余談話:耳かきと、やわらかくなる夜

「……ねねさん、耳かき、してくれる?」


「もちろん」


 ねねの部屋、ベッドの上。

 照明は落とされて、間接照明のやさしい橙だけが灯っていた。


 しおりは膝枕のかたちで、ねねの太ももに顔を預けている。


 ショートパンツからのぞく肌がすべすべしていて、

 触れているだけで心が落ち着いてくるようだった。


 ねねは、しおりの髪をそっとかき上げながら、

 細い綿棒を手に取り、やさしく耳に添えた。


「くすぐったくない?」


「……ううん、大丈夫」


 しゅっ……しゅっ……と、

 布をすべらせるような微細な音だけが部屋に響く。


 そのたびに、しおりの体がほんの少し震えた。


「……今日、紅姉と目が合ってさ」


「うん」


「ハルさんと楽しそうに笑ってて、

 ……その顔が、あたしには一度も向けられなかったの思い出して、

 なんか、……急に、きちゃって」


 言いながら、瞳にじわっと涙が浮かんでいた。


 ねねの手は止まらなかった。


 耳をそっと撫でるように、安心を送る。


「しおりちゃん」


「うん」


「辛い恋は、女を成長させてくれるって、知ってた?」


 ねねの声は、あいかわらず穏やかで。

 でも、どこか、熱があった。 


「……わかんないよ。

 胸が痛くて、なんも良くなんか、ないよ」


「そうだね。……でもね」


 耳かきが終わると同時に、ねねの指先が、

 そっとしおりの頬に触れた。


 涙の跡を、指でなぞる。


「そういうふうに泣いた夜は、

 少しずつ、なにかが変わってるの」


 しおりがゆっくりと見上げたとき、

 ねねの顔がとても近かった。


「……なにが変わるの?」


「“子ども”だったところが、少しだけ“大人”になる」


 そして――

 ねねは、前触れもなく、唇を近づけた。


 ゆっくりと、でも確かに。

 深くて、熱を帯びたキス。


 言葉なんていらない。


「わかってるよ」も

「あなたの全部を受け止めるよ」も――

 このキスだけで、全部伝わってくる。


 しおりは最初、少し戸惑った。


 でも、ほんの数秒後には、自分から腕を伸ばしていた。


 首に手を回し、そっと引き寄せる。


 あたしだって、ちゃんと女の子だ。

 恋も、甘えも、ちゃんとしたいんだ。


 ――この人の前では、全部さらけ出してもいいって思える。


「……ねねさん」


「うん」


「もっと、して」


「……いいよ」


 その夜、しおりはもう泣かなかった。


 耳かきのあとの耳元で、

 何度もくり返し名前を呼ばれながら、

 静かに、でも確かに“おとな”になっていく自分を感じていた。


 その恋は、失恋の続きなんかじゃなかった。


“新しい恋のはじまり”だった。


(余談話:了)

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『本番5秒前、キスして。』 鈑金屋 @Bankin_ya

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