Whirlpool
EF
北の至り
目が覚めた。
それまでの時間に、特別なことは何もなかった。ヴャツラウが朝、桶に溜まった水で顔を洗っていたら、唐突に、本当に何の前触れもなく、立ち行かれない程の衝撃が訪れて、次瞬には身に覚えのない記憶を持っていたのだ。
彼は自分の事が信じられなかった。揺れる水面に映る自分の顔を何度も見て、そこに何もおかしなことは無いと信じようとした。
ところが、そこにあったのは、あからさまに自分が見たことも無い表情をする、自分の顔だった。
額に皺が寄り、眼差しは鋭くなり、口は訝し気に歪められている。絶対に、心底恐れを感じているからなどでは無かった。
そして、彼の中に宿った記憶からしてもその顔は異常だった。あまりにも幼過ぎたのだ。
ヴャツラウは数え歳で10歳だった。狩りの修練と、林野での遊びで日々を過ごして来た、歳の割に腕白で落ち着きがないところのある子供だ。
ところが彼の内に先程飛び込んできた記憶は、20を超えた男のもの。
ヴャツラウは事態を冷静に捉えようとして、それが自分の行動からかけ離れたものであることに気付き、底知れない不安を感じた。
自分が掻き消されるような。得体の知れない者が自分の中に忍び入り、そして自分を引き裂いてしまったような感覚だ。
彼は二度三度顔と髪を洗って、漸く事態を飲み込み始めていた。と言うよりは、先程まで10歳程度だった少年の自我は、植え付けられた男の記憶と同化して、全く何か別物へと育ち始めていた。
これは転生と言う奴か、と新しいヴャツラウの中身は考えた。
彼の元になった男が元々住んでいた世界では知られた超常現象だ。大概死の後に起こるものとされていたが、男に死の記憶はない。直近の記憶は風呂に入ったところで終わっている。
まさかのぼせて見ている夢という訳でもないだろう。今しがた男が憑依した少年の自我は、まだ奥底で燻っているようにも感じられるのだ。こんな未経験の感覚は、夢などでは出現し得ない。
だが、男の観点からすると、世界はあまりにも異質だった。
早朝の白光に、赤褐色が混じっている。陽の昇った天球にあってさえ、その存在を主張してやまないそれは、多数の帯を持ち、下側には巨大な斑を持つ巨星だった。
まるで神がこちらを睥睨しているかのようだ。手を伸ばせば届くほど、という形容では飽き足らない。寧ろこちらが押しつぶされるのではないかと危惧するほどの圧力だ。
これに加えて、大小の月が、4つ空に浮かんでいる。最も遠く小さいものは微かに輪郭が見える程度、最も明るいものは僅かに燐光を纏っているように見え、中間のものは、不思議な程暗く陰惨な印象を持たせる。
男は空に暫く見惚れていたが、やがて歩き出した。
足全体を覆う皮の靴が枝を折り、森の地面を踏みしだく慣れない音を聞きながら、取り敢えず家に戻って行く。
家は枝の骨組みを鹿の皮で覆った円錐状のテントだ。床は枝を組んだ樹皮・毛皮・敷物の布で層を成していて、中央には鉄製の暖炉がある。暖炉から上がった煙は屋根の頂上から排出された。
今は16ヵ月あるうちの13月――――ちょうど冬の入りで、早朝ともなればかなりの冷え込みだ。常に暖炉を焚くための薪拾いが、手伝いをする時間の多くを占めるようになり始めていた。
布の切れ目から入ると、テントの外見からは想像できないような広い空間が広がっていた。大人10人以上が収まるような空間に、武器や収納具、トロフィーマウントが並んでいる。壁を構成する皮は、上からフェルトで覆われて内部から殆ど見えなくなっているが、僅かに隙間から見える部分には所狭しと紋様が描かれていた。
これが空間拡張のトリックであった。完全に空間がこの毛皮で覆われている限り、テントは魔術的な広さを維持できる。
父のヴラディーミルが暖炉脇のテーブルで弓を拭っているのが目に入る。
黒髪茶目、長く豊かな髭に、顔に着いた狼の爪傷。歴戦の狩人である彼には、武器の手入れを所かまわずやる癖があるのだと、ヴャツラウは知って居る。今の様に家の中でだけではなく祭りだろうと墓前だろうとシュラフの中だろうと、神経質なまでに徹底的に手入れをするのだ。
「早いじゃないか、朝飯はまだだぞ」
「こう寒いとあまり外に出たくもないよ、父さん」
ヴラディーミルは若干不思議そうに、ヴャツラウを見詰めた。
「ドラゴミールのところの子には会わなかったのか?いつもは朝飯もそこそこに遊んでいるのに」
「会わなかった。
それに今日はなんか眠いんだ。昨日眠れなかったからかも......
ちょっと寝ても良い?」
「構わんが、午後の狩りには行けよ」
そう言葉をかける父を尻目に、ヴャツラウは奥のシュラフへと向かう。
と、母のダニカが裏戸を開けて入って来た。彼女はシュラフへ向かうヴャツラウを見るやさっと表情を曇らせて歩み寄り、
「どうしたの?どこか悪いところでもある?」
「いや、ちょっと......」
悪いところがあるかと言われれば、ヴャツラウ自身凶星に呪われでもしたかと思うような異常に見舞われていることは確かなのだが......
少年ヴャツラウの自我からしてみれば随分と手前勝手なことに、男の知識は既に彼の脳に馴染み始めていた。そして、記憶の侵入により強化された理性は、きっとここで転生がどうこう言いだすことをあまり宜しくないの選択と判断する。
「何でもないよ。ただちょっと眠いんだ。昨日寝られなかったから」
「あら......そんな魘されるようなことあった?
でもそうね、その位だったら働けば飛ぶんじゃない?
ちょうど水汲みを手伝ってもらおうと思ってて」
勘弁してくれよ、とヴャツラウは心中でごちる。先程沢から帰ったばかりなのだ。この外の寒いのに、また指が冷える水汲みになんか行かなきゃいけないのは面倒だった。
それにヴャツラウは狩りを習い始めてそれなりに経つのだ。半人前の扱いではあるが、村の小さい子がさせられる手伝いの段階は卒業している筈である。
ぶつくさ言いそうな気配を察したのか、ダニカは追い討ちをかけるように口を開く。
「言うでしょう、熊の生より......」
ヴャツラウは脊髄反射的に遮った。
「馬の生、でしょ。
耳に胼胝ができるよまったく......
それに水汲みなら僕が沢に降りる前に言ってよ」
「口が達者になったものね」
「母さんの小言のおかげでね、こっちはどうやって言い返すかずっと考えてるんだ」
そう憎々し気に言いつつも、彼は立ち上がった。
急速に混合しつつある男と少年の魂だが、確立された人格の分だけ男の方が優位に立つかというと、そんなことも無いらしい。
現に少年ヴャツラウがいつもやるような母との小言合戦は、殆ど侵入者の男らしい部分も無く続いている。
彼は水汲みに行く傍ら、自身と周囲の事について思いを巡らせてみることにした。子供の朝は低血圧だ。顔を洗って尚、シュラフに潜り込めばすぐに寝付いてしまうような眠気を感じていたのも事実だったから、水汲み労働に従事した方が良く考えられるだろうと思ったのである。それに、男も男で、歩きながらの方が思考が捗る類の人間であった。
ダニカから渡された桶を担ぎ、沢への道を下る。
見慣れた道は、一寸の違いもなく記憶のそれと合致していたが、少しだけ新しかった。周りの草木を見渡すに、植生、裸子植物、そういった言葉が頭の中をちらつく。
考えるに、男の知識で言うところのタイガのような気候だ。少年ヴャツラウとしての記憶に照らし合わせる限り、短い夏に延々と広がる常緑針葉樹の森、熊、でかい鹿(多分エルク)、水辺の沼、全て冷帯の典型。
ヴャツラウはクロツィク族長の子供。クロツィクは、彼の中に宿った男の知識と照合するに、鉄器時代の狩猟採集民、要するにローマ史などに現れる蛮族の一部族のようだった。少なくとも少年ヴャツラウの狭い知識範囲からは、国家はおろか農業の痕跡さえ見られない。どう首を傾げても、広がる半凍土は農業適地とは言えないし、彼自身、初春晩秋に泥濘、夏に蚊の海、そして冬には雪に閉ざされる森の光景を何度も見て来たから、農業なんて夢のまた夢だな、という感想しか沸かない。
ヴャツラウの父は族長ヴラディーミル、母はダニカ――――そして名字は、と言えば、どうやら父称と部族称を付けるのが普通であるらしかった。
つまりヴャツラウ・ヴラディミーロヴィチ・クロツィコフだ。
「今日はまたボフダンのところに?」
ボフダン・ドラゴミーロヴィチ。
少年ヴャツラウの親友で、ついでにヴャツラウの父が族長である関係上、心中彼から子分扱いを受けている少年だ。
実際のところ、服装にしても携行品にしても、ヴャツラウが族長の息子だからいって特別なものを持っているという事は無いのだが、それでも彼は自分のことを、ボフダンより一段上の存在だと認識していた。
しかし実際が伴っていないのに無駄に見下すのは将来不都合を起こしたりしないだろうか――――ヴャツラウは考えたが、だからといって既に存在する偏見を覆すのは難しいので、母親に返事をする前に匙を投げた。
「今日も行くかなあ......」
「どうしたのよ、いつもならわくわくした風に返事するのに」
「今日は午後から狩りの練習あるからさあ、午前中に疲れ切っちゃうのやなんだよね」
「何そんな大人みたいなこと言って。まだ10でしょ?子供の足腰なんて午前中ずっと駆け回ったぐらいじゃ疲れないわよ。
特にあんたみたいな腕白のは」
そう言い返されてヴャツラウは黙ったが、心中そのボフダンとやっている事の所為で少々胸糞悪い気分になってしまっていた。疲労云々は誤魔化しだ。
まるで今しがた急に罪の意識に目覚めたような......そう、今しがた急に。
彼がそんな鬱屈を表に出さないよう耐えることに集中している内、二人は沢に到着した。
早速桶を沢に下ろそうとしたヴャツラウに、後から言葉が飛んでくる。
「さ、神々の瞳の下、怠惰は許されないわ。さっさと汲んで」
「もう汲んでるよ!」
母は謝らなかった。
沸き起こる憤懣を押さえつけつつ、ヴャツラウは水を汲む。
勿論この時間帯だから、洗濯用やらの水だ。料理は昨日の内に作った残りがある。寒冷な気候ゆえ食物は腐りにくく、大鍋で数日分纏めて煮込んだりすることもよくあった。まだ朝食を食べていないのは、単純にまだ盛り付けていないだけだ。
「......あら?」
水を汲み終わった頃、ダニカが固まり、沢に手を差し入れて何かを調べ出した。
ヴャツラウはその隙に彼女を観察する。亜麻色の髪に灰色の瞳、ちょっと気が強そうな顔だが、随分な美人、と言えるだろう。
彼自身は両親のなれそめについて何も知らない。しかしこれだけ美しい女性だし、もしかすると族長特権で手籠めにしたのだろうか、と考察した瞬間、自分がそんな考えに至ったこと自体に身震いがした。
存在するか知らないが、親の痴情など気持ち悪くて直視できたものではない。
何となく気まずくなって母から目を逸らしていた彼だが、流石に母の沈黙が長すぎることに気付いた。
「どうしたのさ」
「......
そう言われて水を見てみるが、いつもと変わったところは見られない。
彼のきょとんとした様子を察したのか、ダニカは説明を始めた。
「苔の色が赤みを帯び始めてる。それに水の味も......苦いわね」
そう言われて改めて沢を調べてはみるが、やはり普段と変わっているようには見えなかった。
「まあ、まだあんたには早いかしら。
老巫女様に言って来るわ、あんたは先に戻ってて」
男の記憶に、これに当てはまる概念はない。最も近いものはと言えば瘴気だろうが、正体が病原菌や寄生虫であった地球の瘴気とは異なり、こちらの穢疽はもっと切迫した現実的なものだ。
ヴャツラウは何度も、部族の女衆が老巫女を中心に呪具や供犠により穢疽祓いの祈祷を行うのを目にしている。どれだけ豊かな場所であろうと、クロツィクが最終的には移動しなくてはならないのは、狩の獲物の不足と言うより、穢疽が原因だった。
ヴャツラウが覚えている限りずっと、クロツィク族は逃げ続けている。彼らが移動の際に見せるのは、新天地への希望などより、後から追って来る何者かに対する恐怖だ。
その様は、遊牧部族と言うよりも、法に追われるならず者の徒党、迫害から逃れて諸国を転々とする難民と言う方が相応しかった。
Δ
「お、スラヴァ!
おせえじゃん、いつもはもっと早く来るのに」
そうボフダンが呼んでくる。
スラヴァはヴャツラウの愛称だ。と言っても、この村でヴャツラウをヴャツラウと呼ぶのは父しかいないから、彼にしてみれば本名より余程しっくりくる。
村外れ、野火で焼けた林がヴャツラウと部族の子供達の集合場所だった。
見通しが通って迷い辛く、遊ぶのに十分なスペースもある。子供にしては良い場所選びだが、その実、大人に遊びまわるならここだけにしておけと言いつけられたのが元の場所であった。
今日この場に集まっているのはボフダンにディミトリ、ブラゴヤィ。いつも一緒に遊んでいる同年代で、序に言えば狩りの修練を共にする仲間でもある。
「なあ、今日は予定通りやりに行くのか?
あれの畑を?」
......そう、これこそが問題だった。
ヴャツラウ達は虐めをやっている。それも3歳下の女児相手に、である。
相手の名前はナディェヅダ。
切っ掛けはと言えば、彼女とその母が、遠くどこかから逃げ延びて来て、村で匿われる運びになった時だった。
ナディェヅダは、単純に、見た目が周囲と違った。喋る言葉も訛りが強かったし、挙動不審で、いつも縮こまっていた。
大して打ち解けもせずに集落でも他から離れた場所に居を構えた親子だが、勿論周囲からは腫れ物扱いで、族長が匿うと言ったから渋々食わせてやっている、みたいな雰囲気だった。
そしてヴャツラウから見れば、親子は大して部族に貢献もせず寄生しているだけの奴等だ。
ヴャツラウは、ナディェヅダが水汲みやら縄編みやらをやっているところを見たことが無い。大概、ノコギリソウの畑をぼーっと眺めているだけだ。ノコギリソウは薬草だから、老巫女のところへ摘んで持っていくでもすればいいものを、そんなこともせずにただ、そこに佇んでいる。影法師みたいに。
義務を果たさず、権利だけを享受する。きっとヴャツラウ達が大人になってもあの連中はそうなんだ、自分達に集り続けるんだ、と彼は決めつけていた。
それに奴は......大人から盗み聞いた内容だが、穢疽と関りがあるらしいのだ。
聞いたことはある。穢れが憑き、膿んだ末に出来る、穢れた血の魔女。どうやらナディェヅダはそうらしい。
どことなく不安を感じるような雰囲気も、そう考えれば納得がいった。
そんな奴ともなれば、益々村に居ることなど許されない。
......だが、男の記憶が入ってから、見方が変わった。
これまでやって来た行為は、どう自己正当化しようとしても胸糞悪い理不尽でしかなかった。
彼らはこれまでナディェヅダを蹴りつけ、追い回して、泥の中に突き落としていた。いずれも、寄生がどうこうと言った理由があったとしても7歳の女児にやっていい行為ではない。
そして昨日、ヴャツラウは遂に、ナディェヅダがずっと眺めていたノコギリソウの畑を燃やしに行くと周囲の子供に言い触らしていた。
罪、と認めるにも心理的障壁があった。
だが、もう彼は、ナディェヅダに暴力を振るう気になれなかった。清算する時なのだと、ヴャツラウは考える。
ボフダンからブラゴヤィまで、その場に集まった面々を見渡して、彼は述べた。
「いや、実は親父にばれちった。
薬草の畑を燃やすなって大目玉食らってさ、今日は無理なんだよ」
「え~ッ、折角俺ら黙ってたのに、何やってんだよ!」
「んじゃどうすんだ?またあいつを叩き出して終わりか?」
子供達は口々に不満を呟く。ヴャツラウは沸き上がる自己嫌悪と、仲間の支持を失う焦りに板挟みになりながら、声を捻りだした。
「いや、もうあいつに関わるのやめようぜ。
あいつって、穢れてるだろ。そんな奴に関わってたら俺らまで汚くなる」
「でもさあ、そんな穢れた奴を留めといて良いのか?
皆穢疽から逃げてるのに、あいつが居たら折角逃げる意味も無くなるじゃないか」
ボフダンは抗弁し続ける。
どうにか仲間の執着を引きはがす為、ヴャツラウは別の遊びを進めてみることにした。
「実はスリングショット作ったんだよ。鳥撃ちやらないか?」
「え、本当か!?」
「やる、やろうぜ!」
ディミトリとブラゴヤィが食いついて来た。最後まで乗り気では無さそうだったボフダンも、結局鳥撃ちに賛成し、四人は森の中に入って行った。
手頃な大きさの石を拾い上げ、林内で歌う小鳥を狙う。
薄水色をしたやつが晩秋の開き切った松ぼっくりを狙ってつついていた。
投射体が大きく、更にスリングショットも弓程深く引いて張力を生み出せない。
結果、かなりの偏差が出る。だが、無風環境での調整にかけては、ヴャツラウは自信があった。
息を吸ってから止め、左目を閉じて、一気に引く。しかし、力を籠めて引き過ぎたせいか、僅かにスリングから音がした。
耳聡くそれを捉えた鳥はくるりと向き直ると、こちらを狙うヴャツラウに気付いて、なんやらうるさく喚きたてながら飛び去ってしまった。
声に反応し、次々と小鳥は飛び立っていく。
周囲で鳥を狙っていた仲間達は苛ついた声を上げた。
「あー!何やってんだよ!」
「しーっ!黙れ、ディミトリ、この馬鹿!
もっと逃げるだろ!」
と、ボフダンがヴャツラウの近くににじり寄って来た。
「なあ、スラヴァ、鳥ってあいつみたいだよな」
ヴャツラウは、表情が歪むのをすんでのところで抑え込んだ。
「......そうか?」
「ぴーちくぱーちくうるせえし、やたらきょろきょろしてるしな。
やっぱ数人で囲み込まないといけねえよ、ああいうのは。
次はカラスとか狙わないか?ちょうどあいつみたいな羽色だ」
ヴャツラウの脳裡に、数人でナディェヅダを囲って蹴りまくっていた時が思い浮かぶ。あれは、リンチ以外の何物でもなかった。10歳程度の男児の所業とは言え、複数人に寄って集って殴られては、骨折したりする危険性もある......
「......指図すんなよ。
次はやる。見てろ」
「なんかノリ悪いよな?今日のお前。
変だぞ?」
図星を突かれた格好だった。ヴャツラウは無意識に、自分に起こった異常が暴かれたような気分になり、茹った頭のまま言い返す。
「ノリが何だよ、ノリは僕が決めるんだよ、お前じゃない」
「リーダー気取りか、スラヴァ」
その言葉を聞いた瞬間、彼は沸騰した。
「リーダー気取りだと!?
僕の父さんの前で言ってみろ!それに、狩りの修練でいつも一番になってるのは僕だろ!?」
「お前の父さんが庇ってくれんのか、スラヴァ、本当に?
それで庇ってくれるとしてみるぜ......で、お前、知ってるか、族長は相続するもんじゃねえ、
お前の父さんの次はお前だなんて決まっちゃいない。それに、俺はお前に投票しないね。お前は脛齧りだし、狩の修練どうこうと言うくせ、さっき小鳥も獲れなかった」
「この野郎......!」
族長の息子としての誇り、狩人として築きつつあった自尊心を汚された。
ヴャツラウはそう感じて、ボフダンに殴りかかろうとした。だが、直前で止めて、
「......クソ、胸糞悪い......!」
そう吐き捨て、スリングショットをボフダンに投げつけ、集落の方へつかつかと去って行った。
∇
∇ ∇
「......何なんだよ、あいつ」
ヴャツラウはボリスの家の裏で、沢に石を投げながら不貞腐れていた。
彼の頭の中で、ボフダンはナディェヅダへの虐めへと彼を唆し、挙句リーダーとして成り代わろうとした大悪党にして簒奪者に貶められていた。
だが、彼自身でもそんな認識は正しくないとわかっている。
ナディェヅダを虐めた......主犯、は彼だ。彼が初めて、彼の選民意識によって加速して、ノコギリソウの畑を燃やそうと言い出したのだって彼だった。
もやもやした内面に小一時間程向き合って、漸く彼は自分がやるべきことに気付き始めていた。
論理的思考に沈むほど、彼の中の「入って来た男」の面が強くなっていく。彼は今、物事を俯瞰し、もしかすると生まれて初めて、冷静になっていた。
「......謝るか」
謝罪して赦してほしいだなんて、彼のエゴなだけかもしれないし、あんなことをされた後では、きっとナディェヅダからすると顔も見たくない、話しかけて欲しくない、という状況だろうが......
「くそっ、動け、動かないと何も変わらないだろ」
それは何もしないより良い筈だった。少なくとも、彼女の母親――――アレクサンドラには、事の次第を報せなくては。
彼はずんずんと沢の斜面を登って行った。恐らく、この時間帯なら例の畑に居るだろうと当たりを付ける。幸運にも、元気と言うより鬼気を帯びた様子で進む彼を呼び止める者は居なかった。
森の切れ目、倒木によって僅かに開いた隙間に咲くノコギリソウの畑は、開花時期を遥かに過ぎた初冬の今、シダ状の茎と葉だけが残っている。夏に胸程まであった草丈は縮んで、腰ほどになっていた。
ナディェヅダは切り株の上に座っていた。黒い髪、透き通るように白い肌、そして何もかもを見透かすような真紅の瞳......
ヴャツラウはこの瞳が嫌いでたまらなかった。そこにある雰囲気が、超然とした感性の象徴かのような透徹が、彼の神経を逆撫でし、まるで自分が取るに足らない存在であるかのように――――子供特有の、肥大化した自己意識の苛立ちを掻き立てる。
彼は僅かにたじろいだ。そして一旦気を落ち着かせようとしたのか、無意識につばを飲み込んだ。
その僅かの音を聞き取りでもしたのか、くるりと彼に向き直ったナディェヅダは、次の瞬間表情を恐怖に歪め、弾かれたように走り出し、そして止まると、戻って来た。
「えと......他の、人は?」
7歳の子供にしては明瞭な発話。
ヴャツラウは沸き起こる偏見を押さえつけ、何か言いだそうとして、
「......いつも、ここで何してるんだ?」
「......眺めてる」
会話は二言で終わってしまった。
彼はまだ何か続けようと、気まずさを感じつつも質問を繰り出す。
「ノコギリソウに、何か思い出が?」
「......」
ああ、やはり、向こうは会話する気が無いのか。
そう思うと、寧ろ凝り固まっていた思考が解れて来て、改めて自分のやるべきことが認識できた。
「僕は......ごめん。
これまで、殴ったり、囲んでリンチしたりして......本当にごめんなさい」
沸き上がる屈辱感を押さえつけて、ヴャツラウは謝罪する。この期に及んで、顔を見ることすら出来なかったが、震えながらも首を僅かに俯いて謝罪の言葉を出し切った。
「償いが出来るとは思わない......でも、もうこんなことは無い様にするから」
彼はそれだけ捨て台詞のように吐いて、畑から去ろうとした。
「......どこ行くの?」
唐突な質問に、心臓が跳ねた。
彼は向き直ることなく述べる。
「君の母さんのところだ。謝りに行かなきゃ」
「え?」
一瞬ナディェヅダは、きょとんとした表情になったかと思うと、急に顔色を変えて、
「やめて、お願いだから、止めてください!
族長の子供が穢れの親に謝るなんて、村の人に知れたら......」
のっぴきならない様子に、ヴャツラウは内心冷静さを取り戻し始めた。どうも少年ヴャツラウ自身が未経験の状況が現れると、入って来た男の側面が顕著になるようだ、と頭の片隅で考えられる程、論理的思考力が復活している。
「そんなに、悪い事なのか、穢れって?」
「それは......どこでも、そうですし」
「ええと、具体的に君が居るから何が変わるんだ?」
そう言われると、ナディェヅダは返答に窮したようで、黙りこくって地面を見た。
暫く、ヴャツラウも何も言えずに、互いに俯いて会話の再開場所を探る時間が続いた後、ふとナディェヅダが口を開く。
「一つ......頼んでも、良いですか?」
「なにを?」
「お母さんのことで......その、助けてあげてください、ずっとクロツィクに混ざれなくて、苦労してるんです。
そ、それに、あなたが助けてくれたら、お母さんもきっと......」
それを自分に頼むほど追い詰められているのか。
彼はその質問を敢えて発しなかった。代わりに、
「うん、約束だ」
とだけ言って、こちらを見詰める少女の赤い双眸に返答した。
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