第3話「月森は静かにやさしい。」

 今日は朝から、のどが痛かった。


 別に熱があるわけじゃない。ただ少し、乾いてひりつく感じ。声も枯れ気味で、咳が時々出る。季節の変わり目にありがちな、軽いやつ。だけど、地味につらいやつ。


 授業中にくしゃみを一発かましただけで、西園寺が「お前、それもう夏風邪だろ」とか言ってきた。


「いや、夏まだ来てねーし」


「だから先取りなんだよ。おしゃれだな」


「風邪がおしゃれだったら医者いらんわ」


 くだらないやりとりを交わしながらも、内心はちょっと不安だった。

 今日の放課後は――図書室の当番。月森と、二人きり。


 この声で? この咳で? 間がもたなかったらどうすんだ。


 でも、休むって選択肢はなかった。

 むしろ、こんなときこそ行かなきゃいけない気がした。理由は、自分でもよくわからないけど。



 放課後。重たい図書室のドアを開けたら、そこにはもう彼女がいた。


「よっ」


 声をかけたつもりが、ひっかかったようなガサガサ声になっていた。


「……風邪?」


 カウンターの向こうで、月森がこちらを見る。もちろん無表情。でも、少しだけ首をかしげて、俺の様子を見ていた。


「あー……まあ、ちょっとだけ」


 返す声も情けない。

 それでも月森は、特にツッコミもせず、静かに作業に戻った。


 なんだこの空気。いつもなら“無言が怖い”って感じるのに、今日は――


 いや、怖いというか、気まずい。沈黙って、調子がいいときでも間が持たないのに、今の俺みたいに体調悪いとさらにきつい。何か喋らなきゃと思えば思うほど、咳き込みそうになる。


「月森ってさ……」


 なんとか声を出そうとした瞬間、こみ上げてくるむせ。

 あわてて口を押さえる。咳は我慢すればするほど出るという真理。


 やべ。完全に滑った。空気が、空気が死ぬ。


 そのときだった。


「……はい」


 月森が、無言で差し出してきたのは――のど飴だった。


 小さな透明の包装に包まれた、オレンジ色のそれ。

 ごく自然に、それを俺の手の届くところに置いて、また何事もなかったように本の整理に戻っていく。


「え、あ、ありがと……」


 俺が声を出すと、月森はちらりとこっちを見た。


「在庫処理だから」


 そう言った口調も、表情も、相変わらず変わらない。


 ……でも、たぶん嘘だ。


 いや、絶対に嘘だ。


 わざわざ持ってきて、しかも今のタイミングで渡してくれるやつが、ただの在庫処分なわけないだろ。


 俺はその飴を口に入れて、静かに息を吐いた。


 ほんのり甘くて、すごく助かった。

 のどが、少し楽になった。



 それからしばらく、二人は無言で作業を続けていた。


 でも――なんだろう。

 前まで感じてた“気まずい”ってやつが、今日はなかった。


 咳き込むから喋れないってのもあるけど、それだけじゃない。


 月森の隣にいて、ただ静かに過ごすこの感じが――思ったより、悪くなかった。


 のど飴をくれたことだって、たいしたことじゃないのかもしれない。でも、俺の中ではすごく大きくて。


 月森は、笑わないし、無表情だ、

 優しそうにも、冷たそうにも見えない。


 でも、優しいんだと思う。


 口に出さなくても、目立った仕草がなくても。

 ちゃんと、人のこと見てるし、気にしてる。


 それって、たぶん――俺が思ってたより、ずっとすごいことなんじゃないか。



 作業が終わって、カバンを肩にかけたとき。

 図書室を出ようとした俺の背中に、ぽつりと声が届いた。


「お大事に」


 振り返ると、月森は本を閉じて、顔を上げずにそう言った。


 たった一言。

 でも、なぜだかその声だけ、少しだけやさしく聞こえた。


「……うん。ありがと」


 俺はそう言って、図書室のドアをそっと閉めた。



 帰り道。ポケットの中で、もうひとつもらったのど飴を指で転がす。


 月森静は笑わない。

 無表情で、何を考えてるのかも、よくわからない。


 でも――あの飴と「お大事に」って一言だけで、伝わってくることもある。


 あれって、きっと、やさしさだよな。


 なんか、ちょっとだけ。

 本当にちょっとだけ...かすかに月森のことが、気になってきた。

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