第1話 『雨音に包まれたアパートの一室で、それでも彼は小説を書き続けていた』

天井が抜けそうな音を立てて、雨が降っていた。


 建築から三十年は経っていると思しき安アパートの二階。

 薄い天井板は、雨粒のリズムをそのまま部屋に響かせていた。

 ドラムのスネアのように震える雨音に包まれながら、男は黙々とキーボードを叩いていた。


 朝倉一真――四十二歳、無職。

 彼の朝は、いつも午後に始まる。

 前夜までの夜勤明けの疲労がまだ体内に残り、曇った空が朝と昼の境界を曖昧にしていた。


 部屋の中には、生活感と執着と諦念が同居していた。

 積み上げられたラノベの山。埃をかぶったアクリルスタンド。コンビニ弁当の空箱。

 壁には、擦れたスケジュールボードに「投稿」「更新」「読返し」の文字が繰り返されている。


 そして机の上には、擦り切れたノートPCが一台。

 その画面には、Web小説投稿サイトの管理画面が開かれていた。


 『英雄の遺稿録(グローリー・エピタフ)』 第3799話 草稿保存中


 カーソルが点滅し続けている。

 一真はフード付きのトレーナーをかぶったまま、眉間に皺を寄せ、無言で考えていた。


「……ここで、やっぱ“精霊姫”が出てくるのは、ご都合っぽいよな。

 でも“runa”さん、前に“姫が救ってくれる展開”だけハート押してたな……」


 独り言のように呟く声。

 それは、彼の中の編集者でも読者でもない、“たったひとつの相手”に向けた想像の会話だった。


 彼の作品には、感想はなかった。

 ブックマーク数も、評価ポイントも、0か1のどちらかだった。

 だが、“runa0213”というユーザー名だけは、三年以上にわたり、更新のたびに「いいね」を押してくれていた。


 それは誤操作なのか、botなのか、偶然なのか――。

 彼にはわからなかった。確認しようもなかった。

 けれど、その「たったひとつの応答」だけが、彼の人生を今日まで繋ぎ止めていた。


 実家は十年前に処分した。

 両親はもういない。

 兄弟もいない。

 SNSのフォロワーは3人。全員Vtuberのサブ垢だった。


 現実に会話する相手はいなかった。

 だが、物語だけは、彼に語りかけてきた。


 そう信じていた。

 信じようとしなければ、きっと今日を越えられない気がした。


「“英雄が最期に書き残した言葉が、千年後の誰かに届く”……か。

 それ、なんか、俺みたいだな……」


 そう呟いた瞬間、涙がこぼれそうになって、彼は慌てて画面をスクロールさせた。

 感情なんか、いらなかった。

 欲しいのは“続きを書く意志”だけだった。


 タイピングの音が、雨音と混ざっていく。

 ときおり、雷の遠い轟きが山の向こうから響いた。


 世間は今日も忙しく、どこかで誰かが「人生変わった!」「神展開!」と叫び、

 新人賞は誰かの掌に収まり、ランキングは更新され、出版化された誰かの名前が賞賛されていた。


 一真は、それらのすべてを見て、見ないふりをしていた。

 心が削れるたび、投稿ボタンに指を置いて耐えてきた。


 「投稿しました」の通知。

 その下に並ぶ、0、0、0。

 そして一つだけ、ぽつんと浮かぶ「♥1」。


「ありがとう、runaさん」


 声に出して、呟いてみる。

 するとほんの少し、喉が震えた。


 たったひとつの「ありがとう」を言いたい相手がいるということが、

 こんなにも生きる力になることを、彼は誰にも話したことがなかった。


 ふと、スマホが振動した。

 Twitterではない。誰かのLINEでもない。

 Googleカレンダーの通知だった。


 “【目標】英雄の遺稿録 第3800話 深夜2:00 更新”


「……あと1話、あと1話書けば、今日も死なずに済むな」


 そう言って、彼はまたキーボードに向かった。


 雨は、まだ降り続いていた。

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