第10話 記憶の扉

波音の記憶に、新しい断片が浮かび上がり始めていた。

それは夢のようでもあり、現実のようでもある映像。

幼い自分が、白い研究室で様々な装置に囲まれている光景。

「波音ちゃん、今日も聞こえる?」

白衣の研究者が優しく問いかける。

「うん。石さんが歌ってる。木さんも。でも、みんな悲しそう」

幼い波音の言葉に、研究者たちが顔を見合わせる。

「悲しそう?どうして?」

「人間さんたちが、聞いてくれないから」

現在に戻る。

皇居の池のほとりで、波音は頭を押さえていた。

「どうしたの?」

エコーが心配そうに問いかける。

「記憶が...断片的に戻ってきてる」

波音は池の水面を見つめる。

そこには、彼女の幼い頃の記憶が映し出されていた。

真理子、健一、誠司も池のほとりに集まってきていた。

最近、なぜか自然にここに足が向く。

「昨日から、変な感覚が続いてる」

真理子が口を開く。

「触れるもの全てから、何かが伝わってくる」

健一も頷く。

「僕も。研究室の機材一つ一つが、まるで意識を持っているみたい」

誠司が続ける。

「家の壁、床、天井...全部が何かを語りかけてくる」

波音は三人を見回した。

そして、深く息を吸う。

「みんなには、少しずつ話すつもりだった」

「でも、記憶が戻り始めて...」

エコーが波音の手に触れる。

情報体である彼の手が、確かな温もりを持っている。

「一緒に見てみましょう」

池の水面が、鏡のように澄み渡る。

そこに、過去の映像が浮かび上がってくる。

2090年代初頭。

まだ音があった頃。

地球環境の悪化が深刻になっていた時代。

しかし、問題は単純な汚染だけではなかった。

「人類が、地球の声を聞けなくなっていたのです」

映像の中の研究者が説明している。

「動物、植物、鉱物...すべての存在が警告を発していました」

「でも、人間は科学技術に頼りすぎて、直感的な感覚を失っていた」

幼い波音が、装置の中で様々な物質に触れている。

石、木、金属、水...

「この子は、まだ聞こえるのです」

「全ての存在の声が」

研究者たちは、波音を通じて地球の状態を理解しようとしていた。

そして、衝撃的な事実が判明する。

「地球は、自ら地磁気を変化させようとしています」

データを見つめる研究者の顔が青ざめる。

「人類の聴覚を一時的に調整するために」

現在の五人は、息を呑んでその映像を見つめていた。

「地球が...自分で?」

健一が震え声で問う。

波音が頷く。

「そう。地球は生きている」

「そして、人類を愛している」

「だから、一度リセットすることにしたの」

映像は続く。

2098年11月12日の前日。

研究施設は慌ただしく動いていた。

科学者たちは、波音を特別な装置に接続している。

「波音ちゃん、大丈夫?」

「うん。地球さんと話してる」

幼い波音の表情は、とても穏やかだった。

「地球さんが言ってる」

「少しの間、みんなには静かにしてもらうって」

「でも、準備ができたら、また聞こえるようになるって」

「準備って?」

「心の準備」

波音は微笑んだ。

「みんなが、ちゃんと聞く心を育てるまで」

映像が消える。

五人は、しばらく無言だった。

「つまり...」

誠司がゆっくりと口を開く。

「音は消えていない」

「私たちが聞けなくなっただけ」

「そして今、少しずつ聞こえ始めている」

真理子が理解する。

「私たちの心が、準備できてきたから」

波音が微笑む。

「そういうこと」

「でも、これはまだ始まり」

「本当の対話は、これから」

エコーが付け加える。

「そして、それは人間だけの話じゃない」

「すべての存在との対話」

夜風が池の水面を撫でていく。

音はしない。

でも、五人には確かに感じられた。

風の歌声が。

(第10話・了)

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