■第2章 - 母として 女として
図書館で借りた本をめくる日々が始まった。
「お金の教養」「40代からの資産形成」「主婦でもできる投資入門」
どの表紙にも、かつての自分が遠ざけてきた言葉が並ぶ。
ページをめくる指先に、かすかな震え。
書かれているのは、家計管理、節約、副業、そして投資。
まるで別世界の言葉の羅列に、初めはただ圧倒されるばかりだった。
最初はただ、「知らないままでいるのが悔しい」という気持ちだった。
西園寺のような人と同じ時間を生きてきたはずなのに、自分は何ひとつ知らず、持たず、学んでもこなかった。
ただ家事と育児に追われ、夫に任せきりにしてきたお金のこと、将来のこと、自分自身の価値のこと。
美紀は、それらをすべて“誰かにゆだねて”生きてきた。
けれど、本を読み進めるうちに、美紀は、自分の内にあった渇きのようなものに気づき始めていた。
知らないことを知るのは、怖い…でも、面白い。
**
夜、再び「CLUB月下美人」
ネオンが照らす鏡の前で、綾音の顔を作る。
微笑む練習も、グラスの持ち方も、まだぎこちない。
でも初日に比べれば、足元は少しだけしっかりしていた。
その日西園寺がふらりと再び現れたのは、まるで物語の続きを書くかのようだった。
何も言わずにカウンターの定位置に座り、ウイスキーを注文する姿は、やはり他の客とはどこか違って見えた。
「京子さん、私…西園寺様につかせていただけませんか」
思わず出た言葉に、自分でも驚いた。
京子ママは小さく微笑んで、うなずいた。
「いいわよ。綾音ちゃん、お願いね」
緊張を抑えながら席につくと、西園寺は相変わらず穏やかな目をしていた。
「また、来てくださったんですね」
「うん。なんだかんだで、週に一度は顔を出してる気がする」
そう言って、西園寺は馴染んだ手つきでグラスを持ち上げた。
沈黙がしばらく流れた後、綾音は思いきって口を開いた。
「このあいだ、お金のことを“知らないままじゃもったいない”っておっしゃってましたよね」
「うん、言ったかもしれないね」
「……あれから、本を読み始めました。まだ全然わからないことばかりだけど」
「そうなんだ。それは、ちょっと嬉しいな」
西園寺は、今は専業のトレーダーとして生計を立てているという。
朝はNY市場の復習から始まり、昼はデイトレード、合間にオンラインで投資セミナーも開いているらしい。
「専業トレーダーって、いわば“自分の時間を生きる人”です」
そう語る彼の目は、どこか少年のようだった。
西園寺は、スマートフォンにチャートアプリを映しながら、ローソク足の読み方や、インデックス投資の基本を説明してくれた。
綾音はメモを取りながら、うなずいたり首をかしげたり。
「すごいですね……でも、私みたいな素人がいきなり株なんて」
「最初は誰でも素人です。始めるのに“才能”はいりません。必要なのは、興味と少しの時間だけ」
その言葉に、綾音は救われるような気がした。
西園寺の目が、ふっと和らいだ。
「もしよかったら、今度株クラの仲間とオフ会するんで、参加してみます?」
「株クラ?…なんですか、それ?」
「あ…SNS上で投資やってる人たちのコミュニティみたいなものです」
色んな投資スタイルの人がいるから、綾音さんにとっても刺激になると思いますよ」
「本当にいいんですか?」
「もちろん。むしろ、そうやって“知りたい”って思える人って、案外少ないんですよ」
その言葉に、綾音は胸の奥がすっとあたたかくなるのを感じた。
何も持っていないと思っていた自分の中に、まだ“学びたい”という気持ちが残っていた。それが、少しだけ誇らしかった。
**
日中、美紀は「母」としての顔に戻る。
娘の結衣は受験を控え、ピリピリしている。
「最近、帰り遅くない? なにしてるの?」
「ちょっとパートが忙しくて……」
笑ってごまかす。
背中に罪悪感が走る…けど今は、まだ言えない。
夜は「綾音」として、華やかなネオンの中で微笑む。
そして昼は、隙間時間に図書館やカフェで本を読む。
経済、投資、副業、節約術、確定申告──知らないことばかり。
でも、ページをめくる手は止まらない。
「母として、きちんとしなきゃ」
「でも、女として、まだ終わりたくない」
そう思うようになったのは、いつからだろう。
亡き夫のことを思い出す夜もある。
けどあの人はもういない。
残されたこの人生をどう使うかは、自分で決めるしかないのだ。
今こそ私は、もう一度問い直したいと思った。
「私は、どう生きたいのか」
母であることも、女であることも、どちらも自分。
それを恥じず、否定せず、もう一度“始める”ことはできるのだろうか。
ある日の帰り道、美紀はスマホのメモアプリにこう書いた。
――何者でもない私に、価値をくれたのは、「学び」
答えはまだ見つからない。
けれど、迷いながらでも歩ける。
夜のネオンに背を向け、足元を見つめながら、“美紀”は静かに息を吐いた。
空には月が浮かんでいた。
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