第13話「月森は気づいていたい。」
図書室の引き戸を開けた瞬間、ひんやりとした空気が肌にまとわりついた。
体育のあとの火照りが急に冷めたせいか、空気のせいか、それとも。
「よっ」
いつも通りの挨拶をして、カウンターに目を向ける。
「こんにちは、青空くん」
月森が顔を上げて、いつもの調子で返してくれた。
でも、なんとなく視線が一瞬だけ胸元を通過していったような気がした。
気のせいだろうと思いながら、カウンターの中に入って席につく。
月森の隣で作業用の記録ファイルを広げると、何かがじわじわ気になってくる。
視線。
というか、空気の端っこで揺れているような、目の向けられ方。
ちら、と横目で見ると、月森がこちらを見ていて、目が合った瞬間、すっと逸らされた。
気のせいではなかったらしい。
「……なんか、今日ずっと見られてる気がするんだけど」
冗談めかしてそう言うと、月森は一瞬だけ手を止めた。
それから、少しだけ言いにくそうな顔で、口を開く。
「ネクタイ……ずれてる」
「……え?」
自分の首元に手をやって、ようやく気づく。
結び目が少し曲がっていて、シャツの第一ボタンのラインからずれていた。
「あっ……体育のあと、急いでつけたからか……」
緩みも少し出ていた。完全に気づかなかった。
「ずっと気になってた?」
「うん。……言おうか迷ってた」
その言い方が、なんだか少しだけやさしかった。
月森が言葉を選びながら喋るときって、たぶん相当迷ってるときだ。
「直すから、もう見ないでね」
「うん。……でも、たぶん、また見ちゃうと思う」
俺は笑いながらネクタイを締め直す。
今度は少し丁寧に。しっかり鏡でチェックしてから来ればよかった。
「よし、どうだ」
「まっすぐ。……たぶん」
「“たぶん”かい」
そんなやりとりをしたあと、またふたりで静かに作業を始める。
返却カードを転記して、貸出記録に記入して、順番に仕分けしていく。
それだけの作業なのに、今日は妙に落ち着く。
⸻
気にしていないふりをしてたけど、俺は少し、嬉しかった。
別に、ネクタイのずれなんて、大したことじゃない。
言わずに済ませることだってできたはずだ。
でも月森は、見てた。
気づいて、迷って、伝えてくれた。
それが、俺にはなんだか、すごくあたたかく思えた。
⸻
作業が終わって、図書室を出たあと。
夕方の風が、ほんの少しだけやわらかい。
靴を履きながら、なんとなく話しかけてみた。
「今日、俺のネクタイずれてたの、すぐ気づいた?」
「うん。入ってきたときから」
「そうか……そういうの、気になるタイプ?」
「たぶん、そうかも」
並んで歩きながら、ぽつりぽつりと会話を続ける。
「でも普通、言わなくない? そういうの」
「言わない方がいいって思うときもある。でも、今日は……ずっと気になってたから」
「だから言った?」
「うん。……なんか、落ち着かなかった」
俺は思わず、ちょっとだけ笑った。
「変なとこ見てるよな、月森」
「そうかも。でも、ちゃんと見てるよ」
その言葉に、足が一瞬止まりかける。
月森は何事もなかったように、前を向いたまま歩いている。
だけど、俺の中にはその一言がしっかりと残っていた。
月森静は、気づいていたい。
何も言わなくても、何も変えなくても、それでもたぶん、ちゃんと気づいていたいんだ。
人の小さな違いとか、揺れとか、そういうものに。
それを伝えるときは、いつも迷うくせに。
でも、伝えようとしてくれる。
今日のネクタイは、たぶんそれだけの話だったけど。
でもきっと、あれは、月森なりの――優しさだったんだと思う。
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