永劫回帰
感情は巡る。感性は張り巡らされている。だがその電波塔は、虚無の上に立っている。…
何もかもを受け入れる器は、がらんどうでなければならない。燃やすにも、灰を落とすにも、泥を溜めるにも、月光を眺めるにも。
私という器の根源は、虚無だ。
そこには何もない。存在は、ない。ただあるのは、世界を映す透明、それだけだ。私はこの器を、後生大事に抱えている。受け入れ、吐き出し、空になり、また受け入れる。その永劫回帰は、止むことを知らない。
煙草の煙が黒くなった肺を埋める。息を吐けば、すぐにそれは消える。宙に舞い、換気扇に吸い込まれて、世界に霧散する。虚無は決して無駄ではない。だが、虚無は、耐え難い。器が空になるたびに、私はすり減っていく。摩耗し、やがて本物の透明になる。世界はもはや映されず、そこには世界が残る。
巡る感情の重さは、その消失の大きさに比例する。私たちは感情を抱え続けることのできる強さを持たない。人間は、己の重さにすら耐え切ることはできない。故に、人は自らを宙に投げる。…投機と言えば聞こえはいい。だが実際のところ、そこに勝算などなくとも、人は自らを虚空に投げ込む。重さに耐えられない、ただその事実に押しつぶされて。
眠ることは、虚無を埋めるのに都合がいい。夢は虚無を与えない。眠りは、虚無を忘却させる。ただ明瞭な意識のみが、己の虚無を知る。それは人の悲しみであり、同時に荘厳さでもある。
室内を通り過ぎる梅雨の夜風は冷たい。しかしその湿度は、どこか居心地の悪さを湛えている。ねばつくようなその空気に、脳が熱を持つ。肩と首の血流が滞り、脳は鬱血する。呆けるように、思考は靄に包まれる。闇ではない。闇は直視しなければ、見ることができない。虚無のうちにあるのは、白い、煙草の煙のような靄だ。そこに焦点はない。フォーカスの効かない瞳というレンズは、ただ曇るに過ぎない。何物も写さないそれは、ビー玉に代わりない。美しさという点で、ビー玉にすら劣る、と言わなければならないが。
絶望とは、虚無とは大半にある感情である。絶望とは、飽和だ。故に、虚無は感性を持たない。絶望は、完成を待つ。空の器は、ただ空であるに過ぎない。それ以上の意味も、それ以下の意味もない。そこには一種の冷酷さがある。不条理を抱える、という冷酷さが。希望も絶望も、抱えることは容易だ。しかしそれは、世界を曇らせる。網膜に張り付き、我々の視界を妨げる。希望や絶望を抱えて世界を見れば、そこにあるのはただの世界ではない。作り替えられた世界だ。私はそれを望まない。
私が望むのは、あるがままの世界だ。理不尽で、不条理で、何もなく、何もかもがある。その残酷な、優しい世界そのものだ。私はただ、そこに透明な世界を見る。それそのものを見る。私の感性はそのためだけに存在する。その意味では、私の感性は受信機ではない。鏡だ。そして鏡も…根源的に虚無であることを説明する必要はないだろう。その輝く鏡面がいかに美しく、何ものかを映し出そうと、鏡それ自体には虚無が纏わりついている。
それは、存在そのものの虚無だ。
私が持ち続け、尊み、そしてやがて殺される、虚無だ。
あらゆる感性と感情、人間の全ては、やがてら虚無に回帰する。私は輪廻転生やら既存の宗教を語っているわけではない。私の語っているのは、現実という誰もが属する宗教の話だ。私はあらゆるものを凝視する、その細部まで。すると必ずその奥には、虚無が顔を覗かせる。
存在を肯定するということは、すなわち虚無を肯定することに他ならない。
逆説だと思わないでくれたまえ。私は、ただ正直に語っている。私の持つものは、ただ素直さと感性の鋭さ、それのみだ。私の行使できる力はそれ以外に何もない。故に、私それそのものに意味はない。価値もない。その価値は、あくまで後天的に現れる。存在し続けることら虚無を凝視し続けること…そこに初めて産まれるのだ。
私は確かに生きている。私は赤子として生まれた。
同時に私は、原罪を背負ったなどとは言わない。ただ私が背負ったのは、虚無だ。永劫回帰する、その空の器だ。私の愛情や視線は、常にその空の器そのものに向けられている。
表象は大した意味を持たない。重要なのは、それを湛えた器の形、色、厚さ、透明さ…それらだ。それ以外など、どうでもいい。私はただそれを凝視する。
理由などない。私は、生まれてしまったからだ。
生存はあらゆる嵐を運ぶ。世界は轟々と音を立てながら周り、時計はカチカチと針を進め続ける。そこには、虚無を忘却させる確かな力がある。あらゆる力の運動の前に、焦点は奪われる。その派手な踊りに、魅了される。だがその奥にある空の器は、いつでも変わらずにそこにある。そこにしか、価値はないというのに、私たちはそれを見ることを忘れる。
虚無に向き合うことは、死に向かうことよりも恐怖である。死に向かうこと、そこには希望と絶望がある。だが、虚無それはない。存在の空虚に耐えることは、人間の最も苦手とするところだ。
とある沈黙…手の空いた時間…それを思い返したまえ。大抵何かをするだろう。または、何もしないという選択をとるだろう。虚無の凝視は、その中間に位置する。最も崇高で、最も評価されない、その行いを私は称賛する。なぜなら、それは人間にとって、最も苦痛な闘争であるからだ。
夜風が頭痛を掬っていく。首と指が、血流の悪さを訴えている。視神経が血管に圧迫され、痛みを発している。夜の匂いは、何も私に伝えない。
枯れていく、湛えた水を眺めながら、私は器を転がす。
手持ち無沙汰に、虚無という、その器を。…
嫌悪 鹽夜亮 @yuu1201
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