■第1章 - 夜の蝶 初舞台

 着慣れないドレスに袖を通した瞬間、朝倉美紀は自分が誰か別人になったような気がした。

胸元の空いたワインレッドのワンピースが、鏡の中の自分を少しだけ艶やかに映す。

それでも、心はざわついたままだ。

膝の上で指先をもてあそぶ癖が、緊張を物語っていた。


 「緊張しなくて大丈夫よ、『綾音』さん。あなた、絶対人気出るわ」


 そう声をかけてくれたのは、店のママ・京子だった。

派手なメイクと巻き髪に最初は面食らったが、その瞳の奥にある母性のようなあたたかさに、綾音は救われていた。


 初めての接客は思っていた以上に難しかった。

氷を入れたグラスを差し出す手が震え、話しかけようとしても言葉がうまく出てこない。

隣に座る男性客の言葉も、どこか上滑りしていくようだった。


「でもその年でこの美貌なら、すぐに売れると思うよ」


 そんな言葉に照れ笑いを返しながらも、綾音の心は揺れていた。

こんな場所で、自分がちゃんとやっていけるのか。

お酒の作法、会話のテンポ、距離感…すべてが手探りだった。


 ──向いてないかもしれない。


 そう思い始めた頃、店の扉が開き、ひとりの若い男性が入ってきた。

黒のジャケットに白シャツ、整った顔立ちに落ち着いた物腰。

空気が一瞬、変わる。


「颯太さん、お久しぶり~」

ママが軽く手を振る。


 どうやら常連のようだった。

彼は静かに頷き、カウンター近くの席に腰を下ろした。

するとママが綾音に目配せをする。


「綾音ちゃん、お願い」


 綾音は戸惑いながら彼の隣に座ると、名刺がすっと差し出された。


《西園寺 颯太 投資コンサルタント/資産運用セミナー講師》


「無理に話さなくていいですよ。僕、静かに飲みたいだけなんで」


その言葉に少し安心したが、逆に沈黙が気まずい。

何か話さなくては、と綾音は焦った。


「その……投資の仕事なんですか?」


「そうですね。株とか先物とか、資産運用がメインです。いまは専業トレーダーですけど、月に一度くらい、セミナーもやってます」


「セミナーって、どんな人が来るんですか?」


「会社員、主婦、学生、いろいろですね。“FIRE”を目指してる人も多いですし」


「ファイア……?」


聞き慣れない言葉だった。

火事? と思ったが、もちろん違うと気づき、彼の説明を待った。


「“Financial Independence, Retire Early”。つまり経済的に自立して、早くリタイアしようって考え方です。僕は30で達成しました」


綾音には、まるで別世界の話だった。

そんな生き方が本当にあるのかと、驚きと戸惑いが入り混じる。


「すごいですね……私、何も知らなくて。株とか、資産運用とか、まったく……」


ぽつりと漏らした言葉が、自分でも驚くほど虚ろに響いた。

同じ時代を生きてきたはずなのに、自分は何ひとつ知らない。

ただ年齢を重ねてきただけ…そんな現実に、胸が詰まる。


「大丈夫ですよ。知るのに遅すぎることなんてありませんから」


西園寺は微笑んで言ったが、そのやさしさが逆に胸に刺さった。

何も持っていない自分が、今ここにいる。

それだけが浮き彫りになっていた。


 その夜、どうにか笑顔を崩さずに店を後にした。

コートでドレスを隠しながら夜道を歩く。

ヒールの音だけが、アスファルトに乾いた音を立てた。


「結局、私は何も持ってないんだな……」


 家に帰り、メイクを落とした鏡の前で、自分の顔と向き合う。

不安と無力感だけが濃く残る。

華やかな衣装も、作り笑いも、全て仮面のようだった。


 ベッドに横になりながら、ふと娘の寝顔を見た。

彼女には、きちんと未来を渡してやりたい。

でも今のままじゃ何もできない──そう思った。


 翌朝、綾音はふらりと図書館に足を運んでいた。

手に取ったのは「40代から始めるお金の勉強」「女性のための資産運用入門」「大人の教養」

見慣れない言葉ばかりのタイトルだったが、不思議と惹かれた。


 ページをめくるたび、胸がざわめいた。

けれどその奥で、小さな灯が、静かにともっていく。


 迷いや不安は消えない。けれど、それでも──

何かを始めるには、遅すぎるかもしれない。

でも、いつだって、今日が人生でいちばん若い日なのだから。


 綾音はそっと、本を開いた。

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