第2話「月森は笑わせちゃいけない。」


 次の図書室当番が近づくにつれ、俺の頭の中は“あのときのこと”でいっぱいだった。


 月森が笑った。いや、笑った気がする。

 いやいや、絶対に笑ってた。きっと。……いや、絶対だ。たぶん。


 ……でも、あれって、俺の話で? それとも、ただ本の表紙がかわいかったから?

 っていうか、そもそもあれは“笑った”にカウントしていいやつなのか? レベル0.1くらいの口角の動きだったぞ?


 ひとりでぐるぐる考えてたら、西園寺に「お前、最近ぼーっとしてるぞ」って肩を叩かれた。


「春だな、お前も」


「……全然意味がわからないぞ」


 図書委員で本に囲まれてるはずの俺は、ミステリー小説の主人公よろしく、ひとり謎を追い続けていた。


 



 そして訪れた、運命の(?)図書委員当番。


「よっ」


「こんにちは、青空くん」


 テンション差はいつも通り。返事をくれるのもいつも通り。

 でも、なんだろう。ちょっとだけ――期待してる自分がいる。


 今日の目標は、シンプルだ。


 月森を、笑わせる。


 ……いや、ちょっと語弊があるな。“笑顔を引き出す”っていうとポエミーすぎるし、“笑わせにいく”って言うと芸人みたいだし。


 要するに、「また、あの顔が見たい」ってことだ。


 俺がカウンターの内側に入って荷物を置くと、月森は淡々と作業を始めていた。いつも通り静かで、いつも通り綺麗で、でもやっぱり、無表情。


「なあ、月森ってさ。ギャグ漫画とか読む?」


「読まない」


 即答。秒で斬られた。


「お笑い芸人とか、好きなのいたりする?」


「いない」


 早い、そして刺さる。想定の範囲内。


「じゃあ、日常系とか? 四コマとか?」


「読まない」


「えー……あれ、なんかおもしろいのに」


「おもしろいと思わない」


 正直すぎて逆に気持ちいい。というか、完全に俺が滑ってる。

 でも、ここで折れたら今日の図書室はただの作業時間だ。


 俺はやや強引に会話を続ける。


「笑うことって、ある?」


「あるよ」


「えっ、あ、そうなんだ」


 意外だった。てっきり「笑わない」って自分でも思ってるのかと勝手に決めつけてた。

 それくらい、いつも無表情だから。


「人間だもん、あたりまえ」


「そりゃそうか。……じゃあさ、どういうときに笑うの?」


 月森は、ぴたりと手を止めて少しだけ考え込む。


 ――その姿さえ無表情なんだけど、なんかそれが逆に気になる。


 そして、ほんの数秒の沈黙のあと。月森は言った。


「……たまに、青空くんが変なこと言うから」


 その瞬間、俺の心臓は、冗談抜きで一拍止まった気がした。


 ……え?


 俺の、話で? 俺が、“変なこと”を言ったから?

 それって……それってつまり――俺がきっかけだったってこと?


「え、ちょっ、それって……俺が面白いってこと?」


「面白いとは言ってない」


「うわ、つれぇ!」


「でも……変なのは確か」


「やっぱディスられてんじゃん……!」


 たぶん、俺が騒いでる間も月森は無表情だったんだろうけど、なぜかほんのりと空気がやわらかくなった気がした。


 彼女の言葉がどこまで本気かはわからない。でも、確かに、はっきりと聞いた。


 笑った理由が、俺だったってだけで十分すぎる。


 その一言だけで、今日の図書室はもう、俺の中で大成功だった。



 帰り道。

 西陽が差し込む通学路を、俺はひとりで歩いていた。


 不思議と、今日は下を見ずに空を見ながら帰っている。なんとなく、そんな気分だった。


 月森が、笑った。

 その理由が――俺。


 どんなに些細なきっかけでも、月森の中で“俺の言葉”が何かを動かしたってことだ。


 でも、ふと考える。


 あの笑顔が「笑おうとして笑った」ものじゃなくて、「笑っちゃった」ものだったとしたら――

 それって、“笑わせようとしたら壊れてしまうもの”なんじゃないか。


 偶然だからこそ生まれた、奇跡の一瞬。

 もし俺が必死に笑わせようとしたら、逆に月森の笑顔は見られなくなるんじゃないか。


 そんな不安も、少しだけ頭をよぎった。


 でも、それでも。

 また見たいと思ってしまう。


 あの一瞬を、もう一度。

 今度は、ちゃんと目を逸らさずに、見届けられるように。


 月森静は笑わない。


 でも。

 俺が変なことを言えば、もしかしたら――ほんのちょっとだけ、笑ってくれる気がした。

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