第10話「月森は怒ってない。」

 図書室の扉を開けたのは、いつもより少し遅い時間だった。


「よっ……」


 自分でも声が小さくなったのがわかった。


 今日は放課後、担任にちょっとだけ呼び止められていた。廊下の掲示を手伝ってほしいとかそんな話で、断るほどでもなかったけど、いつもより15分くらいは遅れてしまった。


 図書室には、すでに月森の姿があった。


 俺の挨拶に気づいたらしく、彼女はそっと顔を上げた。


「こんにちは、青空くん」


 声は、いつも通り。

 でも、なんとなく目が合うまでに一瞬の間があったような気がする。


 

 カウンターの中に入ると、作業用のファイルがすでに広げられていた。

 どうやら、俺の分も用意してくれているらしい。


「ごめん、遅れた」


 言ってみたけど、月森はただ軽くうなずいた。


「ううん、大丈夫」


 返事はそれだけ。


 怒っているわけじゃない。でも、なんだかちょっと、距離を感じる。



 作業を始める。


 返却カードの記録を書き写して、日付と署名を入れて、書架のラベルを確認していく。

 いつもの仕事。いつもの時間。


 でも、今日はどうにも落ち着かない。


 たぶん俺が勝手にそう感じているだけで、月森は本当に何も気にしていないのかもしれない。


 けれど、なんとなく。


 今日の月森は、気のせいかもしれないけど、ほんの少しだけ――静かすぎる。


 普段の彼女がよく喋るタイプではないのはわかってる。

 それでも、今日はなんというか、「会話が必要ない」とでも思われているような静けさだった。


 


「……ほんとに、怒ってない?」


 思わず聞いてしまう。


 作業の手を止めた月森が、すこしだけこちらを見た。


「怒ってないよ」


 声も表情も、いつも通り。

 でも、その言い方が、どこかほんのりと優しくて、逆に胸がチクッとした。



 作業が終わって、ファイルを閉じる。


 そのまま二人で無言のまま図書室を出た。


 靴箱に向かって歩く途中、ふと月森がぽつりと呟いた。


「今日は、来ないのかなって、ちょっと思った」


 その言葉が、意外すぎて足が止まりかけた。


 月森が、自分からそんなことを言うなんて。


 


「……ごめん、遅れるつもりはなかったんだ。先生に捕まってただけで」


「わかってるよ」


 月森は小さく首を振った。


「怒ってたわけじゃない。ただ、珍しいから」


「珍しい?」


「青空くんが遅れるの」


 その言い方が、なんだか少しだけ――照れ隠しみたいだった。



 靴を履きながら、俺は静かに考える。


 無表情で、感情が読み取れなくて、いつも通りだと思っていた月森が、

 実はほんの少しだけ、気にしてくれていたんだなって。 


⸻ 


 昇降口の扉を押して外に出ると、夕方の空気が肌に柔らかく触れた。


 音もなく、風もなく。

 それでも、隣にいる気配はちゃんとあった。



 月森静は、怒ってない。


 そう言ってた。たぶん、ほんとにそうなんだと思う。

 でも、もしかしたらだけど。勘違いかもしれないけど。

 少しだけ寂しかったのかもしれない。


 だから俺に、そうじゃないふうに伝えた。



 言葉少なでも、無表情でも。

 それはたしかに、やさしさだった。

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