞かせる。

 男女のA、B、C。

 俺はそのステップを着実に踏むんだ。

 香織との関係を、きちんと進めるんだ。

「香織!」

 俺は叫んで、香織をベッドに押し倒した。

「……きゃっ!?」

 香織が驚いたように叫び声を上げる。

「た、巧くん? いきなり何をするの?」

 香織が困惑した表情を浮かべている。

 しかし、すっかり冷静さを欠いた俺は止まらない。

「香織、香織!」

 俺は無我夢中で香織の身体をまさぐり、胸を強く揉んだ。

「痛っ……ちょっと、やめて!」

 香織が叫んで俺のことを突き飛ばす。

「香織……?」

 俺は頭が真っ白になり、呆然としてしまう。

「どうしてこんなことをするの?」

 香織は自らの身体を抱きかかえるようにして、身を震わせている。

「いや、それは……」

 俺はにわかに焦って、上手く言葉が出て来ない。

 すると、香織は立ち上がった。

「香織?」

「……もう帰るね」

 そう言って、香織はスタスタと玄関の方へと向かう。

「か、香織。待ってくれ!」

 俺は必死に叫ぶ。しかしその言葉が香織に届くことはなく、彼女は無言のまま部屋を出て行った。

 その場に残された俺は力なく肩を落として、俯いた。

「……何やってんだ、俺」




 こうして、俺と香織の関係は少し気まずくなった。






      第四話 ギガント猫




      1




 部屋の真ん中に、ベッドが置かれている。

 その上に香織が座っている。今度はきちんと服を着ていた。

「香織」

 俺は呼びかけて、ゆっくりと彼女の下へと歩み寄る。

 しかし、彼女は突然ベッドから立ち上がり、俺の脇を素通りして行く。

「おい、香織どこに行くんだよ?」

 俺は慌てて、香織の肩を掴む。

「触らないで」

 香織が冷たく刺すような視線を向けて来る。

「香織……?」

 俺は絶句する。

「私はもう、巧くんのことなんて好きじゃないから」

 吐き捨てるように言うと、彼女は部屋から去って行った。

 一人残された俺は悲鳴を上げた。




「うああああぁ!」

 勢い良く起き上がり、俺は荒い吐息を漏らす。

「……夢か」

 背中にひどく汗をかいている。Tシャツがべったりと貼りついて気持ちが悪い。喉も渇いて少しひりついている。

 俺はおもむろに玄関のドアを見つめた。いつものように香織がやって来て、制服にエプロン姿で朝食を作ってくれるんじゃないかと期待した。

 しかし、いつまで経っても香織がやって来ることは無かった。

「はあ……」

 俺は深いため息を吐き、緩慢な動きでベッドから下りて、キッチンの方へと向かう。

 ヤカンに水を注いでコンロにかける。

 お湯が沸騰したら、それをカップラーメンに注いだ。

 出来上がるまでの間、俺はテーブルの前に座ってボーっとしていた。何も考えることが出来ない。ただ、ふいに湧き上がって来る後悔の念を抑えることで精いっぱいだった。

「……やべっ」

 少し時間が経ちすぎて伸びた麺をすする。当たり前だけど、あまり美味しく無かった。

 その後、身支度を整えてから部屋を出る。

 その時、偶然にも同じタイミングで、隣の部屋のドアが開いた。

「あっ……」

 俺はつい気の抜けた声を漏らしてしまう。そんな俺の姿を見て香織は一瞬驚いた表情を浮かべるが、すぐに無表情になった。

「お、おはよう」

 俺がぎこちなくあいさつをする。

「うん、おはよう……」

 香織は平常よりも大分低いトーンで答える。

 それから俺たちはしばし無言で見つめ合う。何を話して良いのか分からなかった。

「……早くしないと遅刻するよ?」

 静かな声で香織は言うと、俺に背を向けて先を歩いて行った。




 学校の教室に着いてから、俺は机に沈んだ。

「あの、朽木くん。大丈夫かい?」

 前の席の内田くんが、心配するように声をかけてきた。

「ああ、大丈夫だよ」

 俺は力の無い声で答える。

「昨日あの後、何かあったの?」

 問われて、俺は口をつぐむ。

 その時、いきなり背後からどつかれた。その感触には覚えがあった。

 おもむろに首だけ振り向くとそこには案の定、水沢さんがいた。彼女はどこか剣呑な目つきをしている。

「クッチー、ちょっと面貸しな」

「え?」

「良いから、来いつってんだよ」

 水沢さんの荒々しい口調に押されて、俺は立ち上がる。

「付いて来な」

 そう言って、水沢さんは歩き出す。俺は戸惑いながらもその後を追う。

 すると教室の入口に、中本くんの姿が現れた。

「お、クッチーじゃん。昨日あの後どうなったか聞かせてくれよ」

「へたれヤンキーはすっこんでな!」

「ぐはっ!」

 理不尽な暴力を受けて吹っ飛び、中本くんは廊下の壁にめり込んだ。

 俺はその光景を呆然として見つめた。

「おら、何ボーっとしてんだよ。早く付いて来いや」

 水沢さんに睨まれて、俺はハッとして再び歩き始める。

 それから彼女に連れて来られたのは、トイレの前だった。彼女は廊下の壁に寄りかかって、腕を組んでいる。俺はそんな彼女をただ黙って見つめていた。

「何で呼び出されたのか、理由は分かってんだろ?」

 水沢さんはそのように切り出した。

「香織のこと……だよな?」

「その通りだよ。あの後、あたしはカオリンと一緒にいたんだよ。しばらくしてクッチーから連絡があったって言うから、あたしはこれで二人は仲直り出来るって。明日にはまた笑顔がいっぱいのカオリンに会えるって思っていたんだよ。……ところが、今朝カオリンに会ったらひどくやつれた顔をしていたよ。あたしと話す時は気を遣って少し笑ってくれるけど、それでも普段のカオリンの笑顔にはほど遠い」

 水沢さんは深刻な顔で言う。

「……俺は今日、朝ごはんを作ってもらえなかったよ。だからカップラーメンを食ったんだけど、やっぱり香織の作った朝ごはんには到底及ばなくてさ……」

 俺は情けない声を漏らしてしまう。

「バッキャロウ! あたしだって食い損ねているんだよ!」

 いきなり水沢さんが叫んだ。俺は面食らってしまう。

「食い損ねたって、何を?」

「カオリンのおっぱいだよ!」

「……は?」

「あたしはね、毎朝登校したら『カオリン、おっはよ~う!』って言って、後ろから思い切りカオリンの大きなおっぱいを揉みしだくのが日課なんだよ。あの張りが合ってたわわに実った果実を毎朝収穫するのがあたしの楽しみなんだ。……けれども、クッチーとケンカをしてから元気を無くしたカオリンは、おっぱいまで元気を無くしちゃって。特に今朝なんか、張りが無くてすっかり萎んじゃっていた。いつものカオリンのおっぱいじゃ無かったんだよ」

「あの、君は一体何を言って……」

「返せ! はち切れんばかりに実ったカオリンのおっぱいを、あたしに返せ!」

 そこで、俺はついカチンときてしまう。

「何で君にそんなことを言われなくちゃいけないんだよ!」

「だって、あんたのせいでカオリンは元気が無くなってんだろ!」

 水沢さんの迫力に押されて、俺は口をつぐむ。

「言ってみなさいよ、何をしたのか正直に」

「なぜそんなことを君に話さなければいけないんだ?」

「カオリンはあたしの親友だから、これ以上傷ついているのは見たくないんだよ」

 ふいに顔を俯けて唇を噛み締める水沢さんを見て、俺はふっと興奮状態から覚めた。

「……すまない、少し言い過ぎたよ」

 俺は苦々しい表情で言う。

「ううん、あたしの方こそキツいことを言ってごめん。けれども、本気で二人のことを心配しているんだよ?」

「ああ、分かっているよ」

 俺は頷いて言う。それからしばらく間を置いて、俺は口を開く。

「実は昨日香織と二人きりで話そうと思って、俺の部屋に呼んだんだ。お更との件は誤解で、俺は香織のことが好きなんだって。そしたら香織が言葉だけじゃ伝わらないって言うから、俺はその……Cをしようとしたんだ」

「セックスを?」

 俺が伏せたにも関わらず、水沢さんはあっさりとそのワードを言う。だがあえて指摘する気にはなれず、俺は素直に頷く。

「それで、ヤッたの?」

「いや、俺が無理に押し倒す形になっちゃって……拒絶された」

 俺が言うと、水沢さんは眉をひそめる。

「俺、香織との関係を進めなくちゃって心のどこかで少し焦っていて。香織ももしかしてそれを望んでいるのかと思ったから……」

「バッキャロウ!」

 再び水沢さんの怒声が上がる。

「そんな無理やり押し倒すような真似をされたら、カオリンがショックを受けるのも無理はないよ!」

 水沢さんは、まるで香織の声を代弁するように言う。

「すまない……」

 俺は頭を下げる。

「あたしに謝っても仕方がないんだよ! カオリンに謝れよ!」

 激昂する水沢さんに返す言葉もなく、俺はがっくりとうなだれる。

 そんな俺の様子を見かねた水沢さんが、ため息を漏らして口を開く。

「これはあくまでも二人の問題だから、あたしが解決をしてあげることは出来ない。……けれども、相談くらいには乗ってあげるよ」

「水沢さん……」

 俺は顔を上げて、水沢さんの顔を見つめる。

「とにかく、いつまでも腑抜けた面してんじゃないよ。気合を入れて行かないと、今度は背中にドロップキックをかますからね」

 そう言って、水沢さんは去って行った。




 水沢さんに喝を入れてもらったおかげで、沈んでいた気持ちが少しだけ上向きになった。

 あれから学校にいる間、俺は何度か香織に話しかけた。しかし、相変わらず冷たい反応が返って来るばかりで、早速心が折れそうになっていた。

「はあ……」

 そして結局、俺はまた深いため息を吐きながら学校からの帰り道を歩いていた。

「巧お兄ちゃーん」

 すると、背後からあどけない声がした。振り向くと、そこにはランドセルを背負った真央ちゃんがいた。

「ああ、真央ちゃん。久しぶりだね。あれから何か問題は起きていないかい?」

「うん、大丈夫。お父さんはちゃんとあたしのことを可愛がってくれているよ」

「そうか、それは良かった」

「えへへ。あれ、そういえば香織お姉ちゃんと一緒じゃないの?」

 無垢な表情で真央ちゃんは尋ねてくる。

「あー……香織はちょっと用事があるから、今日は一緒じゃないんだ」

「ふぅん、そうなんだ」

 真央ちゃんが言った時、

「真央ちゃーん、早くおいでよー!」

 前の方から、他の小学生たちが真央ちゃんのことを呼んでいた。

「うん、今行く! じゃあ、巧お兄ちゃん。あたしもう行くね」

「ああ。気を付けて遊ぶんだよ」

「分かった。バイバイ」

 真央ちゃんは無邪気な笑みを残して、俺の下から去って行った。

 一人になると、また俺の心に暗い影が差すようで切ない。

「……そういえば、お更はちゃんと天界に帰れたのかな?」

 ふと思い至り、俺は言葉を漏らす。

 確かお更は、市街地の外れにある神社に行くと言っていた。

 俺はしばし逡巡してから決断し、ゆっくりと歩き出した。




 何度か道に迷った末に、俺はようやく目的の神社にたどり着くことが出来た。

 街外れにあるその神社は、田舎にあるそれよりもずっと小奇麗である。

「あ……」

 境内に入ると、俺はそこに漂う霊気を捉えた。その中でかすかにお更の霊気を感じ取ることが出来た。それは神様が祭られている本殿へと続いていた。さらにたどって行くと、それは天へと伸びていた。どうやら、お更は上手いことやったらしい。

 それを確認すると、俺は特に用事も無いので帰ろうとした。しかし、ふと辺りを見渡してみると猫がたくさんいることに気が付いた。その点は田舎の神社と似通っている。参拝に来ている人たちはみなこぞって猫たちを可愛がっている。

 だが俺は猫には近付かない。古くから猫は魔性のものと考えられている。そのためか、猫の姿をした霊は数多く存在する。まあこれは田舎の爺さんから聞いた知識なのだが。

 しかし老若男女問わず虜にしてしまうその魅力は、やはり魔性の存在なのかもしれない。もしかしたら、この中に猫の霊が紛れていても不思議ではない。

「まあ、そんな訳ないか」

 俺がぽつりと呟いた時。

「少年よ」

 どこからともなく声がした。俺はきょろきょろと辺りを見渡す。

「こっちだよ、少年」

 俺はふと足元に目線を向ける。

 そこには一匹の猫が佇んでいた。茶色い毛を持つその猫は、見た目はどこにでもいるような普通の猫だ。

「喋った……?」

 俺は目を見開いて、口を半開きにする。

「そんなに驚くことは無いだろう? 君は仮にも霊能士なのだから、喋る猫くらい見たことがあるだろう?」

「なぜ、俺が霊能士だと分かる?」

「オーラを見れば分かるんだよ、少年」

 猫は薄らと微笑みを湛えながら言う。

「お前は何者だ?」

 俺は警戒心を高めて問いかける。

「吾輩は猫である」

 どこか得意げな様子で猫は言った。

「そんなことは見れば分かるんだよ。俺が聞いているのは、お前がどんな霊力を持った存在なのかって聞いているんだよ」

 俺が問い詰めると、

「ハッハッハ。少年よ、そんなことを聞いてどうする?」

「事と場合によっちゃ、お前を始末しなければならない」

 俺は鋭く睨みを利かせる。しかし、猫はまるで怯んだ様子がない。

「おいおい、物騒なことを言わないでくれよ。吾輩は君と事を構えるつもりは無いんだが」

 猫は言う。こいつは間違いなく霊だ。俺が関わりたくない霊だ。けれども出会ってしまった以上無視をする訳には行かない。この猫がもし人間に害を為す存在であったなら、問答無用で始末をしなければならない。しかし、今の所その気配は見られない。とりあえず、様子を見ておくか。

「分かった、今の所は見逃してやるよ」

 俺が言うと、猫はふっと笑みを浮かべる。

「ありがとう。ところで少年よ」

「何だ?」

「吾輩は先ほどから君を見上げてばかりで首が痛いのだが」

「それがどうした?」

「良ければ、あちらのベンチに移動して話さないかい?」

「いや、俺はもうお前と話すことなんて無いんだが」

「そんなこと言わないでくれよ。ここで出会ったのも何かの縁じゃないか」

 猫はどこかすがるような目で俺のことを見つめてくる。

 俺はそれに対して、ため息を吐く。

「仕方ないな。少しだけ付き合ってやるよ」

「ありがとう」

 猫は嬉しそうに微笑んでベンチの方へと歩いて行く。俺もその後を追った。

「ふう」

 俺はベンチに座って一息吐く。

「こらこら、少年。それではいけないよ」

 ベンチの上にちょこんと座って猫が言った。

「え、何が?」

「君が普通にベンチに座っては、また吾輩が君のことを見上げなくてはいけないだろう?」

「じゃあ、どうすれば良いんだよ?」

「君は地べたに座ってくれ」

「はあ? 嫌だよ、ズボンが汚れるじゃないか」

「少年よ、君は随分と小さなことを気にするんだな。君のズボンが汚れることと、吾輩の首が痛むこと、どちらの方が問題だと思う?」

「俺のズボンが汚れる方に決まってんだろうが」

 俺は苛立った声を上げる。

「少年よ。そんな風に自分勝手で器の小さい内は、何をやっても上手くは行かないよ?」

 その言葉を受けて俺は思う所があり、うっと言葉に詰まってしまう。

「……あー、もう分かったよ。言う通りにすれば良いんだろ?」

 俺は半ばヤケクソになって、地べたに座る。

「君ならきっとそうしてくれると思ったよ、少年」

 猫は満足気に微笑みながら俺を見る。くそ、何か腹立たしいな。

「ところで少年よ、君はどうしてこの神社に訪れたんだ?」

「え? ああ、つい最近知り合った天女がここの神様に頼んで天界に戻るって言うからさ。その後きちんと帰れたか確かめに来たんだけど、どうやら大丈夫だったみたいだ」

 俺は空を見上げながら言う。

「天女? ああ、そう言えば昨晩ここを美しい女性が訪れていたな。彼女が本殿の方へと入って行ったので何事かと思ってそばに行き耳を澄ませたんだが中から『あーん、タクミン大好きぃ!』『タクミン? タクミンって誰だぁ!?』というやり取りが聞こえた後に、その女性が本殿の屋根から天へと昇って行くのを見たよ。いわゆる昇天というやつだな、アッハッハ!」

 猫は愉快な様子で笑う。対する俺はぎこちない笑みを浮かべた。

 それからもうしばらく雑談を交わし、日が傾きかけたところで俺は地べたから立ち上がる。

「少年よ、今日は話し相手になってくれて感謝するよ」

「はいはい、そいつはどうも」

 俺はおざなりに返事をする。

 その時、猫の前をハエが飛んでいた。プーンと音を立てて、少し目障りである。

 次の瞬間、猫がそのハエを食らった。

「お前、何やってんだよ?」

 俺が驚いて言うと、猫はぺろりと舌なめずりをする。

「アッハッハ、ハエも中々に美味だよ」

 愉快気に笑いながら猫は言う。

 俺はそんな猫を呆れて見ていたが、何だかほんの少し猫が大きくなったような気がした。

「どうしたんだい?」

 猫が尋ねてくる。

「いや、何でもない」

「そうかい? さあ、もうすぐ日が暮れる。少年は家に帰りたまえ」

「言われなくても帰るよ」

 俺はそう言って、神社を後にした。




      2




 今日も今日とて、俺は香織と仲直りをすることが出来なかった。

「はあ……」

 傷心の身となりとぼとぼと歩いていた俺は、気が付くとまた例の神社の前に立っていた。

「やあ、少年。また来たのかい?」

 昨日と同じベンチに猫が座っていた。

 俺は無言のままそちらの方へと歩み寄り、地べたに座る

「どうしたんだい? 昨日もそうだったが元気がないな。今の君は何か悩みを抱えているな?」

 猫が問いかけてくる。

「もし良ければ話してくれないか?」

「何でお前に話さなきゃいけないんだよ?」

「悩みっていうのは誰かに話すことで少し楽になる。それに同じ人間よりも、猫である吾輩の方が幾分か話しやすいんじゃないのか?」

 猫が言う。

 確かに今回の件は中々人には話しづらい。水沢さんは大分事情を知っていて、いつでも相談に乗ると言ってくれたが、それでもやはり気が引けてしまう。そうなると、この訳の分からないお喋り猫に話した方が色々と好都合なのかもしれない。

「実は……」

 気が付けば、俺は訥々とした口調で事のあらましを猫に話していた。

「ふむふむ、なるほど……」

 猫は興味深そうに頷いている。

「それは君が悪いな」

 そして、さらりと批判された。

「まあ、そうなんだけどさ……」

「良いかい少年よ。女性(レディ)っていうのは優しく扱わなければならない。そんなことも分からないようじゃ、君もまだまだ男として半人前だ」

 何だろう、言っていることは至極最もなのに、妙に苛立たしい。

「それで、少年はその彼女と仲直りをする気があるのかい?」

「当たり前だろうが」

「だったら今吾輩が言ったように、もっと優しく扱わないとダメだよ」

 すると、猫はベンチから飛び下りた。

「仕方がないから吾輩が手本というものを見せてやろう」

 猫はそう言ってゆっくりと歩き出す。彼の行く先を目で追っていると、そこには制服を着た女子高生の二人組がいた。

「やあ、お嬢さんたち。若いのに神社へ参拝とは感心だね」

 少し気取った様子で猫は言う。やっぱりイラつくな。

「やーん、猫ちゃんよ。可愛い!」

 対する女子高生の一人が、満面の笑みを浮かべて猫を抱きかかえる。どうやら猫が喋っている声は聞こえていないようだ。

「えー、ずるい! あたしにも抱かせてよ!」

 もう一人の女子高生が言う。

「アッハッハ! こらこら、いけないお嬢さんたちだ。吾輩の身体は一つしかないんだよ」

 それから数分間、女子高生たちにたっぷりと可愛がられた猫は、ほくほくとした顔でこちらに戻って来た。

「どうだい、少年よ。吾輩の女性(レディ)の扱いは参考になったかい?」

「いや、全然」

「フッハッハ! 君には少し高度過ぎたかな? しかし最近の女子高生の発育は素晴らしいね。先ほど神社への参拝は感心だと言ったが、あの発育っぷりはけしからんね。特に注目するのは胸の膨らみ具合だ。人は魅力的な胸に惹きつけられる、それは猫もまた然り。そうだ、これを万乳引力の法則と呼ぼう」

 得意げな顔で猫は言う。俺は辟易とした。

「しかしその万乳引力の法則が適用されるのであれば、少年が無理やり彼女を押し倒し、その胸を強く揉んでしまった気持ちも分かる。君の彼女の胸はそんなに魅力的なのかい?」

「もう胸の話は良いだろうが!」

 俺が声を張り上げると、猫はため息を漏らす。

「やれやれ、怒りっぽい男は女性に嫌われるよ?」

 そして、俺をたしなめるように言った。

 くそ、いちいち癇に障る猫だな。

 その時、すぐ近くの茂みがガサリと揺れた。

 振り向くと、そこから一匹のネズミが現れた。

「うおっ」

 俺は思わずびくっと反応してしまう。

「吾輩に任せろ」

 妙に勇ましい声を上げて猫が動き出す。彼は俊敏な動きでネズミを捉え、それからパクリと食べてしまった。ごくり、と喉を鳴らしてこちらに振り向く。

「……フッハッハ、どうだい少年よ。吾輩の雄姿を見てくれたかい?」

 俺は何と返して良いか分からず、呆然としていた。

「しかし、惜しいことをした。今の吾輩の雄姿を先ほどのお嬢さんたちにも見せてあげたかったよ、アッハッハ!」

 猫は高笑いをする。

「やめておけ。きっとドン引きされるから」

「ん、そうかい?」

 猫はちろりと舌なめずりをして言う。

 ふと気が付くと、猫の身体が少しだけ大きくなっているような気がした。

「お前……」

「どうしたんだい、少年よ?」

 猫がつぶらな瞳でじっと俺のことを見つめる。

「……いや、何でもない」

「そうかい? アッハッハ」

 猫はまた愉快そうに笑っていた。




 次の日、俺はまた性懲りもなく例の神社を訪れてしまう。

 一番の目的は、あの得体の知れない猫の様子を監視することだ。しかし、俺は香織との一件で溜まった憂鬱な気分を、その猫と会話することで発散させに来ているのかもしれない。誠に不本意なことではあるが。

 そんなことを考えつつ境内に足を踏み入れると、昨日と同じく猫がベンチに座っていた。俺はゆっくりと歩み寄るが、なぜか猫は少しぐったりとしていた。

「やあ、少年か……」

 その声にいつものような張りが無い。そして、猫の身体が少し縮んでいるように見えた。

「おい、どうしたんだよ?」

 俺が尋ねると、猫は力なくうなだれたまま口を開く。

「実は昨日、近所を散歩していたら道端に転がっているゴミを見つけてね。それを食べてしまったんだよ」

 青ざめた顔で猫は言う。

「何でまたゴミなんて食べるんだよ」

 俺は呆れたように問いかける。

「ハハ、つい気持ちが急いてしまってね……」

 その時、猫の視線が別の所に注がれた。そこには昨日と同じ、女子高生の二人組がいた。

猫は緩慢な動きでベンチから下りて、のろのろと彼女たちの方へと歩いて行く。

「あっ、昨日の猫ちゃんいた!」

 猫の姿を見つけた女子高生が、嬉々とした表情で猫に駆け寄る。

「ねえ、この猫ちゃん何か元気ないよ?」

「えー、本当に? どうしたの、具合でも悪いの?」

 体調不良の猫は心配する女子高生たちに優しく撫でてもらっている。

 それから数分後、猫は幾分か元気を取り戻した様子でこちらに戻って来た。

「アッハッハ、やはり若いお嬢さんと戯れると元気が出るね」

「あ、そうっすか……」

「そうだ少年よ、名案が思い付いた。君も体調不良になれば心配してくれた彼女が優しく看病をしてくれて、それをきっかけに仲直りが出来るんじゃないだろうか?」

 猫は前足を上げて得意げな様子で言う。

「そんなこと出来るかっつーの」

「えぇ、良い考えだと思ったんだけどなぁ……」

 猫はしょんぼりとした様子で言う。

「まあしかし、君もいい加減その彼女と仲直りをしないとダメだよ。この隙に他の男に取られたらどうするんだい?」

「嫌な事言うなよ」

 俺は眉をひそめて言った。

「アッハッハ、冗談だよ」

 何だかんだで、猫は今日も愉快そうに笑っていた。




 アパートの部屋に帰った俺は、腕を組んで考え事をしていた。

 あの神社にいる得体の知れない猫。

 今の所何も悪さはしていない。時折女子高生と戯れたりしているが、それはまあ奴のスケベ心を除けば問題はないし、ハエとかネズミとか、間違ってゴミを食べてしまったこともまあさほど問題ではない。しかし、それによって奴の身体の大きさが変わっていた。さほど大きく変化をした訳ではないが、やはりその点が引っかかる。

 俺はおもむろにケータイを手に取る。

今回の件について、田舎の爺さんに相談しようか。

しかし、俺は爺さんとケンカをする形で田舎を飛び出した。もし今電話をすれば、散々説教をされることは目に見えている。出来れば爺さんと電話なんてしたくない。

 けれども、もし猫が人間に害を為す存在だとしたら、早めに手を打っておく必要がある。

 しばし逡巡した末に、俺は実家に電話をかけるため通話ボタンを押した。電話のコールがかかる間、俺は出来れば母さんか妹の葉月(はづき)が出て欲しいと思っていた。いきなり爺さんが出ると厳しい。

『はい、もしもし朽木ですが』

 その声は、しゃがれた老人の声だった。

 ダイレクトで爺さん来た!

「あ、えーと……俺だけど」

『俺じゃと? ……ハッ、これが噂に聞く〈オレオレ詐欺〉と言うやつか。貴様、この朽木蕪村(くちき ぶそん)を騙そうなんぞ千年早いわ!』

「俺は詐欺師じゃねえよ! 俺だよ、巧だよ!」

『む……巧だと?』

「ああ、そうだよ」

『そんな奴は知らん! わしの孫にそんな奴はおらん!』

 ああ、面倒くさい爺さんだな!

「つーか、もう孫とか言ってるじゃねえか……」

『貴様、本当に巧なのか?』

「そうだよ。だから、孫に対して貴様なんて呼び方をするのはやめてくれ」

 それからしばらく、爺さんは無言のままだった。

『……何の用じゃ?』

 爺さんは険のこもった声で言った。俺は思わず息を呑む。

「その、爺さんに少し相談したいことがあって」

『わしに相談じゃと?』

「ああ」

『断る!』

「何でだよ!?」

『家を飛び出した大バカ者に、相談なんぞされる覚えはないわ!』

 俺はうっと言葉に詰まる。

「いや、それは確かに悪かったけどさ。でも、父さんと母さんにはきちんと承諾をもらったんだぜ?」

『わしの承諾は得ておらんじゃろうが!』

 爺さんは激昂する。

『わしはな、息子の庄司(しょうじ)に霊能士としての才能が無かった分、その才能に恵まれた孫のお前を手塩にかけて指導して来たんじゃ。それなのにお前は霊と関わりたくないなどと自分勝手な理由で実家と村を捨てて、都会で悠々自適の一人暮らしなんぞしおって! 全く腹立たしいことこの上ない!』

「……確かに、俺は自分勝手なことをしているのかもしれない。それでも、今は爺さんの助けが必要なんだよ。何とか相談に乗ってくれよ」

 俺は頭を下げて懇願するように言う。すると受話口の向こう側で、爺さんがため息を吐くのが聞こえた。

『……相談っていうのは何じゃ?』

「え、相談に乗ってくれるのか?」

 俺はぱっと顔を上げる。

『良いから早く相談の内容を言わんかい!』

 爺さんは大声を上げる。俺はたじろぎながらも口を開く。

「実は最近、変な猫と会ったんだ。そいつは間違いなく霊なんだけど、正体が分からなくてさ。爺さんに聞いたら何か分かると思ったんだ」

『猫の霊か……とは言ったものの、猫の霊なんぞ数え切れんほどいるからのう。そいつはどんな猫なんじゃ。何か特徴とかは無いのか?』

「いや、見た目は普通の猫だよ。強いて言うなら喋ることと、それからハエとかネズミを食べると身体が少し大きくなることくらいか。逆にゴミを食べたら縮んでいたけど」

『ふぅむ、なるほどな』

 爺さんは小難しそうな声で唸る。

「爺さん、何か分かったか?」

 俺は期待の思いを込めて問いかける。

『そうじゃな、その猫の正体は……』

 俺はごくりと唾を飲み込む。

『さっぱり分からん!』

 瞬間、俺はズッコケた。

「何で分からないくせに、そんな自信満々に言うんだよ!」

『さっぱり分からないということは分かっておる!』

「下らないこと言ってんじゃねえよ、クソジジイ!」

『誰がクソジジイじゃぁ!』

 散々叫び終えた後、俺と爺さんは互いに荒く息を漏らす。

「はあ……分からないならもう良いよ。電話切るから」

『ちょっと待て』

 すると、爺さんが俺を呼び止める。

「何だよ?」

『お前は都会に行ってからも、霊に会っているのか?』

 唐突に爺さんが尋ねてくる。

「え? ああ、まあ何度かな。全く参ったよ、俺は霊と関わりたくないから都会に来たっていうのに、何でまた霊と関わらなくちゃいけないんだか」

 俺はため息交じりに言う。

『巧よ、それはお前自身のせいじゃよ』

「え?」

『確かに、都会は田舎に比べてあまり霊がいない。活動も比較的大人しい。しかし、強い霊体質を持つ霊能士のお前が来たことでその都会に巣食う霊が活発化し、また他の所からも引き寄せられておるんじゃ』

 その言葉を聞いた瞬間、俺は口をつぐむ。

『お前自身も薄々と感じておったじゃろう? 自分のせいで霊が活発化しておることは』

「いや、俺はそんなこと……」

 俺は急に頭が真っ白になり、上手く言葉が紡げなくなってしまう。

『巧よ、悪いことは言わん。梅干村に帰って来い』

 爺さんが言うと、俺はかっと目を見開いた。

「嫌だよ! せっかく田舎の村を抜け出したって言うのに、また戻るなんて……」

『しかし、このままお前がそこにおれば、周りの人々に被害が及ぶかもしれんぞ? そんなことはお前も望んでおらんじゃろう?』

「それは……」

『良いから帰って来い。香織ちゃんも一緒に連れてな』

 俺は何か言葉を返そうとするが、その前に通話は一方的に切られてしまう。それから俺はケータイをテーブルに置いて、その場で仰向けに寝転がった。

 正直に言って田舎になんか帰りたくない。多少不便な生活はそれほど問題ではない。ただ、田舎に大量に蔓延っている霊と関わりたくないのだ。田舎での霊に囲まれた日々を思い出すと嫌気が差して仕方がない。

 けれども今この都会の眉前市において霊が活発化し、また他所から引き寄せられている。

 俺という存在のせいで。

「くそ……」

 俺は天井を仰ぎながら吐き捨てるように呟く。

 もう二度と田舎になんて戻りたくない。しかし、都会に住む人々に迷惑をかけたくはない。

 二つの思いに挟まれて、俺は激しく葛藤する。床の上をごろごろと転がって思い悩む。

 もう二度と霊とは関わりたくない。しかし、それは俺の自分勝手な都合であって、そのせいで眉前市の人々に迷惑をかける訳にはいかないし、もし仲良くなったクラスメイトに被害が及んだら、俺はとても心が痛むだろう。

 やがて、俺はぴたりと動きを止めた。

「……帰ろうか、田舎に」




      3




 昨晩散々悩んだ挙句、俺は田舎に帰ることにした。また田舎で霊のハーレムに囲まれるのは嫌だが、それ以上にこの眉前市の人々に迷惑をかけるのが嫌なのだ。

 ただ、最後にあの猫の件に関してはきっちりと片付けておきたい。

 そのため、俺は例の神社を訪れた。

「やあ、少年」

 いつも通り、ベンチに猫が座っていた。

「お前に話したいことがあるんだが……」

 その時、猫がぴくりと反応する。

「ちょっと失礼するよ」

 そう言って猫はベンチから下り、ゆっくりと歩いて行く。その先にいるのは例の女子高生の二人組だ。

「あー、また猫ちゃんに会えたぁ!」

 女子高生の一人が嬉しそうに声を上げて、猫を抱きかかえる。

「フッハッハ。そんなに吾輩に会いたかったのかい、お嬢さん?」

 相変わらず猫は気取った様子で言う。しかし、そんな声は彼女たちには聞こえていない。

「もう、本当に可愛い!」

 きゃっきゃと猫のことを撫でている。

「ったく、エロ猫が……」

 俺は額を押さえて、ため息を漏らす。

「フッハッハ、本当に可愛いお嬢さんたちだ……食べてしまいたいくらいに」

 瞬間、俺は背筋がぞくりとした。

 その直後、女子高生に抱かれていた猫が急に信じられないくらいの大口を開けて、彼女の頭にかぶりついた。

「きゃあああぁ!?」

 もう一人の女子高生が悲鳴を上げる。猫は構うことなく女子高生の身体を噛み砕き、飲み込んで行く。

 あまりにも突然の事態に、俺は呆然として動くことが出来なかった。

「……ふう、美味しかったよ」

 ちろりと舌なめずりをする猫の身体は、でっぷりと膨らんでいた。

 すると、猫はもう一人の女子高生の方を見る。

「ひっ!」

 女子高生は恐怖に顔を歪ませて後退る。

「そんなに怖がらなくても良いんだよ。一瞬で終わるから」

 猫はにたりと笑みを浮かべる。そして、ひたすらに怯える女子高生にかぶりついた。

バキ、バキ、と嫌な音が耳を突く。

「……ふう、ごちそうさま」

 猫は恍惚の笑みを浮かべて言った。その口の周りには血が滴っている。

 俺はハッと我に返り、また一回り大きくなった猫を睨む。

「お前、何をしているんだ!?」

「何って、罪深い人間のお嬢さんを食べたまでさ」

「何だと……?」

 険しい表情を浮かべる俺に対して、猫は終始不気味な笑みを浮かべてこちらを見つめている。

「少年よ、どうやら時は満ちてしまったようだ。すまないが、ここでお別れだ」

 そう言って、猫は神社の外に向かって走り出した。

「……くそ!」

 俺は叫んで猫の後を追った。




      4




「ぎゃああああぁ!」

 市街地の外れにある住宅街で悲鳴が上がる。巨大化した猫が、道行く人々を次々に食らっているのだ。その度に猫の身体はまた大きくなる。道路やその脇には鮮血が飛び散っていた。巨大化した猫は猛スピードで住宅街を駆けて行く。

 俺は猫を追いかけるため、足に霊力を注いで加速する。

 くそ、俺のせいだ。俺がもっと早く対処をしておけば、こんな惨状は生まれなかった。何であの猫に会った時、すぐに始末をせずに泳がせておいたんだ。完全に失策だった。

「うぎゃあああぁ!」

 しかし今はそんな後悔をしている場合じゃない。一刻も早くあの猫を止めなければ。

「待て!」

 俺は猫の背中に向かって叫ぶ。

「アッハッハ、待てと言われて待つ奴はいないよ!」

 猫は巨大化しても相変わらず軽やかな口調で言う。それがまた腹立たしい。

「うおおおぉ!」

 俺はさらに加速して猫に肉薄する。勢い良く飛び上がり、その背中に正拳付きを放つ。霊力を纏ったその拳は、猫の身体に大きな衝撃を与える。

「……ぐふっ」

 猫は立ち止まり、呻き声を上げる。

 チャンスだ。俺は心の中で叫び、猫に追い討ちをかけようとする。

 だがその時、猫の後ろ足が動き、俺のことを蹴飛ばした。凄まじい衝撃を受けて俺はアスファルトの上に転がる。

「がはっ!」

 背中を強く打ち付けたせいで呼吸が苦しい。

「フハハ! お返しだよ、少年」

 そう言って、猫は再び走り始める。

「……ゲホ、ゲホ」

 俺は咳き込みながら何とか立ち上がる。足元が若干ふらつくが、気合を入れて再び猫を追いかける。

 前方を走る猫は道行く人を片っ端から食べて行く。また、人間だけでなく塀の上で寝ている猫さえも食らう。同じ猫なのに。

 あいつの行動原理が読めない。とりあえず人間やその他の生物を食べて大きくなることは分かったが、何のためにそんなことをするのかが分からない。ただお腹が空いているだけなのかもしれないが。分からない、あの猫は何がしたいんだ?

 住宅街を真っ赤な血で染め上げた猫は、そのまま市街地の方へと侵入した。

 まずい。より人が多い市街地にあの猫が暴れたら――

「きゃああああぁ!」

 猫が街に躍り出た直後、すぐさま甲高い悲鳴が上がり、それが広がって市街地は瞬く間に混乱の渦に巻き込まれる。

「アッハッハ! ここは人間がたくさんいるなあ、食べ放題だ!」

 猫は嬉々とした表情で多くの人々を食らって行く。彼の身体はどんどん膨れ上がり、十数メートルくらいの大きさにまでなっていた。彼が一歩踏み出す度に地面が震える。

「さてと、次はどの人間を食べようかな?」

 嬉しそうに辺りを見渡しながら猫は言う。

「お、きれいなお嬢さんを発見。彼女にしよう」

 その時、猫の目が捉えていたのは――

「香織!?」

 学校帰りに買い物にでも来ていたのだろうか。制服姿の香織は、巨大な猫に睨まれて震え上がっている

「い、いや……来ないで」

「フフ、大丈夫だよお嬢さん。痛くしないから」

 そう言ってから、猫は大きく口を開いた。

「きゃあああぁ!」

 香織の悲鳴が上がる。直後、俺はアスファルトを強く蹴って走り出す。猫の口が香織を飲み込む寸前、その頬に思い切り正拳付きを叩き込む。

「ぐふっ!」

 猫は呻き声を上げてよろめく。

「香織、大丈夫か!?」

 俺は地べたに座り込んでいる香織に駆け寄った。

「巧くん……?」

 香織は俺の姿を見た瞬間、大きく目を見開く。

「どこかケガをしていないか?」

「う、うん。大丈夫だよ」

「そうか、良かった」

 俺はほっと胸を撫で下ろす。

「……何だい、もしかしてそのお嬢さんが少年の彼女かい?」

 背後から猫が尋ねてきた。俺は返事をせずに、ぎろりと睨む。

「はは、なるほど。そんなに素敵なお嬢さんと仲違いをすれば落ち込む訳だ」

「ゴチャゴチャとうるさいんだよ。こんだけ暴れ回った挙句に香織にまで襲いかかりやがって……もう俺はお前を許さねえぞ」

「いやはや、怖いね」

 次の瞬間、甲高い音が鳴って猫の身体に何かが突き刺さる。

 振り向くと、警察の特殊部隊と思しき人たちが銃を構えていた。

「撃て!」

 号令を受けて、特殊部隊員は一斉に引き金を引いて銃弾を放つ。

 銃弾の雨が猫の身体にお見舞いされる。真っ赤な血潮が舞う。

 猫の身体からダラダラと血が垂れている。それがアスファルトを大きく汚していた。猫はしばらくの間押し黙っていたが、

「……アッハッハ、効かないよ」

 笑顔でそう言った直後、特殊部隊員たちに襲いかかり、彼らを飲み込んで行く。

 大勢いた特殊部隊員はあっという間に全滅し、そこには血の池が生じていた。

「うぅん、香しい血の匂いだ」

 猫はにこりとほくそ笑む。俺はまた背筋がぞくりと震えた。

「さあ、少年よ。追いかけっこの続きをしようではないか?」

 猫は大きな尻尾を振って俺のことを誘う。

 俺はしばし唖然としていたが、ハッと意識を取り戻す。

「上等だよ」

 呟いて、俺は香織に振り向く。

「危ないから、香織はここから離れてくれ」

「巧くんはどうするの?」

「あのクソ猫をぶっ飛ばしに行く」

「ダメ、危ないよ!」

 香織が俺の腕を掴んで言う。

「俺は大丈夫だ。必ず戻るから、俺の部屋で待っていてくれ」

「巧くん……」

 不安げな顔をしている香織に微笑みかけて、俺は猫の方を向く。

すると猫は駆け出した。俺もすぐさまその後を追う。

そこからまた、俺と猫の壮絶な追いかけっこが始まる。

 猛烈な勢いで街を走り人間を食らう猫に対して、俺は果敢に向かって行く。

「はあっ!」

 気合の叫びと共に俺は拳を繰り出す。その拳が猫の身体に減り込む。

「ぐぅ! やるな、少年よ!」

 猫は言い、前足を振るって俺を薙ぎ払おうとする。俺は反射的にのけ反ってかわす。通常の猫の何倍も大きいその前足が眼前をかすめると、冷や汗が背筋を滴る。

 しかし、臆病風に吹かれている場合ではない。俺は一刻も早くこの化け猫を止めなければならない。そのために、全力で拳や蹴りを放ち続ける。

「うおおぉ!」

「アッハッハ、良い気合いだよ少年!」

 こんな状況においても、猫は楽しそうに笑いながら言う。

 俺はそれが腹立たしくて、怒りを込めた拳を猫の側頭部に放とうとする。

「しかし、熱くなり過ぎるのは良くないな」

 直後、俺はハッとして振り返る。そこには猫の大きな尻尾が迫っていた。

「――っ」

 俺は焦って回避を試みるが、完全に避け切ることは出来なかった。背後から迫った尻尾の先端が背中にかする。しかし、それでも十分な威力があった。

「ぐあああぁ!」

 強い摩擦で制服の背中が焼き切れる。その箇所がジンジンと痛んだ。

「フハハ、どうした少年よ。もうへばってしまうのかい?」

 猫が挑発するように尻尾を振った。

「……そんな訳ねえだろうが」

 俺は荒く吐息を漏らしながら言う。

「フハハ、そう来なくちゃね。付いて来るが良い」

 そう言って、猫は走り出す。

 俺は歯を食いしばって痛みを堪え、猫を追うためにアスファルトを蹴った。




 その後、俺は尚も猫と追いかけっこを繰り広げる。

 猫は多くの人々を食らった市街地を抜けて走り続ける。俺は全力でその後を追う。

 やがてたどり着いたのは、眉前市内にあるゴミ処理場だった。

「はあ、はあ……」

 俺は膝に手を置いて肩で息をする。

「少年よ、追いかけっこはここまでだ」

 ふいに、猫がそんなことを言い出した。

「どういう意味だ?」

 問いかける俺に答えることなく、猫はズシンと音を立ててゴミ処理場に侵入して行く。

「待て!」

 俺はふらつく足取りで懸命に猫の後を追う。

 猫はそのままどんどん進んで行き、辺り一面ゴミの山になっている場所に立った。

「おい、ここで何をするつもりだ?」

「食べるんだよ、少年」

「は?」

「吾輩は今から、ここにあるゴミを食べるんだよ」

 猫がいきなり突拍子もないことを言い出したので、俺は訳が分からず首を傾げてしまう。

「お前それってどういうことなんだよ?」

「まあ落ち着きたまえ、少年よ。今から吾輩の優雅な食事の時間だ。とくとご覧になるが良い」

 猫はにやりとほくそ笑む。

 直後、物凄い勢いでゴミの山にがっついた。大きな口を開けて、バクバクとゴミの山を食らっている。正直に言って、それは全く優雅な食事には見えない。ただの偏食、いや寄食家だ。

 俺が呆然としている間も、猫は口を休めずゴミの山を食らって行く。するとみるみる内に、ゴミ処理場からゴミの山が消えて行く。

 ふと、俺はゴミを食べる度に猫の身体が縮んでいることに気が付く。ゴミが減るのに比例して、猫の身体も縮んで行く。気が付けば、猫の身体は元の大きさに戻っていた。辺り一帯のゴミはほぼ消えており、後は小さなゴミくずが一つ残っているだけだった。

「これが最後の一口だな」

 猫は呟き、その小さなゴミくずを口に含む。猫はゆっくりと咀嚼をしている。まるで、最後の晩餐の最後の一口を味わうように。やがて、猫はごくりとそのゴミくずを飲み込んだ。

「……ごちそうさまでした」

 猫はどこか感慨深げな顔でそう言った。

 その直後、猫はバタリとその場に倒れた。

 俺は慌てて猫の下に駆け寄る。

「おい、どうしたんだよ?」

 俺が呼びかけると、猫は精気の抜けた顔でこちらを見る。

「少年よ、もう分かっていると思うが吾輩は普通の猫ではない。吾輩は、地球が生み出した精霊なんだ」

「地球が生み出した精霊?」

 俺が目を丸くして言うと、猫は頷く。

「吾輩は人間を初めとした地球に存在する生命を食らうことで成長する。特に人間を食べると大きく成長出来るんだ。だから、吾輩は多くの人間を食らった」

「何でそんなに大きくなる必要があるんだよ?」

「君も今見ただろう? 大量のゴミを食べるためだよ。大量のゴミをそのままにしておいたら、地球の環境が破壊されてしまう。だから吾輩は人間を食らって大きくなったんだ。小さい猫の身体のままでは、大量のゴミを食べ切ることが出来ないからね」

 訥々と語る猫を、俺は黙って見つめている。

「君が言いたいことは分かっている。そんなことのために多くの人間の命を奪ったのかと。しかし、人間は大量のゴミを出して地球を汚染したという罪がある。吾輩は罪深き人間を罰するために遣わされた存在なんだよ」

 俺は呆然としたまま、猫の言葉を聞いていた。

「……とは言え、吾輩だって本当はこんなことはしたくなかった。しかし、大いなる地球の意志には逆らえない。仕方のないことだったんだ」

 猫は憂いを帯びた表情で言う。

「けれども辛い責務を果たす前に、吾輩は安らぎの時間を得ることが出来た」

「安らぎの時間……?」

「神社で君と話した時間のことだよ。楽しかったなぁ、本当に」

 猫はしみじみと思い出を噛み締めるように言った。

「お前……」

「なあ、少年よ」

 猫が俺のことを呼ぶ。

「吾輩はただの猫でありたかった」

 猫は口元にかすかな笑みを浮かべながら言った。

 直後、淡い光が放たれて猫の身体は消え去った。

 俺はまだ猫の温もりが残っている地べたを、そっと撫でた。




      5




 猫との激闘を終えた俺は、ふらつく足取りを鼓舞して何とかアパートに帰り着くことが出来た。がちゃり、と部屋のドアを開ける。

「巧くん!?」

 すると、部屋で待っていた香織が目を見開いて叫んだ。

「すまない、遅くなった」

 俺が言うと、香織は瞳に涙を浮かべて駆け寄って来た。そのまま俺に抱き付く。

「うお、香織?」

「良かった……巧くんが無事で本当に良かった」

 俺の胸に顔をうずめて泣きじゃくるように香織は言う。

「ごめんな、心配をかけて。この通り俺はピンピンしているから」

 俺はにかっと笑みを浮かべて見せる。

「うん……あのね、私怖かったの。巧くんが私と仲違いしたまま死んじゃうんじゃないかって。こんなことなら、意地を張らずに早く仲直りをしておけば良かったって」

「香織……」

 俺は香織の身体をぎゅっと抱き締める。

「ごめんな、香織。悪いのは俺なんだ。俺、何とか香織との関係を進めなくちゃいけないと思って、そのことばかりに捕らわれて香織にひどいことをした。本当にごめん!」

「巧くん……」

「俺はずっと香織がそばにいてくれるだけで良い。ずっと、ずっと俺のそばに居てくれ」

 俺は確かな気持ちを込めてそう言った。

「うん、私もずっと巧くんと一緒に居たい」

 香織は涙を浮かべた瞳で俺のことを見つめ、そう言ってくれた。

「香織……」

「巧くん……」

 俺たちは互いに見つめ合い、そして唇を重ね合った。




 こうして、俺と香織は絆を取り戻した。


      エピローグ




 まどろみの中で、俺は心地良い揺れを感じた。

「巧くん、起きて」

 俺はハッとして起き上がる。

「おはよう、巧くん」

 俺の目に、にこりと笑みを浮かべる香織の顔が映った。

「俺のことを起こしに来てくれたのか?」

「え、そうだけど?」

 香織は小首を傾げて言う。

 直後、俺は自然と涙が溢れてきた。

「ちょ、巧くんどうしたの?」

 香織が慌てて尋ねてくる。

「いや、またこうして毎朝香織が起こしてくれると思ったら嬉しくて……」

「もう、大げさなんだから」

 香織はくすくすとおかしそうに笑いながら言う。

「今から朝ごはん作るから、ちょっと待っていてね」

 そう言って、香織は制服の上からエプロンを羽織り、キッチンに立つ。

 俺は顔を洗ってからリビングで座布団に座って、キッチンで料理をする香織の姿を眺める。その姿はやっぱり可愛らしくて、俺はつい興奮してしまう。

 俺はすっと立ち上がると、香織のそばに歩み寄る。

「ん、巧くんどうしたの?」

 香織は料理をする手を止めて、俺の方を見る。

「その、お願いがあるんだけど」

「お願い?」

「うん。あのさ……香織の耳を甘噛みさせて欲しいだけど」

「え?」

「あ、甘噛みがダメなら触らせてくれるだけでも良いから」

 すると、香織が眉をひそめた。

「巧くん、そんな変態発言をするんだったらもう朝ごはん作らないよ?」

「わっ、ごめん! 俺、香織がそばに居てくれるのが嬉しくて。つい興奮して舞い上がっちゃって……」

 俺は必死に頭を下げる

「あーあ。あの時、街で化け猫と戦っている巧くんは格好良かったのにな」

 香織の言葉に俺はショックを受けて、しゅんと肩を落とす。

 どうしよう、このままでは俺はまた香織に嫌われてしまう。

「冗談よ。私はどんな巧くんのことも好きだから」

「香織……」

「うふ、もうすぐ出来るから向こうで待っていてね」

 香織の笑顔を見て、俺は心の底から幸せを感じていた。




 二年A組の教室はにぎやかな雰囲気が漂っていた。

「昨日のドラマ見た?」「見た見たー。超面白かったよね」「やべえ、宿題やってねえ。写させてくれ!」「はあ、自分でやれよ」

 教室のあちこちで会話が飛び交う。ただ、誰も街で暴れ回った化け猫のことは話していない。事件の直後は話題になったが、しばらく時間が経つとあっと言う間に他の話題によって淘汰された。都会の人はドライである。あまり霊の存在を信じていないし興味もない。だから、霊があまり蔓延っていないのだ。

「よっ、クッチー! 香織ちゃんもおはようっす!」

 元気よくあいさつをしてきたのは中本くんだ。一緒に内田くんもいる。

「なあ、クッチー聞いてくれよ。実は俺さ、今日の放課後に隣のクラスの女の子とデートするんだよ」

「へえ、そうなんだ」

「おうよ。俺は今日こそ、ヤッてやるぜー!」

 中本くんが凄く気迫のこもった声で言う。

「全く君はそんな風にがっつくから、いつまで経っても童貞なんだよ」

 内田くんが呆れたように言う。

「うるせえよ、クソデブが!」

「誰がデブだコラアァ!」

 またいつものケンカが始まる。俺と香織はその様子を苦笑して見つめる。

「うぃーす、クッチー、カオリン!」

 元気な声を上げてやって来たのは水沢さんだ。

「あ、亜希子ちゃんおはよう」

「おはよう、カオリン! 今日も可愛いね! そして……」

「ひゃっ!」

 水沢さんが、香織の背後から胸を鷲掴みにする。

「よっしゃ、カオリンのおっぱいゲットォ! 今日も大きなおっぱい最高だぜ!」

「ちょっと、亜希子ちゃんやめてよ!」

 香織が恥じらいながら叫ぶ。

「水沢さん、その辺で勘弁してやってくれ」

 俺が言う。

「はいはい、分かったよー」

 すると、水沢さんは大人しく手を引いた。香織はほっと胸を撫で下ろしている。

「それにしても、二人はすっかり元通りの仲好しさんだね結構、結構!」

「うん、ありがとう亜希子ちゃん」

 香織が微笑んで言う。恐らく俺と仲違いをしていた時、水沢さんは香織のことを色々と励ましてくれたんだろう。

「ありがとう、水沢さん」

 俺も彼女には喝を入れてもらったのでお礼を言う。

「へへ、どういたしまして」

 水沢さんはにこりと微笑んで言った。




 学校が終わった後、俺と香織は街にあるスーパーで買い物をして、それからアパートに帰った。

「じゃあ、これから夕食を作るね」

 そう言って、香織はエプロンを手に取る。

「あのさ、香織。ちょっと話しておきたいことがあるんだけど」

 俺が言うと、香織は首を傾げた。

「話しておきたいこと?」

「ああ。実はこの前、田舎の爺さんに電話をしたんだよ」

「お爺さまに?」

 俺は頷く。

「その時にさ、田舎に帰って来いって言われたんだよ。俺のせいで都会で霊が活発化しているからって。そんでさ、俺は猫の一件を片付けたら田舎に帰ろうと思っていたんだよ」

「そうなんだ……」

「それで、香織も一緒に帰ってくれるか?」

 俺が問いかける。少し間を置いてから、

「うん、私は巧くんのそばに居るって約束したから」

「ありがとう」

 俺はふっと微笑む。

「いやー、それにしても腹減ったな」

「うん、すぐに夕食の支度をするから待っていてね」

 香織はにこりと微笑んで、キッチンに向かった。




 香織が作った夕食をたらふく食い風呂に入った後、俺はベッドに寝転がっていた。

「ふう」

 満腹感と満足感に浸りながら、俺はベッドに沈む。

「都会暮らしも、あっという間に終わっちゃうな」

 俺はぽつりと言葉を漏らす。香織はもう部屋に帰っているので誰も答えない。独り言だ。

「ちょっと名残惜しいけど、まあ住み慣れた場所に戻ると思えば、少しは気も楽になるよな」

 俺は自分に言い聞かせるようにして呟く。

 本当はもう少し都会生活を味わいたかったけど、俺の霊体質のせいで霊が活発化して、これ以上問題を起こす訳には行かない。

 霊から逃げるために都会の眉前市にやって来たが、ここで俺は色々な霊と出会った。彼らは人間に少なからず害悪を為す存在だった。しかし、彼らには彼らなりの行動理由があった。必ずしも、悪という訳では無かった。

 そこで俺はふと思い至る

 都会にも霊はいる。しかし、田舎ほど多く蔓延ってはいないから霊能士はいない。猫が暴れた事件の直後、都会に住んでいる霊能力者を名乗る者たちがあれこれとマスコミを通じて見解を述べていたが、俺に言わせれば奴らは素人も同然だ。田舎でそれを生業としている霊能士に比べたらひよっこも同然だ。全く頼りにならない。

 つまり都会において、そこに住んでいる霊の相手を出来る者がいないのだ。彼らの悲しみや苦しみを分かってあげられる者はいないのだ。

 俺はベッドから起き上がり、ケータイを手に取った。

「あ、もしもし。ちょっと話したいことがあるんだけど……」




 朝日が差し込む部屋で、俺は床に座って瞑想をしていた。田舎にいた頃、霊力を高めるためによくやっていた行いだ。

 がちゃり、と玄関のドアが開く。

「あれ、巧くん起きていたの?」

 香織が意外そうに目を見開いて言う。

「ああ」

「何かあったの?」

 香織に問われて、俺はしばし間を置いてから口を開く。

「俺さ、やっぱり田舎に帰るのやめようと思うんだ」

「えっ?」

 香織が目を丸くする。

「一晩考えてさ、こっちで俺がやらなくちゃいけないことに気が付いたんだ。ごめんな、昨日田舎に帰るとか言っておきながら、またこんなことを言い出して」

 俺は申し訳なく思って頭を下げる。

「ううん、良いよ。私は巧くんに付いて行くって決めているから」

「香織……ありがとう」

 俺が言うと、香織はにこりと微笑む。

「じゃあ、朝ごはん作るね」

「ああ、頼むよ」




 アパートから外に出ると、空は快晴だった。

 太陽の日差しが、俺たちを優しく照らしている。

「あ、忘れていた」

 ふいに、香織が言う。

「どうしたんだ?」

「実は昨日、巧くんから田舎に帰ろうって言われた後、亜希子ちゃんにメールでそのことを言っちゃったの。もしかしたら、クラスのみんなにその話が広まっちゃっているかも」

「え、そうなのか?」

「ごめんね。今からでも、亜希子ちゃんにメールを送った方が良いかな?」

 香織が不安げな顔で言う。

「いや、学校に言ってから話せば良いよ」

 ふと、俺は別の所から視線を感じた。

 振り向くと、そこには一人の少年がいた。

 俺と視線が合うと、少年はにこりと口元で微笑んだ。

 それを見た俺は、小さく肩をすくめた。




 俺は霊と関わりたくない――けれども、時々なら関わっても良いかもしれない。

 それによって、彼らが少しでも救われるのであれば。




(了)

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朽木少年は、霊と関わりたくない 三葉 空 @mitsuba_sora

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