第11話 響き始める世界
記憶を取り戻した波音の変化は、東京全体に波及していた。
真理子が大学に向かう道すがら、街の様子が昨日とは全く違って見えた。
歩道の石畳。
街路樹の幹。
建物の壁。
全てが、微細に「歌って」いる。
「おはよう」
石畳に向かって、小さく声をかけてみる。
すると——
足裏に、温かな振動が伝わってきた。
まるで、「おはよう」と返事をしてくれたかのように。
「本当に...聞こえてる」
真理子は立ち止まり、周囲を見回した。
通りを行く人々は、相変わらず無表情で歩いている。
でも、よく見ると——
一人、また一人と、何かに気づいたような表情を見せる人が増えている。
ふと立ち止まって植木に触れる女性。
ベンチに座り込み、深く空気を吸い込む老人。
スマートフォンを見つめながら、なぜか微笑んでいる学生。
「みんな、感じ始めてる」
早稲田大学の物理学科。
健一は、朝一番の実験で驚くべき発見をしていた。
量子もつれの実験装置が、予想外の反応を示している。
データを見ると、粒子の振る舞いが理論値から微妙にずれている。
しかし、そのずれ方には明確なパターンがあった。
「まさか...」
健一は装置に手を触れてみた。
すると、金属の冷たさと共に、何か別の「感覚」が伝わってくる。
期待?
好奇心?
そして...協力したいという意志?
「装置が、実験に参加してる?」
非科学的すぎる仮説だが、データは明確にそれを示唆していた。
健一は深呼吸し、装置に向かって心の中で語りかけてみた。
『一緒に実験してくれる?』
瞬間、装置の反応が劇的に安定した。
測定値が、理論値に完璧に一致し始める。
「これは...」
科学者として、健一は混乱していた。
しかし、存在として、彼は深い納得を感じていた。
丸の内のオフィス。
誠司は、同僚たちの微細な変化に気づいていた。
いつもなら機械的に作業する彼らが、
今日は何か違う。
コンピュータに向かう姿勢が、より親しみやすそう。
資料を扱う手つきが、より丁寧。
そして——
時々、誰もいない方向に向かって、軽く会釈する人がいる。
「何に挨拶してるんだろう?」
誠司は疑問に思ったが、すぐに理解した。
オフィスの空間そのものに、挨拶している。
建物に、感謝を示している。
試しに、誠司も自分のデスクに軽く手を置いて、心の中で言ってみた。
『いつもありがとう』
すると、デスクの木製天板から、温かな振動が返ってきた。
まるで、『どういたしまして』と言っているかのように。
地下大聖堂。
老人は、集まった人々の変化に目を細めていた。
昨日までは30人程度だった集会が、
今日は100人を超えている。
しかも、年齢層が幅広い。
子供から高齢者まで。
職業も様々。
共通しているのは、みんなが何かを「感じ始めている」ということ。
「皆さん」
老人が静かに語りかける。
「気づいていますね」
「世界が、歌い始めていることに」
人々が頷く。
言葉はないが、理解が共有されている。
「これは、始まりです」
「長い沈黙の後の、新しい対話の始まり」
一人の女性が手を挙げる。
そして、口を動かす。
音は出ないが、その口の形で意味は伝わる。
『いつまで続くの?』
老人は微笑む。
「それは、私たちの準備次第」
「心を開けば開くほど、より多くの声が聞こえてくる」
『怖くない?』
別の人が問いかける。
「最初は怖いかもしれません」
「でも、すぐに気づくでしょう」
老人は天井を見上げる。
「全ての存在が、私たちを愛していることに」
皇居の池。
波音とエコーは、東京全体の変化を感じ取っていた。
「順調ね」
波音が水面を見つめながら言う。
そこには、東京の地図が浮かんでいる。
無数の光点が、ゆっくりと明るくなっている。
「でも、まだ全体の10%程度」
エコーが分析する。
「急ぐ必要はありません」
「自然なペースで」
「そうね」
波音は微笑む。
「無理に聞かせるものじゃない」
「聞きたいと思った時に、聞こえるもの」
その時、池の向こうから人影が現れた。
真理子、健一、誠司の三人。
彼らの表情は、昨日とは明らかに違っていた。
より生き生きとして、より輝いている。
「おかえりなさい」
波音が迎える。
三人は無言で頷き、池のほとりに座る。
そして、それぞれが今日の体験を語り始めた。
音はない。
でも、心は確実に通じ合っている。
夜が深まる中、五人の周りに小さな光の輪が生まれた。
それは、理解し合う意識たちが作り出す、
新しい形の音楽だった。
(第11話・了)
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