惨月の誘い

 アレクサンドラとナディェヅダが部族に現れたのは4ヵ月前の事だった。

 持てる限りの荷物を背嚢に詰め、母子が旅しているのを、市から帰る途中のヴラディーミル達が見つけた。


 シルヴォスクの森の部族は皆、基本的に狩り以外では集団で移動する。各部族にとって森の中での移動とは即ち移住に他ならず、二人と言う少人数で旅をしている場合、部族の理の外の存在、渡烏チェネムヴランや流賊に他ならない。


 とはいえ、渡烏は渡烏で、森の中に独特なニッチを持つ人々である。常に旅をしている都合上、情報通であることも多い人々だったから、クロツィクの狩人達は母子と一旦情報交換をすることに決めた。


 ところが、二人と話したヴラディーミルが言うには、彼女たちは元部族の民だったというのである。

 その場合、移動中に他の部族民と離れたか、あるいは、出身の部族が壊滅したため身を寄せられる別の部族を探しているかのどちらかなのだ。


 そして、母子は後者だった。


 こうなると、余計厄介な問題になってしまう。流民が多くなることは流賊の増加を引き起こすほか、森を取り巻く外者チュゾイの勢力に付け入る隙を与えることにもなりかねない。

 だが、それを踏まえても、流民を部族に迎え入れることにはかなりの反発が発生する。実際、母子はそれまで複数の部族と接触したが、何れからも合流を拒否されたらしい。


 しかし、ヴラディーミルは母子を部族に迎えると決めた。

 村に見知らぬ親子を連れて来たヴラディーミルに対し、部族民達からの反応は芳しくなかったが、結局部族長としてのヴラディーミルの発言力に押され、渋々受け入れる形となった。


 特に反発していたのは老巫女だ。部族の祭儀を一手に担う彼女は、ナディェヅダが穢れた血を宿していると知るや、烈火の如く怒り、アレクサンドラを迎え入れるにしても、ナディェヅダだけは村から追い出し、「星霜の意に任せる」......要するに野垂死ぬままにさせろと主張した。


 しかし老巫女の抵抗も、ヴラディーミルが、何か交換条件を提示したことで収まった。こうして現在、母子は村外れに住まいを与えられているのである。


 ヴャツラウは畑から道を下り、沢沿いに上って、村外れのアレクサンドラの家へ向かっていた。

 やや遠くの背が高い木に、村の境界を護る双面神のタリスマンが下がっているのが見えた。表は獣の相、裏は人の相。ある種鬼瓦のような者だ。彼は村側に向いている人の面を正面に見据えて進んで行く。


 やがて家が見えて来る。材料や造りは、村の他の家と変わらず、鹿革の三角錐だ。ただ、サイズだけかなり小さかった。空間拡張があっても、テントのサイズはある程度内部空間の大きさと相関を保つことが知られている。このサイズでは、恐らく、中は地球で言うところのワンルームより少し大きいくらいしかない。竈を中央に置き、大人一人に子供が寝転がれば殆どスペースは埋まってしまうだろう。


 勿論、通例テントを彩るトロフィーマウントは無く、外見も質朴一辺倒だった。

 比較的新しい革だからみすぼらしいなんて言うことは一応無いが、独り者であってもそれなりに広い天幕が与えられる中、一応子供のいる家族にこの程度、というのは、この村におけるアレクサンドラ達の扱いが知れるというものである。


 ヴャツラウは、まずアレクサンドラが家の周りに居ないかと、裏手を確認してようとして歩みを止めた。

 声が聞こえる。


 彼は近くの木の影に回り、何が起きているのか観察しようとした。


「ええ、それはわかりますが、その......」

「受け入れられる必要性は感じられていると思うんだ、俺も別に、君をいびりたくてこうしてるわけじゃない」

「ただ......まだ、3ヵ月は過ぎて居ませんし......」


 ヴャツラウの背筋が凍る。

 聞こえてきた声は、アレクサンドラと、父ヴラディーミルのものだった。


 二人は家の裏で揉み合っていた。

 いや、それにしては動きが少ない。どうやら、ヴラディーミルがアレクサンドラを天幕の壁に追い詰めている格好らしい。


「部族民達は皆、君と娘を冷めた目で見始めている。

 老巫女の許しを得るにはうちクロツィクの一人にならないと駄目だ――――少なくとも、皆そういう考えなんだ。

 3ヵ月は、君のところではそうだったかもしれない。だが、うちでは21日なんだ。

 亡夫に操を立てるのは結構だが......」


 彼は目を逸らせなかった。耳も塞げずに、頭の中で動く、勝手な論理機能の働きと、目の前で展開される内心の正義に対する犯罪とに、深部から翻弄されてしまっていた。


 クロツィクの習慣では、狩猟事故や戦争による未亡人は、近親者が妻に取ることになっている。勿論、娶る側の元々の妻もそのまま、同じ家族として住むことになるのだ。

 その拡張で、部族長としての権限を使わなければならない程強引な手段だが、外から引き入れた女性を二人目の妻にすることも出来る......


 だから不倫ではない、不倫ではないが.......そう、ナディェヅダは、近くヴャツラウの妹になる予定だったのだ!


 点と点が繋がる......なぜ、ナディェヅダは花畑に来続けたのか?


 ヴャツラウ達が来るからだ!


 ヴャツラウは、母親の次の嫁ぎ先の子供!機嫌を損ねてしまえば、家を割る対立になりかねないし、部族の者達は、そうなった時、必ず元から居るダニカとヴャツラウの側に着く!

 そしてアレクサンドラは操を立てる、あるいは彼女らの方法で「亡夫を弔う」ことも出来ず、結婚を半ば強制される!


 地獄みたいな構図だ。受け入れがたい。

 ヴャツラウの脳が強い拒否反応を起こす中、目の前では、アレクサンドラが遂にヴラディーミルの言葉に頷き、二人は家の中に入って行った。


 もう何が起きるかなど、考えたくもない。


 ヴャツラウは木陰から飛び出て道を下り、自分の家に飛び込むと、シュラフの上に身を投げ出して、頭を抱えた。

 内心を駆け巡るのは、自分と自分の家族が作り出した二つの罪に直面し、それらに対して、無力を思い知らされた彼自身の姿。

 そして、彼にとって最悪なことに、村の者達は皆、彼と彼の家族の罪を受け容れるどころか、彼らの側に立って正当化さえするだろうという厳然たる理解であった。


Δ


 ヴャツラウは翌日、未だに体調を心配する母に、今日父が結婚することを知らされた。

 どうやら彼が全てから逃れようと寝入っていた夜の間に、父母は結婚に関する最終相談を終えてしまったらしい。どうやら母は、結構前からアレクサンドラと父の間の関係について認めていたらしいのだ。


 ダニカは不服とも納得ともつかない顔をしていた。まだ彼女自身20そこそこだというのに二人目が出来たことに関して思うところはあるようだが、結局受け入れてしまったようだ。


 ヴラディーミルの動きは随分速かった。彼がアレクサンドラ母娘を部族に招き入れてから4ヵ月経つから、かなり待った分さっさと結婚してしまいたいという事なのだろうか。

 結婚は明後日だった。アレクサンドラは流れ者だから、本来貢物は必要ないのだが、流石に部族長の結婚とあっては権威を示さなくてはならない。

 ヴラディーミルはその辺りも抜け目なく、貢物は既に用意してしまっていたらしい。


 彼はその報せを受けてから、随分思考に耽溺し続けた。それから漸く、昨日狩りの修練をすっぽかしていたことを思い出して、狩りの教範役だったイリヤに謝りに行った。

 その日は彼に何か見抜かれたらしく釣りに誘われて、湖岸で釣りを続けた。その間も彼は、アレクサンドラ母子について考え続けるのを止められなかった。


 イリヤはでかいタイメン(大型のサケ類)を釣り上げて顔を輝かせていたが、一方ヴャツラウはというと、返した方が良い大きさのクムジャ(サケ科の川魚)しか釣れず、僕は魚にも嫌われたのかといっそう鬱々とした気分に落ち込んだ。


 挙句イリヤは、村に帰って結婚式の話を聞くや否や、釣って来たタイメンを結婚式の餐に供することを決め込んでしまい、ヴャツラウは、一応部族長の息子であるから父の代わりに礼をしなくてはならなかった。

 何だってあんな勝手な親父の代理をしなくてはならないのかという不満と、こんな辱めは虐めをやって居た奴には妥当かも知れないという冷笑とで埋め尽くされた彼の内面は、その時、誰も知らない惨めさに沈んだのである。


 その日の午後、彼は村でぶらぶらする以外のことを何もやらなかった。

 家に帰っても父は居ないだろうが、狩りの成果によっては早く帰って来るので、鉢合わせてしまえば気まずいし、かと言って母ダニカから何か仕事を申し付けられたわけでもなかった。


 今日は狩りの修練が無いし、一応魚釣りに同行するまではやったのだから、穀潰しの誹りを免れることができるだろう。

 そういう言い訳を得て、彼は頭の中を整理するため、村の境界をぐるぐると回っている。


 考えるうち、彼は近頃の予定が随分立て込んでいる事に気が付いた。結婚式の翌日には直ぐ、ヴャツラウ達が参加する初狩りがある。初狩りは準成人式みたいなもので、参加して獲物を狩ることが出来れば、ヴャツラウ達は以降狩りに加わることが認められるというものだ。

 結婚式のすぐ翌日となると、二日酔いで苦しむ奴も出そうなものであるが......ヒマワリの種を食っておけば大丈夫と皆思っているのだろうか。


 そう考えつつ歩いていると、アレクサンドラの家の近くにあるのとは別のタリスマンが見え始めた。星型を円で囲む形に編まれた宿り木と狼の頭骨、おまけに血晶塊が組み合わさった形で、宿り木の面が村側、狼の頭骨が外側を向くようになっている。双面神の護りを象徴する呪具だが、こう見ると中々異教的モチーフだった。

 といってもこの世界にアブラハムの宗教があるかは疑問であったから、異教的というのも正しくない。もしかしたらその内、地中海世界から一神教を普及しに司祭がやって来るかもしれないな、と彼は思った。


 さて、そうしてうろついていると厩舎が目に入った。

 この村では馬と驢馬を飼っている。その馬で騎射でもやるのかと言えば、ところがこの森に騎馬で駆けまわれるようなスペースは無いから、そんなことはやらない。そもそも、馬に乗る部族民は殆ど居なかった。

 ここに居る馬の大半は荷駄用で、一応遠くまで狩りをしに行くときは獲物を積み込んだり道具類を持って行ったりする助けに使う。勿論飼い葉はその場で食わす。


 しかしこの馬どもが森の下生えに慣れているかと言えばそんなことは無く、偶に毒草にあたって腹を下す有様であった。

 そんな手のかかる奴等をどうして飼っているのかと言えば、移動時の使用専門の動産としてだった。何なら、市に居る馬借から貸借している場合すらある。


 そろそろ寒の入りだが、馬は元気だった。そのまま止めておくと運動不足で健康を害するので、適当にその辺を切り開いてパドックを作り、馬の食える草を置いたり牧草を植えたりしていた。

 それでもこいつらの飯は、部族の女衆が取って来る野ニンジンやらビートを与えているのが大半を占めている事だろう。馬の世話は男子も女子もやる珍しい共同作業だったのだが、親たちが騎乗するところを見たことが無い男子たちはあまり馬に興味が無く、一方女子達は数少ない動物としてペットのようにかわいがっていた。


 その結果馬達はまるでユニコーンの如く女子にだけ懐き、男子の前ではそっぽを向いて糞を垂れる。場合によっては蹴って来る。そう言う生物に成り果てている。


 そんな厩舎なのだが......そこで彼は僅かに、姦しい声を聞き取った気がした。

 こんなところで逢引なんて何やってんだと思うと同時に、邪魔しちゃ悪いかとも考えた彼は、厩舎を迂回しようと足を速めたが、彼に気付いた馬が後足立ちになってしつこく嘶き始めてしまった。

 馬の嘶きの煩さに何かを察したらしく、声の主達は声を潜める。


 やがて厩舎の裏から人影が出て来た。

 立ち去ろうとしていたヴャツラウは、そこに居たのがイリヤだったので少し面食らい立ち止まってしまった。


「お~い、スラヴァ、暇してるなら手伝ってくれよ」

「......イリヤってもう馬の世話をする歳じゃないんじゃなかったっけ?」


 イリヤは、彼にも容赦なく威嚇して来る馬の傍から飛び退くと、言い訳がましく口を歪めて、


「今日は女子連中も忙しいらしいんだ。タイメンを届けた後、手が空くなら馬の世話でもして来いって言われちまってさ」


 忙しいとは、恐らく結婚式のためであろうか。

 彼はそのことを思い、鬱屈とした気持ちが胸中に舞い戻って来るのを感じた。


 彼の表情が僅かに暗くなったのに気付いたのか、イリヤは、


「来いよ。この馬ども、ところが面の区別はつかないと見えるんだぜ。

 こうやって良い具合に声を調整すれば......

 あ~、あー、お馬さん、お馬さんかわいいねえぇ」


 既に声変わりが済んだ喉から出るとは思えない嬌声に、ヴャツラウは噴き出した。しかも驚いたことに、威嚇を繰り返していた馬は一転して落ち着きだしてしまい、どうやらイリヤは本当に女声を使って馬を宥めていたらしいと判明してしまったのである。

 ヴャツラウがさらに、身を捩るようにして笑い出すと、つられてイリヤもげらげら笑い出し、それで漸く女じゃないと気付いた馬は、再びぶもぶも言って威嚇を始めた。


 そうして一頻り笑い転げた後、二人は作業に取り掛かろうとしたのだが......


「リューバ!リューバ!そこに居るだろう!」


 唐突に聞こえて来た老婆の声に、二人して固まった。

 というのもこの部族に居る老婆なんてただ一人ぐらいなもので、その一人と言うのは......


 村の中央方向にある木立から、杖を突いた老巫女が現れた。

 老巫女は白髪頭に曲がった腰、ガリガリになった足首の老婆で、その姿はどちらかと言うと巫女よりババヤガに近く見える。

 そんな風貌の割にどすの効いた声を発する彼女は、何度も厩舎に向かって、名前を呼び始めた。


「リューバ!まだ、仕事があると言うのに......!」


 リューバ、と言えば、老巫女の親類で後継者のリュビカだ。

 もしかしてイリヤはリュビカと逢引していたのか......?


 ヴャツラウは思わずイリヤを見た。彼は血の気が引いた顔で固まっていたが、漸く首を動かして老巫女の方を向くと、観念したのか口笛を吹いた。


 口笛に応えてか、フードを被った金髪碧眼の女性が厩舎の裏から現れる。

 やはりリュビカで間違いなかった。血縁上ダニカの姉の娘だから、顔立ちはダニカの目の色を青にして、髪色を薄くしたような具合だ。


 ヴャツラウは再び修羅場に巻き込まれたことを認識した。

 何が不味いかと言うと、リュビカは巫女の後継者なのだから処女でなくてはならず、今の時期に男性と交際をすることなど言語道断であることだ。


 だがまだ、現場を押さえられているわけでは無かった。

 ヴャツラウとイリヤが一緒に居るおかげで、馬の世話をしていた二人が偶然、リュビカに出会ったという体で処理できる。


「何をしておった......?

 お前、今......」


 既に老境に入って10年以上経っている頃であろうに、老巫女が放つ覇気というか、圧力みたいなものは凄まじかった。丁度皺に覆われた顔は鬼人の面の如く、落ち窪んだ瞳は烈火のようだ。


「......タリスマンの、確認を......」


 か細い声で答えるリュビカ。

 続いて老巫女は視線をイリヤに向けると、


「イリヤ・ボリソヴィチ、お前は何をしておった」


 イリヤは居住まいを正すと、若干震えた声で返した。


「馬の世話です」

「もうお前はそのような歳ではないだろう」

「しかし手が空いていれば申し付けられるようでして」

「......イリヤ・ボリソヴィチは本当に馬の世話をしておったのか、ヴャツラウ・ヴラディミーロヴィチ」


 来た。

 ヴャツラウは電撃に貫かれたような心地になりつつも、イリヤを真似てその場に居直り、


「本当です、巫女様」


 暫く老巫女は三人をねめつけていたが、やがて発散する圧力をどうやってか弱めると、リュビカに腕を煽って、


「戻れ。

 初狩りが控えておると言うのに、血の海の女に穢疽......これにお前の不貞ともなれば、儂は身投げするところだったわ......」

「は、はい、巫女様、その、お身体を......」

「要らぬ!」


 老巫女はリュビカを一喝すると、彼女を伴って村の中央へと戻って行った。


 残された二人は、大人しく馬の世話にかかる。

 もうイリヤの女声は、笑いの種にも出来なかった。


 しかし頭が冷えて来ると、ヴャツラウの脳裡には、老巫女が去り際に放った捨て台詞が思い浮かぶ。


「ねえ、イリヤ」

「......なんだ?」

「『血の海』って、あの血の海?」


 血の海。

 それは言ってみれば、クロツィク族の民話で言うところのババヤガ、魔女、人狼、ブギーマン。要するに、子供を嗜める時に出す言葉である。


 何処からともなく現れて殺戮を行い、去り際には首狩り塚と斜め十字の墓標を残して行く狂気の存在。

 深い山や沼に隠れ潜むとされ、彼らの集落には、連れ去った人間の臓物と血が撒かれて、名の通り血の海が出来ているらしい。


 その正体は穢疽に侵された精霊である穢物オロとも、人間が穢物に堕ちたものとも、あるいは遥か昔から死に場所を求め彷徨う戦士の魂の成れの果てとも言う。


 恐らく老巫女は、アレクサンドラのことを「血の海の女」と呼んだのだと思われるが、何故そんな呼称を用いたのか、彼には分らなかった。


 侮辱の言葉にしても幼稚だから人のことを指して血の海と呼ぶことは滅多に無いのだが......


「......さあな。

 だが血の海の話だったら、俺は市で聞いたことがあるぞ」

「......市で?」


 シルヴォスクの森には移動式のキャラヴァンサライみたいなものが開かれている。

 クロツィク族含め、この森の狩猟採集民達は毛皮や骨をここで売り、代わりに金属器や装飾品などを買っていた。

 今世話をしている馬達を、売ったり貸したりしている馬借が居るのもこの市である。


 そんな商売の拠点で、子供の夜話が流行していると言うのもおかしな話である。


「ああ。なんでも、血の海が本当に現れたとかなんとか......

 特に、ナフラトが恐れてやがってな!

 いつもムスッとした顔して、毛皮の値段で足元見て来る連中が、やれ血の海が殺しに来るだのなんだの、大真面目な顔して議論してやがるんだ!

 笑えるぜ」


 そう言ってイリヤはわざと下唇を突き出し、ナフラトのあくどい商人のしたり顔や、それが大真面目に血の海の最近の脅威について語り出す様子を演じ、ヴャツラウの哄笑を勝ち取った。


 そんなもんだから、さっきまで大人しく飼い葉を食って、ブラッシングを受けていた馬も嘶いて後ろ脚立ちになった。


 二人は笑いながらも馬を宥めにかかった。ヴャツラウの方が、世話をする年頃の女子に似た声が出ていると言うのに、イリヤの方が落ち着かせるのが早く、ヴャツラウは一向にその理由がわからなかった。


 こうして二人共、リュビカのことは不文律によって隠し通される秘密として心の底に仕舞ってのけたのである。


∇ ∇


 家に帰って来た彼は、ダニカとの間の気不味い雰囲気を味わう羽目になっていた。仕事が出来る程度に体調は回復したのか、食事の時も喋らないのは何かわけがあるのかと、母らしくなく控えめな質問を浴びるうち、転生周りの事情を何も話さないのが申し訳なくなって来た彼は、いっそ空元気で安心させてやろうと試みていた。


 そうして漸く、ダニカは復調し始めて、暇なら外套の解れの修理を手伝ってくれないかと言い、ヴャツラウが文句を垂れつつ従うと、次々小言を流し始めた。

 やがて話は、ヴャツラウの先の予定に及ぶ。


「語り?」

「そうよ、夕方から始めるって言う話だったのに忘れたの?」


 老巫女は語り部でもある。最近こそ少なくなってきたが、ヴャツラウ達によく物語を聞かせてくれたものだった。

 彼女の語りの多くは、民族叙事サーガを圧縮したらしい内容が重厚な寓話で構成されており、割合子供でも楽しめる内容になっている。


 故に少年ヴャツラウも、話の内容はあらかた覚えているし、もっと幼い頃には話に登場する英雄に憧れていた時もあった。


「あー、そういえばそんなのもあったね」

「今日は惨月回帰ルニャスタの上、蝕が起こるんだから、老巫女様も特別な話を下さる予定なの。あんただって呼ばれるくらいの規模なんだから、覚えておいてよ」

「......最近ぼんやりしててさ」

「でももう病気か何かは終わったんでしょう?ずっとぼんやりしては居られないわ。

 ほら、手先もぼんやりしたら大惨事よ。集中して」


 ダニカはヴャツラウをさっさとしゃっきりさせたいようだった。

 彼も、いつまでもうだうだしているわけには行かないから粛々と従う。


 そうして補修が終わると、次は男子無用の結婚式準備だからと、ダニカは家から彼を蹴り出してしまった。

 ちょうど時間も夕方近い。彼は言われていた通り、老巫女の語りに向かうことにした。


 恐らく、結婚式を陰月回帰と蝕が重なる日の翌日に設定したのは、老巫女なりの訳がある筈だ。

 彼は空を見上げた。地球の月と比べれば20倍は視直径を占めそうな巨大な天球上物体、神の瞳グラーツが、太陽を飲み込み始めている。元々暗色の巨星は、今や太陽に照らされた部分の弧しか見えなくなっている。まるで空に天蓋が広がるように、暗黒は世界を覆って行っていた。


 ヴャツラウの中に居る男の知識によるならば、やはり、彼が立つ大地は惑星ではない。

 衛星だ。少年ヴャツラウの知識にある大地の名前から取り、カイアと仮称しよう。


 彼の見立てが正しければ、この星系の構造はこうだ――――恐らく褐色矮星であろう巨大ガス惑星が、地球のそれより青く、輝かしい恒星のハビタブルゾーンに浮かんでいる。ガス巨星の表面色は、深緑や僅かな青銅色をアクセントとする赤褐色と黒紫色で、南半球に巨大な嵐が常に渦巻き、磁気圏の余りの巨大さ故、極圏にはほぼ常にオーロラが発生している。

 そしてその周りを4つの衛星が周回している。内側から、火月、惨月、カイア、そして暗月。

 会合の頻度は非常に高いため、火月~カイアまでは軌道共鳴関係にあると思われた。そのせいか、火月の火山活動はイオ並に凄まじい。何しろコロナを常に纏い、瞳も太陽もカイアから目を背ける全夜であっても黄色から紫までのグラデーションを纏い、最明の月として世界を照らしているのだから。


 空に浮かぶ月の数々は、部族民達からは「神々の瞳」と言われていた。特に、ガス巨星は「神の瞳」と単数で呼ばれる。どうやら、この環境にあってさえ、地動説どころか世界が球体だと言う考えも無いらしい。まあ、カイアは潮汐固定されて居ないようで、天球上の月たちは常に移動し続けているから、天動説に収束するのも止む無しだろうか。


 そして、その神の瞳が、今太陽を飲み込もうとしている。

 一見禍々しい現象だが、蝕は10日に一回じゃ飽き足らない程の周期で起きるから、部族民達も慣れ切ってしまっていた。

 このため、天文学上変化に恐怖を感じるものは殆ど居ない。ヴャツラウが目にする大人達も、地球で何万人も歓喜と恐怖の渦に巻き込んで来た日蝕を前に、僅かに空を見上げた後、寧ろ神の瞳の偉大さを痛感でもしたのか、よりきびきびと作業を進めているくらいである。


 そうして西日の光は加速度的に弱まり、辺りが宵の群青に浸って行く。

 世界は瞳の影に呑まれた。全夜の始まりである。


 村のどこにも灯は焚かれていない。何故なら、蝕が起きるときは、ほぼ決まって、極圏特有の現象が同時発生するからだ。


 ビロードの帳が、やがて、空を横たわるように降ろされた。広がるオーロラの緑色のカーテンは波打って拡がり、宵の空を飾り立てる。その向こうに、輝きを放つ火月と、その光を浴びて僅かに存在を主張する惨月が見えた。会合に向けて示し合わせたように、二つの月は同方向に動いている。


 聖夜と呼ぶに相応しい光景かも知れないが、部族民にとって会合はそう喜ばしいことではない。惨月が最も存在を主張する時だからだ。


 彼も背を追われているかのように、オーロラの明かりの下、広場へと急いだ。


 薄闇の中で、子供達が多数、誰か暗い影を囲うように置かれた原木の上に座っているのが見える。彼はそこに向けて、最後に加速して駆け寄る。


「おう、遅かったじゃんかスラヴァ」


 ディミトリの声だった。ヴャツラウは彼の隣に急ぎ、一人分空いていた隙間に腰掛けた。

 横から鼻で笑うような音がして、彼がさっと振り返ると、ボフダンが少しヴャツラウから距離を離しながら、不機嫌そうにしている。


 何だ、何か文句があるなら言え、と言う言葉が、口を突いて出そうとしたが、丁度老巫女が話し始めたため、彼は結局肩を突き出しただけで終わった。


「居るか。17――――」


 ヴャツラウも、その声を聞いて周囲を見回してみた。

 5歳くらいのボフダンの妹、ラダなど、小さい子供達は前列、ヴャツラウくらいの年代は後列に並んでいる。ナディェヅダの歳なら、恐らくヴャツラウのすぐ前列になる筈だが――――夜目が効くようになってきた彼が見回しても、ナディェヅダはそこには居なかった。

 代わりに、彼は、影のように暗いローブを着て中央に座す老巫女の後ろに、背の高い女性――――リュビカが立っているのを見つけた。リュビカと一瞬目線が合ったが、彼女は何も知らない風に澄ました表情を崩さなかった。


 やがて数え終わったのか、老巫女は嗄れ声で再び話し始める。


「......居るな。

 さて――――穢れの前の時、男と女が居た」


 何度も老巫女の話を聞いて来たヴャツラウには、出だしだけで何が語られようとしているのかわかった。

 あの、「邪悪なる欺瞞の魔女と二人の戦士」だろう。中々胸糞展開だった覚えがあるのに、よく5歳程度の子供にまで説くものである。


「二人は戦士だった。男の名をドゥシャン、女の名をスヴェトラーナと言う。部族で最も優秀で、何度も背中を預け合った。やがて族長が決めた結婚すら破って互いに結婚しようとするのも、致し方なしと受け止められるほど、深く信頼し合っていた。

 そんな二人は、ある日、赤い目をした女占い師に会った。女の名は――――」


 赤目のアナスタシア。

 彼女は先ず、部族に迎え入れられて直ぐに占星術師のアナスタシアと呼ばれるようになり、やがて、狩りや戦いの行方について、かなり正確な占いが出来るとして、部族の中で求心力を高めていく。


 最初に出会ったスヴェトラーナとドゥシャンは、アナスタシアの力を不思議に思ったものの、彼女によって成立した勝利が積み重なるにつれ、徐々に彼女に心酔して行く。


 やがて、アナスタシアはその真の力をも押さえなくなった。アナスタシアは、戦士達に瀉血を施した。その後、自分の血を与えることで、戦士達に、彼女の持つ力の断片を分け与えたと言う。

 彼女の力は、強大だった。血を分けた戦士たちは、30本もの矢が刺さっても戦い続け、敵の頭蓋を素手で握りつぶす程、勇猛かつ強靭になった。


 その力を以て周辺の部族の征服が繰り返された。スヴェトラーナとドゥシャンも矢面に立ち、アナスタシアの警護から敵陣への一番槍まで務める、最勇の戦士として名を馳せた。


 ところが、征服を繰り返すうち、アナスタシアの野心は抑えられなくなって行く。やがて南の国をも征服すると、既に奴隷は十分に居るとして捕虜は皆殺しにするか、人斬りの稽古に使わせた。そして、100万の民を征服しても飽き足らず、海の向こうへ遠征しようと企てた。

 ドゥシャンは彼女に賛成した。アナスタシアが言うなら、海の向こうに、更なる富があるのだろうと信じて疑わなかった。

 だがスヴェトラーナの方は、血で血を洗う戦争の連続に疲れ果て、遂に戦争を止めるようアナスタシアに進言した。


 その赤い目に、狂気を宿したアナスタシアは、こう言った。


「ならば戦争が必要無くなるまで、人を、国を、狩り尽くせばよい。

 スヴェトラーナ、平和を望むならば、汝がその為の剣となるのだ」


 こうして二人は引き離された。ドゥシャンはアナスタシアの護衛となり、スヴェトラーナは、常に最前線に送り込まれるようになった。

 だが、離れていてさえ二人は絆を忘れず、互いに文を送り合って安否を確認したと言う。


 そしてそのうち、スヴェトラーナはドゥシャンからの文が、おかしくなってきている事に気付いた。


 ドゥシャンは頻繁に、アナスタシアの如何に英明なるかを讃えるようになっていた。暇があればアナスタシアの話を将から聞くようにと、文の最後には必ず付け加え、偉大な聖女から信任を受けて最前線を駆け抜け続けられるなど、名誉の極みだ、君はそこに居て正解なのだと、熱狂的な文体で書き綴る。


 遂には、文の内容はアナスタシアの事だけになった。彼女の紅玉のような瞳がいかに美しいかと、そういう言葉さえ並ぶようになる。

 事ここに至り、スヴェトラーナはアナスタシアが、魅了の力を持った魔女であることに気が付いたが、今更運命は止めようも無かった。


 彼女は、ドゥシャンが居るアナスタシアの本営から遠く離れた砂漠に居たのである。そこで、終わりなき斬り合いを、砂漠の民の曲刀術と演じていた。


 やがて、スヴェトラーナは摩耗して行った。戦闘の激しさはいや増しに増し、仲間は次々と斃れて行く。村々を自らの手で焼き、捕虜を斬り、拷問する日々は、あまりに長く続くと、彼女の精神を削り切ってしまった。


 そしてある時、スヴェトラーナは狂した。

 戦闘の最中に、いきなり甲高い笑い声を上げると、その肉は裂け、爪と牙と角が飛び出した。瞬く間に、彼女は、鹿と豹と狼の混ざり合った怪物の如き獣に変貌し、周囲の者達を敵味方問わず食らい尽くすと、千里を一夜で行くような速さで、魔女の本営へ駆け戻った。


 そして本営の天幕を引き裂き、アナスタシアにその爪を届かせようと言う時、ドゥシャンはこう言ったのである。


「化け物め!スヴェトラーナを殺したという南の化生はお前か!」


 そしてスヴェトラーナの首は薙がれた。

 すると、見る見るうちに獣の身体は縮み、そこにスヴェトラーナの姿が現れる。


 自らの手で、最愛の妻にして戦友、相棒を斬ってしまったことに気付いたドゥシャンは、慟哭を上げると自害した。


「――――かくして相斃れたスヴェトラーナとドゥシャンの弔いは、全く異なるものとなった。魔女はスヴェトラーナを見せしめにするよう命じた。首は柱に掲げられ、身体は犬の餌となった。

 ドゥシャンはその一方、魔女を護って死んだ英雄として、故郷の森に埋められた。

 魔女に引き離されてから、二人は死して尚、共に居ることはできなんだ」


 いつの間にかヴャツラウは語りに引き込まれていた。ひっそりとした口調の上、嗄れ声で聞き取り辛いと言うのに、老巫女の語りには、何か深い耽溺的効果を及ぼすものがある。


 それにしても後味の悪い昔話であったが、驚くべきは、この魔女アナスタシアが出てくる胸糞話は最低あと5つあるということだ。

 そのどこでも、魔女アナスタシアは貪欲な血狂い、征服者、人を利用対象としてしか捉えない精神病質者として描かれる。まず、優しい顔、指導者然とした態度で名声を得てから、立場が固まるや傍若無人に力を振るうようになるのだ。


 そして、その特徴は赤目――――元来、部族の中で不吉な色と扱われるのは、穢疽が赤っぽい色をしていると言うのもあるし、このアナスタシアの伝説もある。


 まだ原木に座ったままになっていたヴャツラウを、ボフダンが肘で突いた。


「なあ、俺達の魔女様はどうだ?

 きっとそのうち、化けの皮が剝がれるぜ。穢れが宿っているんだ、追いかけ回して居れば、いつか尻尾を出す」


 ナディェヅダは魔女だろうか?

 関係ない。どこに古の伝承が事実だと、そう証明できるものが存在する?


 仮に真実だとして、何故目が赤いくらいで魔女と結び付けられねばならない。

 それは、口髭が生えているからヒトラーやスターリンのような独裁者に成る、と言うくらいの暴論では無いのか。


 寧ろ彼には、アレクサンドラやナディェヅダのことを未だに快く思わない老巫女が、子供達に魔女の話をすることで、彼女らを迫害するよう焚きつけているように見えた。そうだとしたら、陰険極まりない、唾棄すべき所業だ。


 ヴャツラウは、ボフダンを説得するため、弁論法を少しばかり工夫した。


「そうかもしれないが、力を持ってるんだろ?

 関われば関わるほど不運になるってものだったらどうするんだ」

「そうならないように追い出すんだろ?」

「そしたら恨まれるぜ。襲ってくるかもしれない」


 ボフダンは嘲りの表情を浮かべた。ヴャツラウは不毛な言い争いに発展しかねない雰囲気を感じ取り、目線を逸らして膝を立て、退却の準備を始める。


「おいおい、ビビってるのかよ。

 何時もはあんなに威勢よく振舞ってるのによ、俺の弓の方がお前らより上だって、ずっと言ってるじゃないか」

「言った覚え無いね」

「けッ、腑抜けがよ」


 ヴャツラウは怒るどころか、寧ろ困惑し始めたくらいだった。何故、ボフダンはあんなに敵対的なのか?

 何か事情でもあったのかと考えるが、ナディェヅダを虐めて居た時、彼が特別狂暴と言うわけでもなかったし、つい一昨日に口喧嘩するまでは、互いに軽く喧嘩になることはあっても、概ね仲の良い友達を続けて来ていたから、特に思い当たらない。


 このまま彼が話し掛け続けても関係は再建できないかもしれない。

 誰かに鎹になって貰う方が良いだろうか......


 拗れた関係の再建法に頭を悩ませていた彼は、周囲が呻く様な声を洩らしたのに反応して、空を見上げた。


 会合が成っていた。

 惨月が火月の輪郭を遮り、コロナの光にぼうっと覆われて、妖しく、そして昏く輝いている。


 天球上の占有面積は月の半分に満たないが、澄んだ冬の空気を通して、はっきりと表面の模様が見えた。


 赤色の、爪跡のような模様が、縦横無尽に表面を張っている。古く膿んだ傷のような、禍々しい血の衛星は、しかしこの地に住む人間にとって、日常のものだった。


 穢れは増大している。


 人が居る限り、それは増え続ける。きっと次に月同士の会合を見る時、部族はこことは違う場所で、違う木々の騒めきと、違う川のせせらぎを聞いていることだろう。

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