くたばる憧れ

ぽんぽん丸

憧れはもう描かない

ゴッホの平成Ver。タンギ爺さんを私達のものにした絵。


ゴッホは浮世絵を背景にしてじいさんを描いたけど、彼は写実的な西洋画を背景にして歌舞伎の隈取をした海老蔵を描いて有名になった。


いわく「写真の登場は西洋美術の写実性を否定しました。印象派は画家の生存を探る試みであり、特にゴッホはたった1人で挑んだ。彼は孤独な画家であったが、浮世絵を頼りにしました。私は応えようと考えた。彼らの文化を背景にこちらを描くことにしました。私は関係を結びたかった」


芸術のインタビュー番組は深夜に追いやられていたけど、そこで彼は清々しくそう語った。


「そのために準備をしました。売れない画家が美術館に電話して背景に置ける西洋画を集めました。海老蔵さんと絵画のスケジューリングは描くことよりもずっと難しいです。結局直接目視して書ける時間は1時間もありませんでした。なので写真を撮ってほとんどは後日写真を見ながら。でもあの1時間は本当に楽しかった」


ここで1920:1080のフル・ハイビジョンの画面の中、彼の目が丸くうっとり。


「私の絵は応答です。この絵も日本文化を下敷きにした偉大なゴッホへの応答からはじまりました。美術館の担当者の方々はリスクがあるから門前払いです。だから私は楽しかった。応答させるに値する問いかけをしなくちゃいけなくて。言葉だけじゃないです。ただ近くにあったというだけのさまざまな画家の西洋画を並べて眺めた時に大きな圧力を感じました。まだ写真のない時代に卓越した筆で塗り固めて証明して、海を渡り極東にきたのに関連なく乱暴に並べられた彼らの圧が私を押してきました。隈取をした海老蔵さんは説明しなくてもよくわかると思います」


彼は結局番組の最後まで楽しそうに描く楽しさの話ばかりした。そのためナレーションはがんばって絵の評価を、当時の関係者や影響を与えた文化人のインタビューをしたりして番組の不足を補った。


今You Tubeに残っているのは、楽しさを語る彼の姿だけだ。


だから私は漫画家になろうとした。彼に応答したかった。介護の仕事は楽しくない。もう何年も漫画を描いていない。私の漫画に応答した人は少なかった。同じように漫画を描いていた人だけだった。私の読者はみんな作者。一般読者はいなかった。


その人たちも私と同じ。みんなもう何年も書いてない。夢はゴランノスポンサーをしてくれない。協賛企業ががらっと変わり、次の番組の見どころ映像を流してくれない。夢は気付けば終わっていて、その次はテレビよりもずっと惰性ではじまってしまう。


見どころも知らず、スポンサーもいないまま気付けばはじまる。応答するべきものごとも、応答してくれる人もいなくなった。


彼を除いては。


「おっぱい揉まないでください。叩きますよ」

「ええ、桃?桃かい?もも?」

「ももじゃないです」


かつてゴッホに応答した手は、今介護士の私の胸を揉んでいる。アルツハイマー。しかし私はそれにかこつけたスケベを疑っている。おっぱいを揉んでる時に「桃かい?」はおもしろい。やはり他の人と違う。記憶ではない地のセンスがこぼれてるのか、病気をいいことに好き勝手しているのか、私はまだ疑っている。


どちらにしても、幸い体も弱っていたからあっちこち徘徊したり、力任せに暴れたりはしない。正直入所してきた時はそれだけでショック。ああ歳とったな。憧れが老い散らかしている。あの頃、画面越しに感じた油絵具とポマードの匂いはしなくて、死んだ細胞が放つ老人の匂いがする。これで暴れたりしたら私はいよいよショックだったと思う。


「ももはいい」


車いすの散歩中にもかすれた声で彼はそういうのだから、散歩はやめにしてベッドに戻してやろうかと思うのだけど、もしかしたら突然「筆、筆」と言い出すかもしれないからこうして車いすに乗せて風景を見せている。


「結婚かぁ」

「結婚だねぇ」


2人してもうすっかり弱い酒だけを煽りながら私がしみじみ言ったら彼女は同じ調子でしみじみ応えてくれる。


「売れなかったよね」

「まーったく売れなかった」


大学の頃から20代の後半まで唯一、一緒に描いた友達。他はだいたいケンカしてクソミソにした。


「何がいけなかったんだろうね」

「ぜんぶ正解だったよ」


そうだね、と言う必要もなく二人笑う。


「あの、アジのなめろうとコーラお願いします」

「カルピスも」


頼んでから食べ合わせ悪いなと思う。そんなだから売れなかったのかも。


「にぎやかだね」

「にぎやかだよ」


彼女が結婚するのだからそうだ。もう漫画の話はしない。ほんの数年前まではそれこそ夜が明けて仕事に間に合わなくなるまで、お互いの新作や漫画のことについて語り尽くした。だけどその熱量がもうすっかり消え失せて私も彼女も話すことがなくなった。それからはあんまり話さないのによく飲みにいく。


「私苗字が山田になるんだ」

「担当ついたときの主人公と同じじゃん。ダーヤマ優香の憂鬱」

「なんかいいでしょ、続編」


2人してえへへと笑った。漫画の話はその時だけだった。旦那さんの話もそんなにしなかった。楽しかった。


楽しかった、楽しかったのだけど、私はもうすぐ死にそうな憧れが入所してきたことを言わない。こんなの以前ならビックニュースで即通話だったのに。私は怖かったのかもしれない。だってそんなの彼女は「もう一度描いたら」と言うしかない。私は怖かった。


帰り道、雨。濡れたアスファルトに雨粒が落ちて、繁華街の長い道路に1つ1つを認識できないほどの波紋。車のランプは赤、黄色。居酒屋のライトはオレンジ。コンビニ、白。街に反射すると波紋がたたいて少し混じって夜の黒地に色模様。雨の繁華街は油絵具の匂いがする。


そこを踏みつけてびしゃんと歩く。1人住まいに帰ることは何も怖くはない。私にはかけがえのない友達がいる。もし彼女に子供が出来たら私の遺伝子は残る。バカだけど彼女もきっとそう言う。それに満足している。描いた。よく描いた。よく描けた。だけど、だからまた描くことは怖い。


傘は持ったままささない。濡れた髪がべったりする。おでこにはりつく前髪をつたって目に雨粒が落ちてくる。だから今泣く。今泣けばユニットバスの鏡の前と違ってわからない。私にも彼女にも彼にも街行く人にもわからない。私はそうして怖さを遠くにした。


「葉ボタン、タンタン、タンタンメン」


内容はくだらないのだけど、メロディと声の鳴りは過去ボマードを付けていただけあって鼻歌にしてはメロウ。


私は入居者に個人的な感情を向けるのはなんだかはばかられる気がしたので、というか親友にも話してないし誰にも言ってなかったくらいなので、もちろん本人にも伝えてなかったのだけど、私の心を見せてみることにした。


私は彼の殺風景な個室に子供の頃に彼の個展で買ったポストカードを持ってきた。もう16年も前のもの。写真立てに入れて玄関に飾ってる。日本のタンギ爺さん。


私は昼食後の散歩の前にポストカードを彼に見せる。


「ああ、ありがとう」

彼はそう言うとまるで彼の自宅から持ってきたものみたいに受け取ってから、子供がビー玉を見るみたいに天井にかかげて自作をみた。


「あけても?」と私に尋ねる。とうぜん許可を出すと彼は写真立ての裏側の抑え爪を指先でどかそうとするがうまくいかない。私は彼のかわりにその爪をずらして押さえている板をはずす。アルツハイマー患者は物をとりあげると反射的に抵抗することが多いからやはり彼はそうじゃないのかもしれない。


おまけに私がガラス面からポストカードをはがそうとすると「まって」と言った。今度は私から取り上げると、慎重に慎重にぺりぺりとめくった。たしかにガラス面と癒着しているかもしれない。迂闊迂闊。


剥がしたポストカードをまた宝物みたいに高く掲げて、片目を閉じて注視してから、満足な様子で笑っている。


「かくものある?」


憧れがそう言う。私は即応する。せっかくだったら油に近いものがいい。私はレクリエーションに使ったクレヨンがあったことを思い出す。かなり意識がはっきりしている頑固ジジイが「クレヨンなんてガキみたいなもの、舐めてるのか」と言ったためにしまいっぱなし。てめえに油絵の素養があるのかよ。いやない。あのジジイはすぐに死んだ。脳梗塞。あんな短気なら仕方ない。くわばらくわばら。私は嫌なジジイのことで冷静さをとり戻しながら駆けた。本当は次の入居者の順番もあるからいけないのだけど。


「はは、クレヨン。ははは」


クレヨンは彼にウケる。黄色を手に取る。鼻に持っていき臭いを吸い込んで「はあ」と言う。それから私のポストカードにサインを描いた。


サインというのはどうしてこうも読み取れないのだろう。文字なのに。だけど確かに変わらず彼のサイン。端に添えるとかではなくでっかく真ん中。隈取台無し。激熱サイン。


「ありがとう」


サインを描いた彼の方がそう言う。クレヨンもポストカードも私に返す。私は片付けてから「ごめんなさい、散歩の時間がもうなくて」と伝えると「クレヨン、ヨンヨン、ヨンヨンメン」と言う。


その日は散歩できなかったのだけど、以降車いすに乗せ換える時、彼は私にしっかり捕まるだけで変なことはしない。自分のファンに変なことをしないのならやっぱりこいつはエロじじいではないか、と私思う。


彼が死んだのはそれからしばらく。


意識がもう、すぐかもと言う時に私は彼に嘘をついた。

「息子さんも向かってますよ」

奥さんとはひどい別れ方をしたとWikipediaに書いてたからよした。


彼は即応する。

「彼には彼の夢さ」

どうやら嘘はバレ、来ないこともかまわないらしい。


「私は良い絵を描いたみたいだ」

私は驚いた。彼が自作の評価をした。


「ええ、もちろん」

私は応答する。


「ありがとう。ここは居心地がよかった」

私は心臓がキュッとなって答えられない。


「こうしてあなたはあなたの絵を描けばいい。私達、今きっと良い絵だ」

目を丸くうっとりしてそう言った。私はついに応えられなかった。


だから私は介護職を続けるかもしれない。または漫画を描いてみるかもしれない。私はどちらにしても良い絵だ。私は彼のサイン入り。

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