第8話「月森はなにも言わない。」
図書室の仕事は、今日もいつも通りにある。
カウンターで返却カードをチェックして、記録用紙に転記して、棚に戻す順に並べ替える。
このルーティンも、少しずつ慣れてきた。ルールが多いわりには、流れがはっきりしていて、やるべきことが明確だ。
そう――ペンさえあれば。
放課後、俺は図書室の扉を静かに開ける。
「よっ」
声をかけながらカウンターの奥を見ると、月森がいつものように記録ファイルを並べていた。
「こんにちは、青空くん」
変わらない調子で返ってくるその声は、相変わらず感情が読み取れない。
だけどもう、そこに戸惑うことはなくなってきた。
カウンターの内側に入って椅子に座ると、机の上にファイルが3冊分、積まれているのが見えた。
「……なんか、多くない?」
思わず口にすると、月森は一度だけうなずいた。
「今日、返却集中してた。三年生の資料まとめが一斉に戻ってきたみたい」
「あー……なるほど。そりゃ多いわけだ」
「普段の倍くらい。冊数だけなら」
淡々とした声。事実だけを伝えるような話し方。
でも、それが逆に心地いい。
「了解、じゃあ俺はいつもの担当分やるわ」
「お願いします」
会話はそれで終わって、月森はファイルを俺の方に滑らせてくれる。
俺はそれを受け取って、備品棚を開いた。
共用ペンが3本。どれでもいいかと手に取って――止まる。
キャップを外したペンは、ペン先が折れていた。
インクが乾いているのか、紙の上を滑らせても反応がない。
「まじか」とは思ったけど、声には出さず、静かに別のペンに持ち替える。
……が、そっちもインクがかすれていて、使いものにならなかった。
もう一本は明らかにインク切れで、まったく筆跡が残らない。
軽く絶望する。
備品って、だいたい“ある”前提で準備してる。
だからこそ、こうして一気に壊れてると、なんだか裏切られた気分になる。
「じゃあ自分のペン使えばいいじゃん」って話なんだけど、今日に限って、筆箱を家の机の上に置き忘れてしまっていた。
授業中も西園寺に「貸してやるぜ」と、いつもは借りる立場だからか、妙に上から言われながらもシャープペンを借りていた。
どうにかできないかと、かすれ気味のペンと格闘しながら悩んでいた、そのとき。
「……これ」
月森が、自分の筆箱から1本のペンを取り出し、何も言わずに俺の机の上に置いた。
なんかかわいいボールペン。でもしっかりしたキャップつきの、使いやすそうなやつ。
「えっ……あ、ありがと」
俺が慌てて礼を言うと、月森は「うん」とだけ返して、視線を元に戻した。
いつも通りの、変わらない調子。
何かを気にしたような様子もない。
でも、俺の中では、少しだけざわついていた。
困ってるって言ってない。頼んでもない。
ペンを探して困ってる素振りを、見られたかもしれないけど……それにしても、ほんの一瞬だったはずだ。
月森は、それを見逃さなかった。
なにも言わずに、必要なものを、必要なタイミングで、そっと差し出してくれた。
それは、もしかしたら――
「察して貸す」なんていう、そんな大げさなことじゃないのかもしれない。
たまたま。偶然。
でも、それでも。
その行動が、なんだか少しだけ、嬉しかった。
作業を終えたあと、ペンを返すとき、なんとかく俺は軽く拭いてから月森へ渡した。
「助かった、ほんとに」
「ううん。……そろそろ、共用のやつも替えた方がいいかも」
「……それ、今日だけで3本死んでた」
「じゃあ、備品補充って書いておくね」
月森は、変わらない表情で言う。
まるで、今日のことなんて何でもない、ただの日常のひとコマのように。
でも俺にとっては――
ちょっとだけ、心に残る時間だった。
帰り道、なんとなく自分の手を見る。
さっきまで握っていた月森のペンの感触が、まだ指先に残っている気がした。
月森静は、なにも言わない。「貸そうか?」とも、「困ってるの?」とも聞かない。
でも、必要なときに、必要なものを与えてくれる。
声じゃなくて、行動で。
表情じゃなくて、静けさで。
それって――
もしかして、けっこう、やさしいのかもしれない。
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