セルフキル

三葉 空

原稿

      1




 柳葉蓮司(やなぎば れんじ)は部活動を終えて帰路についていた。

 所属しているのは剣道部である。面を被り、胴着を身に付けて竹刀を打ち合うスポーツだ。己を厳しく律した者たちが竹刀を交えて剣技を競い合う。誇り高きスポーツである。

しかし、今時の若い者にとってそのイメージは芳しくない。汗臭くなるし、厳格な雰囲気の中で毎日厳しい鍛錬が行われる。そんな剣道は「暑苦しい」あるいは「むさ苦しい」などと言われて敬遠されてしまう。

ではなぜ、今時の若者の一人である蓮司がその敬遠されがちな剣道をやっているのかと言えば、幼い頃から剣道を習っているからである。蓮司の家は代々剣道場を営んでいた。そのため蓮司も必然的に剣道を習わされた。しかし、蓮司は嫌々やらされるのではなく、むしろ自ら積極的に剣道に取り組み、己自身を磨いてきた。師範である父に叱責を浴びながら、毎日毎日、必死で稽古に取り組んで来た。そのおかげで蓮司は自分を厳しく律することが出来るようになった。だから決して道を踏み外したりはしない。

「……あー、かったりい」

 前方から気だるそう声が聞こえてきた。

 街灯に照らし出されたのは一人の男だった。その姿を見て蓮司は思わず目を見開く。

 その男は蓮司と瓜二つ。全く同じ外見をしているのだ。何だろう、これはいわゆるドッペルゲンガーという現象だろうか。しかし、その男の姿形は蓮司にそっくりであるが、その挙動は似ても似つかない。蓮司は間違ってもあんな風に「かったるい」だとか「だるい」なんて言葉は口にしない。また、身体をふらふらとさせて歩くこともない。もしそんなことをしようものなら、厳格な父から張り手を食らった上で罰として夕食を抜きにされてしまう。

 その男はだんだんとこちらに方に近寄って来る。蓮司はどうしたものかと思い悩み、その場に固まっていた。

 その時、ふいに左脇の方に気配を感じた。顔を向けると、小柄な少女が蓮司の隣に立っていた。黒いセミロングの髪に黒い瞳。闇夜に紛れてしまいそうだが、不思議と埋没することなく確かな存在感を持っている。その髪は驚くほどに艶やかであるし、瞳もつぶらでとてもきれいだ。

 蓮司はいきなり現れたその少女のことをじっと見つめていた。

「……〈怠惰の王〉」

 すると、少女はぽつりと呟いた。その言葉が何を意味しているのか蓮司には分からなかったが、彼女の視線が前方の気だるそうな男に向けられていることに気が付いた。

「あれは、あなたから生まれた〈裏人(りひと)〉だね」

 男を見据えたまま、少女が蓮司に声をかけてきた。

「〈裏人〉? 何だそれは?」

「本来であればあなたが倒すべきなんだけれども。あなたはまだ何も知らない素人だから。ここは私が代わりに相手をしてあげるよ」

 蓮司の疑問に答えることなく少女は勝手に話を進めてしまう。蓮司はにわかに困惑する。そんな彼に構うことなく少女はその男へと歩みを進める。その途中で少女は急激に駆け出した。アスファルトを力強く蹴って男へと肉薄する。

「あん?」

 男は目をぱちくりとさせた。その顔面に目がけて少女が拳を放つ。その拳は的確に男の顔面の中心を射抜こうとしていた。

 しかし、男はゆらりと身体を動かして少女の放った拳をかわす。大きく移動をすることなく、最小限の動きで回避をしたのだ。

 少女は攻撃の手を緩めない。拳を振り抜いた態勢から、そのまま前腕部を使って男の顔を薙ぎ払おうとする。対する男は膝を曲げてまたもゆらりと少女の攻撃をかわす。

だが少女は冷静に次の攻撃へと移行する。握った拳をハンマーの要領で身を屈めた男の脳天目がけて振り下ろす。頭上に脅威の一撃が迫る中、男は左足を上げ右足を軸にして身体を移動させて少女の懐に入る。お返しとばかりに拳を繰り出そうとする。

 だが男の眼前に少女の膝が迫る。どうやら少女は刹那の攻防の中で男の動きを予見し、あえて懐に誘い込んだようだ。そこへ膝蹴りという爆弾を用意しておく。少女は小柄で華奢だが膝という固い関節部分を使って攻撃をすれば、それはとてつもない威力を生み出す。さらに男が殴りかかるエネルギーも利用することでその威力はさらに増大する。少女の鋭利な凶器と化した膝が男の顔面に直撃する――

だがその瞬間、男は握っていた拳を解いてパーの形を作った。男はその開いた手で少女の繰り出した膝蹴りを真正面から受け止めずいなすことに成功した。

すると少女はバランスを崩し、逆に男が優位に立ってしまう。

 男は少女の背後に回った。そして、彼女の背に向かって掌底を放つ。少女の身体は吹き飛ばされ、そのままコンクリートの塀に激突した。少女は小さく悲鳴を上げて、打ち付けた右腕を押さえている。

「あー、ごめんな。女の子相手につい本気を出しちまったよ」

 男は全く悪びれる素振りを見せず、からからと笑った。

ふいに蓮司と視線が合うなり、男はにやりとほくそ笑む。

「お、見つけたぜ。本人様をよ」

 男は相変わらずふらふらとした足取りをしている。しかし、確実に蓮司の方へと歩み寄って来ている。蓮司は恐怖と言うよりも、困惑によって動けずにいた。

 自分にそっくりの男が少女を痛めつけて、にやにやと笑いながらこちらにやって来る。もしかしてドッペルゲンガーによって出現したあの男は蓮司のことを始末して、自分が唯一無二の存在になろうとしているのだろうか。いやもしかしたらその逆で、外見が似た者同士交流を深めようとしているのかもしれない。そうだとすれば、こちらとしても自分そっくりのドッペルゲンガーと仲良くするのもやぶさかではないが。

「なあ、遊ぼうぜ……殺し合う遊びをよ」

 どうやら前者の方で正しかったようだ。向こうがその気で来るのであれば、こちらとしても黙ってやられるつもりはない。男は蓮司のことを〈本人様〉と呼んだ。つまり自分のことは幻によって作り出された偽物だと認めているのだ。その上で、自分が本物になるために蓮司のことを殺そうとしている。

「全く、欲深い奴だ」

 蓮司が言うと、男は肩をすくめた。

「いやいや、俺は〈怠惰の王〉だ。〈強欲の王〉ではない。とは言っても、七大罪を代表とする負の感情は大方その欲望が原点にあるから、まあ欲深いっていう言葉も間違いではないな」

「何やら小難しい話をしてくれているようだが。正直に言ってさっぱり分からん」

「ヒャハハ、まあ別に分からなくても良いさ。お前は今ここで死ぬんだからな」

「生憎俺とて、たかだか幻の産物に殺されるつもりは毛頭ない」

 そう言って、蓮司は肩にかけていた深い緑色の細長い袋から竹刀を取り出す。

「おお、やる気だな。俺も持って来れば良かったぜ」

「何だ、お前も剣道をやっているのか?」

「いや、俺が握っているのは竹刀じゃなくて真剣だぜ」

 男は口の端を上げて笑う。

「真剣……なぜ、お前はそんな物を持つんだ?」

「んー、とりあえず気に入らない奴をぶった切るためかな」

「分かった、もう喋るな」

 蓮司は左手を突き出して男を制する。

「お前のその腐った根性、この俺が叩きのめしてやろう」

「おー、かっこいいな。まるで正義のヒーローみたいだ」

 嘲るように男が言う。蓮司は心がざわつきそうになるのを押さえる。長年剣道に携わってきた中で、蓮司は高校生離れした自己制御能力を持ち合わせていた。

 蓮司はすっと竹刀を中段に構えた。無駄な力が一切入っていない自然体の構えである。

 男は竹刀を構える蓮司の姿を、値踏みするような目で見つめていた。

随分と余裕だ。か弱い少女一人を倒しただけで調子に乗るなんて。自分と瓜二つの男がそんな腐った根性であることが悲しい。自分の手でこの男をすぐさまねじ伏せる。それからあの少女を助けてあげれば良い。

蓮司は決して短気ではない。むしろ冷静に相手の出方を伺うことが多い。しかし、今回の相手はひたすらに気だるそうにしている男だ。そんな相手に対しては、自分から突っ込んで早く片付けてしまった方が良いと判断した。

 決断した直後にはもう蓮司は駆け出していた。蓮司の足さばきはすり足に近い。淀みのない動きで男に接近する。竹刀を上段に構えた。躊躇なく一気に振り下ろす。ほとんど予備動作のない動きから繰り出される面打ち。剣先は目にも止まらぬ速度で男の額を狙う。

 だが男は全く動じる様子を見せない。先ほどの少女とやり合った時のように、最小限の動きでゆらりとかわす。蓮司は一瞬目を丸くするが、すぐにまた攻撃に転じる。振り下ろした状態の竹刀を強靭な手首の返しで上段の位置に戻す。そこからまた面打ちを放つと、男はまたひらりとかわす。しかし、蓮司はそこから軌道を変えてぐっと竹刀を自分の方へと引き寄せる。一瞬の間に力をため、男に向かって突きを繰り出す。蓮司のフェイントによって意表を突かれた男は、胸に痛烈な一撃を食らってのけ反った。

「痛ぇ!」

 男は突かれた胸の辺りを押さえながら咳き込む。

 蓮司は男の様子を冷徹な目で見つめていた。このまま一気に畳みかけようと構えた時。

「……さすが俺の本人様。良い腕をしているな」

 若干よろめきながら男は顔を上げる。その顔にはどこか楽しそうな笑みが貼り付いていた。

「なあ、知っているか? ナマケモノって餌を狩る時、目にも止まらぬスピードで動くんだぜ?」

 唐突に男がそんなことを言ってきた。

「そうなのか?」

 蓮司はかすかに首を傾げながら聞き返す。

「――嘘に決まってんだろうが!」

 直後、男は叫び声を上げて蓮司に向かって来た。

それまで宙を舞う紙のようにのらりくらりとかわすだけだった男が、猛烈な勢いで蓮司に迫って来るのだ。

 男の変貌ぶりに蓮司は動揺し、反応が遅れてしまう。男の固く握りしめた拳が蓮司の腹部を捉えた。その凄まじい威力によって蓮司は後方に吹き飛ばされてしまう。その拍子に竹刀を落してしまった。

「……ぐっ」

 アスファルトで仰向け状態になり蓮司は呻いた。

「さーてと、お楽しみのなぶり殺しタイムと行きますか」

 男はにやけ面を浮かべ、意気揚々としながら蓮司の方へと歩み寄って来る。蓮司は立ち上がろうとするが、したたかに背中を打ち付けたせいでダメージが大きく、思うように立ち上がることが出来なかった。

そうしている間にも男はまるで死刑執行人の如く、じりじりと蓮司の方へ近づいて来る。

このまま自分は偽物の自分に殺されてしまうのだろうか。蓮司は半ば呆然としていた。

 ふいに男が立ち止まる。男が振り返ると、そこには先ほどまで倒れていたはずの少女が急接近していた。少女は左手の指を硬く真っ直ぐに伸ばし、男のみぞおちを突いた。その突きが深くめり込む。男は目を剥いてくぐもった呻き声を漏らす。そのまま両手で腹部を押さえて身を屈めた。少女はじっと男を見下ろす。

「さっさと消えて。さもないと、もっと痛い目を見るよ」

 吐き捨てるように少女が言う。

すると男は顔を上げた。その表情は歪んだ笑みを浮かべている。

「まあ、そうだな。お互いダメージは大きいようだし」

 男は右腕を押さえる少女を見ながらほくそ笑んだ。おもむろに屈めていた上半身を起こし、それから歩き出す。蓮司はその男の背中を見つめていた。途中、男がくるりと振り返り、蓮司の顔を見た。

「じゃあまたな、本人様」

 にやりと不敵な笑みを残して、男は夜の闇へと消えて行った。

「大丈夫?」

 アスファルトに座り込んだ状態の蓮司に歩み寄り、少女が尋ねてきた。

「ああ、俺は大丈夫だ。それよりも君の方は大丈夫なのか?」

 蓮司は少女の右腕を見ながら問いかける。彼女の右前腕の辺りが、青紫色に腫れ上がっていた。

「うん、大丈夫。ちょっと強く打ち付けちゃっただけだから」

「そうか。……ん、そういえば君どこかで会ったような?」

「それはナンパ?」

 少女は小首を傾げて言う。いきなりそんなことを言われたものだから、蓮司はぽかんと口を半開きにしてしまう。

「なんて、冗談だよ」

 少女の声とそれから表情も抑揚に乏しい。非常に淡々とした少女である。この少女は確かにどこかで見かけたような気がする。

「……あ、もしかして同じクラスの。えーと……」

「氷見明日撫(ひみ あすな)」

 少女は短く答えた。すると蓮司は合点がいったとばかりにポンと手を叩く。

「ああ、そういえばそうだったな」

「ひどいね。最初に見た時、気が付かなかったの?」

「ああ、すまない。少し動揺していたから、気にする余裕がなかったんだ」

「まあ、そういうことにしておいてあげる」

 少女はやや不機嫌そうな態度を見せる。

まあ、クラスメイトの顔と名前を憶えていなかった自分に非があると蓮司は反省する。

「それじゃあね」

 少女はくるりと踵を返して立ち去ろうとする。

「いや、こんな遅い時間だし何より君は怪我をしている。送って行くよ、家はどこにあるんだ?」

 蓮司が言うと、少女はおもむろに顔だけ振り向いた。その目には疑惑の色が浮かんでいる。

「そんなことを言って、私のことを襲うつもりなの?」

「は?」

「……冗談だよ。ありがとう心配してくれて。でも大丈夫だから」

「そうか……じゃあ、気を付けて帰るんだぞ」

「うん。じゃあね、蓮司」

 少女は再び前の方を向いて、すたすたと歩き去って行った。

 去り際、少女から名前を呼ばれた。しかも呼び捨てで。そのことに多少引っかかりを覚えながら、蓮司も再び帰路へとつくのであった。




      2




 季節は春だった。桜前線の訪れによって、町は桃色に染まっている。柔らかな風が吹く度にふわりと桜の花びらが舞う。桜並木のアスファルトは舞い降りた花びらによって桃色のカーペットが敷かれているようだ。その上を歩いているとどことなく華やいだ気持ちになり、また新しい生活が始まったということを感じさせられる。

しかし、学年が進級しただけなのでそれほど変化はない。クラスメイトは変わったが、また親友の寛太と一緒なのでほっとしていた。二年生に進級してからもう二週間が経過していた。

 桜並木を通り抜け、やや勾配のある坂道を上った先に、蓮司が通う清修学園がある。それなりに伝統のある学校であるが、近年改装工事をしたばかりなので校舎は比較的真新しい。

「よっ、蓮司」

 下駄箱にて靴を履き替えていると、ふいに声をかけられた。

「おはよう、寛太」

 蓮司はあいさつをする。彼の親友である松前寛太(まつまえ かんた)は、朝から快活な笑みを浮かべている。常に平坦な顔をしている蓮司と比較すると、その表情がより際立つ。

「なあ、蓮司。昨日のドラマ見たか?」

 互いに靴を履き替えて歩き出すと、寛太が尋ねてきた。

「いや、見ていない。昨日は部活から帰った後、風呂と夕食を済ませてから授業の課題をやっていたからな」

「相変わらずストイックだなー。……ん、授業の課題って?」

 寛太は目をぱちくりとさせた。

「現国の課題。今日の授業で提出するように言われていただろ?」

 蓮司が言うと、寛太は両手を頬に当ててムンクの叫び顔になる。その時の彼の悲壮感と言ったら、本物のそれよりも凄まじく思われた。

「しまったぁ! すっかり忘れてた!」

 寛太は短い髪をかきむしる。それから、さっと蓮司の方を見た。

「蓮司、写させてくれ!」

「断る」

「写させて下さい!」

「丁寧に言っても駄目だ」

「どうか写させてくださいよ、こんちくしょうめが!」

「それは何か色々とおかしいことになっている」

「蓮司ぃ……」

 寛太が目をうるうるとさせて、懇願するように蓮司を見つめてきた。蓮司は思案顔になる。別に蓮司はいじわるのつもりで寛太に見せないと言っている訳ではない。ただ、人から写させてもらってばかりでは彼の学力向上に繋がらないと思ったからこそ、あえて突き放すような態度を取っているのだ。

 ちらり、と寛太を見やる。彼はまだ目をうるうるとさせている。いい加減その表情を作るのは疲れないのだろうか。蓮司は思い、そしてため息を吐く。

「……分かった。今回だけだぞ」

 そう言って蓮司が鞄から課題のノートを取って差し出すと、途端に寛太は明るい笑みを浮かべる。

「ありがとう、蓮司! やっぱり持つべき物は親友だな!」

 相変わらず調子の良いことを言う。そして、そんな寛太に課題を写させてあげる自分も相変わらず甘い。蓮司はまた吐息を漏らす。

 蓮司の情けによって教師からの叱責を回避する手はずを整えた寛太は、小躍りしながら教室へと向かって行く。

 清修学園は四階建ての構造になっている。一階には職員室や理科室、美術室などが配置されており、二階が三年生、三階が二年生、四階が一年生となっている。学園が上になるほど教室が下の階になる。つまりそれだけ階段を上る回数が減って楽になる。大抵の者はそのことに関して喜ぶが蓮司は違った。彼にとっては日常生活の何気ない行動も全て鍛錬に繋がっている。階段を上るのもその一つだ。だから進級することにより一つ楽が生じてしまった。それは蓮司にとってはあまり喜ばしいことではなかった。

 二年A組の教室に入ると、朝からにぎやかな声が響き渡っていた。

いくつかのグループごとに固まっている。制服の学ランを着崩した男子と、派手にメイクを決めた女子が集ういわゆる〈目立つグループ〉はどこの学校のクラスにもいるものだ。

「よ、おはようっす」

 寛太はその目立つグループの者たちにあいさつをする。向こう側もそんな寛太に明るいあいさつを返している。寛太は特別そのグループに所属している訳ではないが、彼は社交的なので大抵の者と話すことが出来るのだ。一方で、蓮司はそのグループと関わりがない。真面目で少し堅物の蓮司と彼らはそもそも接点がない。とは言え、決して敵対しているという訳でもない。ただ普段関わり合うことがないだけで、特別嫌っているということはないのだ。

「おっ」

 ふいに寛太が目を見開き、喜色じみた声を上げる。

 彼の目線を追ってみると、その先にいたのは一人の少女だ。栗色の長い髪にゆるくウェーブがかかっている。肌は白くて滑らかだ。清修学園の女子の制服は紺色のセーラー服であり、もちろん少女もそれを着ている。しかし、その少女が着ていると、ひときわ上品な雰囲気が漂う。それはもちろん、その少女が制服を着崩すことなくしっかりと身に付けているということもあるのだが。一人だけ放っているオーラが違うのだ。

「やっぱり今日も麗しいな、栗原さん」

 自分の席に座りながらうっとりとした顔で寛太が言う。麗しいなんて普段は使わない言葉を遣うあたり相当その少女――栗原恵(くりはら めぐみ)に魅了されているようだ。

「美人で勉強も出来て、おまけに性格まで良い。その上、大手企業の社長令嬢。あんな子が一緒のクラスなんてたまらないよな?」

 同意を求められて蓮司は少し困惑してしまう。確かに客観的に見て恵は魅力的な女子であると思う。しかし、剣道一筋の蓮司はそれほど女子に対して関心がある訳ではなかった。だからどうしても「ああ、そうだな」と薄い反応になってしまう。

「いやー、本当にもう最高だなぁ」

 恵の姿を見てからというもの、寛太は頬が緩みっぱなしである。

「そんなに好きなら、思いを告げたらどうだ?」

 何気ない口調で蓮司が言うと、寛太がぎょっと目を剥く。

「いやいや、そんなこと出来る訳ないじゃんか。栗原さんはみんなの憧れなんだぜ? 俺以外にも狙っている奴はたくさんいるんだよ」

 寛太はしょんぼりとして言う。友達が多くてコミュニケーション能力が高い寛太も、こと恋愛に関しては臆病者になってしまうようだ。そう思うと、少しだけおかしくなってしまった。

「何笑ってんだよ」

「いや、お前が何だか可愛らしいと思ってしまってな」

「はっ、まさか蓮司ってソッチ系? だから女子に対してもあまり興味がないのか?」

 寛太が大げさに驚くような素振りを見せる。

「馬鹿言うな。そんなこと言っていると、課題のノート返してもらうぞ」

「すんませんでした!」

 寛太はすぐさま態度を翻す。変わり身の早い男だ。

 その時、教室内の空気がざわついた。

 気になって視線を巡らせると、入口の方に一人の少女が立っていた。

「あ……」

 蓮司は思わず声を漏らす。その少女は昨晩、蓮司が自分のドッペルゲンガーに襲われた際に助けてくれた少女、氷見明日撫だった。進級して同じクラスになってから二週間ほどが経つというに、蓮司は彼女の顔をロクに覚えていなかった。

しかし、そんな自分はあくまでも例外なんだということを思い知らされる。

今この瞬間、明日撫はクラスメイトたちの視線を一手に集めている。その理由は彼女が恵にも決して劣らない美少女だということもあるが、それ以上に目を引くのは彼女の右腕に巻かれているギブスだろう。さらにその腕は白い三角巾で吊り下げられている。

 周りから好奇の視線を向けられながらも、明日撫は氷のように冷めた顔つきで教室内を歩く。開け放たれた窓から春風が入ると、彼女の驚くほどにつややかなセミロングの黒髪が揺れた。

 明日撫はゆっくりとこちらの方に向かって来た。

もしかして近くの席だったのか?

そうだとしたら、余計に顔と名前を憶えていなかったことが申し訳ない。

蓮司がそんなことを考えていると、彼女がぴたりと足を止めた。それは蓮司の席の前だった。

 立ち止まった明日撫が、じっと蓮司の顔を見つめてくる。いきなりのことに蓮司は少し困惑しながらも口を開く。

「何か用か?」

 蓮司が問いかけると、明日撫の表情がかすかに動いた。

「今日の昼休み、時間空いている?」

「え? 昼休みか?」

「そう」

 こくりと明日撫は頷く。

「昼休みは寛太と昼食を取るつもりだが」

「寛太っていうのは、隣にいる男子のこと?」

「そうだけど」

 蓮司が答えると、明日撫はすっと視線を寛太の方に向けた。

「ねえ」

「は、はい」

 いきなり声をかけられたせいか、寛太は上ずった声を出す。

「昼休み、蓮司のことを借りても良い?」

「えっと、蓮司を?」

「そう。駄目?」

「いやいや、駄目なんてことはないです。どうぞ、どうぞ」

「ありがとう」

 そう言って、明日撫は再び蓮司の方を見る。

「じゃあ蓮司、昼休み屋上に来てね」

 蓮司からの返事を聞かない内に、明日撫はすたすたと自分の席の方に向かって行った。唐突に呼び出しを受けて蓮司は戸惑っていた。そんな彼の肩を寛太が掴む。

「おい、どういうことだよ?」

 寛太がすっと目を細めて問いかけてきた。

「どういうことって?」

「だからさ、何で氷見さんに話しかけられてんだ? しかも、昼休みに屋上に誘われるなんて……まさか、そういう関係なのか?」

「どういう関係だ?」

「お前ら付き合ってんのか? 朴念仁のふりして、実は上手いことやっちゃってんのか、蓮司くんよぉ?」

「いや、待て。俺と彼女はそんな関係ではない」

「じゃあ、どういう関係なんだよ。名前で呼び捨てなんて相当親しい関係なんじゃないのか?」

「いや、彼女とは昨日、部活の帰りに会って少し話した程度だが」

「ほほう、部活が終わった後に密会していたと?」

 きらりと寛太は目を輝かせる。蓮司はため息を漏らした。

「そんなことを気にする前に、やることがあるだろ?」

「へ?」

「現国の課題。写さないならノートを返してもらうぞ」

「そうだった!」

 寛太はハッとした顔付きになり、蓮司から借りたノートを必死で写し始める。

 その様子を脇目に見ながら、蓮司はもう一度ため息を漏らした。




 空は青く澄み渡っている。午後のうららかな太陽の日差しが、優しく屋上を照らしていた。

 蓮司は視線を巡らせると、フェンス際に立っている明日撫の姿を見つける。

「待たせたな」

 声をかけると、明日撫はゆっくりとこちらに振り向いた。

「来てくれたんだね」

「ああ。ところで、その腕は大丈夫なのか?」

 蓮司は尋ねる。本当なら今朝彼女にあった時に言うべきだったのだが、いきなり声をかけられたので少し動揺してしまい、ついタイミングを逃してしまったのだ。

「うん、大丈夫。ちょっと骨折しただけだから」

 何気ない口調で明日撫は言う。

「骨折って……それは大変なことじゃないか」

「大丈夫、気にしないで」

 明日撫はかすかに微笑む。

「そんなことよりも、蓮司に話したいことがあるの。お弁当は持って来た?」

「まあ、一応」

 そう言って、蓮司は手に持った弁当箱を掲げて見せる。

「じゃあ、お弁当を食べながら話そうか」

 明日撫は片手で器用にスカートを折りたたみ、すっと地べたに腰を下ろした。蓮司もそれに倣って腰を下ろす。

「昨日のことだけれども」

 何の前置きもなく明日撫は切り出す。蓮司は弁当箱の包みを解きながら、彼女の顔を見た。

「襲って来たのはあなたが生み出した〈裏人〉よ」

「昨日も言っていたが、その〈裏人〉っていうのは何なんだ?」

「〈裏人〉は人間の裏の人格が具現化した存在、もう一人の自分だよ。それとなく世間には知られているみたいだけど、蓮司は本当に知らない?」

 明日撫に問われて、蓮司は思案するように唸る。

「そういえば、そんな都市伝説を聞いたことがあるかもしれないが……」

「都市伝説じゃなくて、実在するんだよ」

 真顔で言われて蓮司は少したじろいでしまう。とは言え、彼女は常に真顔みたいなものだが。

「それで君は何なんだ? まさかその裏人を倒す正義の味方だったりするのか?」

「そんな格好良いものじゃないよ」

 冷めた声で明日撫は言う。

「私はただ醜い自分と戦う……いや戦っていただけだから」

「自分と戦う?」

「そうだよ」

 明日撫は左手で箸を持ち、弁当のおかずを食べようとする。だが、彼女の箸は上手くおかずを掴むことが出来ない。一瞬掴みかけても、またすぐ落としてしまう。どうやら彼女は右利きのため、左手では上手く箸を扱えないようだ。

「購買に行ってフォークをもらって来ようか?」

 そんな明日撫の様子を見かねた蓮司が言う。

「ううん、時間がかかるから良いよ。その代わりに……」

 明日撫はすっと自分の箸を蓮司へと差し出す。

「はい」

「ん、何だ?」

「蓮司が食べさせて」

 突拍子もないことを明日撫は言う。

「えーと……何でだ?」

「私、利き手が使えなくて上手く箸を使えないから」

「じゃあ、購買でフォークをもらって来るよ」

「ううん、時間がかかるから良いよ。その代わりに……」

「ちょっと待て、このままでは堂々巡りも良いところだ」

 蓮司は目頭の辺りを揉んだ。

「なぜ、そんなにも俺に食べさせてもらいたいんだ?」

 蓮司が尋ねると、明日撫は平坦な顔つきで彼を見つめる。

「蓮司なら、上手に食べさせてくれると思ったから」

 なるほどな、という考えには至らなかった。何でわざわざ他人から食べさせてもらいたがるのだろうか。しかも男である蓮司から。そのことが彼にはいまいち理解出来なかった。

 渋る蓮司の様子を見た明日撫が口を開く。

「私がこんな風に怪我をしたのは誰の責任?」

 蓮司は目を丸くする。

「誰の責任?」

 もう一度、より強調するように言う。

「それは……俺の責任だな」

「そう、蓮司の責任だよ」

 明日撫はじっと蓮司のことを見つめた。後のことは言わなくても分かるよね、という言葉が伝わって来る。無表情なのに、なぜこんなにも雄弁なのだろうか。

「……分かった、責任を取ろう」

 明日撫の無言の迫力に押された蓮司は、観念したようにそう言った。

「じゃあ、早く食べさせて」

 急かすように言われて、蓮司は明日撫から箸を受け取る。

「えーと、まずはどれから食べさせれば良い?」

「じゃあ、卵焼き」

 言われた通りに蓮司は箸で卵焼きを取る。それをそのまま明日撫の口へと運んで行く。彼女の小さな口が卵焼きを頬張った。

「うん、美味しい」

「そうか、良かったな」

「じゃあ次はタコさんウインナー」

 言われるがまま蓮司は箸を動かす。

「それにしても、君の母親は気を利かせてフォークを付けてくれなかったのか?」

「お弁当を作ったのはお父さんだよ」

「そうなのか?」

「うん、私のお母さんはもう死んじゃっているから」

 ぱくり、と明日撫はタコさんウインナーを口に入れる。蓮司は彼女の横顔を少し罰が悪い思いで見つめた。

「……すまない」

 蓮司が詫びる。明日撫はタコさんウインナーをゆっくりと咀嚼した後、彼の方に振り向く。

「別に気にしなくても良いよ」

 明日撫は淡々とした口調で言う。

「そんなことよりも、蓮司。今度の休みは何か予定はある?」

「休みの日か? 休みはいつも剣道部で稽古に励んでいるが」

「そっか。じゃあ、その稽古休んでよ」

「いや、そんなことは出来ない」

「どうしても蓮司を連れて行きたい場所があるの」

「どこに連れて行く気だ?」

「今は内緒。来てくれたら教えてあげる」

 明日撫の言葉を受けて蓮司は悩む。剣道の稽古を休むなんてことは許されない。普段の自分なら丁重にお断りをしているところだ。しかし、この明日撫には昨晩助けてもらったという借りがある。今そのお詫びとして弁当を食べさせてあげているが、それくらいでは助けてもらった恩に報いることは出来ていないだろう。

「……分かった。午前中で稽古は切り上げる。それで午後から時間を作ることが出来る」

「うん、じゃあそれで良いよ。待ち合わせは学校の前で良い?」

「了解した」

 蓮司は頷く。その様子を見て満足したのか、明日撫も頷いてみせる。

「じゃあ、次はからあげを食べさせて」

「おい、さっきから野菜を避けていないか? 駄目だぞ、きちんと野菜を食べないと」

「嫌だ。野菜はあまり好きじゃない」

「そんな子供みたいなこと言うんじゃない」

「蓮司こそ、お父さんみたいな説教しないで」

 明日撫は口の先を尖らせてそっぽを向く。蓮司としては説教をするつもりは微塵もない。あくまでも彼女の健康を気遣って助言をしたに過ぎないのだが。やはり女子と会話経験の乏しい自分は、その心を理解出来ていないのだろうか。

「すまない」

「何で謝るの?」

「いや、君の気分を害してしまったと思って」

 蓮司が言うと、明日撫が小さくため息を漏らす。

「本当に、蓮司って真面目だね」

「そうか? ところで気になっていたんだが、何で俺のことを名前で呼び捨てにするんだ?」

「名前で呼ばれるのは嫌?」

「そんなことはないが。ただ今までほとんど面識がなかったから、いきなり名前で呼ばれて少し戸惑ったんだ」

「そう。私は蓮司のこと、一年生の時から知っていたよ」

「え?」

「すごく堅物な人がいるって有名だったから」

 そう言われて、蓮司は肩をすくめる。

「確かに俺は堅物かもしれないな。今時こんな奴はあまりいないだろうって、自分でも思っている」

「そう。だからね、あなたは絶対に強力な裏人を生み出すって思っていた」

「どういう意味だ?」

 蓮司が尋ねると、明日撫はしばらく無言のままだった。

「……それよりも蓮司。私に食べさせるのも良いけど、自分のお弁当も食べないと」

 明日撫に指摘されて見ると、蓮司の弁当箱はまだ手付かずの状態だ。

「そうだな。きちんと食べておかないと、午後の授業に差し支える」

 蓮司は自分の箸を手に持って弁当を食べ始める。

「本当に真面目だね、蓮司は」

「そうか?」

「うん、そうだよ」

 明日撫は薄らと微笑んでそう言った。




      3




 剣道部の練習を終えて道場から出ると、辺りは沈みゆく夕日によって朱色に染まっていた。

「よっ、お疲れさん」

 袴姿のままタオルで首筋を拭いていた時、蓮司はふいに声をかけられた。

「何だ、寛太か」

「何だとは何だ。せっかくお前が部活終わるのを待っていてやったのに」

 寛太は頬を膨らませて言う。

「そうか、すまない。今着替えて来るから、少し待っていてくれ」

「オッケー」

 道場に戻った蓮司は手早く着替えを済ませ、それから寛太と一緒に帰路につく。

「ところで、何で今日は俺のことを待っていたんだ?」

 蓮司が尋ねる。

「お前に聞きたいことがあるんだよ」

「俺に聞きたいこと?」

「蓮司さ、昼休みに氷見さんと何を話していたんだよ?」

 にやりと笑みを浮かべながら、寛太が尋ねてくる。

 蓮司は一瞬何と答えるべきか迷った。明日撫と話したことはあまり大っぴらに言える内容ではない。

「まあ、ちょっとな」

 悩んだ挙句、そのように言葉を濁すことしか出来なかった。

「ふぅん? まあ、氷見さんは栗原さんと並ぶ美少女だけどさ……ちょっと近寄りがたい雰囲気なんだよな。社交的な栗原さんに対して、氷見さんはいつも一人でいることが多いし」

「そうなのか?」

「ああ。蓮司、氷見さんって周りから何て呼ばれていると思う?」

「いや、知らないが」

「彼女さ、〈明日無いさん〉って呼ばれているんだぜ」

「〈明日無いさん〉?」

「そうだ。氷見さんの名前って〈明日撫〉だろ? そんで今日、腕を骨折していたから〈撫〉から手偏が取れて〈無〉になる。それで〈明日無いさん〉って訳だ。ほら、氷見さんってすげえ可愛いけど、その分脆くてすぐに壊れちゃいそうだろ?」

 寛太の言葉を受けて、蓮司は眉をひそめる。

「もしかして、彼女は苛められているのか?」

「いやいや、そんなことないぞ。確かに氷見さんは近寄りがたい雰囲気であまり友達とかいなさそうだけど、そんな嫌われていることはないと思う」

「そうか」

 それを聞いて、蓮司はほっと胸を撫で下ろす。

「まあとにかく氷見さんは注目を集めている美少女だから、そんな彼女と蓮司がどんな話をしたのか聞いてみたかった訳よ……まあ、話したくないんなら別に良いけどさ」

「すまない。彼女のプライベートにも関わることだからな」

「って、プライベートな話をしちゃうくらいの仲なの?」

 蓮司は無言のままだ。

「まあ、親友としては朴念仁の蓮司に女っ気が芽生えたのは喜ばしいことだけど。あまりハメを外し過ぎて親父さんに叱られないようにな」

「安心しろ、彼女とはそういった関係ではないからな」

蓮司の言葉でその話題は終わった。それから二人は他愛もない話をする。途中で寛太と別れてから蓮司はしばらく歩き自宅にたどり着く。

「ただいま戻りました」

 玄関の扉を開けて中に入ると、廊下に立っていた少女がくるりとこちらに振り向いた。

「あ、お兄ちゃんお帰りなさい」

 か細い声で少女は言う。

「ただいま、香帆」

 蓮司は少女――香帆(かほ)に対して言った。彼女は蓮司の妹で、今は中学二年生である。身長はその年頃において平均的なのだが、華奢な身体付きとおずおずとした姿勢から、実際の身長よりも小さく見えてしまう。また、目尻と眉尻が垂れ下がっていることでいつも不安げな表情に見えてしまうのだ。

「今日も遅くまで部活動、大変だね」

 蓮司のことを気遣うように香帆は言った。

「いや、大したことはない。それに、今日は普段よりも少し早目に終わったくらいだ」

「そうなんだ。良かったね」

 やんわりとした笑みを浮かべながら香帆が言った時。

「良い訳がない」

 別の声が割って入った。それは低い男の声だ。びくりと肩を震わせる香帆の背後から現れたのは、立派な体格をした男だった。その男は和服を纏っており、厳格な雰囲気が漂っている。

「父さん、ただいま戻りました」

 蓮司が改めてあいさつをすると男――哲治(てつはる)は一度頷き、それからまた険しい目つきになった。

「なぜ今日は稽古を早めに切り上げたんだ?」

 哲治は問いかける。蓮司は彼の顔を見つめた。

「部活動が終わった後、少し自分で自主練習をして行こうと思っていました。しかし、親友の寛太が自分に話があると言うので、稽古を切り上げて一緒に帰ることにしたのです」

 蓮司は淡々と事の成り行きを説明する。哲治は厳しい表情を崩さぬままでいる。

「松前くんがお前にとって大切な学友であることは知っている。ただ、お前にとって一番大切なものは何だ?」

「剣道です」

「その通りだ。これ以上、問答は必要ないな?」

 哲治はその目をすっと細めて言う。

「はい。今後より一層、自分に厳しくして参ります」

 姿勢を正して述べる蓮司をしばらく見つめた後に、哲治はすっと歩き始めた。

「早く風呂に入って来い。それから夕食の時間だ」

「分かりました」

 蓮司は小さく頭を下げてから、去り行く哲治の大きな背中を見つめた。

「お兄ちゃん……」

 香帆が弱々しい声を漏らす。哲治の迫力に対して怯えてしまったのだろうか。

「安心しろ香帆。父さんが厳しく接するのは息子である俺だけだ。可愛い娘の香帆にはそんなに厳しく当たらないよ」

 努めて優しい声で蓮司は言った。しかし香帆の表情は晴れない。それどころか、より一層暗くなる。

「でも、それじゃあお兄ちゃんが辛いでしょ?」

 今にも泣き出しそうな顔になって香帆は言う。昔から感受性が強いこの妹は、まるで自分のことのように、父から厳しい指導を受けている蓮司のことを心配してくれるのだ。彼女はいつもおどおどとして自信がないように見受けられるが、他人を思いやるその優しい心は十分に誇るべきものだと蓮司は常々思っていた。

「心配してくれてありがとう、香帆。けど俺は大丈夫だから」

 蓮司は柔らかい口調で言う。だがそれでもまだ香帆が不安げな顔をしているので、その頭にそっと手を置いて撫でてやった。すると香帆は一瞬驚いたように目を丸くするが、口元で微笑を浮かべた。

「それじゃあ俺は風呂に入って来る。すまんが、夕食はもう少し待ってくれ」

「ううん、気にしないで。ゆっくり休んでね」

 無垢な笑みを浮かべる香帆を見て、蓮司もふっと微笑んだ。




 高校の部活動、それも運動系となれば、休日などほとんどない。例え日曜日でも朝早くから学校へと赴き、厳しい練習に臨む。全ての学校の運動部がそうだとは限らないが、蓮司の通う清修学園の剣道部はその厳しい部類に入る。厳格な父、哲治に勧められた高校の剣道部とあって、そのレベルは高く、また所属している部員の向上心も高い。だからこそ、蓮司は申し訳ない気持ちでいっぱいだった。

「午後の稽古を休みたい?」

 剣道部顧問の三木教諭が眉をひそめた。蓮司の父に負けず劣らずの厳格な風体の男は、目の前に立っている蓮司のことを静かに見つめている。

「申し訳ありません、実は少し背中を痛めてしまいまして。この状態で稽古をしても身に入らないと思いますので、午後からはお休みをいただきたいのです」

 蓮司も静かな声色でそう言った。

 ちなみに、今彼が言ったことは真っ赤な嘘である。なぜそんな嘘を吐くのかと言えば、先日クラスメイトの明日撫と約束をしたからである。彼女がどうしても休みの日に時間を作ってくれと言うので、仕方なくそれらしい理由をでっち上げて、剣道の稽古から抜け出すことにしたのだ。しかし、この厳格な顧問の三木がそう易々とその嘘の理由を認めてくれる保証など無かった。

「分かった、もう上がって良いぞ」

 ところが、三木は意外にもあっさりと蓮司の申し出を受け入れてくれた。

「お前はいつも誰よりも真面目に練習しているからな。たまにはゆっくり身体を休めた方が良いと思っていたんだ。この機会にしっかりと自分の体調を整えておくんだぞ」

「はい、分かりました」

 蓮司は丁寧にお辞儀をしてから、素早くその場から立ち去った。

 顧問の三木は厳しい指導者であるが、部員を大切に思いやる気持ちを持っている。普段から真面目に稽古に取り組んでいる蓮司のことをきちんと見ており、今回の蓮司の申し出をすんなりと受け入れてくれたのだ。つまり、信頼してくれたのだ。そんな三木のことを裏切ってしまうことが非常に心苦しい。そして情けない気持ちでいっぱいになる。

 しかしいつまで考えていても仕方がないので、蓮司は手早く身支度を整えて剣道場を後にした。帰り際、他の部員たちが心配して声をかけてくれたのが余計に辛かった。

 グラウンドで練習に精が出る野球部やサッカー部を脇目に見ながら、校舎の角を左側に折れて、校門へと向かう。

 桜の木によって彩られるその校門に、黒髪の少女が立っていた。少女は校門の塀に寄りかかり、どこか冷めた瞳で虚空を見つめている。蓮司が歩み寄って行くと、はたと気が付いたようにこちらに顔を向けて、かすかに微笑んだ。

「よ、蓮司」

 左手を上げてひらひらと振り、少女――明日撫は蓮司のことを呼んだ。

 明日撫は私服姿だった。白い生地に水玉模様の入ったブラウスを着て、膝丈くらいの紺色のスカートを身に付けている。クールな彼女によく似合った服装であるが、如何せん右腕のギブスが痛々しい。

「待たせたな」

 蓮司が言う。しかし明日撫は答えることなく、無言でじっと彼のことを見つめていた。蓮司はよく意味が分からず、彼女の視線を黙って受け止めていた。

「失敗した」

 ようやく明日撫が口を開いた。

「何がだ?」

「私も制服で来れば良かった」

「え?」

「だって、そうしたら制服デートが出来たのに」

 明日撫は相変わらずの何気ない口調で言ってのけた。

 しかしその言葉を聞いて、蓮司は眉根を寄せる。

「デートだと?」

 喉の奥から搾り出すような低い声を蓮司は漏らす。

「俺は君がどうしても話したいことがあると言うから、大事な剣道部の稽古を抜けて来たんだ。それなのに君はこれがデートだと言うのか? あまりふざけないでくれ」

 蓮司はにわかに憤りを感じていた。自分は断腸の思いで稽古から抜けて来たというのに、目の前にいる明日撫は軽い調子でデートなどと言ってのけた。それが蓮司の癇に障ったのだ。

「……ごめんなさい」

 俯き加減になって明日撫が言った。その表情はわずかだが悲しげに歪む。元から小柄な彼女であるが、しゅんと肩を沈めるその姿は、普段よりも余計に小さく見えた。

 明日撫の殊勝な態度を見て、蓮司は思わず口元を歪めた。

「いや、こちらこそついカッとなってしまった。すまない」

 そう言って、蓮司は小さく頭を下げる。

 明日撫は首を左右に振った。

「ううん、蓮司の気持ちを考えなかった私が悪いから」

 その時、一陣の風が校門を吹き抜けた。その風によって、明日撫の穿いていたスカートの裾がふわりと浮き上がる。その風が突然吹いたこと、それから彼女の右腕が上手く使えないことも相まって、そのスカートは無防備にめくれ上がってしまったのだ。

 剣道の試合においては優れた反射神経を誇る蓮司も、この時ばかりは反応することが出来なかった。

 永遠にも感じるようなその一瞬の中で蓮司が見たものは、白地でいちご柄のパンツだった。

 やがてふっと風が止んでスカートが元に戻る。

 明日撫の黒い目が、静かに蓮司のことを見つめていた。今、彼女が一体何を思っているのか、その目からは判断することが出来ない。

「…………見た?」

 ふいに明日撫が小さく声を発した。

 蓮司はまだ困惑の最中にいたが、ハッと我に返る。

「すまない」

「見たんだね?」

「ああ。しかし、決してわざとではない」

 蓮司は弁明するが、明日撫はまだ彼のことを見つめている。その黒い目はまるでブラックホールのようで、ずっと目を合わせていると意識を引き込まれてしまうような錯覚に陥る。

「蓮司」

 明日撫が呼んだ。蓮司は思わず姿勢を正す。

「エッチ……」

 わずかに口の先を尖らせて、明日撫は言う。

 蓮司は少し焦った様子で頭を下げる。

「本当にすまなかった。……しかし、あまりに突然のことでほとんど見えなかったんだ」

「けれども、少しは見えたんだね。ちらりとは見えたんだね?」

 明日撫はずい、と小さな顔を蓮司に近付ける。

「面目ない……」

 蓮司は眉尻を下げて肩をすくめた。先ほどとはすっかり立場が逆転してしまう。

「蓮司……エッチな蓮司」

「頼むから普通に呼んでくれ」

 蓮司は表情を歪めて懇願する。

「良いよ、気にしないで。私もさっきは蓮司に対して無神経なこと言っちゃったし、これでおあいこだね」

 すっと明日撫がその小さな手を差し出した。蓮司は一瞬迷いながらも、その手を握り返す。

「はい、これで仲直りだよ」

「別に、そんな仲違いをしていた訳ではないだろう」

「さっきあんなに怒ったくせに」

 明日撫が小さく頬を膨らませる。

「いや、それは本当にすまなかった」

「嘘、もう気にしていないよ」

 さらりと言って、明日撫はくるりと踵を返す。

「蓮司、行こう」

 顔だけこちらに振り向いて明日撫が言う。

 全く、今の自分は何をやっているんだろうか?

 蓮司は頭を抱えそうになるが何とか気を取り直し、前を歩く明日撫の小さな背中を追った。




 関東地方の某所に咲良市(さくらし)はある。

 この都市には、美しい桜の名所が多々見受けられる。咲良(さくら)と桜。音が同じことから〈桜の都市〉と呼ばれている。そのため、毎年春になると大勢の観光客がこの咲良市を訪れている。もちろん観光客だけではなく、地元の人たちもこぞって桜の下で花見の宴会をするために繰り出す。特に今日は日曜日ということもあり、桜の木の周りはどこも非常に混み合っていた。

 その光景を脇目にしながら、蓮司と明日撫はアスファルトの上を歩いて行く。

 少し傾いた午後の日差しが二人の背中を照らす。

「蓮司」

 明日撫が呼んだ。

「何だ?」

「お花見楽しそうだね」

「ああ、そうだな」

 蓮司は淡白な返事をする。

「私たちも、お花見する?」

「駄目だ。そんなことしている暇なんてないだろう」

「けど、私たちまだお昼ごはん食べていないでしょ? 近くのコンビニでごはんを買って、お花見しながら食べようよ」

 ちょうど前方に現れたコンビニを指差して明日撫が言う。

「分かった。十五分だけなら認めよう」

「短い。三十分」

「長い。十分」

「三十五分」

「五分だ」

「蓮司、女の子がそんな短い時間でごはんを食べられると思っているの?」

 拗ねたように言う明日撫。

「無理だろうな」

「じゃあ、何でそんな短い時間を指定するの?」

「そうすれば、君も大人しくあきらめるだろう?」

「ケチ」

「何とでも言ってくれ」

「エッチ、スケッチ、ワンタッチ」

「いくら剣道以外はてんで疎い俺でも、その言葉がひどく時代遅れなことは何となく理解出来る」

 呆れたように蓮司が言うと、明日撫はムッとした顔になる。

「蓮司は何でそんなにクールなの?」

「君の方こそ、大概冷めていると思うが?」

「甘いよ、蓮司。確かに私は表面上は冷めて見えるかもしれない。けれども、この胸の内では意外と熱い思いをたぎらせているんだよ」

 明日撫は自分の胸に左手を当てながらどこか誇らしげに言った。

 なるほど、確かに明日撫はその小さな身体に熱い思いを秘めているのかもしれない。先日の彼女の戦いぶりは、冷静な頭と熱い心が一体になった素晴らしいものだった。

「……蓮司、今私のこと小さいって思ったでしょ?」

 明日撫がジト目になっていた。

「え? ああ、確かに君は小さいなと思った。よく分かったな」

 自分の心の声を読まれて感心する蓮司だが、対する明日撫は不機嫌そうな顔になっている。「どうしたんだ、そんな怖い顔をして?」

 首を傾げながら蓮司が問いかける。

「ねえ、蓮司。小さくても良いって言って」

「は? 何でそんなことを言う必要があるんだ?」

「良いから、早く言って」

 明日撫の声は静かながら、凄まじい迫力に満ちていた。蓮司はついその迫力に押されてしまう。

「小さくても良いと思う」

「もう一回」

「小さくても良いと思う」

「もう一回、大きな声で」

「小さくても良いと思う」

 すると、明日撫は左手で小さくガッツポーズをした。

「よし。これで私は明日以降も生きて行けるよ、蓮司」

「そうか、良かったな」

 正直に言ってよく意味は分からなかったが、とりあえずそう言っておく。

「ただ君は年齢の割に俺の妹よりも小さいな。もう少しきちんと食事を取るなりして、大きくなった方が良いと思うぞ」

 蓮司は言う。あくまでも今後の明日撫のことを思って助言をしたのだ。体格は個人差にもよるが、やはり明日撫の身体は華奢で少し小さすぎる。

 その時、明日撫の表情が固まった。元々無表情に近い彼女であるが、その極致に達したと言っても過言ではない、完全なる無の顔になっていた。

素晴らしい。人はこれほどまでに表情を消すことが出来るのか。この技術は、将来的に彼女のためにきっと役に立つはずだ。蓮司は胸の内で賞賛を送っていた。

「……蓮司、妹さんは私よりも大きいの?」

 俯き加減になって明日撫が尋ねてきた。

「そうだな。妹も平均的な大きさではあるが、君よりは大きいかな」

 グサッ、と見えない何かが彼女の側頭部に突き刺さったような音が聞こえた、気がした。

「どうしたんだ?」

 顔を俯けたままの明日撫に声をかける。

 すると彼女はおもむろに顔を上げる。その目尻がやや吊り上がっているように見えた。

「蓮司」

「む、どうした?」

「エッチ」

「何だと?」

「シスコン」

「それはどういう意味だ?」

 さすがにこうも理不尽に侮蔑の言葉をぶつけられると、蓮司も黙ってはいられない。

「そのままの意味だよ。蓮司はエッチで、シスコンで、エッチなんだよ」

「なぜ〈エッチ〉という言葉を重ねるんだ? 俺がいつそんな真似をした」

「自分の胸に聞いて。そして、私の胸に秘めたる悲しみを知りなさい」

「むぅ……」

 蓮司は思わず顔をしかめて唸ってしまう。やはり、女子との会話経験が乏しい自分では、その気持ちを汲み取ることが出来ないようだ。今目の前にいる明日撫が何を考えているのかさっぱり分からない。こんな時に寛太がいてくれたら良かったのにと蓮司は思う。

「もう良いよ、早く行こう」

 明日撫はなぜか左手で自分の胸を覆い隠すようにしながら歩き出す。

 まだ混乱した状態のまま、蓮司はその後に付いて行った。




 それからしばらく二人は無言のまま歩き、やがてその歩みが止まった。

「ここだよ」

 明日撫が言う。

 彼女が指差す先にあるのは、立派な和風のお屋敷だ。周りを囲むのは白を基調とした屋根付きの塀だ。その屋敷の門からは荘厳な雰囲気が放たれている。おもむろに視線を動かすと、そこには何やら文字が書かれた看板が付けられていた。〈律善会(りつぜんかい)〉と達筆な文字で記されている。

「じゃあ行こ。蓮司、開けて」

「勝手に開けても良いのか?」

「大丈夫、きちんと話は通してあるから」

 明日撫に言われて蓮司はその門に触れる。確かな重みを感じながらぐっと押して開ける。

目の前に現れたのは太くて長い道だ。その両脇を彩るのはやはり桜だ。これだけの広さがあればかなりの大人数で花見をすることが出来るだろう。わざわざ混み合う花見の名所に出向く必要もない。とても羨ましいことだ。

 桜の花に見入っていた時、ふと前方のから足音が聞こえた。

 二人の前にやって来たのはスーツ姿の男だった。その胸には〈善〉と書かれたバッジが付けられている。

「氷見明日撫と、それから柳葉蓮司だな?」

 何の前置きもなく、男は尋ねてきた。

「ええ、そうよ」

 明日撫は落ち着いた様子で答える。

「仙人様がお待ちだ。付いて来い」

 男はこちらに背中を向けて歩き出す。明日撫も迷いなく歩みを進めるので、蓮司はその後を追う。玄関先までの長い道を歩き終えて、蓮司たちは屋敷の中に足を踏み入れた。

 入ってすぐに、芳醇な木材の香りが鼻腔を突いた。建築に関してはてんで素人の蓮司でも、この屋敷は一級の大工が一級の材料を用いて作り上げたのだと感じ取ることが出来る。玄関先で靴を脱ぎ、用意をされたスリッパでひたひたと廊下を歩く。長い廊下を渡り、右に左にと曲がり、また真っ直ぐ続く長い廊下を歩いて行くと、ようやく目的の場所へとたどり着いたようだ。

 男が、豪奢な絵柄のふすまの前に立つ。

「仙人様、氷見明日撫と柳葉蓮司の二名を連れて参りました」

 厳かな口調で男が言う。

「入れ」

 すると、中から声がした。

 その声を受けて、男は慎重な所作でふすまを開ける。

 広い畳の部屋に一人の老人がいた。髪も髭も白い。特に、その髭は口から頬にかけて覆い、胸の辺りにまで伸びている。外見から判断するに、相当高齢なことが分かる。

だが、その老人は一段高い畳の上に立っており、そこには一切の揺らぎ、それから淀みが見受けられなかった。それはまさに自然体。剣道において最も基本的な技術だ。しかし、本当にその自然体を会得出来ている者は少ない。自然体になるためには力み過ぎても抜き過ぎてもいけない。その人が一番無理なく立っていることが出来る姿勢、正に絶妙のバランスを保たなければならないのだ。毎日厳しい鍛錬をしている蓮司であるが、まだ完璧な自然体を獲得出来てはいない。だが目の前の老人は、それを易々とやってのけているのだ。蓮司は一目見た瞬間に感じた、この老人はただ者ではない。その身体から漂う研磨されたオーラには一切隙が無い。情けない話、蓮司は少しばかり震えてしまったのだ。

「仙人様、来たよ」

 そんな蓮司をよそに明日撫が軽い調子で言ってのけた。この厳しそうな老人に対して、そのような言葉遣いをして怒られないだろうか。

「おお、よく来たの。右腕の具合はどうじゃ?」

 蓮司の予想に反して、老人は穏やかな声色で明日撫に話しかけた。

「うん、とりあえずしばらくは安静にしていなさいって」

「そうか。まあ、大事に至らなくて良かったの」

 老人は微笑みながら髭を撫でた。すると、彼はおもむろに蓮司へと視線を向ける。

「おぬしが柳葉蓮司じゃな?」

「はい、その通りです」

 蓮司はいつも以上にかしこまった姿勢と口調になる。

「ここがどういう場所か、明日撫から説明は受けておるか?」

「ううん、私は何も言っていない。だから、仙人様の口から説明してあげて」

 蓮司の代わりに明日撫が答えた。

「うむ、良かろう。おい、二人に座布団を用意してあげなさい」

 老人が言うと、男は「かしこまりました」と頷き、部屋の隅に置いてあった座布団を二人に渡した。

「ほれ、遠慮せずに座るが良い」

 老人が言うので、蓮司はかしこまりながらゆっくりと腰を下ろす。正座をした。

「足を崩しても良いぞ?」

「いえ、自分は正座の方が慣れていますから」

「ほう、若いのに感心じゃな。さすがは剣道を歩む者よ」

 蓮司はかすかに目を見開く。

「自分が剣道をしていることを、ご存じなのですか?」

「うむ。おぬしについては色々と調べさせてもらっておる。まあそのことも含めてこれから話そう」

 そう言って、老人は腰を下ろすと、座禅を組んだ。

「まずは自己紹介をせねばなるまいな。わしの名は山彦源流(やまひこ げんりゅう)じゃ。周りの者からは〈仙人〉と呼ばれておる」

「仙人……」

 蓮司はその言葉を飲み込むようにして繰り返す。

「とは言っても、そんなに大層な身分ではない。ただこの〈律善会〉という組織の代表を務めておるだけじゃ」

「あの、〈律善会〉とは何をする組織なのでしょうか?」

 蓮司が尋ねる。

「ふむ。〈律善会〉とは、端的に言えば裏人を抹殺するためにわしが作った組織じゃ」

「裏人を抹殺?」

「そうじゃ。おぬしは裏人について、どれくらい知っておる?」

 仙人に問われ、蓮司はちらりと明日撫の方を見やる。

「彼女から少しだけ聞きました。人間の裏の人格が具現化した存在だと」

「その通りじゃ。人間の内に渦巻く感情が溜まった時、裏人が産み落とされる。それは基本的に悪の人格を有しておる。じゃから、世間に色々と迷惑をかけるような行いをするのじゃ。おぬし、自分の裏人にはもう会ったのじゃろう?」

「はい」

「その姿はどうじゃった?」

「自分と姿形が全く一緒でした」

「そうじゃ。裏人は生み出した本人とそっくりの見た目をしておる。見分けることは難しい。じゃから裏人が悪さをして、その罪を本人が擦り付けられるということもあり得るのじゃ」

「それは、少し理不尽ではないでしょうか?」

「うむ、おぬしの言うことも一理ある。しかし、そのような悪しきもう一人の自分を生み出した本人にも全く責任がないという訳ではない。むしろ、きちんと己を律して善なる心を保てなかった罪は重い。じゃから、自分の生み出した裏人の悪さをすれば、それは自分の責任ということになる。この組織はその名からも分かる通り〈性善説〉を採用しておる。人は先天的に善の心を持っておるという説じゃ」

 仙人が言うと、蓮司はかすかに眉をひそめた。

「少しよろしいでしょうか」

「何じゃ?」

「確かに〈性善説〉とは一般的に、人間の本質は善であるということを説いていると思われています。しかし、それは端折った考えです。本来の意味は、人は先天的に善の心を持つが、後天的に悪の行為を学ぶ。それに対する〈性悪説〉も同じことです。人は先天的に悪の心を持つが、後天的には善の行為を学ぶ。つまり、両方とも人間は善行も悪行も行い得るということを説いているのです。そのため、〈性善説〉が一方的に善の心を説いているという解釈は間違っているのです」

 蓮司はすらすらと淀みなく言い切った。隣に座っている明日撫が「蓮司、頭良い」と呟く。

「ほう、おぬし良く知っておるな」

「はい。自分は国語が好きですから、以前にその意味を調べたことがあるのです」

「なるほど。表面にだけ捕らわれず、その本当の意味を学ぶ姿勢は素晴らしい。おぬしは噂通り真面目な少年のようじゃな」

「恐れ入ります」

 蓮司は小さく頭を下げた。

「おぬしの言う通り。〈性善説〉とは善の心ばかりを説くものではない。人はいずれ悪行も学ぶということを説いておることは、わしも知っておる。……しかし、それでもわしはどうしても善なる心ばかりを求めてしまう。そして一切の悪に染まることなく、その清らかな心を保ち続けることを求めておるのじゃ」

 その時、老人の目が鋭く光ったような気がした。

「自分も当然ながら善の心を持つことが大切だと思います。しかし、なぜあなたはそこまで善の心を守ることに執着されるのでしょうか?」

 言い終えて、蓮司はしまったと思った。今の言葉の選択は少しまずかったかもしれない。

「ふふ、執着か……確かに、おぬしの言う通りじゃな」

 しかし、仙人は蓮司の言葉に対して気分を害した様子はなかった。彼はどこか自嘲するような笑みを浮かべた。

「かつて、わしがまだ仙人と呼ばれる前のことじゃ。わしは武術などによって、己をひたすらに鍛えていた。それは身体とそれから心を鍛えるためじゃ。わしは誰よりも厳しい鍛錬を積み、誰よりも強い身体と心を手に入れた。そう思っていたのじゃ。……あの時までは」

 仙人は続ける。

「ある時、山にこもって修行に励んでいたわしの前に一人の男が現れた。それはわしに瓜二つの男じゃった。初めは狐か狸が化けて出たのかとも思ったが、どうやらそうではないらしいことに気が付いた。その男はわしと同じ姿をしていながら、その言動は全く違うものじゃった。男はひたすらに美味い飯と酒、それから女を求めた。自らが抱える飽くなき欲求を包み隠さず叫び続けたのじゃ。そして、わしは気が付いたのじゃ。この男は自分の内に眠っていた醜い感情の塊なのではないかと。つまりは、もう一人の自分なのではないかと。その瞬間、わしは絶望した。自らを鍛え立派な人間になろうとしていたこのわしが、こんなにも醜い心を抱えていたのかと。

気が付けば、わしは拳を振るっていた。刀も振るった。なりふり構わず醜い自分を消し去るために、持てる力の全てを使った。しかしその男は強かった。わしと同等、もしかしたらそれ以上の力を持っていた。わしはその男と三日三晩、戦い続けた。それはまさに死闘じゃった。その果てに、わしはようやくその男を倒した。すると男はまるで煙のように消え去った。わしは歓喜した。醜い己自身を打ち砕いたと。

じゃが、それと同時に恐怖が湧いてきた。また己が悪しき感情を抱き、醜いもう一人の自分を生み出してしまうのではないかと。それからわしは全ての欲求を捨て去り、仙人になることを決意した。そうすれば内に悪しき感情を抱くことなく、醜いもう一人の自分……裏人を生み出さずに済むと、そう思ったのじゃ。今思えば、あの時わしが生み出した裏人は〈七大罪の王〉が一人、〈強欲の王〉だったのかもしれんの」

 仙人が目線を上げて、遠い過去を見つめるようにして言った。

「あの、〈七大罪の王〉というのは?」

 蓮司が尋ねる。仙人はおもむろに視線を下げて、彼を見つめた。

「裏人は表と裏の人格に差があるほどより強力な存在になるのじゃ。中でも特に強い力……というよりは負の感情を纏っている裏人を〈七大罪の王〉と呼んでおる。そしておぬしが生み出した裏人は、その強力な〈七大罪の王〉に名を連ねる〈怠惰の王〉という訳じゃ」

「〈怠惰の王〉……」

「そうじゃ。おぬしの裏人はひどく気だるそうにしておったじゃろ?」

 仙人のその言葉で蘇る。あの男のにやけた面が、今も瞼の裏に貼り付いているようで気持ちが悪い。蓮司はその忌々しい記憶を振り払うようにして頭を振った。

「本当に、自分の裏人はその〈怠惰の王〉なのですか?」

「うむ。組織の者がしばらくおぬしの身辺なども含めて調査をしておったからな。長年裏人と戦って来た我が組織は、その経験を元にある程度裏人を見分けることが出来る。そして、その強さもの」

「ちょっと待ってください。今、あなた方は裏人を見分けることが出来るとおっしゃいましたね?」

「まあ、完璧にという訳ではないがの。綿密な調査をした上で、判断をしておる」

「それならば、あなた方が警察などに協力をすれば、無実の者が裏人の罪を擦り付けられるということも無くなるのではないでしょうか?」

「勘違いをしてもらっては困るが、わしらは慈善事業をやっている訳ではない。先ほども言ったじゃろう? 裏人を生み出した本人にも責任はあると。その本人自身が悔い改めないことには何も解決しないのじゃ」

「つまり、どういうことなんですか?」

 蓮司は前のめりになっていた。しかし、構うことなく問いかける。

「自分の力で殺すんじゃよ」

 そんな蓮司に対して、仙人はそう言い切った。

「裏人を生み出し、それと対面した者には主に二つの選択肢が与えられる。一つはもう一人の醜い自分である裏人から逃げること。そしてもう一つは、自らが生み出した化け物をその手で殺すという選択肢じゃ。後者を選んだ場合、我が〈律善会〉に入会し、〈自分を殺す者(セルフキラー)〉として活動してもらう」

「〈セルフキラー〉?」

 蓮司は虚ろな様子でその言葉を繰り返す。

 仙人は静かに彼のことを見続けている。

「おぬしがここに呼ばれた理由が分かったじゃろ? 選択するのじゃおぬし自身も。自らが生み出した裏人を殺すのか、それとも目を背けて逃げるのか。もし逃げた場合、今後おぬしの裏人がいかなる悪行を働き、その結果おぬしが損害を被ることになったとしても、わしらは全く関与しない。おぬし自身の責任じゃ。それが嫌なら金を支払って我が組織に依頼をするという方法もあるぞ」

「あなたは仙人で、欲望は捨てたのでは?」

「悪しき欲望は捨てた。その金は決して私利私欲に使うつもりはない。この組織を存続させるための資金として使わせてもらう」

「この組織は、例え裏人が悪さをして一般人に迷惑をかけるような事態になっても全く動かないのですか?」

「あまりにも悲惨な事態に陥ればわしらも動く。しかし、結局のところそれでは根本的に解決しないのじゃ。裏人という化け物は人の弱き心から生まれる。その者自身が変わらないことには、また同じ悲劇を繰り返すだけじゃ。そのため、わしらはなるべく本人の手でその生み出してしまった裏人を倒すように促しておる。それがこの〈律善会〉の在り方じゃ」

 迷いのない口調で言う仙人に対して、蓮司は思わず口をつぐんだ。それから、おもむろに明日撫の方を見る。

「じゃあ君も、その〈セルフキラー〉なのか?」

 蓮司の問いかけに対して、明日撫は押し黙っていた。

「その明日撫はすでに己の裏人を殺した。〈自分を殺した者(セルフキルダー)〉じゃ」

 蓮司は代わりに言葉を発した仙人に顔を向けて、すぐまた明日撫の方に視線を向ける。その目は驚愕の色が浮かんでいた。

「そうだよ。私は蓮司の先輩なんだよ、ブイブイ」

 左手でVサインを作りながら、おどけた様子で明日撫は言った。

「明日撫は家が空手道場を営んでおるから、幼い頃から稽古を付けられておったようでの。すでにしっかりとした基礎が出来上がっておったからわしが指導するのも楽じゃった。すぐに一人前の〈セルフキラー〉となり、自らが生み出した〈嫉妬の王〉をその拳で打ち砕いたのじゃ」

 仙人は、まるで自分の孫娘のように明日撫のことを語る。どうやら彼女は相当気に入られているらしい。だから、先ほどから軽い調子で話しかけているのか。

「そして、おぬしも家が剣道場を営んでおり、幼いころからひたすらに鍛錬を積んで来たと聞いておる。おぬしもきっとすぐに、一人前の〈セルフキラー〉になれるじゃろう」

 仙人は改めて蓮司のことを見据えた。

「さて、柳葉蓮司よ。おぬしの答えを聞かせてもらおうか。自らが生み出した化け物から目を背けて逃げるか、それとも逃げずに戦って殺すか。さあ、選ぶのじゃ」

 ふいに厳しい目つきとなった仙人は、蓮司に問いかける。

「自分は……」

 蓮司は顔を俯ける。きれいで滑らかな畳をじっと見つめた。

 正直なところ、いきなりこのような話をされてとても困惑している。裏人という化け物の存在だけでもまだ信じ切れていないというのに、その上それと戦う〈セルフキラー〉になれだなんて言われても、話がいささか飛躍し過ぎている。今まで剣道の稽古は辛い時もあったが、それでも平穏な日常だった。しかし、今その日常が脆くも崩れ去ろうとしているのだ。それが怖い。このまま逃げ出したいという気持ちもある。

 ふと、またあの男の顔が瞼に浮かんだ。先ほど振り払ったつもりが、まだしつこく残っていたようだ。そしてそれが幸いした。そのにやけた面を思い出すと、無性に怒りが込み上げて来る。あのように気だるそうで堕落したような男は嫌いだ。あまつさえ、その嫌いな男は自分と全く同じ容姿をしているのだ。そんな男が今後好き勝手に街を徘徊することを考えると、蓮司の心は激しくざわついた。それと同時に、胸の内にボッと熱く炎が宿るような感覚を得た。やがて蓮司は、俯けていた顔をふっと上げる。

「自分は逃げません。その〈セルフキラー〉となり、自らが生み出した裏人を殺します」

 確固たる意志を持って、蓮司はそう言った。

 仙人は彼のことを静かに見据えていた。それから、ゆっくりと両目を閉じて頷く。

「良かろう。柳葉蓮司よ、おぬしが〈律善会〉に入会することを認める。また、今後〈セルフキラー〉として活動することもじゃ」

「はい」

 蓮司は背筋を伸ばして、力強く頷く。

 彼はその胸の内で決意していた。

 己の醜い心から生まれたもう一人の自分を殺す者――〈セルフキラー〉になることを。




      4




 夜空には満月が浮かんでいた。

 その光が剣道場の中を淡く照らしている。

 蓮司は袴を身に纏い竹刀を構えていた。木製の竹刀に月明かりが反射することはないが、その時彼の握っている竹刀が一瞬鋭く光るように見えた。

 直後、竹刀が振り下ろされる。目にも止まらぬ速度だ。蓮司は休むことなく竹刀を振り続ける。剣道場内ではヒュッヒュッ、と鋭い風切音が鳴り響いていた。

 あの後、帰宅した蓮司は風呂と夕食を済ませた後に、すぐさま自宅に隣設している剣道場にやって来た。普段ならこの時間は勉強をしているのだが、今日は違う。剣道部の稽古を途中で抜けてしまったので、その分を補うために自主練習を行っているのだ。それなりにきちんとした理由があったにせよ、稽古を休んでしまった事実に変わりはない。そういった気の緩みから己が堕落していくのだ。尊敬する父が常日頃から言っている教訓に対して、蓮司は忠実に従い実行をしているのだ。

「――本当に真面目だな」

 ふいに声がした。男の声だった。もっと言えば、自分とよく似た声だった。

 蓮司は辺りを見渡す。暗闇の中から姿を現したのは、自分と全く同じ姿をした男だった。

「よう、本人様。稽古は順調かよ?」

 その男は紺色のTシャツにベージュのズボンを穿いている。服装としては至ってシンプル。しかし、その男が着ているとどうしてもだらけた感じがしてしまうのだ。

「……〈怠惰の王〉」

 蓮司がぽつりと言葉を漏らすと、男――怠惰の王はぴくりと反応した。

「そうだ、俺は怠惰の王。ただひたすらに怠惰な生活を送りたいと願う男さ」

 怠惰の王はなぜか気取った風に言う。

 蓮司はぎろりと彼を睨んだ。

「そんなに怖い顔をすんなって。俺とお前は同じ存在なんだぜ?」

「お前のような堕落した男が俺だなんて認めない」

 怒気を孕ませた声で蓮司は言う。

「なるほど。だから、お前は俺のことを殺そうとしているんだな?」

 蓮司が一瞬目を丸くすると、怠惰の王は口の両端を吊り上げて笑みを作る。

「ひどいなー。俺はお前のもう一つの人格、紛うことなきお前自身なんだぜ? お前はそんなお前自身のことを殺そうとしているんだ。そのことについては何とも思わないのか?」

 その言葉を受けて、蓮司は無言のままでいた。

 怠惰の王はまるでこちらをからかう様な笑みを浮かべ、そして楽しんでいる節がある。

 蓮司は小さく息を吸い込み、口を開く。

「そうだ、お前は俺ではない。しかし、俺がお前を生み出したのは事実のようだし、きちんと責任を取って、葬らなければならない」

「言ってくれるじゃん」

 怠惰の王はそう言って、ゆっくりと蓮司の方に歩み寄って来る。

「じゃあさ、俺と勝負しようぜ」

「何だと?」

 蓮司は眉をひそめる。

「俺のことを殺したいんだろ? だったら、今ここで、殺してみなよ」

 怠惰の王は蓮司の目の前に立った。

「竹刀を貸してくれよ」

 右手を差し出して、怠惰の王は言った。

 蓮司は思案顔になり少しの間固まっていたが、おもむろに道場の隅へと向かう。そこにある用具室に入り、それから一本の竹刀を持って戻って来た。

「ルールはどうする?」

 怠惰の王に竹刀を手渡しながら、蓮司が尋ねた。

「ルール?」

 瞬間、怠惰の王が片眉を上げた。そこから生じた歪みが、顔全体に広がる。

「おいおい、勘弁してくれよ。これだから真面目な良い子ちゃんは嫌になるんだよ」

「何?」

 蓮司は怠惰の王を鋭く睨む。

「だってさ、お前自身が言っただろうが。殺し合いだって。そんなものにルールなんて存在する訳ないだろうが。あえて言うならばルールはない。それがルールだ」

 その言葉を受けて蓮司は思わず息を呑んだ。しかし、また鋭い眼光を放つ。

「ただ無闇やたらに振り回す剣など醜いだけだ。俺はお前を殺すにしても、きちんとしたやり方でやる」

 蓮司が言うと、怠惰の王はため息を漏らして、肩をすくめた。

「本当に、どこまでも清らかな良い子ちゃんだな」

 その直後だった。

「――反吐が出るぜ!」

 まだ構えも何もない状態から、怠惰の王がいきなり蓮司に目がけて突っ込んで来た。

 まっすぐに突き出された剣先は、蓮司の左目を狙う。

「……っ!」

 寸でのところで、蓮司は自分の竹刀を相手のそれにぶつけて、軌道を逸らした。

 蓮司は二、三歩後退してから、怠惰の王に鋭い視線を飛ばす。

「まだ開始の合図をしていないだろう?」

 激しく非難するように蓮司が言う。しかし、怠惰の王は薄らとにやけるばかりだ。

「あん? そんなものある訳ないだろ。お互いが対峙した時点で、もう殺し合いは始まってんだよ。もっと言えば、お前は律儀に俺に対して武器を渡した。本気で俺を殺したいなら、わざわざそんなことする必要はなかったんだよ、本当に愚かな良い子ちゃんだな、おい」

 ヒャハハ、と怠惰の王は高笑いをする。その目の端からはわずかに涙がこぼれていた。

泣くほどおかしいと言うことか。

蓮司はぐっと竹刀を握る手に力を込めた。

「ほら、来いよ。お前の良い子ちゃん剣法でこの俺を殺してみろよ?」

 挑発するように怠惰の王が言う。

 蓮司はすっと竹刀を構えた。正直、今は怒りではらわたが煮えくり返りそうだ。しかし、こんな時こそ落ち着いて冷静になる。基本の自然体になるのだ。

 蓮司は自然体の構えを取り、怠惰の王との間合いを測る。

 相手の呼吸、それから自分の呼吸をしっかりと確認する。その間で生まれる攻撃のタイミングを蓮司は掴もうとしている。怠惰の王の呼吸はとても穏やかだ。つまり、彼は余裕の状態にあるということだ。だが、その余裕が命取りになるということを教えてやる。

 ふと、怠惰の王の呼吸が少し乱れた。中々向かって来ない蓮司に対して焦れたようだ。

 蓮司は前進した。無駄のない足さばきで、悠々と佇んでいる怠惰の王へと肉薄する。

 蓮司の頭の中では既に攻撃の流れは決まっていた。

 まずは相手の面を打つ。当然、相手はそれを防ぐ。そこで素早く切り替えし、がら空きになった相手の胴を狙い打つ。シンプルな組み合わせ技だが、決まれば大きい。

 蓮司は竹刀を上段に構えた。

 そこから面打ちを放つ。この攻撃が頭部を捉えることが相手に一番ダメージを与えるのだが、そう簡単にはいかない。案の定、怠惰の王は易々とその面打ちを防いだ。ただその防ぎ方はどこか気の抜けたような受け方だった。蓮司は一瞬苛立ったが、すぐに次の攻撃へと集中する。持ち前の強靭な手首の返しですぐさま竹刀を引き戻し、今度は胴打ちへと移行する。

 胴着を着ていないこの状態ではもろにあばらへと衝撃が走り、やがてそれは全身を駆け巡り、がくりと膝から崩れ落ちる。肺から空気が漏れ出すことで呼吸も苦しくなるだろう。

 鋭くしなった剣先が唸りを上げて、怠惰の王の左脇を直撃する――

 刹那、怠惰の王はすっと竹刀を左脇の方へと動かした。一見すると緩慢に見えるその動きは、しかし一切の無駄がなかった。蓮司の放った一撃は、その緩く構えた竹刀によって吸収されてしまう。

「なっ」

 蓮司は思わず声を上げていた。まさか、こうもあっさりと受け止められるとは思わなかったのだ。決して己の力を過信している訳ではない。しかし、こんなにも腑抜けた構えをしている男に軽々とかわされてしまったことが、ショックだったのだ。

「自然体」

 ふいに、怠惰の王が口を開いた。

「それが剣道の基本なんだよな?」

「それがどうした?」

「確かにお前は、長年の鍛錬のおかげでその自然体が上手く出来ているのかもしれない。けど、それって結局は自然体とか言いながら、きちんと型にはまっちゃっているんだよな。だから自然体と言いつつも、全然自然じゃないんだよ」

「お前は、俺が長年かけて培ってきた技術を馬鹿にするのか?」

「いいや、馬鹿にはしない。ただ、愚かだと思うだけだ」

「何だと……」

 蓮司は先ほどよりも一層、強く竹刀を握り締める。

 目の前にいる怠惰の王は、相変わらず嫌味な薄笑いをその顔に貼り付けている。

 気に食わない。

 蓮司は強く思った。

 しかし少し冷静になって怠惰の王を見やると、その構えが存外隙が無いことに気が付いた。ゆらゆらとおぼつかないように見えるが、あの揺れは彼の独自のリズムを作り出しているのかもしれない。そして力みもない。というかそんな気持ちが一切ないのかもしれない。

 先ほど怠惰の王に指摘されたことは案外的を射ていた。剣道において基本である自然体。しかしそれは、自然と言いながらもきちんとした型があり、それにはまることで会得することが出来る。自然体とはこうだという概念に基づいた型にはまることで、その作り上げられた自然体を身に付けるのだ。

 しかし、一方で怠惰の王の構えは一切型に当てはまらない。あの緩い構え方は彼独自のものであり、あの構え方が彼にとっての自然体。それは、蓮司が身に付けている自然体なんかよりも、自然体なのかもしれない。

 そこまで考えて、蓮司は首を左右に振った。

 確かに怠惰の王の構えは力みが一切ない、蓮司よりも自然体なのかもしれない。

 しかし、それはただ好き勝手に構えているだけ。もっと言えばでたらめなのだ。そんなものはいずれ崩壊する。こちらがきちんとした構えに乗っ取って責め立てればいずれ崩壊する。

 蓮司はふっと息を吐き、気を落ち着ける。

 よし、行くぞ。

 心の中で気合の一声を上げて、蓮司は再び動き出す。

 面。面。胴。小手。

 流れるような連撃が怠惰の王に襲いかかる。しかし、そんなのはまだ序の口だ。

 そこから蓮司はさらに攻撃を繰り出す。

 面。面。胴。小手。胴。小手。面。面。

 蓮司の竹刀が嵐のように踊り狂う。しかし、きちんとした基礎、秩序の上にその攻撃は成り立っている。長年培って来た土台がきちんとあるからこそ、一見すると破れかぶれな攻撃にもきちんとした筋が通るのだ。

 猛烈な蓮司の攻撃を受けて、さしもの怠惰の王もかわすので精いっぱいのようだ。相変わらずだらけによる柔軟な受けをするが、やがて、蓮司の攻撃を防ぎ切れずに隙が生まれた。

 蓮司はその隙を見逃さない。

 竹刀を一度ぐっと引き下げて、そこで溜めた力を一気に爆発させたかのように鋭い突きを繰り出す。その突きは迷うことなく真っ直ぐに怠惰の王の喉元を狙っていた。

 決まった。蓮司は心の中で叫んだ。憎き男に対して一泡吹かせてやることが出来ると、歓喜した。

 しかし、それはあまりにも早計な判断だった。

 蓮司の突きが喉元を捉えようとした直後、すっと怠惰の王は首を横にずらした。その動きによって、蓮司が繰り出した必殺の一撃は虚しく空を切った。

 蓮司はあまりの衝撃に、今度は言葉が出なかった。代わりに大きく目を見開いた。

「惜しかったなぁ」

 怠惰の王がにやりとほくそ笑む。

 彼は左手でがっと蓮司が突き出した竹刀を掴む。

 それからぐっと力を込めて竹刀をねじ伏せるようにして、自分の腰の位置まで下げた。

 蓮司はその力に逆らおうとするが、竹刀はねじ伏せられたままだ。

 その時、おもむろに怠惰の王が右足を上げた。

 直後、その右足が蓮司の竹刀を宙で踏みつけ、そのままへし折った。

 バキッ、と嫌な音が鳴った。長年剣道を歩んで来た蓮司にとって、竹刀は最早自分の手も同然だった。そのため、まるで自分の手が折られたような錯覚に陥り、激しく混乱した。

「あーあ、折れちゃったな」

 怠惰の王は薄ら笑いを浮かべながら言った。

 蓮司は折れた竹刀をしばらく見つめていたが、やがてハッとしたように怠惰の王を睨んだ。

「おいおい、そんなに睨むなよ。まさか、神聖な剣道に竹刀を折るなんて、こいつ許せん……とか思ってんじゃないだろうな? 言っておくけどな、殺し合いにおいて相手の武器を奪うなんてのは常套手段なんだよ」

 怠惰の王は酷薄な笑みを浮かべる。

「俺はお前を絶対に許さない」

 にわかに震える声で蓮司は言う。

 それからすっと両手を顔の辺りに構えた。

「あん? お前、剣道以外の武術なんて習ってないだろうが?」

 怠惰の王は目を細めた。

「その通り。俺は空手のような素手の戦いは全くの素人だ。けれども、このまま何もせずに終わるよりはよほど良い。今持てる力を使って、その薄汚い顔に拳の一つくらいはくれてやる」

「薄汚いって、これお前と同じ顔だぜ?」

「黙れ。俺はそんな表情などしない」

 蓮司は強い口調で言った。

 怠惰の王は嘆息した。

 すると、彼はゆっくりと蓮司に背中を向けた。

「おい、どこに行くんだ?」

 蓮司が言う。

「あん? だるくなったから帰るんだよ。これ以上続けても結果は見えているし、何よりつまんねえ」

 怠惰の王は吐き捨てるように言う。

「逃げるのか?」

 蓮司が言うと、怠惰の王はぴたりと足を止めた。

「馬鹿かお前は? 見逃してやるんだよ。ありがたく思いな」

 その言葉を受けて、蓮司は拳を握り締める。

 怠惰の王がちらりと振り向いた。

「お前はまだ、〈律善会〉の仙人から剣術を学んでいないんだろう?」

 蓮司は眉をひそめる。

「俺は〈放悪会(ほうあくかい)〉に入会し、そこで剣術を学んだ。真剣を使ったやつだ。お前もきちんとその技を身に付けてから俺に挑んで来いよ。この怠惰の王様によ。その時は、本気の殺し合いをしようぜ?」

 ヒャハハ、と怠惰の王はまた耳障りな笑い声を上げる。

「じゃあな、本人様。また会おうぜ」

 そう言い残して、怠惰の王は闇に紛れて姿を消した。

 その場に取り残された蓮司はへし折られた竹刀を見つめて、ぐっと唇を噛み締めた。




      5




 目の前に黒い台がある。両端が上方に伸びており、くぼみが出来ている。そこに橋渡しをするように黒い鞘に収まった物が置かれている。

 蓮司は自分の目の前にあるそれを、じっと見つめていた。

 そんな彼のことを見つめている者がいた。立派な白い髭を蓄えた仙人だ。彼は畳の上で座禅を組んでいる。

 彼らは現在、道場にいた。そこは律善会の敷地内にある道場だ。

 剣道部の稽古が終わった後、蓮司はここを訪れたのだ。

「怯えることはない。実際に手に取って、その目でしかと見るのじゃ」

 仙人が言う。

「はい」

 蓮司は素直に頷き、ゆっくりと目の前に置かれている物に触れた。

 ひやりとした冷たさを感じた。それは鞘の物質的な冷たさでもあり、また鞘から放たれるオーラの冷たさでもあった。いや、その冷たいオーラを放っているのは鞘の奥に眠っている物だ。

 蓮司は恐る恐る、鞘を払った。

 現れたのは、鋭い刀身だった。道場の照明を受けて、ぎらりと怪しく光る。

 その時、蓮司は初めて間近で真剣を見た。剣道の竹刀とは違い、ずっと確実に人を殺すことの出来る得物が今自分の手の内にあるのだ。そのことに背筋がぞくりとした。

「それは今日からおぬしの物じゃ」

「自分の物……ですか?」

 蓮司は当惑した様子で声を漏らす。

「これから先、裏人と戦うためには真剣の使い方を覚えなければならん」

 仙人はおもむろに立ち上がった。

「付いて来なさい」

 仙人はふすまを開けて部屋から出て行く。

 蓮司は少し慌てて鞘に刀身をしまい、それを持って仙人の後を追う。

 長い廊下を歩き、ようやく玄関先にたどり着いてからそのまま外に出た。

 月が浮かんでいる。今宵は三日月だ。

 仙人はまた蓮司を伴って歩き出す。

 彼らがやって来たのは、広い庭だった。

 そこの地面に、何か棒のような物が突き立てられている。

 ゆっくりと近づいて行くと、その棒の先端には紐で結ばれた藁の束があった。

「刀を抜くのじゃ」

 ふいに、仙人が背中越しに言った。

「あの、これから何をするのですか?」

「今からおぬしには、刀であの藁を斬ってもらう」

 仙人は蓮司の方に振り向く。

「剣道では竹刀で相手を叩くじゃろ? しかし、刀を扱う場合は相手を斬るようにしなければならない。まずはその感覚を掴んでもらう必要がある」

 さあ、刀を抜くのじゃ。仙人は言う。

 蓮司は鞘に手をかけた。再び鋭い刀身が姿を現す。月明かりを受けて、先ほどよりも鋭い輝きを放った。それはどこか不気味であった。

 蓮司は慣れない手つきで柄の部分を握った。

 先ほど手に持った時には気が付かなかったが、それは竹刀よりもずっしりとした重みがあった。

「あの、仙人様」

「何じゃ?」

「一度、素振りをしてみてもよろしいでしょうか?」

「良いじゃろう」

 仙人が頷く。

 蓮司は小さく頭を下げてから、ぐっと柄の部分を強く握りしめた。

 上段へと構え、それから振り下ろした。

 ヒュッ。

 風切り音が鳴る。その時、蓮司はまさに風を切ったような感覚を得た。

 その様子を見ていた仙人が、ほぅ、と感嘆の音を漏らす。

「大したものじゃ。いきなりそのように淀みなく刀を振るとは」

「ありがとうございます。実は最近、剣道の竹刀は少し軽すぎると思うことがありまして。この刀の重さは今の自分にとってしっくり来るような気がします」

「なるほどの。では、実際にその刀で標的を斬ってもらおうか」

 仙人がその標的である藁の束を顎で指し示す。

「はい」

 蓮司は頷き、その藁の束の前に立った。

 中段の位置に刀を構える。一度深呼吸をしてから、蓮司は先ほどの素振りと同様に上段へと刀を持ち上げて、そこから一気に振り下ろした。

 ザクリ、と鈍い音がした。

 藁の束に切れ込みが走っている。しかし、完全に切断はされていない。蓮司の放った斬撃は、目の前の標的を断ち切ることが出来なかったのだ。

「まだ、叩いておるの」

 仙人は言う。

「良いか。刀は竹刀と違って少し湾曲しておる。その構造をしっかりと理解したうえで、斬るのじゃ」

「分かりました」

 蓮司はそこで改めて手に持った刀を見つめる。その芸術的な湾曲線をしっかりと目に焼き付けてから、再び構えに入る。改めて深呼吸をする。己の精神をしっかりと落ち着けてから、蓮司は斬撃を放った。

 スパッ、と軽い音がした。

 藁の束は斜めに切り裂かれて、上半分が地面に落ちていた。

「うむ、見事じゃ」

 仙人は深く頷いて言った。

「少し助言をしただけでこうもあっさりと斬れるようになるとは。おぬしは良い素質を持っておる。武士の時代に生まれたなら、名だたる剣豪の一人になっておったじゃろうな」

 それは少し褒め過ぎではないだろうか。蓮司は思ったが、素直にその言葉を受け入れた。

「ありがとうございます」

「うむ。このまま精進すれば、おぬしは立派な〈セルフキラー〉になることが出来るじゃろう」

 仙人にそう言われて、蓮司は少し自信を持ち始めていた。この刀の技術をもっと磨けば、憎きあの男を斬り捨てることが出来る。

 そこまで考えて、蓮司はハッとした。いつの間に自分はそのようなことを考えるようになったのだろうか。己の心身を鍛えるためでなく、欲望を満たすために剣を振るうだなんて。そのような感情を抱いてはいけない。しかし、あの男の顔を思い出す度に心がざわつき、黒々とした感情が湧いてしまう。

「どうかしたのか?」

 仙人が声をかけてくる。

 蓮司はふっと意識を戻したように、彼の方を見た。

「実は昨夜、家の剣道場で自分の裏人……怠惰の王と戦ったのです。決着は付かなかったのですが、奴は〈放悪会〉に入ったと言っていました。その〈放悪会〉とは何ですか?」

 蓮司が尋ねると、仙人はかすかに眉をひそめて、豊かな白い髭を撫でた。

「〈放悪会〉は〈律善会〉と対立する組織じゃ。わしらが裏人を抹殺しようとするのに対して、奴らは裏人を使って悪さをしようとする。人の胸の内に湧いた悪なる感情の権化、裏人こそが真の人間の姿であると言っておる」

「真の人間の姿……」

 蓮司はその言葉を虚ろに繰り返す。

 その説に乗っ取れば、あの男が自分の本当の姿ということになる。そんなことは絶対に認めたくない。蓮司は唇を噛み締めた。

「怠惰の王がその〈放悪会〉に入ったとなれば、早めに始末をしておかなければならんの。元々強力な〈七大罪の王〉が、さらに武術を身に付けて暴れたら大変じゃ」

 仙人が小難しい顔で唸る。

「奴は、自分が殺します」

 気が付けば、蓮司は迷いのない口調でそう言っていた。

 仙人は蓮司のことをじっと見つめた。

「良い心がけじゃ。期待しておるぞ、〈セルフキラー〉の柳葉蓮司よ」




      6




 廊下の窓から差し込む朝日を浴びながら、蓮司は歩いていた。

 今朝は剣道の自主練習を行うために、早めに登校していた。

 道場で素振りをこなしてほど良い汗をかいた。

 それから、蓮司は自分の教室へと向かっているところなのだ。

「おーい、蓮司」

 背後から声をかけられる。

 小走りで蓮司の隣に並んだのは寛太だ。

「おはよう」

 蓮司があいさつをする。

「はよっす。自主練してたのか?」

「まあな」

 そこからまた他愛もない会話が始まる。寛太は昨日見たバラエティーが面白かっただの、ドラマに出ていた新人の女優の子がかわいいだのと、興奮したように話す。蓮司は半ば呆れながらも、寛太とくだらない話をするのは不思議と嫌な気分ではなかった。小学生からの付き合いということもあるが、やはり彼の人好きする性格のおかげだろうか。

 その時、寛太が喋りをぴたりと止めた。その目線は前を向いたまま釘付けになっている。

 蓮司がその目線を追ってみると、案の定といった具合にそこには栗原恵がいた。

 恵は数人の女子生徒たちと並んで、向こう側から歩いて来た。楽しそうにお喋りをしている。

 ふいに、恵がこちらを振り向いた。

 寛太があからさまに緊張したように固まる。蓮司は別段焦ることもなく彼女を見ていた。

「おはよう」

 すると恵がにこりと笑みを浮かべながら、こちらにあいさつをしてきた。

 その笑みはまさに花が咲いたと表現するのがふさわしいくらいに、可憐なものだった。

なるほど、寛太をはじめとしたクラスの男子たちが彼女に惚れる理由が分かる。蓮司も惚れるとまでは行かなくても、彼女の微笑みは素直にきれいだなと思うのだ。

「お、おお、おは、おはよ……」

 動揺するあまり、寛太の普段は達者な舌が回らなくなっている。

「おはよう」

 蓮司は特に慌てることもなく、平坦な声であいさつを返した。

「あら、柳葉くん?」

 恵が何かを見つけたように声を発して、蓮司の方に歩み寄って来た。

「額に汗かいているわよ」

「ああ、さっき剣道の稽古をしていたから。そのせいだな」

「そっか、柳葉くんは本当に練習熱心だね。あ、そうだ」

 恵は制服のポケットに手を入れた。

「はい、これ良かったら使って」

 そう言って彼女が差し出したのは、花柄模様のハンカチだった。

「汗かいたままだといけないから」

 恵は微笑んで言う。

「ちょっと、恵。あんたさっきそのハンカチで自分の手を拭いたでしょ? しかも、トイレの時に」

 一人の女子が恵に言った。

 すると、恵が目を丸くした。口元に手を当てる。

「やだ、私ったら何てことを……」

「まあでもさ、柳葉くんもマドンナの恵のハンカチを使えるなんて嬉しいでしょう? しかもトイレで手を拭く時に使ったっていうレアものだよ。すごい付加価値でしょ?」

「ちょっと、真弓何を言っているのよ!」

「あれ~、恵、顔が赤くなっているよ?」

 真弓に指摘されて、恵が恥ずかしがるように俯いた。

「あの、ごめんね柳葉くん。私、ついうっかりしちゃって……」

 蓮司は少し意外に思っていた。恵とはあまり話したことがなかったが、お嬢様然とした如才のない少女だと思っていた。しかし、思いのほか抜けている一面があるようだ。

「いや、気にしなくても良い。自分のハンカチがあるからそれで拭くよ。ただ、その気持ちはありがたくもらっておく」

「う、うん。ごめんね」

 そう言って、恵はそそくさと教室の中に入って行った。その後を、真弓を初めとしたにやけた顔の女子が追いかけた。

「さてと、俺たちも教室に入るか」

 蓮司が隣に寛太に呼びかける。しかし、なぜか彼は返事をしない。

「どうしたんだ?」

 怪訝な顔で蓮司が尋ねると、寛太がおもむろに振り向く。

「何で栗原さんからハンカチを貸してもらわなかったんだよ?」

「え? いや、彼女がトイレで使用したと言うし、それに自分でハンカチを持っていたからな」

「蓮司、お前は気が付いているのか? 己がやらかした重大な失策を」

「重大な失策?」

 訳が分からず、蓮司は眉をひそめる。

「あの栗原さんがトイレで手を拭いたハンカチをなぜ素直に受け取らない! そんなお宝をお前はみすみす見逃したんだぞ!」

「お宝? そういえば、先ほど女子が付加価値がどうのと言っていたが……」

「そうだよ! 栗原さんからハンカチを貸してもらえるってだけでも超絶ハッピーなことなのに、その上それがトイレで彼女の手を拭いたものだなんて……最高に興奮するだろ?」

「もしかして、お前は変態なのか?」

「蓮司、変態じゃない男なんていないんだぜ?」

 なぜか歯をきらんと光らせる寛太。

 少なくとも自分はそんな変態じゃないと言いたい蓮司であったが、廊下でそのように破廉恥な話をする訳にも行かないので、適当に相槌を打って教室へと入って行った。




 今日もまた、屋上を明るい陽光が照らしている。

 午後の穏やかな風に吹かれながら、蓮司は弁当箱の包みを解いた。

「蓮司」

 ふと、蓮司の隣に座っていた明日撫が呼んだ。

 今日も彼は、彼女に誘われて一緒にお弁当を食べることになったのだ。さすがに何度も女子と二人きりで食べるのは色々とまずい気がしたので断ろうとした。しかし、彼女の無言のプレッシャーに押されて、仕方なく一緒に食べることにしたのだ。

「何だ?」

「はい」

 明日撫は相変わらず平坦な顔つきのまま、蓮司に自分の箸を差し出す。

「食べさせて?」

 小首を傾げながら明日撫は言う。

 明日撫の右腕はまだギブスが取れていない。そのため利き腕が使えず、箸を使って自力で弁当を食べることが出来ないのだ。

「そう言うと思っていたよ」

 蓮司はにこりと微笑む。

 そう言って、彼はポケットからビニール袋に入ったフォークを取り出す。明日撫に誘われた時に、購買へと足を運んで用意をしておいたのだ。

 ビニール袋を破り、そのフォークを明日撫へと手渡す。

「どういうこと?」

「それを使えば、自力で弁当を食べることが出来るだろう?」

 蓮司は言う。

 やはり年頃の少女が他人、それも男から物を食べさせてもらうのはあまりよろしくない。例え怪我によって利き腕が不自由な状態にあっても、やはり自分の力できちんと食べるべきなのだ。蓮司はあくまでも明日撫のことを思ってそのようにしたのだ。

「……」

 しかし、明日撫はどこか不機嫌そうな目で蓮司を睨んでいる。

「どうしたんだ?」

 訳が分からず、蓮司は尋ねる。

「別に」

 明日撫は短く答えて、蓮司の手からフォークを受け取った。彼女はそれをじっと見つめた。しばらくしてから、ふっと顔を上げた。

「あ、手が滑った」

 明日撫が平坦な声で言った。

 直後、彼女の握ったフォークが蓮司の太ももに突き刺さった。プラスチック製であるが、それは確実に肉に食い込んでいた。

「……っ?」

 蓮司はフォークで刺された箇所を押さえながら、明日撫の方を見た。

「なぜこんなことをした?」

「言ったでしょ? 手が滑ったんだよ」

「いや、今のは明らかに俺の太ももを狙っていた。その証拠に、君から殺気を感じた」

「気のせいだよ。私が蓮司に対してそんな感情を抱く訳ないでしょ?」

 明日撫は平然とした顔で言ってのける。

「けど、もうそのフォークは使えないね」

「問題ない。こんなこともあろうかと、もう一つフォークを用意してある」

 再び蓮司がビニール袋を破いてフォークを差し出す。明日撫の顔に暗い影がかかった。

 直後、明日撫は目にも止まらぬ速さで蓮司の手からフォークを奪い取り、そのまま彼の太ももに突き刺した。先ほどよりも威力が込められていた。蓮司は小さく呻き声を上げる。

「蓮司、ごめん。手が滑っちゃったよ」

 全く表情を変えずに明日撫は言う。さしもの蓮司もにわかに怒りを覚えて肩を震わせた。

「君は一体どういうつもりで、こんなことをするんだ?」

 咎めるように蓮司が言う。

「蓮司に食べさせてもらいたいからだよ」

 瞬間、蓮司はかっと頭に血が上るのを感じた。

「いい加減にしてくれ」

 強い口調でそう言った。明日撫が目を丸くしている。

「俺は君の彼氏でも何でもないんだ。そんな風に甘えてくるのは勘弁してもらいたいな」

「蓮司……?」

 首を傾げる明日撫。

 蓮司は自分の弁当にあったおにぎりを明日撫に手渡す。

「これなら、自分で食べられるだろう」

 虚ろな目で明日撫がそれを受け取る。

 蓮司は食べかけの弁当箱をしまい、すっと立ち上がった。

「悪いが、失礼させてもらう」

 そう言い残して、蓮司は立ち去る。

 そんな彼の後ろ姿を明日撫はどこか遠い目でじっと見つめていた。




 相手の痛烈な面打ちが決まった。

 蓮司はわずかによろめくが、何とか堪えた。

「勝負あり」

 審判の声を受けて、試合が終了する。

 蓮司は面を取り、小さく吐息を漏らす。

「どうした、柳葉?」

 声をかけてきたのは、顧問の三木だ。

「お前がこうもあっさりと面を決められるなんて。調子が悪いのか?」

「いえ、そのようなことはありません」

「そうか? この前も早退したし、やはり疲れが溜まっているんじゃないのか?」

 三木は思案顔になり、唸った。

 しばらく経ってから口を開く。

「柳葉、今日はもう帰って良いぞ」

「え?」

 蓮司は目を見開く。

「いえ、自分はまだやれますよ」

「いいや、今のお前はどこか平常心を失っている。今日のところは早く家に帰って身体を休めろ。きちんと理由を説明すれば、父親も許してくれるだろう?」

 蓮司は俯いた。身体はまだ全然疲れていない。心だって。

 しかし、三木は今の蓮司が平常心を失っていると言う。そのような自覚はないが、優れた指導者である彼に指摘をされると、返す言葉が見つからなかった。

「……分かりました。今日の所は失礼させていただきます」

 蓮司は礼をして、更衣室へと向かう。そこで身支度を整えると道場を後にした。

 夕日が辺りをオレンジ色に染めている。蓮司は周りの風景をぼんやりとした目で眺めていた。

 グラウンドでは今日も野球部とサッカー部が声を張り上げて、懸命に汗を流している。そんな彼らの姿を見ていると今の自分はひどく怠け者のように思えた。まるであの男のような……

 そこまで考えて首を振る。

 違う、自分は断じてあの男とは違う。

 必死で言い聞かせる。

「なあ、あれって明日無いさんじゃね?」

 校門へと向かう途中、ふいにそんな声が聞こえてきた。

 視線を巡らせてみると、校門の所でしゃがんでうずくまる明日撫がいた。

「本当だ。何やってんだろ、あんな格好して」

「おい、お前ちょっと声かけてみろよ。遊びに誘ってみようぜ」

「明日無いさんを? 確かにめちゃくちゃ可愛いけど、やっぱりどこか近寄りがたいオーラを放ってんだよなー。何か影がある感じ?」

「まあ、確かにそうかもなー。進級していきなり腕を骨折しているもんな」

「ああいう子は、観賞用として楽しむんだよ」

「お前ひどい奴だなー」

 あはは、と男子二人組が笑い声を上げる。

 明日撫に対して好奇の視線を向けているのは彼らだけではない。他の生徒たちも、校門前でうずくまる彼女の姿を遠巻きに見つめてこそこそと話している。まるで誰もいない舞台の檀上に立たされている役者のような、惨めな見世物にされているのだ。

 蓮司は歩き出していた。

周りの者たちが避けている彼女の下へと向かう。

「何をしているんだ?」

 蓮司が問いかけると、それまで虚ろだった明日撫の目に小さな光が宿った。

「……蓮司」

 明日撫はか細い声を漏らす。

「こんな所でなぜうずくまっている?」

「待っていたの、蓮司のことを」

「俺を?」

 明日撫はこくりと頷く。

「蓮司、一緒に帰らない?」

 明日撫の黒い瞳が、じっと蓮司のことを見つめてきた。

 蓮司は少し迷った。昼休みの一件で、明日撫とは少し気まずい雰囲気になっていた。しかしここで逃げては、今後しこりを残す結果になるかもしれない。

「……分かった」

 蓮司が言うと、明日撫の表情が少し和らいだように見えた。

 彼女は立ち上がると軽くスカートの裾を払って、傍らに置いていた鞄を左肩に引っかけた。

「じゃあ、行こ?」

「ああ」

 周りからの視線を一手に受けながら、蓮司と明日撫は歩き出した。

 初め二人の間に会話はなかった。沈黙が続く。時折、カラスの鳴き声だけが鼓膜を揺さぶった。

 蓮司は無言の空気など全く気にしない男である。しかし昼休みの一件のこともあり、ずっと黙っていることに対して段々と気が引けてきた。

「悪かったな」

 自然と、そんな言葉が蓮司の口からこぼれていた。

 明日撫がふっと蓮司の顔を見上げる。

「昼休みのことだ。少し言い過ぎた、反省している」

 その時、蓮司はすっと心の中のわだかまりが取れたような気がした。

 剣道の稽古中に集中力を欠いていたのは、その昼休みの一件が原因だったのだ。

 いや、本当はとっくに分かっていたのかもしれない。ただ、自分の気持ちに対して素直になるために、少し時間を有してしまったのだ。

 明日撫が首を横に振った。

「ううん、私が悪かったの。蓮司は他の人たちと違って、私に対して普通に接してくれる。だからつい甘え過ぎちゃったの」

 ごめんなさい、としんみりとした様子で明日撫が言う。

 また無言の時が生じた。

 蓮司が何か言うべきか迷っていた時、明日撫が口を開く。

「前に、私のお母さんがもう死んでいるって言ったでしょ?」

 唐突に、そのようなことを言い出した。

「お母さんね、私のお姉ちゃんのことが大好きだったの。いつも可愛がっていた。けれども、私のことはあまり可愛がってくれなかったの」

「姉がいるのか?」

「うん。けど、お姉ちゃんも死んじゃったの。三年前、病気でね。身体が弱かったんだ」

 蓮司は黙って、明日撫の言葉に耳を傾けている。

「前にも少し話に出たと思うけど、私の家は空手の道場を開いているの。私は小さい頃からそこで遊び感覚でおじいちゃんとお父さんから空手を習っていたの。私は小柄だけど、思いのほかセンスがあったみたいでメキメキと上達していった。それに対して二つ上のお姉ちゃんは、小さい頃から病弱で運動はほとんど出来なかった。そんなお姉ちゃんにお母さんはずっと付きっきりだったの。私がお母さんに話しかけても、ずっとお姉ちゃんのことばかり見て私のことは見てくれなかった。私はそれがショックだった。何でお母さんは私のことを見てくれないんだろうって、ずっと思っていた。だから聞いたの。何で私のことをあまり可愛がってくれないのかって。そしたらお母さんが『あなたは無表情だから』って、そう言ったんだ。お姉ちゃん身体は弱いけどいつも笑っていて、表情が豊かな人だったの。私だってお姉ちゃんほどじゃないけど色々な表情を持っていた。けど、お母さんはそれに気が付いてくれなかった。だから、私はお姉ちゃんに対して嫉妬したの。とても強く、嫉妬をしてしまったの」

 そこで明日撫が小さな手をぎゅっと握りしめる。

「そして三年前のある日、お姉ちゃんは病気で亡くなったの。お母さんはとてもショックを受けていた。失意のどん底に落ちていた。私は何とか励まそうと思ったけれども、お母さんはそれを拒絶した。そして、お母さんはしばらくして自殺をしたの。お姉ちゃんの後を追って。残された遺言に『美香のところに行きます』って書いてあったの。それだけ、お母さんはお姉ちゃんのことを愛していたの。私は思ったの。その愛情の一部でも良いから私に注いで欲しかったって。その時に、私の嫉妬の感情は爆発したの。そして、〈嫉妬の王〉が生まれたの」

 蓮司はかすかに目を見開いた。明日撫は続ける。

「その〈嫉妬の王〉は私と全く同じ姿をしていた。けれども、私よりも強かった。初めて挑んだ時、無様にやられちゃったの。それから〈律善会〉に声をかけられて、仙人様の下で修業をした。自分を鍛え直して、何度も〈嫉妬の王〉と戦い続けた。そして、一年前にようやく自ら生み出した〈嫉妬の王〉を殺すことが出来た」

 明日撫は淡々とした口調で言っているが、その瞳はかすかに憂いを帯びていた。

「一つ聞いても良いか?」

 蓮司が言う。

「その……自分が生み出した裏人を殺すっていうのは、どういう気持ちなんだ?」

「辛いよ」

 明日撫は答える。

「自分とそっくりの……ううん、自分自身を殺すことはやっぱり気分の良いものじゃない。それに一度殺しても、また強い嫉妬あるいは別の感情を抱けば再び裏人が生まれるかもしれない。そう思うと、怖くて仕方がなかった」

 訥々と語る明日撫の横顔を、蓮司は複雑な面持ちで見つめていた。

「ごめんね、いきなりこんな話をして。暗いよね。だから私は、周りの人たちから近寄りがたいって言われちゃうのかな?」

 明日撫の目が悲しそうに歪んだ。

 蓮司はそんな彼女の顔を見て、ぐっと拳を握り締める。

「周りの目なんて気にするな」

「え?」

 明日撫が目を丸くする。

「君は人目を引くような容姿をしているせいで周りから注目を浴びて、色々と好き勝手に言われてしまうのだろう。だから、そんなに悩むことはない」

「人目を引く容姿ってどういうこと?」

 明日撫が首を傾げて尋ねてくる。

「君がとても可愛らしいという意味だが?」

 瞬間、明日撫の目が先ほど以上に大きく見開かれた。

「客観的に見て」

 蓮司が付け加えると、明日撫は口の先を尖らせる。

「蓮司、その一言は余計……けれども、嬉しい」

 明日撫は頬が朱色に染まっていた。

「周りから可愛いと思われていることがか?」

「ううん。蓮司に可愛いって言われたことが」

「いや、俺はあくまでも客観的な意見を述べただけだぞ?」

「じゃあ、蓮司は私のことをどう思っているの?」

 問われて、蓮司は腕組みをして唸る。

 その様子を、明日撫が固唾を呑んで見守っている。

「……きれいだと思う」

「え?」

「以前見た時から、君の戦いぶりはきれいだと思っていた」

 蓮司が言った直後、明日撫がジト目になる。

「蓮司……バカ」

「え、なぜだ? 俺は本当に君の戦いぶりがきれいだと思ったんだぞ?」

「それ以上喋らないで。目潰しするよ」

「なぜ急に物騒なことを言うんだ? せっかく仲直り出来たところじゃないか」

「知らない。もう、蓮司とは絶交だから」

 ぷい、と明日撫はそっぽを向いてしまう。

 蓮司はどうしたものかと思案顔をした。

 その時、遠くの方から甲高い声が聞こえた。

 何事かと思い、蓮司は眉をひそめた。

 すると遠く前方に、人影が見えた。

 その人影は物凄いスピードでこちらの方に向かって来る。

 蓮司の隣で明日撫が身構えた。蓮司もそれに倣う。

 だんだんと、その人影の姿が鮮明になって来た。蓮司は目を凝らして見つめる。

「え……?」

 その瞬間、蓮司は驚いて目を見開いた。

 前方から猛烈な勢いでこちらに走って来ているのは、クラスメイトの恵だった。

 彼女はそのきれいな髪を振り乱しながら、全力疾走をしている。

「うううううぅ!」

 ふいに恵が叫び声を上げる。普段はきれいな彼女の声がひび割れていた。

 次の瞬間、彼女がぐっと拳を握り締めた。すぐそばにあるコンクリートの塀を殴りつける。

 一瞬、爆発したような音が鳴った。彼女が殴りつけた箇所はくぼんでひび割れていた。

「うううううぅ!」

 また叫び声を上げる。

 蓮司は突然繰り広げられた目の前の光景に、半ば呆然として立ち尽くしていた。

 蓮司はそれほど恵と話したことがない。それこそ、まともに話をしたのは今朝が初めてだ。だから彼女のことよくは知らない。しかし、普段の彼女と今目の前にいる彼女の様子が違うのは明らかだ。清楚なお嬢様然とした姿勢は欠片もなく、まるで獣のように荒れ狂っている。姿形は彼女と全く同じだというのに――

「まさか……」

 蓮司はちらりと横に立つ明日撫の方を見た。

 蓮司の言いたいことを汲み取った明日撫が頷く。

「あれは、栗原恵の裏人だよ。恐らく、憤怒の感情によって生まれた裏人」

「憤怒の感情? あの栗原さんが?」

 にわかには信じがたかった。

 あのおっとりとしたお嬢様が、まさか胸の内にそのような感情を抱いていただなんて。

「幸い王クラスには至ってないみたいだけど……このまま放って置くのはまずい」

 そう言って、明日撫が一歩前に出た。

「何をする気だ?」

「決まっているでしょ? 止めるんだよ、あの裏人を」

 明日撫は落ち着いた声で言う。

 蓮司の目線は彼女の右腕に注がれる。固いギプスで覆われたその右腕は痛々しい。

 直後、蓮司は明日撫の細い肩を掴んでいた。彼女は少し驚いたような顔をしている。

「下がっていろ。ここは俺がやる」

「でも、蓮司……」

「君は怪我をしているだろう? あまり無理をするのは良くない。俺は女子の扱い方はさっぱり分からないが、男が女を守るべきだということくらいは知っている。だから下がっていろ」

 蓮司が言うと、明日撫はその黒い瞳を大きく見開いていた。

「……うん、分かった」

 そして、頬をわずかに赤く染めて俯く。

 その返事を受けて蓮司は竹刀を取り出す。

蓮司は改めて前方にいる恵の姿をした裏人を見つめる。彼女は先ほどから金切り声を上げて周りにある物を無差別に殴り続けている。

「おい、その辺にしておけ」

 蓮司が声をかけると裏人はぴたりとその動きを止めて、くるりとこちらに顔を向けた。

「あなた……柳葉くん?」

 それまで狂った様子だったにも関わらず、意外とまともな口調だった。

「ああ。よく俺が分かったな」

「うふふ、当たり前でしょ? 同じクラスの人だもん、ちゃんと覚えているよ。それに私、柳葉くんのことちょっと良いなって思ってたもん。うふふふふ」

 朗らかに笑う裏人。その様は本来の恵に近いが、いささか不気味な雰囲気が漂っている。

「ねえ、柳葉くん。良かったらこれから私と遊びましょうよ」

 うふふふ、と微笑みながら裏人は言う。

「断る。俺はこれからお前を始末しなければいけないからな」

「始末? 私のことを? 何でそんなことをするの? 同じクラスメイトじゃない?」

「確かに栗原恵は俺のクラスメイトだがお前は違う。お前は醜い感情の塊である裏人だ。だから俺はお前を始末する」

「ひどいなー、私だって栗原恵だよ? 姿形もまるで一緒。性格だって……栗原恵と同じだよ? だって私は栗原恵のもう一つの人格なんだもん。ずっと内に眠っていた確かな人格なんだもん」

「お喋りはそこまでだ。俺はあまり口が達者ではないから、それ以上は話に付き合えん」

 蓮司がはっきりとした口調で言うと、裏人はだらんと腕を下げてうなだれた。

「ひどいよ、柳葉くん。ひどいよ、私のこと嫌いなの? ひどい、ひどい、ひどい、ひどい!」

 直後、裏人は再び猛烈な勢いで駆け出した。

 まるで弾丸のように、一直線に蓮司へと向かって来る。

 蓮司はすぐさま竹刀を構えて裏人を迎え撃つ。固く握った拳を繰り出す裏人に対して、蓮司は右足を引いて半身の姿勢を作る。眼前を強烈な拳が走り抜ける。大気が焦げ付くようだ。

 蓮司は裏人の頭に竹刀を振り下ろした。バシンと小気味の良い音が鳴り、裏人の身体がぐらつく。蓮司はその隙にもう一撃を裏人の腹部に放った。しなりを利かせたその強烈な一撃を受けて、裏人の身体が〈く〉の字に折れ曲がった。

「かはっ」

 裏人の口の端からつつ、と透明な液体が漏れている。腹部に衝撃を受けたことで、胃液が逆流したらしい。

 裏人はきっと鋭く蓮司を睨み、彼に対して拳を放つ。強力な拳は、しかし蓮司の巧みな身体操作によってかわされる。

「ひどいよ、柳葉くーん」

 裏人は凄絶な笑みを浮かべて、蓮司を見つめる。

 蓮司は竹刀を握り締め、無駄のない足さばきで裏人に接近する。

 その武器である拳を封じるため、手首を狙う。

 ヒュッと風切音を鳴らし、蓮司の竹刀が裏人の右手首を叩いた。

「ぎゃあぁ!」

 裏人が悲鳴を上げた。急激に腫れ上がった右手首を押さえて、がくりとうなだれる。

 蓮司はそんな裏人に対して容赦のない連撃を放つ。

 頭からつま先まで、隙のある箇所を徹底的に叩いた。その嵐のような猛攻を受けて、裏人はうずくまり、身動きが取れない状態に陥っている。蓮司はここを勝機と見て、一気に畳かける。

 その時、うずくまっていた裏人の手が蓮司の竹刀を掴んだ。

裏人がぐっと力を込めて、竹刀ごと蓮司を投げ飛ばす。蓮司はコンクリート塀に背中を打ち付けた。肺から空気が漏れ出す。くぐもった呻き声を上げた。

「うううぅ……」

 目の前にいる裏人はもはや人としての言葉を喋らず、獣のように唸り声を上げている。艶やかな髪は振り乱れ、表情は引きつっている。そこには栗原恵としての可憐さなど欠片も残っていなかった。ぎろりと剥かれた目が、ひたすらに蓮司のことを恨めしく見つめていた。

 蓮司は竹刀を杖のように使って立ち上がる。打ち付けた背中に、重く鈍い痛みが纏わりついている。恐らく戦闘が長引けばこちらの方が不利になるだろう。

 蓮司は身構えた。次の一撃で決める。呼吸を整えて意識を相手に集中させる。

 しばらくの間、両者の間に沈黙が流れていた。その間にも、緊張感は高まり続ける。やがてそれが臨界点を突破した時――両者の間に動きが生じた。

「きゃはぁ!」

 裏人が奇声を上げて駆け出す。蓮司も同じタイミングで静かにアスファルトを蹴った。

 裏人が固く握った右拳を放ち、蓮司は必殺の突きを繰り出す。

 両者が衝突する寸前、蓮司は身をひらりと右にずらす。裏人の繰り出した拳をかすめるようにして、その懐に潜り込んだ。そのまま容赦なく裏人の喉を突いた。

「ぐぎゃ!」

 裏人は喉が潰れたような、醜い声を漏らす。

 そのまま仰け反って、アスファルトに背中から倒れた。

 会心の一撃を決めた蓮司は、悠然とした歩調で裏人へと歩み寄る。彼は己の勝利を確信していた。

 しかしその瞬間、突然裏人の手が跳ね上がり、蓮司が持つ竹刀を握った。

 蓮司が困惑する間もなく、バキリと音を立ててその竹刀がへし折られた。

 これで竹刀を折られるのは二度目だった。やはり何度味わっても嫌な気分だ。

「……ぐふ、ひどいよ、柳葉くん」

 呻くように裏人が声を漏らす。

「こんなことして、とても痛かったのよ」

 裏人はよろよろとしながらも立ち上がり蓮司の方を見た。その目は確かな狂気を孕んでいる。

「同じくらい、痛い目に遭わせてあげる」

 にぃ、と裏人の唇が笑みを浮かべる。

 次の瞬間、蓮司は腹部に痛烈な拳を食らい後方に吹き飛んだ。そのままアスファルトにしたたかに身体を打ち付けた。

「がはっ」

 思わず呻き声が漏れてしまう。

 蓮司は自らの行いを恥じていた。勝手に勝利を確信して油断するなんて。あまつさえ、その隙を突かれて形成を逆転されてしまった。情けないことこの上ない。

「さてと、今度は私があなたをボコボコにしてあげるから。覚悟しておきなさい」

 うふふ、と狂った笑みを浮かべて裏人は歩み寄って来る。全身にある傷やあざによってその姿はより凄惨に見えた。

 裏人はついに、蓮司のすぐそばまでやって来た。

 アスファルトに仰向けになっている蓮司をまたいで、彼のことを見下ろしている。裏人の顔には影が差しており、不気味さが増している。

「まずは、その顔をめちゃくちゃにしてあげるね」

 裏人はにやりとほくそ笑み、その右拳を蓮司の顔面に目がけて打ち下ろす。

 その瞬間、蓮司は虚ろだった意識を覚醒させて、紙一重のところでその右拳を避けた。勢いそのままに、右拳はアスファルトを叩く。みしり、とアスファルトがひび割れる音が聞こえた。

「ぎゃあ!」

 それと同時に裏人が悲鳴を上げる。

 初めはコンクリート塀を殴っても全く問題にしなかった裏人が、その反動でダメージを受けている。その原因は先ほど、蓮司の打撃によって右手首を痛めたからであろう。それにも関わらず裏人は右手ばかりを使う。恐らく戦う術を身に付けていないのだろう。その強い負の感情によって凄まじい膂力はあるが、右拳を使った攻撃しかまともに出来ないのだ。先ほどからパワーはすごいが動きが洗練されておらず、力任せな戦いばかりが目に付くので蓮司の推測は当たっているはずだ。だから痛めた右拳を使い、自分にもダメージを受けているのだ。

 蓮司は自分の右手に握っている、折れた竹刀を見た。その断面は荒く棘が立っている。それから瞬時に上半身を起こし、その折れた竹刀を裏人の左頬に突き立てた。

「ぎゃあああぁ!」

 裏人は大きく悲鳴を上げた。その左頬は皮膚がずる剥けて、だらだらと鮮血が溢れている。その赤い血がアスファルトに垂れて滲んだ。

「痛い、痛い、痛い、痛いよぉ……」

 とめどなく流れ出る血を両手で押さえながら、裏人は今にも泣き出しそうな声を上げる。その目にはそれまでの獣のような闘志はなく、ただひたすらに憶病な色に染まっていた。がくがくと膝を震わせて、二歩三歩と後退して行く。それから裏人はくるりと踵を返し、乱れた足取りで駆けて行った。そのままコンクリート塀の陰に消えた。

 蓮司はすぐに追いかけようと思ったが、がくりと自分の膝が沈んだのを見て、その追撃をあきらめた。馬鹿の一つ覚えの右拳は、しかし蓮司に大きなダメージを与えていたのだ。

「蓮司」

 それまで戦いを見守っていた明日撫が、蓮司のそばに駆け寄って来た。

「大丈夫?」

 明日撫は不安げに眉尻を下げて蓮司を見つめる。

「ああ、問題ない。それよりも奴を取り逃がしてしまったな」

「そうだね。けど、蓮司はよくやったよ。あれだけダメージを与えれば、しばらくはまともに動けないと思う」

 明日撫は言う。

「ねえ、蓮司」

「何だ?」

「ありがとう、私のことを守ってくれて」

 明日撫が言った。

「俺は当然のことをしたまでだ」

「うん、そうだね……」

 そう言って、明日撫は顔を俯けて頬を赤く染めていた。

「どうした? もしかして熱でもあるのか?」

「蓮司、鈍感。でも今は許してあげる」

 ぽつりと明日撫は呟いた。




 澄み切った青空に浮かぶ太陽が、今日も優しく屋上を照らしている。

 その空の下、蓮司と明日撫は今日も一緒にお弁当を食べていた。

 相変わらず明日撫は自分で食べようとせず、蓮司に食べさせてもらおうとする。蓮司は拒もうとしたが先日の一件があるので、仕方なく彼女の要求を受け入れることにした。蓮司が箸を使って卵焼きを掴み、明日撫の小さな口に運んだ時。

 がちゃり、と音を立てて屋上の扉が開いた。

 現れたのはクラスメイトの栗原恵だ。

 屋上を風が吹き抜けると彼女の艶やかな栗色の髪がふわりとなびき、それを手で押さえる仕草はまさに高原に佇むお嬢様を彷彿とさせる。

 蓮司たちの前に立っているのは完璧なお嬢様だ。間違っても、歪んだ顔で奇声を上げて暴れ回るようなことはしない。

 恵はその澄んだ瞳で、蓮司と明日撫の様子を見つめていた。

「あら、もしかしてお邪魔だったかしら?」

 恵は口元に手を当てて上品に言う。

「いや、そんなことはない。こちらが君を呼び出したんだからな」

 蓮司が言う。

「そう? あ、もしかして私に二人がラブラブなところを見せ付けて自慢するために、わざわざ呼んだの? ちょっとひどいな」

 恵は口の先を尖らせて言う。清楚なお嬢様のイメージが強い彼女であるが、意外とお茶目な一面もあるようだ。この社交的なノリの良さがあるから高飛車なお嬢様と思われず、多くの友人たちに囲まれているのだろう。それでいてやはりお嬢様として品位を崩さないのだから、そのバランス感覚は素晴らしい。そんな彼女が憤怒の裏人を生み出すとは、蓮司は未だに信じられなかった。

「そうだよ。私と蓮司のラブラブっぷりを、あなたに見せつけるために呼んだの」

 明日撫が突拍子もないことを言い出した。

「今彼女が言ったことは全くのデタラメだ。俺たちはちゃんとした用事があって、君をここに呼んだんだ」

 蓮司が言うと、明日撫が眉をひそめて不機嫌そうな顔になる。

「あら、そうなの」

 恵はにこりと微笑む。

「ところで、その話っていうのは何かしら?」

 恵が首を傾げて尋ねてくる。彼女はその一つ一つの動作が優美だ。

「それは……」

 蓮司は口ごもった。昨日起きた出来事を、恵に対して何と伝えるべきか迷った。

「昨日、あなたの裏人が暴れて大変だったの」

 唐突に、明日撫が切り出した。

「裏人……って何かしら?」

「あなたの内なる感情が具現化した、化け物だよ」

 明日撫が端的に、容赦のない物言いをする。

「私の内なる感情……」

 ふいにそれまで明るかった笑みが消え、恵の表情に陰が差した。

「そう、あなたが生み出したのは憤怒の感情を持つ裏人。つまり、あなたの心に強い憤怒の感情があったから、その裏人は生まれたんだよ」

 語る明日撫に対して、恵は顔を俯けている。

「自分にそんな醜い心があることを認めたくない気持ちは分かる。けど……」

 明日撫が言いかけた時。

「私は、確かに怒りの感情を抱いていたかもしれない」

 恵が言った。

 彼女は視線を地べたに落としたまま、語り出す。

「私ね、色々と縛りごとが多いの。習い事とか、服装とか、食べる物とか……全部親に決められていてね。社長令嬢たるものこうでなければならないって、いつも言われていて、少し息苦しさを感じていたわ。私だって、普通の女の子みたいにもっと楽しく学生生活を送りたい。学校にいる時はお友達と楽しくおしゃべり出来てとても楽しいの。けれども、放課後はいつも習い事が入っているから、遊びに誘われても行くことが出来なかった。それからね、私はもう将来結婚する人も決められているの。いわゆる許嫁よ。私には自由に恋愛をすることも許されていないの」

 ふと、憂いに帯びた恵の顔が蓮司を見つめた。

「だからね、そんな自分の境遇に不満が溜まっていたのかもしれない。そして知らないうちに私はとてつもない怒りをその胸に秘めていたのかもしれないわ」

「なるほど、その結果あなたから裏人が生まれたのね」

 明日撫は静かにそう言った。

「ねえ、その私が生み出した裏人っていう化け物が暴れ回っているのは本当?」

 恵がにわかに声を震わせて尋ねた。

「ええ。昨日も蓮司に襲いかかって来たわ」

「そんな……」

 衝撃を受けたように、恵は両手で口を覆い目を見開いた。

「栗原恵、あなたには二つの選択肢が与えられる。このまま己の裏人から逃げるか、それとも逃げずに戦って殺すか」

 いきなりそのような選択肢を迫られて、恵は困惑した表情を浮かべる。

「それは、出来ることならきちんと始末をつけたいわ。けれども、私にはそんな化け物と戦う力なんて……」

 悲観した様子の恵を見て、蓮司がおもむろに口を開く。

「良ければ、俺が代わりに始末しようか?」

 蓮司がそのように提案をすると、恵は「え?」と目を丸くした。

「蓮司、それは甘いんじゃないの?」

 明日撫が目を細めて言う。

「栗原さん、何か武術の心得はあるか?」

 蓮司が尋ねると、恵は首を横に振った。

「いいえ、そのようなことは両親が許してくれなかったわ」

「そうか。それでは、今から仙人様の下で修業をしたとしても戦えるようになるまで時間がかかり過ぎるな。そんなことをしている間にも、君の裏人はどんどん強くなって一般人に大きな被害を及ぼすかもしれない。やはり、ここは俺が引き受けるべきだろう」

「本当に良いの?」

 恵が不安げな面持ちで問いかけてくる。

「ああ」

 蓮司が頷くと、恵の表情が少しだけ晴れやかになった。

「ありがとう、柳葉くん」

 その様子を見ていた明日撫が、小さく吐息を漏らす。

「分かった、蓮司が代わりに始末しても良いよ。ただし、それ相応の料金は〈律善会〉の方に払ってもらうからね」

「おいおい、これは俺が個人的に請け負ったんだぞ?」

「蓮司はもう〈律善会〉の一員でしょう。好き勝手なこと言わないの」

 珍しく明日撫から注意を受けて蓮司はたじろぐ。

「分かった」

 蓮司が頷くと、明日撫はまた吐息を漏らし、それから恵の方を見た。

「そういう訳だから。あなたも了承してよね」

「ええ、分かったわ」

 恵がこくりと頷いた。




 薄暗い闇の中で静かな波の音が鳴り、ほのかに潮の香りが鼻腔をくすぐる。

 蓮司と明日撫は咲良市の郊外にある港へとやって来た。

 二人とも私服姿だ。明日撫はブラウスに膝丈のスカート。蓮司はトレーニング用のジャージ姿である。厳格な父を持つ蓮司は、身体を鍛えるランニングを口実に、夜遅くに家から抜け出していた。最近、仙人の下を訪れる時もそのようにしていた。

「本当に、この場所にいるのか?」

 蓮司が言うと、隣で明日撫が頷く。

「うん。〈律善会〉の調査員たちが調べたから間違いない。栗原恵の裏人は、この辺りに潜んでいるはずだよ」

「そうか」

 蓮司はおもむろに、左手に持っている細長い物体に目をやった。それはここに来る途中〈律善会〉に立ち寄って仙人から受け取った刀だ。彼が恵の裏人を始末する旨を伝えた時、仙人はその刀を使って始末するように命じた。センスがあるとはいえ、蓮司はまだ刀を扱い始めたばかりである。今回の実践で少しでも経験を積んで欲しいと仙人は言った。

「蓮司、大丈夫?」

 心配するように明日撫が尋ねてきた。

「ああ、問題ない。刀を実践で使うのは初めてだが、何とかやってみせるさ」

「そうじゃなくて」

 明日撫が首を横に振る。

「その刀で蓮司は相手を殺せるの?」

「どういう意味だ?」

「相手は裏人。普通の人間じゃない化け物。でも、その姿形は人間そのもの。しかも自分のクラスメイト。蓮司はそんな相手を問答無用で斬り捨てることが出来るの?」

 その言葉を受けて、蓮司は押し黙る。

 化け物とはいえ、相手は人間に限りなく近しい存在。そんな相手を殺す覚悟があるのかと彼女は問いかけているのだ。蓮司は改めて自分の左手に持つ刀を見つめた。ずっしりと重みを感じる。相手の命を奪い取ることが出来る武器が持つ重みだ。

「ああ、もちろんだ」

 蓮司は頷く。

「あの時、〈セルフキラー〉になると決めた時からその覚悟は出来ている。だから、心配しないでくれ」

 蓮司が口元にかすかな微笑みを浮かべて言うと、明日撫は小さく頷く。

「分かった、蓮司のことを信じる」

 二人は再び前を向いて歩き出す。

 その時ふいに、前方から何者かの気配を感じた。

 目を凝らして見ると、薄暗い闇の中を歩く影が見える。

 やがて月明かりの照らす場所まで来ると、その影の姿が鮮明に浮かび上がる。

 それは恵と全く同じ造形の少女だ。しかし、その目つきは尋常じゃない。怒りの炎が灯っている一方で、どこか怯えているようにも見える。怒りと恐怖が合わさり、その凄絶な表情により拍車がかかっている。

「見つけたぞ」

 蓮司が静かな声で言う。

 その前にいる恵の裏人は蓮司の姿を見るなり、警戒心を剝き出しにした。

「……昨日あなたにやられた傷、すごく痛いんだけど」

 恨めしそうに言う裏人の左頬は皮膚がめくれ上がり、中の筋繊維が剝き出しになっている。

 蓮司は今この場に、恵本人がいなくて良かったと思った。彼女は家庭の事情で夜遅くに外出することを禁止されている。そのため、裏人の始末に同行出来なかった。しかし、自分と全く同じ見た目である裏人のこの醜悪な顔つきを見たら、彼女はきっとショックを受けて、下手をすれば卒倒していただろう。

「それは悪かった……とは言わない。今日はお前をきっちり始末するために来たんだからな」

 そう言って、蓮司は左手に持っていた刀の鞘を払った。

 現れた刀身が月明かりを受けてぎらりと輝く。その刀が獲物を前に舌なめずりをしたように見えた。

「その刀で、私を斬るの?」

 裏人がにわかに声を震わせて言う。

「ああ、その通りだ」

「何でそんなひどいことをするの?」

「栗原さん本人から、お前を始末して欲しいと依頼されたからだ」

 蓮司がそう告げると、裏人の顔つきがより一層険しくなる。

「何ですって? あの女が私を殺して欲しいと言ったの?」

 裏人は顔を俯けて、ぶるぶると両肩を震わせる。

「許せない。私を生んだのはあの女自身なのに。それなのに私を殺すっていうの? 私はあの女自身なのに!」

 裏人は腹の底から叫んでいた。両目を見開いて、歯を剝き出しにして、明確な怒りを表現している。

「殺す。あの女を殺す。そして、私が本物になってやる」

 歪んだ決意をその身体にみなぎらせて、裏人は動き出す。

 その前に、蓮司が立ちはだかる。

「どきなさいよ」

「断る。言っただろう、俺はお前を始末しに来たんだ」

「鬱陶しいわね、本当にもう……」

 裏人は唇を強く噛み締めた。

「良いわ、あなたを殺してから、あの女を殺しに行く」

 裏人の目が闇夜の中で怪しく輝く。

 次の瞬間、裏人は動き出していた。

 地面を強く蹴り、凄まじいスピードで蓮司へと迫って来る。

 蓮司も即座に刀を構えた。やはり、竹刀よりもいささか重い。

「死ね!」

 裏人は右の拳を繰り出す。大気を切り裂く勢いで、蓮司の顔面へと迫って来る。

 蓮司は左足を引いて半身の姿勢になって攻撃をかわす。

 その後すぐに、刀を上段に構えた。それを一気に振り下ろす。

 だが裏人は後方へと飛び退り、その斬撃を回避する。

 蓮司は小さく舌打ちをした。今、確実に相手を斬る事が出来ると思った。しかし、自分の放った斬撃のスピードが予想よりも遅かった。振りが鈍かったのだ。やはり、まだ刀を使い始めて日が浅いせいだろうか。竹刀のようにまだ自分の手に馴染み切っていない。

 その時、蓮司にわずかな隙が生じる。裏人はその隙を見逃さずに、蓮司へと突進して来る。相変わらずの単調な右の拳一本での攻撃。しかし、その威力は凄まじい。まさに大砲だ。当たれば悶絶することは間違いない。そんな風に右の拳を警戒していた時。視界の隅で何かが動くのを捉えた。それは裏人の左足だった。それは拙い、攻撃とも言えない、少し相手にちょっかいを出すようなものだ。しかし、蓮司の気を逸らすのには十分だった。

 一瞬気を取られた蓮司の頬に、裏人の強烈な右拳がめり込んだ。

「がはっ」

 蓮司の口から血泡(ちあわ)が飛び散る。

 あまりの衝撃に一瞬気を失いかけた。

 蓮司は力なく地面に沈んだ。

「あっひゃははは! 良いザマね!」

 裏人は歪んだ顔付きで高笑いをする。笑い過ぎて目の端から涙がこぼれていた。

 どうやら、昨日蓮司の攻撃を受けて痛めた右手はもう平気のようだ。反動で痛がる素振りを見せていない。

「蓮司」

 明日撫の声がした。

彼女は蓮司が払った鞘を左手に持ち、不安げな面持ちで彼を見つめている。

「大丈夫だ」

 蓮司は両腕が小刻みに震えるのを堪えながら、何とか身体を持ち上げる。それから両足で立ち上がり、口内に溜まった血の塊を地面に吐き捨てた。

「うふふ、柳葉くんもー、ボコボコに殴り倒してー、めちゃくちゃな顔にしてあげるね」

 心底楽しげな様子で裏人は言う。

 蓮司は口の端からこぼれる血を手の甲で拭い、鋭く裏人を睨んだ。

「あまり調子に乗るんじゃない。お前は俺が斬る」

 蓮司は両手で刀を構えた。切っ先を裏人に向けて、間合いを測る。

 殴られた箇所がまだジンジンと痛み視界が霞みそうになるが、気力を振り絞って持ち堪える。

 たった一度食らっただけでも大きなダメージを負ってしまった。これ以上あの右拳を受ける訳には行かない。

 蓮司は思案顔になる。

 竹刀よりも刀は重い。その分いつもより振りの速さが鈍っている。それを計算に入れて動かなければならない。

 蓮司は動き出す。刀を右肩に担ぐような姿勢で、真っ直ぐに裏人へと向かって行く。

 間合いに入ると、蓮司は刀を斜めに振り下ろす。裏人は横にステップを踏んでかわす。その先へ続けざまに剣先を走らせる。しかし、またかわされてしまう。

 駄目だ、今のままじゃ届かない。

 もっと早く。もっと無駄なく。

 何度も空振りを繰り返す中で、蓮司は集中力を高めて行く。途中で繰り出される裏人の右拳をかわしながら、己の手と刀が馴染み、一体化するような感覚を得て行った。

「もう、さっきからぶんぶんと振り回して、鬱陶しいわね!」

 苛立ちを露わにして裏人が叫ぶ。それと同時に蓮司の顔面に向けて右拳を放つ。再びその脅威が迫った瞬間、蓮司は体を捻ってかわし、裏人の左側面へと回り込む。がら空きになったその左肩を目がけて刀を振り下ろす。

 その瞬間、裏人の身体がスパッと切り裂かれた。その手ごたえは実に軽かった。

 直後、裏人の身体から鮮血が飛び散る。

「ぎゃあああぁ!」

 裏人は天を仰いで悲鳴を上げた。その身体からはとめどなく血が流れ続けている。

「痛い、痛い、痛い……」

 裏人は傷口を押さえるようにしてうずくまる。

 蓮司がゆっくりと歩み寄ると、恐怖に怯えた目で彼を見た。

「いや、来ないで。もう痛いのは嫌」

 必死の形相で命乞いをする。

「悪いが、その頼みは聞けない」

 蓮司は眉をぴくりとも動かさずにそう言って、裏人の前に立った。

「何で? 何で私ばかりを殺すの? 私はあの女から生まれたのに。私が悪なら、あの女も同罪なのに!」

 裏人はぎゅっと唇を噛み締める。

 その言葉を受けて蓮司は一瞬動きを止める。しかし小さく呼吸をしてから、刀を上段に構えた。

「終わりだ」

 蓮司は刀を振り下ろす。うずくまった裏人の身体を切り裂く。その傷口は先ほどよりも深い。溢れんばかりの血をまき散らし、裏人は断末魔の悲鳴を上げる。

 直後、その身体がまるで煙のように消え去った。

 後に残ったのは生々しい血の跡だけだった。

 蓮司は刀を下ろし、その刃先を見つめる。

 べっとりとついた血のりを見て、小さく唇を噛み締める。

 相手は化け物だとは言え、この刀で命を殺めてしまった。

 その重みが、蓮司の両肩にのしかかる。

 蓮司は一度呼吸を整えてから、明日撫の方に振り返る。彼女はいつもと変わらぬ無表情で蓮司のことを見つめていた。

「あーあ、少し遅かったか」

 ふいに声がした。蓮司は辺りを見渡す。

 闇の中から現れたのは、一人の男だった。

 その男は黒いコートを身に纏っているため、闇と同化して視認しづらい。また、夜だというのにサングラスをかけている。

「誰だ?」

 蓮司が問いかける。

「俺は黒真砂鉄(くろま さてつ)。〈放悪会〉の会長を務めている」

「〈放悪会〉……」

 蓮司はその言葉を繰り返す。

 確か、仙人が〈律善会〉と敵対する組織だと言っていた。裏人を使って悪だくみをするという。

「お前たちは〈律善会〉の氷見明日撫と柳葉蓮司だな?」

「俺たちのことを知っているのか?」

「もちろん。その辺りの情報収集は欠かさない。……それにしても、初めて真剣を使った実戦で容赦なく裏人を斬り殺すなんて。お前、実は悪なんじゃないのか?」

 いきなり鋭い言葉を向けられて、蓮司は思わず口をつぐんでしまう。

「蓮司は悪なんかじゃない」

 いつの間にか隣に立った明日撫が言う。

「始末するべき者を始末しただけ」

「始末するべき者……ねぇ」

 黒真はふっと鼻で笑う。

「何がおかしいの?」

 明日撫が眉をひそめる。

「お前たちは裏人のことを排除すべき存在だと思っているようだが、俺はそうは思わない。むしろ裏人こそ本来の人間の姿であり、彼らが生きるべきだと俺は考えている」

「どういう意味?」

「今の世を生きている人間って薄気味悪いだろう。必死で表面を取り繕って、良い子ちゃんぶって。俺はそれが気持ち悪い。人間ってのは本来どうしようもなく醜悪な存在なんだよ。欲にまみれて物を欲する醜い生き物だ。けど人間って奴はその本性をひた隠しにしている」

「それは、きちんと社会に適合するためだろう」

 蓮司が口を開く。

「あなたが言うように本性を晒していたら、社会はめちゃくちゃになる」

「ほう。そんな風に言うってことは、お前は自分にも隠している醜い本性があることを認めるんだな?」

 にやりと黒真がほくそ笑む。

 蓮司は一瞬言葉に詰まるが、彼を鋭く睨む。

「俺はそんな醜い感情なんて抱いていない。厳しい剣道の稽古の中で、強い精神力を養ってきたんだ」

「しかしお前から裏人が、しかも怠惰の王が生まれたことは事実だ」

「それは……」

 蓮司はぐっと拳を握り締める。

「むしろ、お前は自分を強く律しようとするあまり、強力な裏人を生み出したんじゃないのか?」

 黒真の言葉に対して反論しようとするが、思うように言葉が出て来ない。

「まあ良いさ。もうすぐお前は怠惰の王に殺されるだろう。俺がそのように命じている。そうしたら、奴を中心にこの咲良市を支配させてもらおう」

 そう言って、黒真は黒いコートを翻し、こちらに背を向けた。

「じゃあな。残り短い人生、精々楽しめよ」

 黒真は闇夜に紛れて消えた。

 蓮司は血に染まった刀を握りながら、呆然と立ち尽くしていた。




 今日の空は少し薄暗く、曇っていた。

「約束通り、君の裏人は始末した」

 昼休みの屋上で、蓮司は恵と向かい合っていた。その隣には明日撫もいる。

「そう……ありがとう」

 恵は普段よりも低い声のトーンで言った。

「どうした? 浮かない顔をしているが」

 蓮司が問いかけると、恵は目を伏せる。

「その、こんなことを言うのも何だけど……本当にこれで良かったのかなって思うの」

「どういうことだ?」

「私がその裏人を生み出したのに殺しちゃって……殺してくれたのは柳葉くんだけど、私はただ逃げただけなんじゃないのかって思って……」

 訥々と語る恵のことを、蓮司は無言で見つめることしか出来ないでいた。

「ごめんなさい、こんなことを言って。きちんと依頼料は支払うから」

 その時、突然屋上の扉が開いた。

「あ、蓮司!」

 屋上へとやって来たのは寛太だった。

 彼はなぜか怒ったような顔つきで、こちらの方に向かって来る。

「寛太、どうしたんだ?」

「どうしたじゃねえよ、この野郎。最近、昼休みにいつも屋上で氷見さんとイチャイチャしていると思ったら、まさか栗原さんともイチャイチャしているなんて……」

「ちょっと、待て。イチャイチャとはどういうことだ? 俺はただ彼女たちと大切な話があるから一緒にいるまでだ」

 蓮司はしごく真面目な表情で言った。

「大事な話? ……まさか、氷見さんと栗原さんがお前を取り合っているのか? それでお前はこんな美少女二人を侍らせて最高だぜ! ……とか思ってんだろ?」

「寛太、お前が何を言っているのかさっぱり分からないが、違うからな」

「何が違うんだよ! 一人だけ良い思いをしやがってこの野郎!」

 寛太はなぜか涙目になりながら叫ぶ。

 蓮司は困った親友の乱入に対して辟易する。しかし、彼が現れたことで暗い雰囲気が払拭されたのもまた事実だ。蓮司はふっと微笑する。

「何笑ってんだよ、こんちくしょう!」

 寛太の叫び声のおかげか、曇っていた空がいつの間にか晴れ模様に変わっていた。




      7




 放課後。

 蓮司は道場で稽古に励んでいた。部活動の時間はとっくに終了している。しかし、蓮司は一人だけ残って自主的に稽古をしているのだ。

「ねえ、蓮司」

 壁際に座って蓮司の様子を見ていて明日撫が、彼のことを呼ぶ。

「何だ?」

「今日は仙人様の所に行って、刀の特訓をしないの?」

「ああ。最近、何かと部活の方をサボリがちだったからな。その分、稽古をしないと気が済まないんだ」

「別にやましいことがあってサボっていた訳じゃないでしょ? 私とデートしていただけじゃん」

「君とデートをした覚えはない」

「冗談、そんな怖い顔しないでよ」

 相変わらず起伏に乏しい顔と声で明日撫は言う。

 蓮司はため息を漏らす。

「ところで、何でここにいるんだ?」

「蓮司と一緒に帰ろうと思って。待っているの」

「俺はまだ当分残って素振りをしているから、もう帰った方が良いぞ」

「じゃあ、その素振りが終わるまで待っている」

 明日撫は頑として動こうとしない。もう一度帰るように言おうと思ったが、取り留めのない会話の応酬になってしまうのであきらめた。気を取り直して、素振りを再開する。

 その時、道場の扉が開いた。

現れたのは、寛太だった。

「寛太、何でここに?」

 蓮司が少し驚いたように言う。しかし寛太はどこか険しい表情で、無言のまま彼に近寄って来る。もしかしたら、まだ昼休みの一件を怒っているのかもしれない。

 寛太は蓮司の前にやって来ると顔を俯けた。その肩が小刻みに震えている。

「蓮司……」

 低く掠れるような声で寛太が呼ぶ。普段の寛太と様子が違うので、蓮司は少し困惑した。そのまましばらく沈黙の時が流れる。大概、辛抱強い蓮司であるが、痺れを切らせて寛太に何用かと訊こうとした。

 だがその前に、寛太の方が動いた。彼は何を思ったのか、その両手でぐっと蓮司の胸倉を掴んだのだ。

「蓮司、お前って奴は……」

 まさか、このまま自分のことを殴るつもりだろうか。蓮司は一瞬そう思った。

 しかし次の瞬間、寛太はがばっと顔を上げる。その両目からは大量の涙が溢れていた。

「寛太……?」

 蓮司は戸惑った。彼の親友である寛太は、いつも快活な笑みを浮かべている。そして、馬鹿な話を聞かせてくれる。しかし、今目の前にいる彼は、普段滅多に見せることのない泣き顔を晒している。彼とは小学生の頃からの付き合いであるが、こんなに泣く姿を見たのは、昔好きだった子にフラれた時以来だ。中高生になったら泣き顔を見せることなんてほとんど無かった。そんな彼が自分の前で久方ぶりの泣き姿を晒していることに、蓮司は驚いていた。

「何でいつもそんなに頑張るんだ? 何でそんなに自分を追い込むんだ? もっと楽しく生きようぜ?」

「おい、寛太? いきなりどうしたんだ?」

 蓮司は泣きじゃくる寛太の肩に触れる。

「だってよ、蓮司は小さい頃からずっと剣道ばかりやって来ただろ? 厳しい親父さんの下で、厳しい稽古をして。そんな蓮司はめちゃくちゃ剣道が強い。けれども全然、遊ぶことが出来ていないだろ。俺が遊びに誘っても全然付き合ってくれないしさ……」

「すまない……」

「それに蓮司、最近何か悩んでいるだろ?」

「え?」

「分かるんだぜ。俺はお前の親友だからな」

 泣きっ面に微笑みを加えて、寛太は言う。

 蓮司はそんな彼のことを、黙って見つめていた。

「蓮司」

 いつの間にかそばにやって来ていた明日撫が呼んだ。

「どうした?」

「その男子は松前寛太じゃない」

 予想もしていなかったその一言に、蓮司は思わず驚愕してしまう。

「こいつが寛太じゃない? そんな訳ないだろう、どこからどう見たって寛太じゃないか」

「そう。彼は松前寛太と瓜二つの裏人だよ」

 平然と言ってのける明日撫に対して、蓮司は目を大きく見開いた。

 改めて目の前にいる寛太を見た。その姿は間違いなく寛太のものだ。それが彼の内なる感情によって生み出された裏人だと言うのか? 蓮司はにわかには信じられなかった。

「もしかして、こいつも始末しなければならないのか?」

 蓮司は恐る恐る尋ねた。

 昨夜クラスメイトである恵の裏人を殺した時、正しいことをしたはずなのにとてもショックを受けた。その相手が親友の寛太ともなれば、それ以上のショックを受けてしまうかもしれない。蓮司はかすかに身震いした。

「その必要はないかもしれない」

 明日撫が言った。

「その裏人は悲しみの感情で生まれた裏人。松前寛太が親友である蓮司のことを心配して生まれた存在。恐らく、この裏人は周りに被害を及ぼすようなことはしない」

「そうなのか?」

「うん。稀に見る善の裏人だね」

 淡々と語る明日撫の言葉に耳を傾けつつ、蓮司は寛太の裏人を見た。

 この裏人は、寛太がひたすらに剣道ばかりに打ち込む蓮司のことを心配するあまりに生み出された。普段、部活が忙しくて蓮司が遊びの誘いを断った時にも、寛太は快活な笑みを浮かべて「そっか、残念」と言っていた。けど本心では、そんな蓮司のことを思わず泣き叫んでしまうくらいに心配してくれていたのだ。そのことを思うと申し訳ない。いや、それ以上にそこまで自分のことを思ってくれる彼の気持ちが嬉しかった。

「ありがとうな、寛太」

 蓮司は目の前にいる彼に対して、優しく微笑んだ。




 屋上の柵に止まった小鳥がさえずり、心地良い朝の音色を奏でている。東の空から降り注ぐ柔らかな陽光を受けながら、蓮司はその場に佇んでいた。

 がちゃりと音が鳴り、屋上の扉が開いた。

 現れたのは寛太だ。彼は蓮司の姿を見つけるなり、いつもの快活な笑みを浮かべて歩み寄って来る。

「よっす、蓮司」

「おはよう」

「こんな朝早くに呼び出すなんて何の用だ? ハッ、もしかして告白? 愛の告白をされちゃうの俺?」

 身体をくねらせながらおどけたように寛太は言う。

 そんな彼に対して、蓮司は至極真面目な表情で頷く。

「ああ、そうだ。お前に告白をするために呼んだんだ」

「へっ?」

 その瞬間、陽気に踊っていた寛太の表情が固まり、その目が大きく見開かれる。あまりの衝撃に呼吸をすることさえ忘れているようだ。その唇だけが力なくパクパクと動いている。

「俺の大事な話を聞いてくれるか?」

 蓮司が言うと、寛太はにわかに困惑した様子を見せる。

「いや、急にそんなことを言われても。確かに蓮司のことは好きだけど、それはあくまでも親友としてだし、ていうか俺たちは男同士な訳で、だから、その……」

 寛太がその両目をぐるぐると回してあからさまに混乱している。

「寛太」

 蓮司が呼ぶと、寛太はびくりと肩を震わせる。

「な、何だ?」

「裏人って知っているか?」

 すると、寛太はきょとんとして口をつぐむ。

「……えーと、それは誰だ? まさかお前にはもうすでに別の相手がいて、その上で俺まで食おうとしているのか?」

「裏人というのは人間の裏の人格、あるいは内なる感情が具現化した存在だ。その性格は基本的に負の感情に支配されていて醜い、化け物なんだ」

 蓮司の言葉を受けて、寛太はよく分からないといった具合に首を傾げている。

「どうした、蓮司? いきなりそんなオカルトみたいなこと言い出して。もしかして、最近そういうのにハマったとか?」

「それはオカルトでも何でもない。歴とした現実だ。裏人という化け物は現実に存在する。俺はそれと戦う〈セルフキラー〉なんだ」

「〈セルフキラー〉?」

「そうだ。俺は不覚にも自分自身からその裏人を生み出してしまった。しかもより強い〈七大罪の王〉の一人である〈怠惰の王〉をだ。だから、俺は〈セルフキラー〉として、奴を始末しなければならない」

 蓮司はそこで一旦言葉を切る。寛太は顔を俯けて小難しい表情をしている。

「……そういえば、都市伝説とか噂で聞いたことがある。この世には自分に瓜二つの化け物がいるって。その名前は確か……裏人。そうだ、今蓮司が言った奴のことだ。けど、蓮司は本当にそんな奴と戦っているのか?」

「ああ。とは言っても、最近なったばかりだけどな。ちなみに、クラスメイトの氷見さんもその〈セルフキラー〉、いやさらに上の〈セルフキルダー〉だ。俺は彼女に誘われて、裏人と戦う〈律善会〉という組織に入ったんだ」

 蓮司の言葉に耳を傾けていた寛太は、その目をぱちくりとさせている。やはりいきなりこのような話をされても、にわかには信じがたいのだろう。蓮司自身も初めはそうだった。

「すげえ……」

 ところが蓮司の予想に反して、寛太の口を突いて出たのは感嘆の言葉だった。

「すげえよ、蓮司。つまりお前は悪と戦う正義のヒーローってことなんだろ?」

 寛太が目をきらきらとまるで幼い子供のように輝かせるので、蓮司は少し戸惑ってしまう。

「いや、正義の味方とかそんな格好の良い者ではない。ただ、自分の至らなさから生まれた化け物を始末する。つまりは自分の尻拭いをしているに過ぎない。まあ、先日は自分ではなく栗原さんの裏人を始末したのだが」

 蓮司が言うと、寛太は目を驚愕の色に染めた。先ほどから忙しい目である。

「え、それってどういうことだ? 栗原さんの裏人? あの栗原さんからも裏人が生まれたっていうのか?」

「ああ。お前は会わなくて正解だったと思うぞ。普段の彼女からは考えられないほど、醜悪な姿だったからな」

 蓮司は頬の肉が裂けた状態で絶叫する、恵の裏人姿を思い起こしながら言った。

 そのことを聞いて寛太はショックを受けると思った。

「あの栗原さんが、そんな普段は見せない姿を……ふふ、それはそれで悪くないな」

 しかし、またしても予想に反して寛太は喜色の笑みを浮かべる。それが少し気色悪いのだが、同時にこの親友の底抜けの明るさには感服させられる。

「実は、昨日お前の裏人にも会ったんだよ」

 蓮司が言った。寛太の表情がまた驚愕の色に変わる。

「え、嘘? マジで、俺もその裏人を生み出しちゃったの?」

 そして、寛太はにわかに焦り出す。

「ああ。その裏人に会ったおかげで、寛太が胸の内に抱えている気持ちを知ったんだ。そのお返しという訳ではないが、俺もこうして自分の秘密を話そうと思ったんだ」

「蓮司……」

 寛太はじっと蓮司のことを見つめた。

「なあ、寛太」

「ん、どうした?」

「今日の放課後、どこかに遊びに行かないか?」

「えええぇ!?」

 蓮司が言った瞬間、寛太が大仰に叫んだ。両目をひん剥いて、驚愕の表情を浮かべている。

「どうしたんだ、そんなに驚いて?」

「いや、まさか蓮司の方からそんな誘って来るなんて思わなかったから」

「嫌か?」

 蓮司が問いかけると寛太はまだ信じられないといった顔をしていたが、すぐにいつも通りの、いやそれ以上に清々しい笑みを浮かべた。

「そんな訳ないだろうが! 誰が親友の頼みを断るかよ!」

 寛太は蓮司の背中をバシバシと叩きながら、嬉しそうに言う。直後、ハッとしたような顔つきになる。

「もしかして、二人きりで遊ぶの? それってまさかデート? キャー!」

 恐らくふざけているのだろうが、寛太は困惑するような素振りを見せながら言う。

「安心しろ、きちんと女子も誘っている」

「え、蓮司が女子を?」

「ああ。氷見さんと、それから栗原さんにも声をかけて了承を得ている」

「マジで!? 栗原さんも来るの!? ていうか、お前いつの間にそんな栗原さんと仲良くなっているんだよ! このムッツリ大明神!」

「分かった。じゃあ彼女たちを誘うのはやめて、男同士で遊ぼうか?」

「すんません、マジで蓮司は神様です」

 すぐに態度を一変させて頭を下げる寛太。そんな彼を見て蓮司は苦笑する。

「けど蓮司、部活の方は良いのかよ?」

 顔を上げた寛太が、心配するように言った。

「ああ、問題ない。たまには良いだろう。遊ぶのも学生の本分だ」

「まさか、蓮司の口からそんな言葉を聞くなんて。夢にも思わなかったぞ」

「……お前のおかげだよ、寛太」

「え?」

「何でもない。とにかく、放課後は俺たちを含めた四人で遊ぼう。とは言え、俺は全く遊び慣れていないからお前がみんなをリードしてくれると助かる」

 蓮司がそう言うと、寛太は満面の笑みを浮かべて頷く。

「おう、俺に任せておけ!」




 清修学園から最寄りの駅までは、バスで二十分ほどかかる。

 蓮司は窓際の席に座り、移り行く街の景色を眺めていた。思えばこうしてバスに乗って移動をするのは久しぶりかもしれない。移動は己を鍛えるために、常に徒歩かもしくは自転車だった。だから、このようにただ座っているだけで目的地に着いてしまうなど楽なことをしても良いのかと思ってしまうが、まあたまには良いだろうと自分に言い聞かせた。

 その時、彼の右腕に重みが走った。とは言っても、それはごく軽いものであったが。

視線をそちらの方に移すと隣に座っていた明日撫が、その体重を蓮司の方に預けていた。その両目は閉じられている。

「何をしているんだ?」

 蓮司が尋ねる。すると、明日撫は重そうにその瞼を開く。

「駅に着くまで、蓮司に寄りかかって居眠りしようと思ったの」

「そうか。居眠りをするのは構わんが、寄りかかるのは俺ではなく背もたれにしてくれないか?」

「何で?」

「逆に、何でわざわざ俺に寄りかかるのかを聞きたい」

「蓮司に寄りかかる方が、寝心地が良いから」

「それは光栄だ。しかし、このような公共の場所でその行為は少し問題だ。即刻、俺から離れてくれないか?」

「嫌だ」

 明日撫は平坦な声で、しかし強い意志を示すように言った。

「子供みたいな駄々をこねないでくれ」

 蓮司が辟易としながら言う。

「だって、私まだ子供だもん」

「開き直るつもりか」

 二人が押し問答をしている時、後ろの座席でくすりと笑ったのは恵だ。

「あの二人とても仲良しで、何だか可愛いわね。もしかして、付き合っているのかしら?」

 恵が問いかけると、その隣に座っていた寛太がびくりと肩を揺すった。

「え、どうだろう? 蓮司から聞く限りそんな付き合っている訳じゃないと思うけど」

「ふぅん? けど、お似合いよね。松前くんもそう思わない?」

「そ、そうだね。うん、すげえお似合いだと思うよ、こんちくしょう」

「こんちくしょう?」

「あ、いやいや。何でもないよ、あはは」

 こちらはこちらでまた、大変そうである。

 そのまま四人はバスに揺られて最寄りの駅へとたどり着いた。

「寛太」

 蓮司が彼の背中に向かって呼びかける。

「お、おう。どうした」

 すると、寛太はまるで壊れたブリキ人形のようにぎこちなく振り向く。

「これからどこに行けば良いんだ?」

 かねてから頼んでいたので、蓮司はそのように確認する。

「えーと、そうだな。どこに行こうか」

 しかし、寛太はどこか落ち着かない様子でソワソワしている。普段の彼とは明らかに様子が違う。

「どうした?」

 蓮司が問いかけると、寛太はちらりと目配せをした。その先にいるのは恵だ。

「やべえ、マジで憧れの栗原さんと遊べるなんて夢みたいだって思ったけど……いざ本番になるとめちゃくちゃ緊張する! どうしよう、蓮司……」

「とりあえず落ち着け、深呼吸だ」

 蓮司に言われて、寛太はスーハ―、スーハーと大きく息を吸って吐く。

「どうだ、少しは落ち着いたか?」

「ああ」

「憧れの女子がいることで焦る気持ちは分かる。しかし、これは逆にチャンスだ。ここで寛太が見事に遊びを仕切って見せれば、きっと彼女もお前に惚れるぞ」

「栗原さんが、俺に惚れる……」

 寛太はおもむろに顔を上げて何やら妄想を始める。そして、その顔がにやけた。

「そうだな、蓮司の言う通りだ。今こそチャンス、俺の魅力を伝えるチャンスだ」

「その意気だ」

「よっしゃ、この俺に付いて来い!」

 意気揚々と、明るい歩調で寛太は歩き出す。蓮司たちはその後を追う。

 駅前の雑踏を横切ってやって来たのは、すぐ近くにあるファミレスだった。

「いらっしゃいませー、四名様ですね」

 店員に案内をされて、蓮司たちは四人がけのテーブルに座る。蓮司は男同士で隣に座ろうと思ったが、その隣を明日撫が瞬時に陣取った。そのため、寛太は恵と並んで座ることになった。

「よっしゃ、じゃあ初遊びを記念して乾杯!」

「寛太、まだ飲み物がないぞ」

 あきらかに異常なテンションの親友に対して、蓮司は冷静に突っ込みを入れる。

「ハッ、しまった!」

 寛太は顔中を真っ赤にして自らの失態を恥じている。それから、ちらりと恵の方を見た。彼女が彼の失態を見て呆れていないか心配になったのだろう。しかし、彼女はしとやかな笑みを浮かべていた。

「うふふ、松前くんって面白いのね」

「はうっ!」

 寛太の心臓を見えない矢が射抜いた。彼はまた別の意味で赤面して、身をくねらせている。

「よ、よーし。ドリンクバー頼もうぜ! あ、栗原さん何飲みたい? 俺が持って来るよ」

「ありがとう。でも、自分で出来るから大丈夫よ」

「ですよねー! あはは!」

 寛太は後頭部に手を当てて高笑いをする。少しはしゃぎ過ぎているが、まあ緊張してガチガチになるよりはマシだろう。恵の方も割と彼に対して好感を抱いているようだし。

 そんな親友の様子を見てひとまず安堵した蓮司は、隣に座る明日撫の方を見た。

「君は何が飲みたい? 俺が持って来るよ」

 まだ右腕が不自由な明日撫を気遣って蓮司が尋ねると、彼女は少し考えるように眉をひそめた。

「いちごミルク」

「了解した」

 一旦、明日撫には席からどいてもらい、飲み物を取りに行く。前の方を歩く寛太と恵。落ち着きがない彼を落ち着きのある少女が優しく受け止める。何だ、思ったよりも良い組み合わせじゃないか。蓮司は微笑する。

 自分と明日撫の飲み物をグラスに入れて、蓮司は席の方へと戻る。

「持って来たぞ」

 蓮司が目の前にグラスを置くと、明日撫はそれをじっと見つめていた。それからおもむろに左手でグラスを持ち、薄桃色のいちごミルクを口に含んだ。

「……美味しい」

 それはかすれるような小さな声であったが、彼女の瞳がきらきらと輝いているあたり、どうやら相当気に入ったようだ。くぴ、くぴ、と音を立てながらそのほっそりとした喉にいちごミルクを流し込んでいく。

「あはは、氷見さん、良い飲みっぷりだね。おかわりも出来るから遠慮せずに飲みなよ」

 そう言ったのは寛太だ。

「おかわり出来るの?」

「うん。ドリンクバーだからね、何杯でもおかわり出来るよ」

「そんな素晴らしいシステムがあるの?」

 明日撫の目がより一層きらきらと輝く。

「あれ、もしかして知らなかったの?」

 寛太が目を丸くして尋ねる。

「うん。私、今までファミレスに来たことないから」

「え、そうなの?」

「俺も今日初めて来たぞ」

 何気なく蓮司が言う。

「えっ?」

「実は私も初めてなの」

 口元に手を当てながら恵が言った。

「ええっ?」

 寛太はファミレス初心者のクラスメイト三人を見て、信じられないといった具合に目を見開いていた。

「よし、分かった。今日はこの俺がみんなにファミレスの楽しみ方を伝授してやるぜぇ!」

「落ち着け、周りの客に迷惑だ」

 意気揚々と宣言した寛太に対して突っ込みを入れる蓮司。

「ファミレスの楽しみ方。まずはメニューを開く。食べたい物を決める。注文をする!」

「さすがにそれくらいは俺たちも分かる」

「何ぉ? ならば、とっておきのドリンクバーでミックス作戦だ!」

「何だそれは?」

「ふっふっふ、聞いて驚くなよ。ドリンクバーでミックス作戦とは、ドリンクバーで色々な種類のドリンクをミックスすることで、また新しい味のドリンクを生み出す作戦だ。例えば、氷見さんお気に入りのいちごミルクに、蓮司のウーロン茶をどばっと注いじゃうみたいな」

「冗談でもぶっ飛ばすよ」

 静かな声で明日撫が言う。寛太が瞬時に硬直した。

「すんません……」

 寛太はしゅんと肩を落とす。まあ、明日撫は見かけによらず空手に通じた少女なので、男の寛太をぶっ飛ばすことも容易いだろう。そのため、彼は素直に謝って正解である。

「そういえば、栗原さん。家の方は大丈夫なのか?」

 ストローでお上品にアイスティーを飲んでいた恵が、ふと顔を上げて蓮司を見る。

「ええ。今日はお友達と約束があるからと言って、習い事はキャンセルさせてもらったの」

「すまないな、無理に誘ってしまって」

 蓮司が言うと、恵は首を横に振った。

「いいえ、そんなことないわ。今日は誘ってもらってとても嬉しかった。こんな風に放課後、お友達と一緒に遊んでみたかったの。それにたまには息抜きをしないと、またもう一人の私が暴れちゃうから」

 恵は苦笑気味に言った。

 彼らはそこで一旦会話を区切り、メニューを注文した。ファミレス初心者が三人もいたが、特に時間をかけずにメニューを決めることが出来た。

「ところでさ、ちょっと聞いても良い?」

 すでに二杯目のいちごミルクを飲んでいる明日撫に対して、寛太が呼びかける。

「何?」

 明日撫は静かな目を彼に向ける。

「蓮司から聞いたんだけど、氷見さんもその裏人って奴と戦っているのか?」

「うん、そうだよ」

 明日撫は特に表情を変えることもなく頷いた。

「もしかして、その右腕の骨折も裏人との戦いでやったの?」

「そう。そして私は〈明日無いさん〉になったんだよ」

 明日撫が言うと、寛太はうっと言葉を詰まらせた。

「いや、それは……ごめん」

「別に謝らなくても良い。みんながそう言っているから。私はそんなあだ名を付けられたくらいじゃ、ちっとも動揺しない」

 明日撫はグラスを傾けて、いちごミルクを呷った。

「はーい、お待たせいたしました。いちごパフェでございます」

 笑顔でやって来た店員が、明日撫の前にそのいちごパフェを置いた。新鮮ないちごと生クリームを使った人気のスイーツらしい。

 明日撫は目の前に置かれたそれを、きらきらと輝く眼差しで見つめた。それから、すっと蓮司の方に視線を移す。

「蓮司……」

「言っておくが、俺は食べさせないぞ」

 即座に蓮司が言うと、明日撫は口の先を尖らせる。

「ケチ」

「どうとでも言え」

「エッチ、スケベ、変態」

「それは言い過ぎだ」

「蓮司のバカ……」

 そう言って、明日撫は俯いてしまう。

「ねえ、やっぱりあの二人付き合っているんじゃないかしら?」

 恵がひっそりと寛太に囁く。

「実は俺もそう思っていたんだ」

 寛太も恵に対して囁き、それから蓮司の方に視線を向ける。

「なあ、蓮司。氷見さんにいちごパフェ、食べさせてやれよ」

「なぜだ?」

「だって、何かかわいそうじゃん」

 寛太に言われて、蓮司は改めて明日撫を見る。未だに不機嫌そうな顔で俯いたままだ。その様子を見て、蓮司はため息を漏らす。

「分かった、食べさせてやる」

 すると、明日撫はぱっと顔を上げて、蓮司を見つめる。

「本当に?」

「ああ。その代わり、一口だけだぞ」

 蓮司が言うと、明日撫がかすかに微笑みを浮かべる。

「分かった」

 蓮司は肩をすくめつつ、スプーンを手に取る。

「いちご食べたい」

「了解した」

 蓮司はスプーンでいちごと生クリームをすくい取り、それを明日撫の口へと運ぶ。その光景を寛太と恵が興味深げに見つめていた。

 そのいちごと生クリームを頬張ると、明日撫は両目をとじてゆっくりと味わう。

「……うん、美味しい」

「それは良かったな」

「うん。蓮司、もっとちょうだい」

「駄目だ。一口だけって約束だっただろう?」

「あともう一口だけ」

 ごねる明日撫に対して観念した蓮司は、仕方なくもう一口いちごパフェを食べさせてやる。その後、蓮司は結局いちごパフェを全部食べさせてあげた。




 しばらく経ってから店を出ると、日が西に沈み、辺りはオレンジ色に染まっていた。

「ごめんなさい、私もうそろそろ帰らないといけないの」

 腕時計を見てから、恵がそう言った。

「あ、そうなんだ。じゃあ今日はもうここで解散か」

 寛太が少し残念そうに肩をすくめた。

 その姿を見た蓮司は、おもむろに口を開く。

「寛太、栗原さんのことを送ってあげたらどうだ?」

「えっ?」

「俺と氷見さんは所属する組織のことで少し話があるから、まだ帰らないんだ」

 蓮司が言うと寛太は目を丸くして、それからちらりと恵の方を見た。彼女は少しきょとんとしたような顔をしていたが、ふっと笑みを浮かべる。

「じゃあ一緒に帰りましょうか、松前くん」

その瞬間、寛太は歓喜に打ち震えたように拳を突き上げる。恐らく、今にも叫び出したい衝動を必死に堪えているのだろう。

 寛太と恵は並んで歩き、バス停の方へと向かって行った。その後姿を眺めていた時、ふっと別の人影が目に入る。駅前の広場にある時計台のそばにいたのは、寛太だった。しかし、彼は今しがた恵と一緒にバス停の方へと歩みを進めている。つまり、あれは寛太の裏人ということになる。昨夜、蓮司のことを思って泣きついてきた彼がそこにいた。

彼はしばらくじっと蓮司のことを見つめていたが、途端にふっと優しい笑みを浮かべて、それから煙のように消えていなくなった。

「消えちゃったね」

 ふいに、明日撫が声を発した。

「君も見ていたのか?」

「うん」

 明日撫がこくりと頷く。

「何で消えちゃったんだろうな?」

「きっと、蓮司がみんなと楽しく遊んだからだよ」

 かすかに微笑んで、明日撫が言った。それに呼応するように蓮司も微笑んだ。

「よし、じゃあ俺たちも帰るか」

「何で? これから私と話をするんでしょ?」

「それは寛太と栗原さんを二人きりにするための口実だ」

「えー、良いじゃん。もう少し遊んで行こうよ」

「駄目だ。今日部活を休んだ分、家に帰って素振りをしないと」

「ほら、蓮司。また真面目癖が出ている。そんなことだと、また松前寛太の裏人が出て来るよ」

 指摘されて、蓮司は思わずうっと言葉に詰まる。

「だから、今日は思い切り遊ぼう。その方が蓮司のためになるよ」

 明日撫の黒い瞳が蓮司のことをじっと捉える。その瞳にはとてつもない吸引力があり、思わず吸い込まれそうになる。

 蓮司は逡巡した末に、吐息を漏らす。

「分かった。今日は、もう少し君と一緒に遊んで行こう」

 蓮司がそう言うと、明日撫はファミレスでいちごパフェを食べた時と同じように、その目をきらきらと輝かせた。




 辺りはすっかり暗くなっていた。

 あれから明日撫と二人きりになった蓮司は、さて遊ぼうかと意気込んだものの、普段ほとんど遊ばない彼らは何をしたら良いのかさっぱり分からず、当てもなくぶらぶらとするだけで時間が過ぎてしまったのだ。

 駅からバスに乗って学校付近へと戻った蓮司と明日撫は、二人並んで帰路へとついていた。

「今日は、随分と遅くまで遊んでしまったな」

 蓮司が言った。

「そうだね」

 明日撫が答える。

「前から気になっていたんだが。君はこんな遅くまで外を出歩いていて、家の人に何も言われないのか?」

 蓮司は問いかける。年頃の娘であれば、その親はなるべく早く家に帰るよう促すはずだ。

「言われるよ。お父さんに早く帰って来なさいって」

 案の定である。恐らく明日撫の姉が亡くなってから、彼女は一人娘として父から大切に育てたのだろう。母には好かれなかったというが、空手の才能があった彼女は、その師範をしているという父からは好かれているのだろう。その娘の帰りが遅いとなれば、当然心配もするだろう。

「でも、嫌だって言う」

「そんな直接的に言うのか?」

「うん。私もう子供じゃないし」

以前、明日撫は自分のことを子供だと言って開き直っていたはずだが。

そもそも、しょっちゅう蓮司に物を食べさせてもらう彼女はあまり大人とも言えない。

「それに、好きな人とデートをしたいから」

「は?」

 蓮司はつい、間の抜けた声を出してしまう。

「好きな人って誰のことだ?」

「蓮司のことに決まっているでしょ」

 明日撫はさらりと言った。

 対する蓮司は、半ば呆然と立ち尽くす。

「……君が俺のことを好きって、冗談だろう?」

「冗談じゃないよ。私は蓮司のことが好き。というか今まで散々アピールして来たのに、気が付かなかったの?」

「もしかして、物を食べさせてもらっていたことか? 俺はただ、君は甘えん坊な性格なんだくらいにしか思っていなかったぞ」

「好きでもない相手に甘えたりはしない」

 明日撫がきっぱりと言う。

「私は蓮司が好きだから、甘えていたの」

 これはいわゆる告白というものだろうか。明日撫がいつもと変わらぬ表情で淡々と述べるものだから、いまいち実感が湧かない。今まで剣道一筋だった蓮司にとって、色恋沙汰など全く縁が無かった。またそれほど興味も無かった。だから、例え告白をされても心が揺れることは無いと思っていた。

 しかしその時、蓮司の心は不思議な高揚感に包まれていた。

道端に立っている桜の木が、月明かりによって照らされることで、昼間とはまた違った色香を放っている。それに煽られたせいだろうか、ふわふわと落ち着かない気持ちになった。

 何で俺のことが好きなんだ、と野暮なことは聞かなかった。ただ、彼女が自分に対して好意を抱いてくれていることは、しっかりと伝わって来たから。

「……少し、考えさせてくれ」

 しばらく間を置いてから蓮司が言った。

「分かった」

 明日撫は小さく頷いた。

 二人はそのまま無言で歩いた。普段も割と会話のない二人であるが、この時の無言はまた意味合いが違った。

「俺はこっちの方だから」

 やがて二又に分かれた道へと差し掛かると、蓮司が言った。

「うん」

「それじゃあ、気を付けて帰ってくれ」

「バイバイ、蓮司」

 こうして二人は各々の帰路へとつく。

 一人で歩く最中、蓮司は未だに不思議な高揚感に包まれていた。

 こんな気持ちは久しく感じていない。剣道の試合で強敵を倒した時も、それは素晴らしい高揚感に包まれるが、しかし今はそれ以上に気持ちが満たされているのかもしれない。

 恐らく、高校生になってから初めて放課後に友達と遊んだ。そして、その帰りに女子から告白をされた。同じ年頃の普通の高校生ならとっくにそのようなことを経験しているだろうが、その当たり前のことが、剣道一筋、堅物少年の蓮司にとっては新鮮だった。

 そのようなことを考えている内に、蓮司は自宅の玄関先に立っていた。

 ガラガラ、と玄関の戸を開けて中に入ると、目の前に仁王立ちする父の哲治がいた。蓮司はその光景に少し面食らいながらも口を開く。

「ただいま戻りました」

 しかし哲治は黙ったまま、静かに蓮司のことを見据えている。

「……話がある。付いて来い」

 哲治は踵を返して歩き出す。その大きな背中は蓮司に有無を言わせない迫力を持っていた。

 黙って哲治の後に付いて行くと、たどり着いたのは彼が書斎として使っている和室だった。障子窓に面する形で机が置かれており、そのそばに本棚が置かれている。彼は文書を書く時に筆を使うので、ほのかに墨汁の香りが漂っている。

「座れ」

 哲治が言うと、蓮司は素直に従う。彼らは部屋の中央に置かれている、長方形のテーブルを挟んで向かい合った。

 座布団もなしに、蓮司は畳の上で直に正座をしていた。普段から正座は慣れているのでそれに関してはさほど問題ない。ただ、巌のように佇んでいる哲治を見ていると、足の裏にじんわりと汗が滲んでしまう。

「今日、剣道部の練習を休んだそうだな」

 その瞬間、蓮司は背筋から冷や汗が噴き出るのを感じた。

「顧問の三木先生から聞いた。お前が大切な用事があるからと言って休んだと。その大切な用事とは何だ?」

 哲治の問いかけは静かである。しかし、だからこそ言い様のない圧迫感があるのだ。

 蓮司は自分の見通しの甘さを痛感した。顧問の三木が、まさか父の哲治に彼が休んだ旨を伝えるとは思っていなかったからだ。しかし今思えば蓮司はここしばらくの間、たびたび剣道部の練習を抜けることがあった。そのこともあって、気にかけた三木が哲治に連絡を入れたのだろう。

 焦りの中で蓮司は一瞬迷った。ここは最もらしい理由を付けて誤魔化そうと思った。しかし、彼はふと我に返って思い止まる。その最もらしい理由が思い付かなかったということもあるが、それ以上にこの父に対してそのような誤魔化しは通用しないと思った。また、嘘を吐くのはとても卑怯だと思った。だからこそ、蓮司は腹を割って正直に話そうと思った。

「友人と遊んでいました」

 蓮司が意を決し打ち明ける。哲治は静かな姿勢を崩さず、彼を見据えている。

「松前くんとか?」

「はい。それから女子二人もいました。自分たちは四人で遊んでいました」

 その瞬間、哲治の目がぎろりと鋭い眼光を放った。蓮司はごくりと息を呑む。

「なるほど、よく分かった」

 そう言って、哲治はおもむろに立ち上がった。

 次の瞬間、テーブルに身を乗り出した哲治の張り手が蓮司の頬を弾き飛ばした。

 突然の衝撃に、蓮司は力なく吹き飛ばされてしまう。部屋の隅にうずくまり、殴られた頬をさすった。それから目を丸くした状態で哲治を見つめる。

「お前は大事な剣道の時間を、そんな下らないことのために潰したのか?」

 低く唸るような声で哲治が言った。

 普段の蓮司であれば、素直に父の言葉を受け入れていた。そして、己の未熟さを噛み締めていた。しかし、この時ばかりはその言葉が彼の胸に響かなかった。

「……下らないということは無いと思います」

 蓮司は父の方を真っ直ぐに見て、そう言った。

「何だと?」

「剣道の練習を休んでしまったことは、自分でも反省しています。しかし、友人と遊ぶ時間が下らないことはないと思います。……寛太が、剣道ばかりに打ち込む自分のことを心配して泣いてくれたのです。あまり無理をするなと言って。自分としてはそのようなつもりは無かったのですが、自分のことを気にかけてくれる彼が言うのだから、きっとどこかで無理をしていたのかもしれません。だから自分は、肩の力を抜くために友人と遊んだのです。そのおかげで、自分は少し気分が楽になりました」

 蓮司が喋っている間、哲治はずっと黙って聞いていた。腕を組んで静かに佇んでいる。やがて、ゆっくりと口を開く。

「甘いな」

 哲治が言った。

 蓮司は目を見開く。

「お前は辛いことに嫌気が差して、結局楽な方へと逃げただけではないか。私はお前をそんな風に育てた覚えはない」

 怒気を孕んだ声で言い、哲治は立ち上がった。

「夕飯は抜きだ。寝る時間まで、ずっと道場で素振りをしていろ」

 蓮司の方に視線を向けることなくそう言って、哲治は部屋から出て行った。ピシャリ、と戸が閉まる。

 その場に取り残された蓮司は、ただ呆然としていた。




      8




 その日は朝から、とても清々しいくらいに晴れ渡っていた。雲一つない空はまさに快晴である。

 しかし、その天気に反比例するかのように、蓮司の表情は暗く沈んでいた。

 父の哲治から説教を受けた後、蓮司はその宣言通りに夕食を抜かれ、さらに寝る時間まで素振りをさせられた。気が付けば、時刻は深夜の零時を回っていた。そのせいで身体が疲れていることもあったが、それ以上に疲れているのは心の方であった。蓮司は自分が悪いことをしたとしっかり認めた上でその思いを伝えれば、厳格な父も認めてくれると思った。しかし、現実はそう甘くない。そんな彼の切なる思いは、あっさりと斬り捨てられてしまったのだ。

 学校に着くと、下駄箱の前で靴を履き替える。

「よっ、蓮司。おはようっす!」

 その時、快活な声が蓮司のことを呼んだ。

 にこにこと笑みを浮かべながら歩み寄って来たのは、寛太だった。

「いやー、昨日は楽しかったな。高校に入ってから蓮司とまともに遊んだのって初めてじゃないか?」

「まあ、そうだな」

「けど昨日はサンキューな。蓮司のおかげで栗原さんと二人きりで帰れたぜ。ほら、見てくれよ。栗原さんのアドレス、ゲットしたぜ」

 よほど嬉しいのか、寛太はこれ見よがしにケータイのアドレス帳を開いて見せて来る。

「そうか、良かったな」

「いやいや、マジで蓮司のおかげだって。今度お礼するからさ、また放課後に遊びに行こうぜ」

 蓮司に肩組みをしながら、寛太が言った。

「……すまない、寛太。もう昨日みたいに遊ぶことは出来ない」

「え?」

 蓮司の言葉を受けて、寛太は目を丸くする。

「昨日、父さんにバレてしまったんだ。放課後、部活を休んでみんなと遊んでいたことを」

 すると、寛太はハッとした表情になる。

「蓮司、左の頬腫れているじゃんか。もしかして、親父さんに殴られたのか?」

「ああ。だが大したことはない。気にするな」

「気にするなって、そんなの無理だ。何でそこまでされなくちゃいけないんだよ?」

 寛太が憤慨した様子で言った。

「良いんだ。大切な剣道の練習を怠けた俺がいけないんだ」

「蓮司……」

 寛太が複雑な面持ちで蓮司のことを見つめる。

「ほら、早く教室に行くぞ」

 蓮司が笑みを作って言う。

 しかし、寛太は浮かない表情のままだった。




 屋上の扉を開けると、明日撫がそこに立っていた。

 蓮司が近づくと、おもむろに振り向いた。

「すまない、待たせてしまって」

「ううん、大丈夫。それよりもお弁当食べよう」

 そう言って、明日撫は地べたに腰を下ろそうとする。

「君に話したいことあるんだが、良いかな?」

 蓮司が言うと、明日撫はぴたりと動きを止める。

「話って何?」

 明日撫が小首をかしげる。

「昨日の、告白の返事をしようと思ったんだ」

 すると、明日撫の表情がにわかに揺らいだように見えた。

「いきなりだね」

「すまない。しかし、早く気持ちを伝えなければいけないと思ったんだ」

「そうなんだ」

 そっけない口調であるが、明日撫はどことなく照れくさそうにしている。蓮司の言葉を今か今かと待ち受けているようだ。

「氷見さん」

 蓮司が呼ぶと、明日撫は心なしか姿勢を正す。二人は互いに見つめ合い、緊迫した空気が漂う。

「――すまない、君と付き合うことは出来ない」

 その瞬間、春風が凪ぎ、屋上は静寂に包まれた。

二人は互いに見つめ合った格好のまま、立ち尽くしていた。

「……何で?」

 やがて沈黙の時を破ったのは、明日撫の言葉だった。彼女の表情は、こか憂いを帯びており、下手に突けば脆く崩れて涙が溢れそうになっていた。

「蓮司は私のこと、嫌い? やっぱり、私みたいな甘えん坊の面倒くさい女は嫌いなの?」

「いや、そんなことはない。昨日君に告白してもらった時も、正直に言って嬉しかった」

「じゃあ……」

「けど、今の俺にとって一番大切なのは剣道だから。恋愛とかしている余裕は無いんだ。すまない」

 蓮司は頭を下げて詫びる。それに対して、明日撫は虚ろな目で呆然としていた。

「それじゃあ、俺は行くから」

 蓮司はそう言い残して、明日撫の前から立ち去った。




 明日撫と別れた後、蓮司は学校の剣道場へと赴いていた。

 そこで軽く昼食を済ませた後、蓮司は竹刀を握り、素振りをしていた。

 額からは汗が迸っていた。いつもはこの程度の素振りで汗などかかないというのに、なぜだろうか。気が付けば、竹刀の振りが平常と違って乱れていた。嫌な気持ちを消し去るために、一心不乱に振っていたせいかもしれない。

「これじゃ駄目だ」

 蓮司は竹刀を下げて、苦々しく呟く。

 素振りに全く身が入っていない。今の自分は心が乱れている。だから、竹刀の振りも乱れているのだ。このままではいけない。この程度のことで心を乱す自分は未熟者なのだ。

「――相変わらず、クソ真面目だな」

 ふいに声がした。それはひどく気だるそうで、こちらに対して呆れるような物言いだった。

 ハッとして振り向くと、そこに立っていたのは自分と全く同じ姿をした男――怠惰の王だった。

「何をしに来た?」

 蓮司がぎろりと睨む。怠惰の王は嘲るような笑いを浮かべる。

「お前を殺しに来たんだよ」

 その言葉を聞いて、蓮司は眉をひそめる。

「……なんて嘘だよ。マジに受け取んなよ、超ウケるんだけど!」

 ヒャハハ、と甲高い笑い声を上げる。相変わらず癇に障る笑い声だ。

「冷やかしに来ただけなら帰れ。俺は忙しいんだ」

 蓮司は怠惰の王から視線を逸らし、素振りを再開しようとする。

「いやいや、ちょっと待てよ。俺はちゃんと、お前に用があって来たんだ」

 蓮司が視線を戻すと、怠惰の王はにやにやと薄ら笑いを浮かべていた。

「あのよ、本人様。お前、親父のことぶっ殺したくないか?」

 唐突に怠惰の王が言った。

「父さんを殺すだと……?」

 蓮司は目の前の男が何を言っているのかよく分からなかった。ただその言葉を機械的に繰り返しただけである。

「そうだ。だってムカつくだろ、お前の親父。ちょっと友人と遊んだくらいで、頭ごなしにお前のことを殴り、その上罰まで与えた」

「それは俺自身が悪かったんだ。だから、父さんに対してそんな怒りなど感じていない」

「本当かよ?」

 怠惰の王は疑惑の瞳を蓮司に向ける。

「何だと?」

「お前は本当に親父に対して怒りを覚えていないのかよ? 友人と放課後に楽しく遊ぶ。これぞまさに青春の貴重な一ページ。剣道ばかりに打ち込んでいたお前にとって、それは夢のような時間だったんじゃないのか?」

「いや、俺はあくまでも息抜きのために遊んだまでだ。剣道が一番大切なことに変わりはない」

「へえ。その割には、あの小娘に告白されて随分と舞い上がっていたじゃんか?」

「そのことは関係ないだろ」

「いや、大いに関係あるね。お前実は、あの小娘に少なからず好意を抱いているんじゃないのか?」

 一瞬、どくりと心臓が跳ね上がった。蓮司は平静を保とうとする。

「なぜ、お前にそんなことが分かるんだ?」

 睨み付けながら蓮司が問いかける。

「それはな、俺がお前の分身であり、お前自身だからだよ。あの小娘に対してお前は恋慕の感情を抱いている。そうでなければ、告白をされた時点ですぐに断っていたはずだ」

「ちがう、俺はただ真剣に考えてから返事をしようと思っただけだ」

「真剣に考えるほど、あの小娘の存在は大切だと言うことだろう?」

 そこまで問答を繰り返して、蓮司は言葉に詰まった。ぎゅっと唇を噛み締める。

 昨日の放課後、友人たちと行ったファミレス。生まれて初めて行ったということもあり、色々な物が新鮮だった。一見バカバカしいやり取りも、不思議と悪くなかった。むしろ、楽しかったのだ。そしてその後、帰り道に明日撫に告白されたこと。戸惑いはしたけど嫌な気分ではなかった。いや、むしろ嬉しかった。異性から素直に好意を伝えられることがこれほどまでに嬉しいとは思わなかった。ただ、その今までに無かった輝かしい時間は、厳格なる父の叱責により、儚くも消え去ってしまった。

 その時、蓮司は一瞬だけ考えた。

 もし父がいなければ、自分はもっと普通の学生らしく色々なことを楽しめていたのではないかと。剣道はそこそこに頑張り、友人たちとファミレスに行き、またそれ以外にも色々な場所に赴いて、楽しい、下手をしたら怠惰な時を過ごしても良いんじゃないかと。あの儚かった時間が確かな現実となってずっと自分を包み込んでくれると。そう思ってしまったかもしれない。

「そうだ。あの親父さえいなければ、お前は好きなだけ友人と遊び、好きなだけ好意を寄せる女子とイチャつき、ハッピーな高校生活を送れる。しかし、あの親父の目が黒い内は、お前はこのまま息苦しい毎日を過ごすんだ」

 怠惰の王は蓮司の心を読み取ったようにして、そう言った。

「しかし、俺は父さんを殺すだなんて……」

 蓮司は俯いて、ぎゅっと拳を握り締める。

「小学生の頃、お前は一度剣道の練習をサボったことがあったな?」

 ふいに、怠惰の王がそのようなことを言ってきた。

 蓮司はハッとして振り向く。

「覚えているだろう、その時のことを?」

 怠惰の王は、意地の悪い笑みを浮かべて問いかける。

 その瞬間、蓮司の脳内にその時の光景がフラッシュバックする。

 あの時は、春なのにまるで夏のように暑い日だった。自宅の道場で、蓮司は黙々と剣道の稽古に励んでいた。窓を開けていたが、道場の中は蒸し風呂状態だった。そんな中で、蓮司はきっちりと面やら小手やらの防具を付けて、父の哲治が監視する中、ただひたすら延々と素振りをさせられていた。

その途中で、哲治は用事があると言って外に出かけた。哲治は決して怠けないようにと念を押して、道場を後にした。残された蓮司は言いつけ通り、黙々と竹刀を振っていた。うだるような暑さの中ひたすらに。ただ、その時の蓮司はまだ小学生であった。周りの同年代の者たちと比べると鍛えられていたが、やはりまだ完璧な精神力を身に付けている訳ではなかった。そのためついつい父の言いつけを破り、素振りをやめて道場から出て、家の方に戻って涼んでいた。蓮司は凄まじい解放感に包まれて、極楽浄土の気分を味わっていた。そして、ついうとうとと寝てしまったのだ。

 しばらくして蓮司がふっと目を覚ますと、そこには仁王立ちする哲治がいた。その姿は今も昔も変わらず威厳に溢れていた。そのため、当時の蓮司は激しく身震いをして飛び起きた。哲治はそんな蓮司に対して容赦のない張り手を食らわせた。そして、激しい叱責を浴びせたのだ。それ以来、蓮司はもう二度と剣道の稽古をサボることは無かった。

「ただその時を境に、お前の中に怠惰の心が芽吹いたんだ。もっと楽をしたい。楽をして生きていたい。そんな欲求が湧いたんだよ、無意識の内にな。それから長い年月をかけてお前はその感情を蓄積させて、ついに怠惰の王と呼ばれる俺様が生まれたんだ」

 怠惰の王はにやりとほくそ笑む。

「俺は……」

「なあ、本人様よ。お前は今まで長いこと随分無理をしていたんじゃないか? ここらで親父を殺して、肩の荷を下ろしても良いんじゃないのか?」

 そう言う怠惰の王に対して、蓮司は顔を俯けて無言のままでいる。

「安心しろって。お前が父親を殺しても、バレないように取り計らってやるよ。だからさ、殺しちまいなよ。そうすれば、お前は好きなだけ友人と遊び、好きなだけ恋人とイチャつくことが出来る。この上ない幸せだろう? もしお前が父親を殺したら、俺はお前を殺さずにいてやるよ。ほら、どうだ。殺したくなったんじゃないのか、父親のことをよぉ?」

 怠惰の王はその目を剥いて、狂気じみた笑みを浮かべる。

 しかし、蓮司はそれでもずっと押し黙ったままだ。

 その様子を見て、怠惰の王は小さく肩をすくめた。

「まあ、じっくり考えてみろよ。お前の今後を決める、大事なことだからな」

 嘲り笑いを残して、怠惰の王は去って行った。

 蓮司は自分の右手をじっと見つめた。




      ◇




 自宅の書斎にて、柳葉哲治は文書を書いていた。筆に墨を付けて、大胆かつ繊細な文字を書き連ねて行く。その宛先はかつて世話になったことのある剣道の師範たちだ。哲治もかなり高段位の持ち主であるが、それと同等以上の力を持つ諸先輩に宛てた文書を書いている。その内容は、息子の蓮司を指導して欲しい旨を伝えるものであった。昨日の一件があってから、哲治はまだまだ自分の指導が甘かったと反省し、より厳しく行くことにした。手始めに諸先輩の厳しい洗礼を浴びさせてやろうと思ったのだ。

 その時、障子戸の向こうの人の気配を感じた。

「父さん、ただいま戻りました」

 それは蓮司の声だった。

 哲治は壁に掛けてある時計を見た。その時間は、まだ蓮司が帰って来るには早い。もしやまた練習を怠けたのではないかと哲治は思った。

「入れ」

 哲治が言うと、ゆっくりと障子戸を開けて、制服姿の蓮司が中に入って来た。

「どうした、帰りが早いじゃないか」

 哲治が鋭く睨みを利かせて言うと、蓮司は恐縮した顔付きになる。

「はい。実は父さんに直接稽古を付けてもらいたくて、自主練習をせず早めに帰って来ました」

「ほう?」

 哲治は値踏みするように蓮司を見た。もしや怠けの口実かと思ったが、それならばわざわざ自分に稽古を頼むことも無いだろう。彼が自分ひとりで黙々とするよりも、哲治が付いている方が辛い稽古になるのだから。

「分かった、道場の方に行くぞ」

 哲治は書きかけの文書をそのまま置いて立ち上がり、書斎から出た。それから、蓮司を後ろに伴って一旦外に出て、自宅と併設している剣道場へと向かう。照明を付けると、哲治は蓮司の方を見る。

「袴に着替えて防具を付けろ。どうせなら本格的に打ち合いをするぞ」

「ありがとうございます」

 蓮司は小さく頭を下げた。

「そういえば、竹刀は持って帰っていないのか?」

 哲治が問いかける。

「すみません、竹刀は学校に置いて来てしまいました。その代わりに……」

 蓮司はおもむろに背中の方に両手を回した。片方の手で学ランをまくり上げ、もう片方の手をズボンの中に突っ込んだ。哲治はその動作を見て眉をひそめていたが、次の瞬間、彼がその手に持っていたのは――

「見て下さい、父さん。この美しい刀身を」

 蓮司はその手に持った日本刀を人差し指でつつ、と撫でる。その指先が小さく裂けて赤い血が垂れる。蓮司はそれをちろりと舐めた。

 哲治は一瞬、自分の目を疑った。今目の前にある光景は夢なのではないかと。しかし、どうやらこれは夢では無いようだ。自分の息子が、人を殺せる武器を持って目の前に立っている。それが何を意味するのか。

「父さん、自分は謝らなければなりません」

 蓮司が言った。哲治は彼を睨む。

「自分の愚かな行いに対してか?」

「そうですね、自分は愚かでした。あなたの言うことに素直に従って来た自分は愚かでした。おかげで、自分の人生は非常に息苦しいものでした」

 その言葉を聞いて、哲治の胸の内がざわついた。

「すみません、父さん。自分の明るい未来のために、あなたには死んでいただきます」

 そう言って、蓮司は静かに刀を構えた。

「明るい未来だと? 殺人者にそんな未来が訪れる訳ないだろう? 今ならまだ悪ふざけということで、素振り百万回で許してやる。その刀を寄越せ」

 哲治は静かな声で告げた。

「嫌だな、父さん。自分の立場を分かっていますか? 今のあなたはむしろ命乞いをする立場なんです。ほら、もっと必死に命乞いをして下さいよ」

 薄ら笑いを浮かべる蓮司を見て、哲治は絶望していた。それは己の命に危機が迫っていることではなく、自らが手塩にかけた育てた息子が、このような愚行に走っていることで情けなかったのだ。どこで育て間違えたのだろうか、なぜ自分の期待通りに育ってくれないのだろうか。その思いが渦巻き、哲治は苦悶の表情を浮かべた。

「……さてと、父さん。最後に何か言い残して置くことはありませんか?」

 蓮司は刀の切っ先を向けて、哲治に問いかける。

「お前のような愚かな息子に残す言葉などない」

 きっぱりとした口調で言い切った。

 蓮司はくすりと笑う。

「さすが父さんだ。最後まで手厳しいですね」

 蓮司はゆっくりと刀を上段に構えた。

「それでは、さようなら」

 別れの言葉と共に、鋭利な切っ先が振り下ろされる。

 その斬撃は哲治の身体を容赦なく切り裂かんとする――

 刹那、金属同士がぶつかり、弾き合う音が響いた。

「危ないところでしたね、父さん」

 哲治に背を向けて立っていたのは、蓮司だった。

 哲治はひどく混乱した。今彼の目の前には息子の蓮司が二人いる。その両者が刀を交えて睨み合っているのだ。それは異様な光景だった。

「怪我はありませんか?」

哲治をかばっている蓮司が、ちらりと彼に目配せをして尋ねた。

「……一体、どうなっているんだ?」

 さしもの哲治も、今のこの状況に対して困惑していた。なぜ、蓮司が二人もいるのか? それが最大の謎であった。

「今しがた父さんを殺そうとした奴は、自分ではありません」

「では、何だと言うのだ?」

「自分の内なる感情から生まれた化け物、怠惰の王です」

「怠惰の王? 何だそれは?」

「詳しいことは後で説明します。危険ですから、父さんは下がっていて下さい」

 哲治はまだ問い質したいことが山ほどあったが、普段よりも凄まじい迫力を持った蓮司を見て、大人しくその言葉に従った。

 直後、鍔迫り合いをしていた二人は互いに弾き合い、一旦間合いを置いた。

「ヒャハハハ! あーあ、バレちまったか」

 もう一人の蓮司――怠惰の王は天井を仰いで甲高い笑い声を上げた。それは非常に不愉快な笑い声だった。

「怖気づいた本人様に変わって、この俺がその親父を殺してやろうと思ったのに。何で邪魔をしやがるんだ?」

「俺はそもそも、父さんを殺すなどとは思っていない。俺が殺すのはお前だ、怠惰の王」

 静かに、しかし強い口調で蓮司が言った。

「上等じゃねえか。今日という日を境にお前は死に、この俺が本物になるんだ、ヒャハハ!」

 相対する怠惰の王は余裕の表情で言ってのける。

 両者は剣を構えて睨み合う。しばらく沈黙の時が流れた後に、両者は力強く床を蹴った。




      ◇




 互いの刀身がぶつかり合うと、耳元でキィンと甲高い音が響いた。

 再び鍔迫り合いをしながら、蓮司は自分と同じ顔を持つ怠惰の王を睨み付ける。

 対する怠惰の王は、余裕の笑みを貼り付けたまま蓮司を見ている。その笑みが蓮司は気に食わなかった。この男を絶対に斬り殺したい。その思いが強かった。

「おうおう、おっかない顔してんな。そんなに俺のことが憎いか?」

 蓮司はその問いかけに答えず、じりじりと怠惰の王を押して行く。このまま力で相手を押し切り、頃合いを見計らって突き放し、そして斬り付ける。それが蓮司の狙いだ。

 ふと、怠惰の王の力が緩んだ。蓮司はここぞとばかりに力を込める。

 だが、怠惰の王は後退せず、右方向にステップを踏んだ。相変わらずのゆったりとした動き。しかし、その動きに無駄がなく、またタイミングも絶妙のため、蓮司は対応することが出来なかった。怠惰の王は流れるような動きで、蓮司の左側に回り込む。蓮司は力強く突っ込んだことで前につんのめっていた。

「あらよっと」

 バランスを崩した蓮司に向かって、怠惰の王は片手で刀を振り下ろす。

「くっ」

 蓮司は咄嗟に刀を寝かせて防御する。相手の剣先が左肩に触れる寸前で、何とか防ぐことが出来た。しかし、息を吐く暇はなかった。両手で刀を握っている蓮司に対して、怠惰の王は右手だけで刀を握っている。左手はぶらぶらと遊んでいる。その左手にぐっと力が入り、蓮司の腹部に目がけて掌底が放たれた。それが当たる直前、蓮司はわずかに身を引いた。

「がっ」

 蓮司はそのまま後方へと吹き飛ばされる。床に転がった。胃液が喉元に込み上げるが、何とか飲み込む。当たる直前で身を引いていなければ、確実に吐いていた。神聖な道場に嘔吐物をまき散らしては、父に叱られてしまう。しかし、この戦いは真剣を使った戦いだ。必ず真っ赤な血は流れる。そのことに関しては、後で何とか謝って許してもらうしかない。

「ひゃは。良いザマだな、本人様よ」

 怠惰の王は蓮司を見下ろして、嘲り笑いを浮かべる。

 蓮司は床に手を突いて、むくりと起き上がった。再び刀を構えて怠惰の王を睨む。

 怠惰の王は上半身を揺らしながら蓮司の様子を伺っている。その佇まいは一見隙だらけのようで、隙がほとんどない。蓮司は刀を構えたまま、一定の間合いを保つ。

「どうした、来ないのかよ?」

 そんな蓮司の姿を見て、怠惰の王は挑発するように言った。

「俺のことを殺したいんじゃないのか?」

 口の端を吊り上げて、にやりと笑う。

 蓮司は心がざわつくのを感じた。

 そうだ、自分はこの男を殺さなければならない。自分の内なる感情から生まれたこの化け物を、殺さなければならない。

 改めて刀を強く握り締める。刃先を怠惰の王へと向け、その距離を測る。

 タン、と床を蹴って駆け出す。蓮司は力を溜めるようにして刀を引いた。悠然と立っている怠惰の王の喉元を目がけて突きを繰り出す。この突きが決まるとは思っていない。あくまでも、相手の態勢を崩すためのものだ。勢いに乗った蓮司の突きが迫り、怠惰の王は回避をしようと動き出す。蓮司はその時、怠惰の王の右膝がぴくりと動くのを見逃さなかった。

 怠惰の王は蓮司の突きを、右方向に回避した。

 その動きを予期していた蓮司は、踏み込んだ足でぐっと踏ん張り、回避した直後でわずかに隙が生まれた怠惰の王を狙う。蓮司はなるべくコンパクトに刀を振った。そのため、より短い時間で相手の身体に刃先が届いた。シュッと小気味の良い音がして、怠惰の王の左肩が切り裂かれた。血潮が飛ぶ。

 蓮司は一旦間合いを取るために下がった。とにかく攻撃を当てることに集中したので、大きなダメージを与えることは出来なかった。しかし、こちらが先に相手へ攻撃を通したことは大きい。

 怠惰の王は斬られた箇所をじっと睨んでいた。すると小難しい表情で首を捻り、学ランを脱ぎ捨てた。その上半身は白いYシャツ姿になる。

「やっぱり、この方が血の色が分かりやすくて良いな」

 怠惰の王は鮮血が流れている左肩に指で触れてから、おもむろに口へと運ぶ。ちろりと自らの血を舐めた。にやりとほくそ笑む。

「どうだ、本人様も自分の血を味わってみたくないか? お望みとあらば、たっぷりと血を流させて浴びるように飲ませてやるぜ?」

「俺にそんな変態的な趣向はない」

 蓮司はきっぱりと言い放つ。

「何だよ気取っちまって。お前の方こそ、あの小娘に自分が箸やら何やらを使って食べさせてやっているくせによ」

「なっ」

 蓮司が少しうろたえると、怠惰の王はにやにやと笑う。

「ほらほら、どうした。動きが止まってんぞ?」

 怠惰の王に指摘されて蓮司はハッとする。こちらの攻撃を受けたというのに、相手の方に余裕がある。

 蓮司は学ランを脱ぎ捨てた。怠惰の王の変態的趣向に乗った訳ではなく、ただ身軽になるためだ。それから小さく呼吸をして気合を入れ直す。身体中の神経をその手に握った刀へと集中させる。

 怠惰の王はなかなか自分から動こうとはしない。先ほどからこちらに攻め込ませていなし、返り討ちにするといった戦法を取っている。やはり怠惰の王というだけあって、自ら動くのは億劫なのだろうか。怠惰の王はゆらり、ゆらりと柔軟かつ隙のない態勢で蓮司のことを待ち受けている。

 蓮司はすり足で、ゆっくりと様子を伺いながら間合いを詰めて行く。

 その時、それまでゆったりと構えていた怠惰の王が、突然力強く床を蹴った。猛烈な勢いで蓮司の方へと向かって来る。

 蓮司は失念していた。あの怠惰の王は、平常時はふらふらと構えているが、いざという時にはとてつもない速度で駆けるのだ。

 肉薄する怠惰の王は、上段に構えた刀を鋭く振るう。蓮司はわずかに反応が遅れた。後ろに跳び退ってかわそうとするが、胸の辺りに刃先が走った。真っ赤な血しぶきが舞う。

「ぐあっ」

 蓮司は苦悶の表情を浮かべて、斬られた胸を手で押さえる。そこまで深い傷ではないが、血が流れ出す度に目が霞みそうになってしまう。

「おー、やっぱり白いYシャツに赤い血はくっきりと映えるな」

 怠惰の王はよろめいている蓮司を見て、喜色の表情を浮かべる。

 ぎりっと歯を鳴らして、蓮司は態勢を立て直す。

「ほら、来いよ。もっと血を流そうぜ」

 怠惰の王は刃先を蓮司の方に向けてくいくいと動かす。その立ち振る舞いにはまだ余裕がある。

 蓮司は刀を構えて走り出す。怠惰の王も迎え撃つように動き出す。

 道場内に刀がぶつかり合う金属音と、足が床を叩く乾いた音が絶え間なく響き渡る。

 蓮司が刀を振るうと怠惰の王がそれをゆらりとステップでかわし、別の角度から刀で攻める。蓮司は刀を寝かせて防ぎ、すぐさま反撃に打って出る。互角の攻防が両者の間で繰り広げられていた。

「へえ、やるじゃんか本人様よ」

 攻防の合間に怠惰の王が言った。蓮司はそれに答えず、無言のまま刀を振るう。

 その時、怠惰の王に隙が生まれた。その足元がぐらつき、後方へとよろめく。

 蓮司はその隙を見逃さず怒涛の連撃を繰り返す。ここが勝機とばかりに果敢に攻め込んで行く。

「くっ」

 珍しく、怠惰の王がその表情を歪める。蓮司の攻めに対応しきれず、刀を持った手が跳ね上がった。そのため、身体の正面がガラ空きになる。

 蓮司は刀をぐっと強く握り締める。刀を大上段へと振りかぶった。

 その瞬間、怠惰の王の唇が笑みの形を作る。

 後方に倒れかけていたはずだった怠惰の王が、下半身の踏ん張りを利かせて態勢を整え、一気に蓮司の方へと向かって来る。

 蓮司は渾身の一撃を放つために刀を高々と振り上げている。その胴体部分は無防備に晒されている。

 ハッとしたのも束の間、怠惰の王はその刀で、蓮司の胴体を横薙ぎに切り裂いた。

 大量の血しぶきが辺りに飛び散った。

「がはっ……!」

 蓮司は堪らず呻き声を上げて、床に横倒れになった。

 斬られた箇所から、とめどなく鮮血が溢れ出している。それが床にこぼれてべっとりと濡らす。咄嗟に傷口を押さえた左手を見ると、真っ赤に染まっていた。

「あらら、痛そうだな」

 飄々とした様子で怠惰の王が言った。彼の握っている刀に、べったりと血のりが付いていた。彼は刀を持ち上げて、その血を舌で舐める。

「お前の血もなかなか美味いぜ、本人様よ?」

 そう言って、狂気じみた笑みを浮かべる。

 蓮司は起き上がろうとするが、手に力が入らない。それどころか、身体全体に力が入らない。傷口から血は溢れ続けている。意識が遠のく。

 最早ここまでなのか。醜い己自身を始末すると言っておきながら、ここで死んでしまうのか。こんな堕落した存在に自分は負けてしまうのか。蓮司は口惜しさのあまり唇を噛み締めた。

「――やはり、まだ甘いなお前は」

 絶望に沈みゆく蓮司を、その声が呼び止めた。

 薄れ行く意識の中、ゆっくりと視線を巡らせると、父の哲治が腕組みをして静かにこちらを見つめていた。

「勝利を早とちりして敵に致命傷を食らうなど、まだまだ半人前の証拠だ。常日頃から言っていただろう、最後まで油断をするなと。お前は私の教えを忘れたのか?」

 息子の蓮司が瀕死の状態に陥っているにも関わらず心配するどころか、手厳しい言葉を哲治はぶつけてくる。だが、蓮司はそれに対して不満を覚えなかった。むしろ、彼の教えを忘れて迂闊に相手へと向かった自分の愚かさを憎む。

 蓮司は床に手を突いた。激痛に全身が震える。思うように力が入らない。それでも、歯を食いしばって何とか起き上がる。がくがくと震える膝を鼓舞して、ようやく両足で立った。

「すみません、父さん。やはり自分はまだまだ未熟者のようです」

 蓮司は哲治の方を向いて、そう言った。

「逃げ出すのか?」

 哲治は険しい表情で静かに問いかけてくる。

 それに対して、蓮司は首を横に振った。

「いいえ、自分は逃げません。奴は自分が倒さなければならない存在ですから」

 哲治は、蓮司が言ったその言葉に答えなかった。ただ無言で、彼の姿を見つめている。

 その時、パチパチと乾いた音が鳴る。怠惰の王がこちらの方を見て拍手をしていた。

「いやー、素晴らしい親子愛だな。見ていてさすがの俺も感動しちゃったぜ」

 怠惰の王は大げさに、泣くふりをしながら言った。

「これはもう、親子まとめて殺しちまう他ねえな」

 にやりと下卑た笑みを浮かべる。

 対する蓮司は切り裂かれた胴体が痛み、油断をするとすぐに意識が飛んでしまいそうだった。だが今しがた父から叱責を受けたからには、これ以上情けない姿を見せる訳には行かない。

「よーし。そんじゃあ面倒だから、サクッと殺しちまうか」

 怠惰の王は刀を構えた。ゆっくりと蓮司の方に向かい、その途中で急激に加速をした。その勢いに乗って嵐のような斬撃を繰り出す。蓮司は痛みを堪えながら、何とか刀を動かしてそれを防ぐ。

「ほらほら、どうしたどうしたぁ? 動きが鈍ってんぞぉ?」

 叫びながら、怠惰の王は容赦なく蓮司を攻め立てる。

「くっ」

 怒涛の攻撃に蓮司は苦悶の声を漏らす。それでも何とか食らい付こうとするが、痛烈な一撃を受けて後方へと弾き飛ばされる。よろめいて転倒しかけるが、寸でのところで何とか持ち堪えた。

「はあ、はあ……」

 蓮司の口から荒い吐息が漏れる。

「おいおい、随分と苦しそうだな?」

 怠惰の王がせせら笑う。

 彼の言う通り、確かに今の蓮司は瀕死の状態だ。血はまだ完全に止まっておらず、今も動く度にぽたり、ぽたりと血が床に落ちている。

 しかし、痛みは先ほどよりも感じなくなっていた。その代わりに、霞んでいた視界が冴え渡り、ざわついていた心も異常なまでに落ち着いていた。静かな湖畔に立っているような、そんな気持ちだった。

「さてと。そんじゃまあ、そろそろ死んでもらおうか」

 怠惰の王はそう言って、ゆっくりと蓮司の方に歩み寄って来る。人の死を楽しむ愉快犯のような表情を浮かべている。やがて蓮司の前に来ると、ぎらりと鈍色に光る剣先を彼に対して突き付けた。それから怠惰の王は刀を振り上げる。

 その時、蓮司の身体からはふっと力が抜けていた。怪我の功名とでも言うのだろうか、傷を負ったおかげで身体から余計な力が抜けた。今の蓮司に残っているのは必要最低限の、相手を斬るための力だけだ。

「あばよ、本人様」

 その言葉と共に刀が振り下ろされる。きれいな半円を描き蓮司に迫る。

 刹那、蓮司の目には周りの光景がスローモーションに見えていた。死の淵に立たされることで感覚が研ぎ澄まされたのだろうか。蓮司はゆらりと右に動いて、怠惰の王が繰り出した斬撃をかわす。彼が目を見開いた。

 蓮司は一気に怠惰の王へと肉薄し、その瞬間に持てる全ての力を込める。洗練された斬撃が、怠惰の王を一閃した。真っ赤な血が噴き出す。

「ぐあああぁ!」

 怠惰の王は悲鳴を上げた。大きく仰け反って、そのまま床に仰向けになって倒れた。左肩から右脇にかけて走った大きな傷から、大量の血が流れ出す。

 ハッとした蓮司は、眼下で倒れている怠惰の王を見た。彼は自らの血によって生じた池に沈み、苦悶の声を上げている。

「ぐあ……クソ、よくも……やりたがった……な」

 怠惰の王は血走った目で蓮司を睨んだ。その口の端からひゅーひゅーと掠れるような吐息が漏れている。蓮司はその姿を、しばらくじっと見つめていた。

「くっ……」

 呻き声を上げて、怠惰の王は刀を握った手を持ち上げようとする。

 蓮司はその手を蹴った。刀が弾き飛ぶ。すると、怠惰の王は力なくその手を下ろした。それから、再び蓮司の方に視線を向ける。

「俺を殺すんだろ?」

 怠惰の王は言う。

「それが〈セルフキラー〉であるお前のやるべきことなんだろ? 良いぜ、殺しなよ」

 口の端でにやりと笑みを浮かべた。

 蓮司は無言のまま、刀の切っ先を怠惰の王へと向ける。

 そうだ、自分はこの男を殺すために戦ってきたのだ。この男は自分と全く同じ姿形をしていながら、その性質は極めて汚れており、また醜い。自分と瓜二つの者がいるというだけでもおぞましいというのに、この男はその性根が腐っている。ただふらふらと生きて、平気な顔で他人に危害を加えて、殺そうとさえする。この男は野放しにして置く訳には行かない。周りの人たちに迷惑をかけないために。何よりも自分のためにだ。忌々しい自分と決別するために、この男を殺さなければならないのだ。自分の内なる感情によって生まれた、この化け物を。

「どうした、早く殺せよ? ほら……早く殺せよ!」

 怠惰の王は突然目を見開き、叫び声を上げる。

「お前は俺のことが憎いんだろ? お前の醜い心の権化である俺のことが目障りなんだろ? だったら早く殺せよ。早く俺のことを殺して、楽になっちまえよ! 俺は所詮汚れた化け物だからよ、殺しても何も罪に問われることはねえ。ほら、さっさと殺せよ!」

 蓮司は刀を振り上げた。怠惰の王を鋭く睨み付ける。

 次の瞬間、蓮司は力強く刀を振り下ろした――

 ザクリ、と音がした。怠惰の王が大きく目を見開く。

 蓮司の刀は、怠惰の王のすぐ脇の床に突き立てられていた。

「……何をしているんだ、お前?」

 怠惰の王はその目に疑惑の色を浮かべて、蓮司のことを睨んだ。

 刀を突き立てた状態で、蓮司は荒く呼吸をしていた。

「何で俺のことを殺さないんだ? ふざけてんのか?」

 怒気を孕んだ声で怠惰の王が言う。

 それまで黙っていた蓮司だが、乱れた呼吸を整えると、やがて口を開いた。

「俺はお前を殺さない」

 蓮司は静かな声でそう告げた。

「何だと……?」

 怠惰の王は眉をひそめる。

「どういうことだ? なぜ俺のことを殺さないんだ? お前は俺のことを殺したかったんじゃないのかよ?」

「ああ、その通りだ。俺はお前のことを殺したい。怠惰の王なんてふざけた名前を冠するお前のことを、俺は殺したい」

「じゃあ、殺せよ」

 怠惰の王が言う。蓮司は首を横に振った。

「俺はお前のことを殺したい……けど、殺さない」

「だから、何でだよ?」

 苛立ちを露わにして怠惰の王が問いかける。

「お前は汚らわしい、そして醜い。お前みたいな奴は消えた方が良いと俺は思っていた。……しかし、それでは意味がないと気が付いたんだ。例え今ここでお前を殺したところで、またいずれ負の感情が溜まれば裏人という化け物を生み出してしまう。だから、俺はお前を殺さずに生かす。そして受け入れる」

「俺を受け入れる……?」

「そうだ。お前は俺の内なる感情から生まれた存在。俺自身でもある。とっくに分かっていたことだけれども、俺はそれを認めたくなかった。お前なんか本当の俺ではないと思っていた。しかしそれでもやはり、お前はどうしようもなく俺自身なんだということに気が付いた。だから、俺はお前を殺さずに受け入れる」

 密かに悩んで出した結論。それ故に、蓮司は迷いのない目でそう言い切った。

 対する怠惰の王は、呆気に取られたような顔をしている。

「……はは、お前馬鹿だろ。普通、醜いもう一人の自分がいたら殺すだろ? 何考えてんだよ、全く……」

 怠惰の王は額に手を当てて、乾いた笑い声を上げる。それはいつものように不快な笑い方ではなかった。

「お前はどうなんだ。俺に殺されたいのか、それとも俺と共に生きるのか?」

 蓮司は真っ直ぐに怠惰の王を見つめて、問いかける。

 すると、怠惰の王はふっと口元で微笑んだ。

「仰せのままに、本人様よ」




      エピローグ




 広い畳の部屋には静謐な空気が流れている。そこで、蓮司は正座をしていた。

「どうじゃ、その後怪我の具合は?」

 蓮司に尋ねてきたのは、立派な白い髭を蓄えた老人、〈律善会〉の長である仙人だった。

「ええ、おかげさまで大分よくなりましたよ。ただ、傷痕は残るそうです」

「そうか。まだ若いのに、可哀想じゃの」

「いえ、自分はそれほど気にはしません」

「ほほ、おぬしは強いの。……ところで、おぬしの隣にいる者は誰じゃ?」

 仙人が視線を向けたのは、蓮司の隣でだらしなく胡坐をかいている男だ。

「どうも、おぬしと全く同じ容姿をしているように見えるのじゃが。わしの見間違いじゃろうか?」

 仙人がすっと目を細めた。

「いいえ、見間違いではありません。彼は自分から生まれた裏人、怠惰の王ですから」

 蓮司は落ち着いた口調で言う。

 そんな蓮司を見た仙人は、ふむと唸って白髭を撫でる。

「わしは確か、おぬしを〈セルフキラー〉としたはずじゃが? 何故、己が生み出した化け物と並んで座っておるのじゃ? わしにはそれが不思議で仕方がない」

「おっしゃる通りです。普通でしたら彼を殺すべきなのでしょう。しかし、自分はあえて彼を生かすことにしました。醜い自分を殺したところで、それは結局逃げただけで根本的には何も解決しません。ですから自分はあえて彼を生かし、醜い自分と正面から向かい合うことにしたのです」

 蓮司が言うと、仙人は白髭を撫でたまま、眉をひそめていた。

「醜い自分から逃げずに、正面から向き合うか……」

 呟き、仙人はしばらくの間押し黙った。

「柳葉蓮司よ」

 やがて仙人が口を開き、彼のことを呼んだ。

「おぬしは本日をもって〈律善会〉の正規会員から外す。〈セルフキラー〉の称号も剥奪する。その代わりにおぬしは〈自分を生かす者(セルフライバー)〉の称号を与える」

「〈セルフライバー〉?」

「うむ。おぬしが醜い自分と向かい合うために、あえてその裏人を生かしたことは認めよう。しかし、それは険しい道じゃ。おぬしはこれから一生、醜い己自身を見つめながら生きなければならない。おぬしはいつ破綻するかも分からん。そのように危なっかしい者は正規会員として置いておく訳にはいかないのじゃ。しかし、おぬしには力がある。時に我々の裏人退治に強力を頼みたい。じゃから、その都度おぬしを雇って活躍してもらいたいと思っておる。まあ、いわゆる傭兵みたいなものじゃな」

 仙人は、改めて蓮司のことを見据える。

「どうじゃ、わしの提案を受け入れてくれるかの?」

 蓮司は少し間を置いてから頷く。

「分かりました」

「それにしてもおぬし、先ほどから随分と落ち着いておるの。わしのような老いぼれには、威厳はないんじゃろうか?」

「いえ、そのようなことはありません。ただこの後、自分にとって最も恐ろしい方と話すことになっていまして」

「ほう」

 仙人は唸った。

「まあ、良い。わしの話はこれでおしまいじゃ。もう帰って良いぞ」

 言われて、蓮司は立ち上がった。

「失礼します」

 一礼をしてから、蓮司はその場を後にした。




 道場の扉を開けて中に入ると、こちらに背を向けて立っている男がいた。

 蓮司が歩み寄ると、その男はおもむろに振り返る。

「ただいま戻りました、父さん」

 蓮司が言うと、男――哲治は静かに彼のことを見据えた。

「座れ」

 哲治に言われて、蓮司はその場で正座をする。その隣で、怠惰の王が大儀そうに胡坐をかいた。

「あの、父さん……」

「まさか、お前があの伝説の仙人から刀を習っていたとはな」

 蓮司の言葉を遮るようにして、哲治が言った。

「仙人様のことを知っているんですか?」

「ああ。武術に通ずる者たちは、少なくともその名を聞いたことくらいはある。……それよりも、なぜお前は刀を習っていたんだ?」

 問われて、蓮司は一瞬言葉に詰まる。

「自分から生まれた化け物を殺すためです」

「しかし、お前はそれを殺さなかった」

 哲治は、気怠そうにしている怠惰の王を見た。

「はい。自分はこの醜いもう一人の自分を受け入れて生きることに決めました」

「ならば、もう刀を持つことはあるまいな?」

「いえ。先ほど仙人様から、有事の際には戦力となるように命じられました。ですから、自分はこれからも刀を握ると思います」

「死ぬかもしれないのだぞ?」

 哲治はやや語調を強めて言った。

「父さんの言う通りです。けれども、自分で決めた道ですから。勝手なことを言ってしまい申し訳ありません」

 蓮司は両手を床に突いて、深々と頭を下げた。しばらくの間、沈黙の時が流れる。

「……好きにしろ」

 哲治が言った瞬間、蓮司は顔を上げた。父はすでに背中を向けて、それ以上何も語ろうとしない。しかし、蓮司にとってはそれで十分だった。

「ありがとうございます」

 蓮司は立ち上がり、もう一度深々と頭を下げる。そして、踵を返して剣道場を後にする。

「いやー、良かったな。親父が認めてくれて」

 脇からにやにやとしながら怠惰の王が声をかけてくる。

 蓮司はちらりと彼のことを見た。

「お前はもう〈放悪会〉をやめたのか?」

 問われた怠惰の王は、小さく頷く。

「ああ、やめたよ。本人様に付いて行くって決めたからな」

「そうか」

 蓮司は再び前を向いて歩き出す。

「ところで、これからどうするんだよ? だるいから居眠りでもしようぜ?」

 怠惰の王はあくびをしながら蓮司に言う。

「俺はこれから学校に行く」

「は? 今日は怪我の後だから、大事を取って休みをもらったじゃねえか。何でわざわざ学校に行くんだよ?」

「お前は家で居眠りでもしていろ。俺は一人で行く」

 蓮司はそのままスタスタと歩いて行く。しかし、怠惰の王は彼の後に付いて来た。

「どうした?」

「仕方ねえから、俺も一緒に行こうと思ってな」

「どういう風の吹き回しだ?」

「別に、ただ本人様の顔を立ててやろうと思ってな。ところで、何しに学校に行くんだ?」

 怠惰の王が問いかける。

「話したい人がいるんだ」




 今日もうららかな午後の日差しが、屋上を優しく照らしている。

 蓮司はそこに立っている、右腕にギブスを巻いた少女を見つけた。

 ゆっくりと歩み寄って行くと、少女はこちらに振り向いた。

「すまない、待たせてしまって」

 蓮司が声をかけると少女――明日撫はおもむろに制服のポケットからケータイを取り出して、その画面を蓮司に見せた。

「まさか、蓮司が私にメールを送って来るとは思わなかったから少し驚いた。それに、今日は体調が悪いからって休みじゃなかったの?」

「まあ、そうなんだが……君にどうしても話しておきたいことがあるんだ」

「話って何?」

 明日撫はかすかに眉をひそめて言った。

 蓮司はにわかに緊張していた。しかし、ここはきちんと話しておかなければならない。

「――氷見さん、俺と付き合ってくれないか?」

 すると、明日撫は一瞬目を見開いた。しかし、直後に険しい顔つきになる。

「どういうこと? 蓮司はこの前、私の告白を断ったでしょ?」

「ああ、その通りだ。あの時、俺は君の告白を断った。しかし、あれは本心じゃなかった。本当は君に対して少なからず好意を抱いていた」

 蓮司の言葉を受けて、明日撫はそっぽを向いた。

「そんなの自分勝手で都合が良すぎるよ。私のことをフッたくせに」

 蓮司は目を伏せた。

「君の言う通りだ。俺は、とても愚かな行為をしていると、自分でも痛感している。本来ならばこのようにみっともない真似はするべきじゃない。……でも、それでも君に思いを告げたいと思ったんだ。俺みたいな堅物な男に好意を示してくれる君が可愛くて、いつの間にか好きになっていたということを」

 その言葉を噛み締めるようにして蓮司は言った。

 対する明日撫は、顔を背けたまま押し黙っていた。

「……本当に私のことが好きなの?」

 おもむろに口を開いた明日撫が尋ねる。

「ああ、そうだ」

「本当の本当に?」

「ああ。俺は君のことが好きだ」

 蓮司は強調するように言った。

「じゃあ、条件がある」

「何だ?」

「私のことを明日撫って、名前で呼んで」

 明日撫はそのつぶらな黒い瞳で、蓮司のことを見つめた。彼は思わずそれに吸い込まれそうになってしまう。

「分かった、これから君のことは明日撫と呼ぶ」

「じゃあ、俺は明日撫が好きって言って」

 言われて、蓮司は一瞬躊躇した。しかし、腹を据えて口を開く。

「俺は明日撫が好きだ」

「もう一回」

「俺は明日撫が好きだ」

「もう一回」

「俺は明日撫が好きだ」

「もう一回」

「……あの、何回言わせるつもりなんだ?」

「死ぬまで」

「え?」

 さらりと言った明日撫に対して、蓮司は目を見開く。

「死ぬまで私のことを愛してね」

 その言葉は非常に重いものであるが、明日撫の浮かべた笑みはとても愛らしく、蓮司はつい頷いてしまった。

「分かった」

「じゃあ、付き合ってあげても良いよ」

 そう言って、明日撫はその小さな身体を蓮司の方へと預けてきた。蓮司はそんな彼女の姿を見て、ふっと微笑んだ。

「はいはい、ごちそうさん」

 ふいに声がした。

 二人の前にやって来たのは、怠惰の王だ。

「いやー、ずっと陰で二人の様子を見守っていたけど、青春してんなー」

 茶化すように言う怠惰の王を見て、明日撫が眉をひそめた。

「蓮司、何でこいつがここにいるの?」

 明日撫が問いかける。

「実は先日、奴と殺し合いをしたんだ。俺がしばらく休んでいたのも、その時に刀で斬られたせいなんだ」

「え、そうなの? 大丈夫?」

 急に明日撫は焦った様子で蓮司を見つめる。

「ああ、大丈夫だ。俺はその時、本気で怠惰の王を殺そうと思っていた。けれども、少し迷いがあったんだ。奴を殺したところで、結局それは醜い自分から逃げただけになってしまうのではないかって。だから、俺は奴を受け入れることにした。その代わりに〈律善会〉の正規会員からは外されて、〈セルフライバー〉として生きることになったんだ」

「醜い自分を受け入れたんだ……やっぱり、蓮司は強いね」

「そんなことはない。俺なんて未熟者だ。これからもっともっと強くならなければ」

「蓮司のそういう真面目なところ、好きだよ」

「ありがとう」

 二人は微笑み合う。

「おーい、そこのバカップル。何人前でイチャついてんだよ、見せ付けてんのか?」

 怠惰の王が半ば呆れたように言った。

「誰がバカップルだ。俺は、これから清らかな付き合いをして行くつもりだ」

「清らかなお付き合いとか、いつの時代の青少年だよ。馬鹿馬鹿しい」

「やはりお前は鬱陶しいな。殺した方が良かったか?」

「おう、上等だよ。今すぐ刀を取りに行って、また殺し合いでもするか?」

 顔が全く同じ両者は、互いにぎろりと睨み合う。

「蓮司、落ち着いて」

 明日撫が言うと、蓮司はハッとして視線を彼女に向けた。

「すまない、ついカッとなってしまった」

「ううん、気にしないで。私もこいつのこと、すごくムカつくから」

「おいおい、二人寄ってたかってひどいな。少しは俺に対しても優しくしてくれよ?」

 怠惰の王が言う。

「黙れ」

「黙って」

 蓮司と明日撫は二人同時にそう言った。それから、互いに見合って笑い声を漏らす。

「まあ、これから鬱陶しい奴が付いて来るけど、よろしく頼むよ」

 蓮司が言うと、明日撫はにこりと微笑んで頷いた。

「うん、分かった」

「おいおい、その言い方はないんじゃないか、本人様よ?」

 怠惰の王はしかめ面で抗議する。蓮司はそんな彼を一瞥して、おもむろに手を差し出す。

「何だこれは?」

「お前は醜い男だが、紛れもない俺自身だ。……だから、これからもよろしく」

 蓮司が言うと、怠惰の王は目を丸くした。それから、ふっとほくそ笑む。

「分かったよ」

 そう言って、怠惰の王は蓮司の手を握り返した。

 同じ姿形をした両者はそれからしばらくの間、見つめ合っていた。

 すると、昼休みの終わりを告げるチャイムが鳴った。

「蓮司、これから授業に出る?」

 明日撫が問いかける。

「そうだな。せっかく来たことだし、そうするか」

 蓮司が答える。

「じゃあ、俺も行こうっと」

 怠惰の王が言う。

「駄目た。お前は大人しく帰っていろ」

「えー、良いじゃんか。俺も一緒に授業受けてみたいし」

「馬鹿なこと言うな。周りがパニックを起こすだろうが」

「分かったよ、じゃあまた陰から本人様のことを見守っているから」

「それもやめろ」

 その時、ふいに明日撫がくすりと笑った。

「どうしたんだ?」

 蓮司が尋ねる。

「ううん。何だか、変な光景だなと思って。蓮司が二人いて、仲良くお喋りしているなんて」

「いや、断じて仲良くなどないから」

「そう?」

「とにかく、早く行くぞ」

 蓮司は歩き出す。大切な彼女と。

そして、どうしようもない自分自身を連れて。

ゆっくりと歩き出した。



(了)

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セルフキル 三葉 空 @mitsuba_sora

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