月下美人は夜に咲く
リナ・タカハシ
■序章 - 喪失と決意
春の風が肌寒く感じられる午後、朝倉美紀は夫の遺影に向かって、ため息をひとつ落とした。
「あなたがいなくなって、もうすぐ一年になるのね」
仏壇に供えた花は、昨日スーパーで半額になっていたカーネーション。
香りも色も控えめで、かつての生活が少しずつ色褪せていくような気がした。
夫が亡くなったのは突然の心筋梗塞だった。
まだ五十を迎えたばかりだったのに。
娘の結衣はその夜、眠れぬまま何度も枕を濡らした。
美紀も同じだったが、泣いている暇などなかった。
葬儀、保険、相続手続き、そしてこれからの生活。
次から次へと現実が押し寄せてきた。
しばらくして、美紀は近所のスーパーでレジ打ちのパートを始めた。
時給980円、手取りにすれば月に12万円少々。
夫が残したわずかな貯えを切り崩しながら、結衣の学費と生活費をなんとかやりくりしてきた。
だが、その貯えも――ついに底をつきそうだった。
(もっと早く、ちゃんと向き合っておくべきだったのかもしれない)
保険や貯金、投資なんて、どこか他人事のように感じていた。
夫が「家のことは任せておけ」と言ってくれていたから、安心しきっていたのだ。
けれど現実は、そんなに優しくなかった。
ポストに届く請求書と、通帳の残高を見比べるたび、胃がきゅっと痛むようになったのは最近のことだ。
その日、美紀は久しぶりに旧友の沙耶香と会った。
近所のカフェでアイスコーヒーを前に、美紀がため息をついたとき、沙耶香がふと切り出した。
「ねえ、美紀。『月下美人』って知ってる?」
「え?」
「熟女キャバ。ちょっとした話題なのよ。私、こないだ体入してみたんだけど、意外と悪くなかったの」
「冗談でしょ?」
「冗談だったらいいけど、私もあんたと同じようなもんだったのよ。子どもにお金かかるし、パート代じゃ全然足りなくてね。だけど夜の仕事って、偏見はあるけど……稼げるのは事実」
「でも、私なんて……もう47よ?」
「だからなの。“若い子”じゃなくて“大人の女”を求めるお客さんがいるのよ。ほら、美紀って昔から綺麗だったし、胸も大きいし」
「お世辞、やめてよ」
笑いながらも、美紀の心はざわついていた。
**
その夜、美紀は一人、眠れずにいた。
天井のシミをぼんやりと眺めながら、沙耶香の言葉が頭の中で何度も反響する。
――稼げるのは事実。
――“大人の女”を求めるお客さんがいるのよ。
(私なんかが……夜のお店なんて)
羞恥と不安が胸に渦を巻く。
しかし、もう背に腹は代えられない。
娘の学費、食費、生活費、すべてがのしかかってくる。
翌朝、朝食の食卓に並んだのは、昨夜の残りの味噌汁と冷やご飯、卵焼き。
結衣はスマホをいじりながら黙って箸を進める。
「お母さん、私バイトでもしようかな。学費、足りないなら」
その言葉に美紀は手を止めた。
「いいのよ、そんなことしなくて」
「でもさ、ママだって疲れてるでしょ? 最近、目の下のクマひどいよ」
言葉の裏にある優しさに胸が締めつけられる。
母として、情けなかった。
自分がもっとしっかりしていれば、娘にこんな気を使わせなくて済んだのに。
その日の午後、美紀は意を決して「CLUB月下美人」に電話をかけた。
「あの、体験入店のことで伺いたいのですが…」
緊張で手のひらに汗がにじむ。
電話の向こうからは、落ち着いた女性の声が返ってきた。
「はい、ありがとうございます。京子と申します。年齢は気にしなくて大丈夫ですよ。よろしければ、今日の夜、お店に一度いらっしゃいませんか?」
「ええ、……よろしくお願いします」
受話器を置いたあと、美紀はしばらく動けなかった。何か大きな一歩を踏み出してしまった気がして、胸がどきどきしていた。
その夜、娘には「友達とご飯」とだけ伝え、駅近くの雑居ビルにある店へ向かった。
エレベーターの前に立つと、心臓の音がやけに大きく響く。
これまで入ったことのない世界。
恐怖と好奇心が綯い交ぜになった。
「いらっしゃい。……あなたが朝倉さんね?」
店内で出迎えてくれたのは、上品な和装の女性――京子ママだった。
笑顔には威圧感がなく、どこか母性を感じさせる雰囲気だった。
「は、はい。今日、体験で…」
「緊張してるのね。大丈夫。最初はみんなそうよ。でも、あなたならきっと大丈夫。綺麗な方だもの」
そう言って、京子ママはそっと手を添えてくれた。その温もりに、ほんの少し、緊張が和らいだ。
ドレスに着替え、簡単なメイクを施され、鏡に映った自分を見て――美紀は思わず目を見開いた。
(……これが、私?)
レジの制服とはまるで違う。
光沢のあるワンピースに包まれた姿は、年齢を感じさせない華やかさがあった。
心のどこかで、「まだこんな自分がいたんだ」と驚いていた。
「さあ、今日は無理せず、雰囲気だけでも掴んでくれたらいいからね」
京子ママの言葉にうなずき、美紀はホールへと歩を進めた。
緩やかな照明、シャンデリアの灯り、低く流れるジャズ。
非日常がそこに広がっていた。
――“大人の女”を求める世界。
初めての接客はぎこちなかった。
話す内容も、タイミングも、すべてが手探りだった。
けれど、ある中年客がふと漏らした。
「いやぁ、奥さん上品で落ち着くよ。こんな人がいてくれると癒されるなあ」
その言葉に、思わず微笑んだ。
(私でも、誰かの役に立てる……?)
その夜、店を出たときの美紀の胸には、ほんの少しだけ光が差し込んでいた。
それが希望なのかは、まだ分からないけれど。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます