結婚式

 そして結婚式当日になった。


 木が切り倒された広場には壇が置かれ、その前にはテーブルが部族の家族の数だけ並び、台上には保存食や交易品を大盤振る舞いした祝宴料理が数々盛られている。

 村民は式に際し、一堂に会していた。


 ナディェヅダ絡みの一件以来、顔も合わせずに過ごしていたボフダン達も来ている。

 どうしても気まずく感じてしまっているヴャツラウだが、族長にして祝福されるべき新郎であるヴラディーミルの継嗣である以上、最前列に並んで、二人を祝福せねばならない。そうして家中の団結を示すのだ。


 彼は、隣に立つダニカの顔をちらと盗み見た。

 そこにあったのは余所行きの顔だった。虚飾に彩られた微笑。道足りなさを隠すため着けられた、満ち足りた風の仮面。


 彼は母に何を期待していただろう?

 あるいは彼の中の、男の記憶が、母に対して父を尻に敷き、感情をあまり隠さない、自分が身近な女性像を被せでもしていたのだろうか。


 クロツィクにおいて、女性は家長に服従することが求められる。

 彼は、部族の老人が呟いた諺を思い出した。


「殴れば殴るほどスープは旨くなる」


 ヴャツラウは精神の孤立を自覚した。


 アレクサンドラは対照的だった。

 新婦の花冠と髪飾り、ピアスといった宝飾品に彩られて、ヴャツラウは見つめるのが恥ずかしくなるような、彼女の美を認識した。


 こうして見てみれば、滅多に見ないどころか、彼の持つ男の記憶の中でも見たことが無いような美人だ。射干玉の黒髪が美しく飾り立てられて、際立った艶を放っている。ヴラディーミルが自制を半ば失うように彼女を娶ったのも、至極自明に感じられるほどの、艶やかさだった。


 彼女とヴラディーミルは水盆に近付いた。水盆を挟み、男の記憶にあるキリスト教式の結婚における牧師の位置に老巫女が立つ。


 ヴャツラウ自身が老巫女を見るのも久し振りだった。巫女は足腰が弱いのに昨日歩いた結果、かなり体力が削られたのか、今日は縁戚のリュビカに支えられて漸く水盆前の椅子まで移動できる有様だった。


 巫女が席に着くと、アレクサンドラとヴラディーミルは、それぞれ左手と右手を出した。

 ヴラディーミルの右手には、部族長であることを示す象牙の指輪のほか何も無い。一方、アレクサンドラの左手、その手の甲には、既婚であったことを示す刺青が彫られていた。


 リューノフ文字、あるいは回鉛線文字と呼ばれる円形配置の装飾記号で、今では部族の巫女しか書くことができない、昔の習慣の僅かな残滓。当然、ヴャツラウにはそこに何が書かれているかなどわからない。


 そしてヴラディーミルは短剣を抜いた。ダマスカス鋼のような波紋のついた金属製で、鍔も装飾が加わっている。彼が昔、3日かけて狩った大熊の毛皮を売り払い、その金で買ったというナフラクサ製の業物だ。

 ヴラディーミルはそれを手の甲の上に滑らせ、基線を描いた。流れ出した血は水盆に溜められた地液――――種々の薬草を煮た薬液と油の混合――――に垂れ落ち、どす黒い染料液を作り出す。


 ところで通例、再婚は元の配偶者の兄弟と行うものだ。結婚時に刻むリューノフ文字は父系相続されるため、再婚時には模様を大規模に描き直さずとも、幾つか元の刺青に辺を書き加えるだけで済む。

 しかし、今回は流れ者との結婚であった。当然、模様は大規模に異なり、結果刻まれる紋章は、慣行法を勘案した結果、ヴラディーミルの紋と、アレクサンドラに元刻まれていた紋を混合した複合紋となる。

 勿論ヴャツラウが細かい意図を理解していたわけでは無いが、複合紋を刻むという行為は、アレクサンドラの亡夫とヴラディーミルの間に穴兄弟としての義兄弟関係、ひいてはアレクサンドラの連れ子であるナディェヅダに対する扶養義務が発生すると言うことも意味していた。即ち、この儀式を以て遂に、ナディェヅダはヴャツラウの妹となるのである。


 アレクサンドラの手に、ヴラディーミルは刃を滑らせた。

 この盤面にあって、紋を刻まれる痛みに声を上げることは許されない。アレクサンドラは流石に二回目であるためか、何でもないかのように微笑を崩さず、耐え切る。


 そして、老巫女が二人の手の甲に、煮沸及び薬液による消毒を施した針によって、紋を書き入れて行った。

 その間、出席者は着席してはならない。ヴャツラウが以前この儀式に立ち会った時、彼が感じたのは退屈だった。父母が発する黙っているようにとの無言の圧に押されて、ずっと起立したまま、後ろ手に指を絡めて遊ぶ他、この時間にすることは無かった。

 今、彼が感じているのは疎外と不快感である。周囲はこの現象を祝福すべきものだと考えている。しかし、彼の瞳に映るその光景は、立場にものを言わせて後味の悪い結婚をアレクサンドラに強いた上、相互所有を示す紋を血液で刻むという、あまりにも異教的な行為でしか無かった。


 半時間かけて、老巫女は刺青を掘り終えた。彼女が壇から退席するや、ヴラディーミルとアレクサンドラは、先程刺青を彫り込んだ手同士を握り合う。


 部族民達は口笛や感嘆の言葉で囃し立て、はにかみながら新郎と新婦は壇を降り、ヴャツラウ達のテーブルに近付いた。


 アレクサンドラは身を屈めると、まるで臣従するかのような深い礼をダニカに向かって取り、


「これから何卒、よろしくお願いいたします、ダニカさん」


 その礼は随分慇懃なものであったらしい。ダニカは若干引き腰になったが、直ぐに気を取り直し、アレクサンドラの手を握って彼女を起こすと、


「私達は対等だから、そのようにへりくだられる必要は無いのよ、アレクサンドラ......そうね、これからサーシャと呼びましょうか?」

「以前は、サーニャだったので、そちらでも良いですか?」

「ええ、勿論。

 それと、だからその言葉遣い。そこまでへりくだらなくてもね......」

「いえ、私は元が流民ですから」


 ダニカの態度から苦さや蟠りと言ったものが消え去っていた。

 なんだかんだ、母子はヴャツラウ達家族に溶け込んでいけるのかもしれない。だが今の彼にとっては、それは希望と言うより、量刑の宣告みたいなものだった。


「アリョー.......ええと、ヴャツラウ君も、よろしくお願いしますね」

「はい、よろしくお願いいたします」


 彼はただ、表情と声音を繕う以外に、アレクサンドラに何も出来なかった。何故か彼女が、彼の名前を間違えかけたことにも反応できない。

 彼女の隣のヴラディーミルはと言えば、彼女の後にヴャツラウに視線を向けると、


「サーニャの娘とは仲良くしてやってくれよ」


 彼は、心中で、そんなこと言われなくたってこっちからやるよ、と悪態を吐いた。


 アレクサンドラとヴラディーミルは、まだ他の部族民に挨拶をして回らなくてはならない。故に、4脚ある椅子のうち2脚だけが埋まった。


 そこにナディェヅダの椅子は無かった。

 穢れは、穢疽は、この森で最も憎むべきものだ。そんな厄を、祝福すべきこの場に引き入れてはならない、と部族民皆は考えるのだろう。だが......


 結婚式の料理は、家族で始めて囲うものという意味がある。

 男の記憶の中の世界では、一つ一つの儀式をそう重く扱ったりはしなかった。だが、クロツィクにおいては、全ての行動が人生と未来の縮図と解釈され、言わば類感呪術的に類推されるのだ。


 ならばこの家族にナディェヅダの居場所は無いという事か?


 ヴャツラウは席を立った。


「あ、ちょっと、待ちなさい、スラヴァ――――」

「ごめん、ちょっと厠に」


 本当のところ厠など無いのだが、咄嗟に出た言葉はそれだった。


 彼は沢沿いに上る道を走った。ナディェヅダが何処に居るかは見当が付いている。


 あれ以来、ノコギリソウの畑には来ていない筈だ。だから、きっと――――


 彼はアレクサンドラの家の扉を押し開けた。中で何かを見詰めていたナディェヅダはびくっと飛び上がり、驚きの視線をヴャツラウに向ける。

 言葉を口に出そうとして、彼は殆ど何も考えず飛び出してきてしまったことに気が付いた。仕方なく、視線を迷わせてから、話し出す。


「ええと、結婚については、聞いてたよな?」

「......ん」


 ナディェヅダはこくりと頷いた。複雑な感情が見え隠れする中に、不安が見える。

 彼女が自分を怖がっていることに、ヴャツラウは気付かされた。

 彼は次に話そうとしていた言葉を変える。


「僕らは、家族になったらしいんだ。その、歓迎、するよ、いや君がされたいかわかんないけど......」

「ありがとうございます......?」

「それで、その上でなんだけど、僕は......」


 暫く黙りこくって、思考が延々と迷った挙句、漸くヴャツラウは本題に戻って来た。


「君も、結婚式で歓迎されるべきだ、と思うんだ」

「......いや、わたしは、きっと行かない方が良いんです」


 7歳の少女の割に決然とした調子だった。


「穢れについてわたしはまだ余り知りませんけど......皆、避けてて、嫌ってることくらいはわかります。

 わたしは多分、家にずっと居るのが、一番正しいし、皆不安にもならない。

 穢血の魔女が出歩いているだけで、厄災を呼び込むから......」

「......僕にはただの子供にしか見えないよ」


 ナディェヅダは、彼に向かって僅かに微笑んだ。


「ありがとうございます。そう、言ってくれて」


 彼は何かできることが無いか必死に探した。

 全て、彼一人では変えられないものばかり。どころか、家族を巻き込んだって変えられないだろう。

 部族民達は、伝統と宗教に依って生きている。祖霊に助けを求め、敬虔に日々の糧と、家族の幸福だけを望んで暮らすのが彼らの美徳なのだ。そして、かれらからしてみればナディェヅダは、それを破壊しかねない邪霊以外の何物でもない。


「わからない......

 僕は、ただ、全部正しく感じないだけなんだ。皆、君がまるで別の生き物どころか生きる災厄みたいに......」


 そう言い募りつつ、ヴャツラウは、年端の行かないナディェヅダに自分の不安をぶつけている理不尽さに、そして、語った部族民達のイメージが、実際のところ昔の自分の認識以外の何物でもない事に気が付いた。


 結局、最もナディェヅダとアレクサンドラにとって、害になる動きをしているのは彼だったのだ。

 彼は何も生産的でなく、何も良心的でなかった。


 彼を牽引しているのは罪悪感であり、ただのエゴでしかなかった。


 それを自覚した瞬間、寧ろ彼の気分は大いに晴れやかになった。何故ならば、問題は自分の感情ではなく、自分の行動であると気付いたからである。

 彼の罪悪感は、別に罪ではない。彼は心からナディェヅダとアレクサンドラに同情していて、彼女らの状況を良くしたいという思いも本物だった。


 だから、彼に出来るのは......


「あまり外に出るわけには、行かないんだよね?」

「えと、はい」


 それを聞いた瞬間、彼は裏口の扉を開き、ナディェヅダを外に出るように手招きした。


「その、だから外に出るわけには......」

「家の裏より遠くには行かないよ。見る人も居ない筈」


 彼は先に外に出ると、地面に落ちていた棒を掴み、地面に線を刻み始めた。


 殆ど自覚していなかったが、ヴャツラウは男の記憶と共に、能力も継承している。

 部族の生活の中では、そこまで男の能力は役に立たない。だが、ことナディェヅダを愉しませることに関しては、一つだけ心当たりがあった。


 やがて地面に模様が刻まれた。ヴャツラウは、コントラストが目だって見えやすいよう、灰色の砂を溝に蹴り入れる。


 現れたのは山猫の顔だった。ヴャツラウ自身ができるだけ客観的に見ても、かなり写実的な描写だ。


 過程を眺めていたナディェヅダは、完成した山猫を見て息を呑んだ。


「すごい......!」

「はは。久しぶりだから前より時間がかかったけど......

 前から得意でさ」


 驚きと発見の喜びが入り混じった表情。

 こうして、物憂げでもない表情を観てみると、彼女は母親譲りに美しかった。7歳時点でもこれなのだから、更に育つと、どんな美しさを誇るのだろうか。


 ともあれ彼は、初めて見るナディェヅダの反応に、嬉々として説明を始めた。


「こいつはちょっと北で見られる奴だ。冬毛だね。

 この額の辺りは灰褐色で、目の下の縁は真っ白なんだ。

 これが西で見られる奴になると、この辺は褐色というか、狐の毛皮みたいな色になって、斑の柄も目立つ。

 でもなんか、イリヤはこっちの白い方が高く売れるって言うんだ。

 あとイリヤ曰く、白い方がでかいんだってね」

「すごい、その、詳しいんですね.......」


 そう言われて彼は、急に勢い込んで話していたのが恥ずかしくなり、言葉を止めた。

 だが、ナディェヅダは変わらず興味津々の様子で地面のスケッチを見詰めると、


「何を食べるんですか?この山猫って」

「兎だね。あとはノロジカもかな。こいつが横から組み付いて食った奴は、必ず首元に噛み跡、体の側面に爪跡が残ってるから分かりやすいんだ。

 前脚の力が強くてさ、爪も長いし、それで組み付いて、首を噛んで殺すんだよ」


 彼はついでに鹿のスケッチと、山猫が飛び掛かる図まで描き始めた。またも完成すると、ナディェヅダはわぁっと感激の声を洩らし、


「まるで動いてるみたい......!」


 と言うので、彼は本当にアニメーションを作ってやろうとし始めてしまった。


「今度もまた描こうか?」

「え?良いんですか......って、あ、その本当はやりたくなかったら――――」

「いや、全然、僕がやりたくてやってるからさ。

 これもこんな感じで、ちょっとずらしながら描けば――――」


 ちまちま違う姿勢の鹿を描いて、追い縋る山猫を描き足していく。そうして彼が絵描きに夢中になっていたところ、急に裏口の扉が開いて、


「ナディェヅダ!ヴャツラウく――――」


 家の裏に飛び込んで来たアレクサンドラは、地面に広がる大量の線画を見て困惑を浮かべた。

 彼はつい夢中になっていたな、と苦笑いすると、アレクサンドラに向き直り、


「ちょうど......」


 そして一瞬、躊躇してから、まあいいやと勝手に見切りをつけて、


「ナディヤに特技を見せていたんです。こうやって、絵を――――と言ってもまあ、スケッチみたいなもんですけど、僕映像記憶持ってるんで――――」


 そこまで言って、彼の言葉は止まった。

 アレクサンドラは彼の首の後ろに手を回して、半ば縋るように抱擁していた。


 彼は何が起こったか理解できずに暫く固まっていたが、漸く状況を把握すると、気恥ずかしさで僅かに震え出し、それに気付いたのか、アレクサンドラは抱擁を解いた。


「......おおうえよ、ありがとうございます......!

 ナディヤにこんなことまで......!」


 あ、ナディヤって咄嗟に出した愛称、合ってたんだな、とヴャツラウは勝手に安堵しつつ、頭を下げようとするアレクサンドラを止めて、


「僕に出来ることは今、これくらいですから」


 内心若干気障かもしれないと感じつつ、そう返した。

 それでも更に感謝して来そうな気配を感じたヴャツラウだったが、幸運にも、後ろからナディェヅダが、


「お母さん......綺麗......」


 と呟いたことでアレクサンドラの注意がそちらに向くと、その隙を窺い、それじゃ僕は戻ってますんでと口走りながら、沢を下る道を広場の方へ駆け出した。


 広場に戻って来た彼は、ヴラディーミルを囲む酒宴に引き摺り込まれた。

 酩酊状態の狩人達は彼の肩を掴んで揺さぶりながら、美人の嫁を二人も貰ったヴラディーミルを囃し立て、口々に馴れ初めやらの四方山話を話し合った。


「そう、ドラゴミールの奴が見つけたのよ、向こうから歩いて来る奴が居るってよ!

 それで、そういう盗賊の話が市で出回ってたもんだからよぉ」


 ディミトリの父、グレブが捲くし立てると、イリヤが反応し、


「それで族長が、弓を引き絞る皆に対して、罠には見えないって言って制止したんでしょう?

 あれ、一目で罠じゃないと看破したのは凄まじいと思いましたよ。どうやったんです?」


 ヴャツラウは正直、気不味くてしょうがなかった。酒臭い口から出てくる言葉に耳も傾けたくないので、彼は場を観察することに徹して自己防衛しようとする。

 そうしていると、イリヤが随分上手く親父衆に混じっていることに気付いた。そういえば、イリヤは昔から生き方が上手く、下には兄貴肌で、上にはユーモアを交えつつ要領よく接して、皆から好かれるよう立ち回っているのだ。


「ああ、あれはただ、目を見れば分かったんだ。彼女はそういう意図なんて無いと」

「ついでに惚れたんだろう?

 あーったく、族長の新妻は魔性だぜ」

「おい、手を出すなよ」

「やんねえよ、俺はこれでもカミさんを愛してんだ」

「お熱いな!」


 そして口笛が飛び交う。

 そんな中、ヴャツラウの二つ隣に座っていたイリヤは、二人の間の飲んだくれの肩越しにちょいちょいと指で彼を誘った。


 ヴャツラウはそれに反応し、顔を上げる。


「いや~、あ、うぷ、ちょっと厠に......」

「もう限界か?早いなぁイリイチ、もっと鍛えろ!」

「これでも3年前の下戸よりはまし......あ、ちょっと急がないと」


 ヴャツラウはイリヤの意を汲み、介助しますと言って退席した。


 飲みの現場から離れたイリヤは、へべれけに歪んだ口許を一瞬で戻すと、


「皆ああ言っちゃ居るが、正直殆ど皆結婚には反対している。

 族長は誑かされたんだと思っている奴すら居る。彼の理性の強さは知って居るだろうに......」


 唐突にイリヤが、10歳の半人前向けではないことを口走ったものだから、ヴャツラウは驚愕して、


「僕にそんなこと言われてもな......」


 と、どうにかイリヤの口を閉じさせようとした。しかしイリヤは首を横に振ると、


「いや、お前はずっと何とも嫌そうな顔をしていた。流石に人前じゃ何でも無いようにしてるが、心中嬉しくは無いだろう?」

「そんな話して良いの、族長の家内の事なのに」


 そう言った瞬間、ヴャツラウはイリヤに王手をかけられたことを悟った。

 イリヤの目は鋭かった。いつも、ヴャツラウの前でヘラヘラ笑っていた彼は、狩りの修練の時の怜悧な表情を見せ、


「......なあ、お前、何かに目覚めたよな。

 前はそんなこと気にするような奴じゃなかった。どころか、俺と話せば、自分からペラペラ家内事情を食っちゃべっていたことだろう。

 ところが今は、あのアレクサンドラの連れ子と仲良くし出して、急に知らされた結婚にも文句を付けない。式中も不快そうな顔をしたくせに、大人しくしている」

「......気付いたんですよ。僕は愚かしい傲慢な奴でしかなかったってね」


 ヴャツラウは、ぐらつくような感覚を覚えながらも、イリヤの視線にたっぷり一分は耐え切った。

 イリヤはイリヤで、次代の巫女と逢引をしていたという特級の秘密を抱えているから、ヴャツラウの中に何を見出そうとも周囲に言い触らしたりはできないとの確信も、ヴャツラウを安心させた。


 やがてイリヤは溜息を吐くと、


「まあ、あの娘に過剰に関わっているのは愚かしかったかもな」

「ええ、反省して――――」

「今もだ」


 その言葉はヴャツラウを縫い留めた。


「老巫女も、アレクサンドラに関しては認めたが、その娘については別だ。

 これからもあの娘の対処には苦労することになる。関わるだけで醜聞が立つし、あの娘のことが表沙汰になる度、老巫女や狩人を説き伏せて強引に結婚した族長にの適格性にも疑いがかかる。

 あの娘には母親だけで十分だ。離れておけ」


 ヴャツラウは、図星を突くような言葉の連続に、目を開かされたような気分だった。イリヤの言葉は、彼自身心の底では気付いていた関係を次々と暴いていく。


「ボフダン達との仲も直せるようにしてやる。明日の猟で、時間がありゃ話してみるんだな」


 しかし上からの物言いは、彼の神経を逆撫でした。


「......イリヤだって次代の巫女と逢引してるくせに」

「......何と言った?」

「僕にご高説を捲くし立てる権利があるんですかって言ったんですよ。

 部族に対して不義を働いてるのは僕もイリヤも同じだ」


 イリヤは不機嫌そうに、彼の反駁を鼻で笑った。


「良いのかよ。

 俺は善意で助言したんだがな」

「余計なお世話ですよ」


 イリヤは腹立たし気に組んだ腕を指で叩いたが、結局それ以上何も言わず、宴席に帰って行った。

 彼が去った後も、ヴャツラウは心中にしこりを抱えたまま逡巡を続けていた。


 彼はどうにかその逡巡を解決したかった。

 最も自分が落ち着いていられる瞬間を思い出す――――そう、確かに、狩りの間は極限の集中も相まって、非常に静謐な気分になって居られた。


 彼は弓矢とダガーを持ち出した。そして、家近くの木にダガーを投げ、矢を撃ち出して、解消し始めた。

 記憶の男は、文化一辺倒といって構わない人間だった。スケッチングや工芸が趣味で、全くアマチュアだったが、その類のコミュニティではそこそこ名を知られていた。


 一方、ヴャツラウ少年は運動一辺倒だ。

 彼は弓とナイフの世界を愛していた。父から贈られた、子供用にしてはかなり強い弓と、それを使い熟す腕前が何よりの自慢で、自分が扱う狩猟道具の手入れは欠片も欠かしたことが無い。


 こうして身体を動かしていると、ヴャツラウという人間を構成する、男の記憶と、少年の人格が擦り合わさり、均衡が回復して行くかのようだった。

 彼にとってその時間は、瞑想にも似た効果を表したのである。


 そうして運動瞑想法を実践した彼が出した結論は、さっさと寝て忘れてしまえ、だった。


 どうせ憤懣など、抱いても仕方が無い。混じり合った二つの精神の狭間で、客観視を得たヴャツラウは、自分の感情に対して達観し始めていた。

 だから、無駄な感情の波は、時が流し去るに任せてしまうことにしたのだ。そうすれば思考が曇ることも無いだろうと信じて。


Δ

Δ Δ


 早朝になると、色々と整理が着いている事がよくある。

 昨日の宴の後、結局アレクサンドラと話す機会を持てずに居た(何しろ彼女は、以降部族の女衆に迎えられるということで、色々仕事の説明や儀式やらで忙しかったのである)ヴャツラウだが、その日は狩りに出る予定の時間より早く起きると、村の火場に向かった。辺りは全く、真夜中に近い暗さである。日の出まであと4時間はあるかもしれない。


 料理の準備のため、村の女性は大体この時間には起き出しているのだ。特に今日は、ヴャツラウ含め、村の男達が朝から狩りに出るから、早めの朝食を作るべく、女性たちは更に早く起きていた。

 昨日の今日で、彼女らは大変である。


 アレクサンドラも、以前は食糧に触れることは許されず、専ら織物作りや日用道具の修理といった工芸に動員されていたのが、結婚によって部族内での立場が固まった為か、朝餉の準備への参加を許されていた。

 流石に以前結婚していたこともあるし、動きはきびきびとしていて手慣れた印象を受ける。

 予想以上に、彼女は働き者だった。どうにか虐めをやっていたと告白できないか、とやってきてみたヴャツラウも、忙しそうな様子を見て、今はそんな時間じゃないと判断する。


 彼はそのまま火場を見下ろす斜面に座り込んで、朝餉の時刻まで待とうと決めた。

 そうしていると、昨日の出来事が次々頭の中に蘇って来る。特にイリヤから投げかけられた言葉が......


『あの娘には母親だけで十分だ』


 ......だが、約束した。

 それはただの屁理屈だったが、理性的な論理の押し付けに反抗して、彼の中でどんどんと大きくなっていった。


 彼は約束を破りたくなかった。イリヤが言う、彼が過剰に関わっていると言うのが、このデッサンも含むなら、それが部族の価値観なのなら、彼はやめるべきなのだろう。


 だが、無性に、ナディヤが悲しむ顔を見たくないという気持ちが湧いて来るのだ。

 彼はその内、自分の中で、行動を共にしなければ構わないだろうと結論付けた。


 そして、この暇な時間に、ナディェヅダに見せる絵を描き切ってしまおうと決めた。


 一度見た狼の毛皮、一部の狩人が持っている双眼鏡、弓矢。

 完成した絵図は街頭の描写の様になっていて、毛皮商と狩人が、狼の毛皮を前に交渉をしている様になっている。

 毛皮商の胡散臭そうな髭面を完成させた彼は、絵を石で囲うと、砂利を蹴り入れて消えないようにした。


 そうこうしている内に朝餉の時間が来たらしい。彼は笛の音に反応して、羊のように集まって来る部族民達の流れに混ざり、広場に下った。


「さあ、猟だな」


 ヴラディーミルは台に着くや、半ば緊張し、半ば喜んだ、独特の凄みがある表情を浮かべた。

 ダニカが家族分の皿を持ってやって来る。朝一番早く起きて働いている彼女たちだが、朝食にありつけるのは狩人達が食べ終わった後だ。それまでにたっぷり4時間は経っている筈だから、恐らく低血圧を免れるために味見と称してそこそこ食べていたりするんだろうと、ヴャツラウは想像していた。

 実際、ランプに照らされたダニカの顔はヴラディーミルより血色が良い。


「今日参加するのは父さんにグレブさん、オレグさんと......」

「まあ、動ける男衆全員だ。お前とドラゴミールのところのボフダン、ディミトリには勢子をやって貰おうと思ってる」


 勢子。まあ確かに、身軽な方が獲物を追い詰めるのに向いているだろう。

 しかし彼の頭は、未だに昨日のナディェヅダとの遣り取りに向いていた。


 今回は前回より時間はかかっているが、アニメーションじゃないから、もしかしたら見劣りするだろうかとか、そもそもあれが毛皮の取引現場だとわからなかったらどうしようかとか、そう言った種々雑多の懸案が、浮かれた頭を巡り続ける。


 半ば心ここにあらずのヴャツラウを置いて、ヴラディーミルは食べ進め、親子揃って割合食べるのが早いのもあり、まだ大半が食べ続ける中さっさと食器を空けることになった。

 するとさっとアレクサンドラが来て、食器を片付けて行く。良いタイミングだと、ヴャツラウは彼女を呼び止めると、


「ナディェヅダに伝言してくれませんか?」

「はい、勿論、なんと伝えれば......」

「広場から西の丘の上、石で囲まれた中に来て、でお願いします。

 ああ、後、行ける時で良い、と」


 アレクサンドラは何か察したようだったが、何も聞くことなく笑い、


「ありがとう――――ナディヤを気遣ってくれて」

「その、毎回感謝されると恥ずかしいので、今後は......」

「では偶ににしますね」


 彼が着席すると、ヴラディーミルが目を丸くしていた。


「いつの間に仲良くなったんだ?」

「ちょうど昨日くらいですよ」

「なんか俺より初々しくないか......」


 それを子供の前で言うのはどうかと思う、とヴャツラウは一人ごちた。

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