18年後 8/15
夕暮れのピエタ 後
__バチカン市国 サン・ピエトロ大聖堂
昼から夜へと変わる黄昏時。来訪者のいないカトリック教会の総本山にある大聖堂は静寂に包まれており、聖母マリアがイエスを抱くピエタ像の前で、優雅に茶を嗜み、用意された椅子に腰掛けている人影があった。
ステンドグラスの淡くも美しい色とりどりの光がその者の絹のような銀髪と、深く青い色のドレスに射し込む。
ピエタ__『慈悲』、『哀れみ』
十字架から下ろされた息子を抱き、悲嘆に暮れる母の姿を刻んだ有名な彫像を前に、じっと、ただ静寂の中で、その者の遠い記憶を呼び起こす。
「…最後の慈悲は、あの時の憎悪と共に消えたか…。誰にも知られず、見向きもせず、語り継がれもせぬ……実に、哀れである」
自らの左胸に触れて呟く。心臓の脈打つ鼓動を感じる。
「
誰かに言い聞かせるように独り言を呟く。その背後から、ヒールの足音が反響し、次第に近づくにつれ大きくなった。
呟いていた言葉を止め、左胸に置いた手をゆっくりと下ろす。
「失礼致します。サンジェルマンから連絡が入りました。全て滞りなく処置したとの事です」
背後から報告の声を聞き、椅子の肘掛けに肘をついて、眉を潜め毅然と答える。
「滞りなく?恥もなくよう言えたものよ。真王に類を及ぼすとは失態である。あれは如何なる事があろうと死なせてはならん。
「お怒りなきよう。真王は無事静養に入られ、
「必要あらぬ。捨て置くがよい」
この答えに、女は怪訝そうな表情を浮かべながら恐る恐る口を開く。
「しかし、我々の把握していない個体であると報告を受けております。
「くどいわ。何度も言わせるな」
強くカップを乗せた受け皿を隣のテーブルへ置き、不快感を露にした様子に、女はそれ以上追及せず、口を閉ざす。
「今調べてなんとなる?あぁなる前に気付きもしなんだ、鈍いそなたらの失態である」
「おっしゃる通りに御座います」
「まあよい。あの右腕の事も、天使の名を語る
「…?」
「そなたに知る必要はあらぬ。はよう仕事を片付けよ」
「御意」
報告を終えた女は、椅子の横に配置してあるサイドテーブルへ花瓶を乗せ、その場から立ち去っていく。
「…そなたらごときに、あの天使の相手は務まらぬ。我が力、この器の半分は継いでおったのだから」
去っていく女の気配を感じながら静かに呟いた。ティーポットとカップの乗ったテーブルに置かれた花瓶の存在に、女の気配が完全に聖堂から離れたのを感じたその者は立ち上がった。
「実に懐かしい事。18年の時が経ったか」
花瓶には、珍しい組み合わせの花が生けられている。白いスプレーマムとローズマリー。
仏花としての供え花でもあるスプレーマムの花に、その者の指が触れた。
ローズマリーは、「追憶」、「変わらぬ愛」、「貴方は私を蘇らせる」。白いスプレーマムは「真実」と「高潔」、「貴方を愛します」
それらの花言葉が意味するもの。
深く長い睫毛の下では、その花を悲しげに見つめる赤い瞳。自らが所望して用意させた花に、愛しくも届かず、諦めた存在を投影させている。
「桔梗の花のような、人の子であったな。凛と美しく一輪に咲くが、何処か物悲しい。だが、あの歳から強い眼をしていた。我が器の、片割れの者」
花から指先を離した時、触れていた先から、彩りが無くなり、腐食し枯れていく花。みるみる命を吸い取られるように、枯れて萎びる。
「やはり侮れぬ。あの時も、余に支配されていながら逆らい、欺いておった。今、この時も…面白いことよ。汝が言っていた通り、今や魂も体も我が物となった…。それでもなお余は、あの時の人の子を始末する気が起きぬ」
枯れていく花から芽を離し、再びピエタ像の前へと進み、死へ向かうイエスと悲しむマリアの像へ向き合う。
その者は、白い銀髪を結った髪を揺らし、タレ目の赤い瞳に人ならざる存在と憂いを帯び、一人呟く。
「汝の憎しみも、余の憂いも、尽きておらぬ。来たる審判の時まで、抗い続けて見せるがよい。…
夕闇の中に閉ざされた赤い瞳は、一人立ち去っていく背中を幻想の中で視る。あの日あの時、出逢い別れた丘から、成長したあの少年の後ろ姿が立ち去っていくのを。君は全て見た、あの日の真実を。その呪縛から完全に解き放たれたのだ。
だが、まだ、眠れぬ。私は、眠れない。
もうこの世に、誰の罪も背負い、許す者は現れぬ。マリアの涙も枯れ、イエスの血は尽きた。新たな聖母が、今の世界を零へ導くだろう。
ただ全て等しく、終わりを迎える。
我が心臓の、名の元に。
夕暮れのピエタ 作者不肖 @humei-9g30
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