■第3章 - 夜がくれた 始まり
数日後の夜、綾音は西園寺に誘われるまま、都内のとあるバーの前に立っていた。
外から見れば、何の変哲もない小さなバー。
だがその中では、SNSで「株クラ」と呼ばれる人々が集まるオフ会が開かれていた。
「大丈夫、緊張しなくていいですよ。誰もスーツなんて着てないから」
笑いながら先導する西園寺の後を追って店内に入ると、想像を超える熱気に圧倒された。
貸し切りの空間には、30人を超える男女がひしめいていた。
カジュアルな服装に身を包み、手にはドリンクを持ちながら、あちこちで話の輪が広がっている。
話されている内容は、どれも綾音にとっては未知の言葉ばかりだった。
「今期の配当利回りがさ、結構アツいんだよね」
「うちは米国ETFでFIREした口だけど、為替リスクは常に見てる」
「最近はREITもいい感じよ。不動産強いから」
FIRE達成者、デイトレーダー、高配当株投資家、不動産投資家──
まるで異国に迷い込んだような気分だった。
少し離れたところでは、SNS上で“株クラのインフルエンサー”と呼ばれる人が、まるで芸能人のように囲まれていた。
専門用語が飛び交うその輪に加わる勇気は、まだ綾音にはなかった。
そんな空気を察してか、西園寺がそっと声をかけてきた。
「無理に話さなくていいですよ。とりあえず、雰囲気を楽しむだけでも十分ですから」
彼に勧められるまま、シンプルなジンバックを手にした。
グラス越しに見る景色が、少しだけ柔らかく感じられた。
やがてバーの中央に設けられた小さなスペースで、ミニセミナーが始まった。
登壇したのは、SNSフォロワー10万人超という若きトレーダー。
「これからの日本株の見通しと分散投資の基本」というテーマで、丁寧に、そして情熱的に話していた。
メモを取りながら聞き入るうちに、綾音の心は次第にほぐれていった。
知らない言葉も多かったけれど、「難しそう」と感じるより先に、「知りたい」という気持ちが芽生えていた。
セミナーが終わると、再び歓談の時間が始まる。
西園寺に紹介され、数人の投資家と会話を交わした。
「へえ、夜はキャバクラで働いてるの? それで勉強もしてるなんて、すごいな」
「最初はみんなゼロからだよ。僕だって元はコンビニ店員だったし」
綾音は驚いた。
“投資”という言葉には、自分とは無縁の遠い世界の人たち──そんな偏見が、少しずつ崩れていくのを感じていた。
そのとき、西園寺がふと思い出したように言った。
「そうだ、綾音さんにぜひ紹介したい方がいます」
案内された先には、穏やかな雰囲気をまとった一人の男性がいた。
「こちら、Shinjoさん。高配当株投資のスタイルでFIREを達成された方なんです」
西園寺の紹介に、ひときわ落ち着いた雰囲気の男性が微笑みながら軽く会釈した。
「はじめまして、Shinjoと申します」
年の頃は40代後半…私と同世代といったところか。
柔らかな物腰で、まるで学校の先生のような穏やかさがあった。
「綾音です。投資はまだ全然分からなくて……今日のお話を聞いて、興味は出てきたんですが」
「そうでしたか。最初はみんなそうですよ。私も最初は株価ばかり見て一喜一憂していました」
Shinjoさんはグラスを軽く揺らしながら、ゆったりと話を続ける。
「実のところ、私はトレードがあまり得意ではなくて。買えば下がり、売れば上がる、そんなことの繰り返しでしてね。あるとき気づいたんです。“自分には売買を繰り返すスタイルは向いていないな”と」
「それで、今はどうされているんですか?」
「ええ、高配当株を中心に、長期保有に徹しています。とにかく“売らない”んです。配当金を受け取りながら、時間を味方にする。それが私にとっていちばん合っているやり方でした」
綾音は驚いたように眉を上げた。
「株って、“安く買って高く売る”ものだと思ってました」
「もちろんそれが基本です。けど、必ずしも売らなくても“リターン”は得られます。たとえば配当、企業が利益の一部を株主に還元する、それが配当金ですね。私は、その配当を主な収入源にしているんです」
「……それって、安定するものなんですか?」
「銘柄選びが重要ですが、安定した企業、特に増配を続けているような企業に投資すれば、長期的には安定して受け取ることができます。私は、いま年間でおよそ800万円ほどの配当をいただいています」
「800万……! それだけで、生活できちゃいますね」
「はい。ですがもちろん、最初からそうだったわけではありません。時間をかけてコツコツと積み上げてきた結果です。ポイントは、“増配”です。つまり、企業が毎年少しずつでも配当を増やしてくれること。それが続けば、実質的な利回りは年々高くなっていきます」
Shinjoさんはスマホを取り出し、保有銘柄の一覧を見せてくれた。
そこには、商社や通信、エネルギー企業などの名前が並び、配当利回りや過去の増配履歴が丁寧に記録されていた。
「たとえば、最初は配当利回り4%だった銘柄でも、増配が10年続けば、当初の購入価格に対して利回りが8%を超えることも珍しくないんですよ。これが“長く持つ”強みですね」
「すごい……。地味に思えるけど、すごく着実な方法ですね」
「そうなんです。“動かないことで得られる成果”というのも、投資の一つの側面なんですよ」
**
「自分のお金を自分で育てるって、なんだか面白いですね」
ふとこぼした言葉に、年配の女性投資家がやさしくうなずいた。
「そうなのよ。それってつまり、自分の人生を自分で育てるってことでもあるのよ」
その言葉が、胸の奥深くに残った。
誰かに頼らず、自分の足で立つこと。
それはまだ不安も多いけれど、少なくとも今の綾音には、その一歩を踏み出した実感があった。
熱気の中にも、どこか安心感のあるこの空間。
耳慣れない言葉ばかりだったはずなのに、不思議と胸がざわつくことはなかった。
むしろ、心の奥に小さな火が灯ったような、そんな感覚があった。
――わたしにも、できるかもしれない。
もちろん、すぐに成果が出るわけじゃない。
知らないことだらけだし、不安も尽きない。
でも、私にも自分に合ったやり方を見つけられたら。
そう思うだけで、ほんの少し、未来が違って見えた。
「……がんばってみようかな、って思います」
綾音がぽつりとつぶやいた言葉に、すぐ隣でグラスを傾けていた西園寺が、目を細めて笑った。
「それがいちばん大事な一歩です。やってみようと思える気持ち。それがあれば、あとは少しずつ積み重ねるだけですから」
綾音はうなずいた。
これまで「学ぶ」ことを、どこか遠いもののように感じていた。
でも今は、それが“生きるための道具”になるかもしれないと思えた。
ふと視線を感じて振り返ると、西園寺がそっと目線を外した。
その横顔は、いつもより少し穏やかで、どこか誇らしげにも見えた。
――ありがとう。
言葉にはしなかったけれど、その感謝はグラスの中の氷が優しく鳴る音に乗って、静かに夜の空気へと溶けていった。
月下美人の花が咲くには、夜という時間が必要なのだ。
自分も、ようやく夜の中に立っている。
そう思えたことが、今夜いちばんの収穫だった。
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