17
次の日から、彼の心境に少しの変化があった。
今まで、つまらないと感じていた箱庭にも微かな光が戻った気がした。
息がしやすい。
休み時間になれば、無理に友人と呼べるか分からないクラスメイトとの会話をすることもなくなった。
一人、ひたすらに絵を描き、その合間に思い出した数学の公式を勉強用のノートに記入する。
さすがに色を塗るには、時間が足りないため、家に帰ってから塗ろうと考えている彼に更に不思議なことが起きた。
絵を描けるようになってから、彼の勉強ははかどるようになったのだ。
クラスメイトは彼の勉強方法だと思っているらしく、特に何も言うこともなく、気づけば彼は席に一人でいることが増えた。
しかし、それが焦りや不安になることはない。
「これでよかったんだ」
その呟きは誰にも聞かれることはなかったが、一人微笑み、彼はそっとノートに挟んでいた紙をそっと広げた。
最近、開くことも忘れるくらいに女性に振り回されていた。
彼にとってのお守りであり、大切な何を書いているのか分からない言葉。
五回ほど読み、そっと破れないように折りたたむと彼はノートに挟み直した。
言葉の意味は未だに分からない。
しかし、その言葉が女性に出会う前の彼を救っていたのだと認識したそのとき、ありがとうと呟いた。
家でも変化が現れた。
祖父の見舞いから帰ってきた母親が、はいっと彼に手渡した大学のパンフレット。
有名でも何か特出したものもない普通の大学。
パンフレットを受け取り、頭にはてなを浮かべる彼に母親は苦笑した。
「そこ、美術大学じゃないけど美術関係のサークルとか同好会とかが多いんだって。結構、賞をとってるみたいよ」
エプロンをつけながら母親は、気まずそうに目を伏せた。
「貴方には悪いことをしたわ」
「・・・なにが?」
自分の席に座りながら、彼はパンフレットをぱらりとめくった。
「ご近所に住んでた男の子のこと覚えてる?」
彼より六歳年上で昔、よく一緒に遊んでいた男の子。
「確か、サッカーが得意で推薦で高校行ってプロになるとか言ってたっけ?」
「そうよ。それで有名な高校に行くために家族総出で引っ越した子。けど、その怪我をしたらしくてね」
母親は冷蔵庫から食材を出しながら、ため息を吐いた。
「プロになる道を諦めて勉強を始めたけど、ずっと、サッカー一筋だったから勉強に追いつけなくて。大学もサッカー以外に興味がないから適当なところに入ったらしくて」
その後の人生は悲惨なものだったらしい。
家庭内で荒れ、素行も悪くなり、今は職にもつかずにどこかで遊び歩いているらしい。
「それを聞いた時にふと、思ったの。絵を職にしたいと言っている貴方の将来は本当にそれでいいのかって」
包丁で慣れた手つきでキャベツを千切りにし、魚を焼いていく。
「応援してあげたいけど、それはこの先の人生を潰してしまうんじゃないかって。それなら、趣味にとどめて少しでもいい大学に入って、生活を安定させながら絵を描き続けたらいいんじゃないかって」
決して否定をしたかった訳ではなかったと母親は言った。
「でも、その結果、貴方は笑わなくなるし絵も描かなくなるし、何より人生を捨てたような目をするようになった」
どうすればいいのか分からなくなった母親は、少しでも彼の興味がひけそうな大学はないかと特色BGMを始めたのだという。
「いつまでも子供扱いしていたせいか、読み聞かせたらいいかと安易に考えてたの。おじいちゃんに怒られちゃったわ。そんなに追い込んでどうするつもりだ!って」
「・・・確かに苦痛だったよ」
目の前に置かれていく夕食を見ながら、彼は呟いた。
「だけど、貴方が遊びから帰ってきて目を輝かせて笑顔まで作って帰ってくるんだもの。驚いたわ」
向かいに座り、母親は微笑んだ。
「きっと良いことがあったんだと思ったの。私じゃ的外れなことしかしないから。だから口をもう挟まないことにしたの」
私より貴方の方がしっかりしていたのにどうして忘れてしまっていたのかしらね
「いただきます」
彼は手を合わせて、夕食を口に運んだ。
久々に心の底から本当に美味しいと思えた味だった。
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