第7話「月森は立ち止まらない。」

 放課後のチャイムが鳴った後、教室でちょっとした言い合いになった。

 相手はクラスの男子。特別仲が悪いわけでもないが、もともと少し合わないタイプだった。


 席替えのプリントを巡って、伝言が行き違っていたらしい。


「いや、お前が昨日まとめてくれるって言ったんだろ?」


「言ったけど、そっちが書いたのに名前入ってなかったから……」


「だから確認してって言ったじゃん」


 ――正直、内容は本当に些細なことだった。


 しかし、少しずつ噛み合わないまま話が進んで、最後にはお互いに少しイラっとしてしまった。


「……もういいよ、俺がやるから」


 そう言い捨てて、俺は荷物を乱暴に鞄に押し込む。

 教室の空気が少しざらついたところで、西園寺がひと言。


「まあまあ、そんなカリカリすんなって。明日には忘れてるレベルの話だろ」


 西園寺の声で場が収まり、向こうも「悪かったな」と一応は謝ってくれた。


 でも、なんとなく気持ちの整理がつかないまま、俺は教室を出た。



 扉を開けると、カウンターの中に月森の姿が見えた。

 背筋を伸ばして、静かに本を整理している。


「よっ」


 いつもと変わらない調子で声をかける。

 それでも今日は、なんとなく喉にひっかかる感じがした。


「こんにちは、青空くん」


 短く返事が返ってくる。


 その声に特別な感情は感じられなかったが、だからこそ、少しだけ安心した。


 感情を揺さぶられた後に聞く、変わらない声は、意外と効く。


 俺も所定の位置に座り、作業を始める。

 返却カードのチェック。貸出番号の転記。ルールどおりの、変わらない仕事。


 でも、集中できない。


 手は動いているが、気持ちがついていかない。

 ぼんやりしたまま、ふと隣の月森を見る。

 静かだった。


 いつも通り、何もなかったように静かに仕事をしている。

 その静けさが、今日はなぜか――少しだけ、遠く感じた。


「さ……」


 つい、声が出た。


 話しかけるつもりだったのか、自分でもわからなかった。


「何?」


 月森が顔を上げる。目だけが、こちらを見ていた。


「月森ってさ、怒ったり焦ったりしないの?……何か、立ち止まったりしないの?」


 口に出してしまった後で、しまったと思った。

 でも、もう止まらなかった。


 さっきから、何かを抱えたままだったのは、自分でもわかっていた。


 月森は少しの間、黙っていた。

 視線がゆっくりと下りて、そして言葉が落ちてくる。


「……立ち止まっても、何も変わらないから。」


 たったそれだけ。

 だが、その言葉の中には、何かがあった。


 そのあと、作業は何事もなかったように続いた。


 だが、俺の中では何かが落ち着いていった。

 月森の声には、熱も色もなかったが、その“変わらなさ”が、今は少しだけありがたかった。


「ごめん、変なこと言ったな。少し、引きずってたんだ。」


 ぽつりとこぼすと、月森は一度、こちらを見た。


「そういう日も、あると思う。」


 それだけで、十分だった。

 受け流されたのではなく、きちんと受け止めてくれた。


 そんな気がしていた。


 帰り際、鞄を肩にかけながら、もう一度だけ月森を見た。


 やっぱり、表情は変わらない。

 今日も、静かで、淡々としている。

 けれど、不思議とその姿が、強く見えた。


 月森静は、立ち止まらない。誰かが声を荒げても、焦っても、崩れても。


 自分の速さで、変わらず進んでいく。


 無関心じゃない。ただ、静かに、強いだけ。



 それが、今はちょっと――

 ありがたかった。

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