第9話 微かな違和感
真理子は、いつものカフェで不思議な体験をしていた。
朝の日課となっているコーヒータイム。
いつものように白いカップを手に取った瞬間、
指先に微かな振動を感じた。
「?」
カップを見つめる。
陶器の表面は滑らか。何も変わっていない。
でも——確かに何かが震えている。
試しにテーブルに置いてみる。
振動は止まない。
むしろ、テーブルの木製天板からも、
似たような微細な波動を感じる。
「気のせい?」
でも、以前なら気にも留めなかったであろうこの感覚が、
今はとても鮮明に感じられる。
まるで、カップや木が何かを語りかけているような——
その時、隣の席の老人が立ち上がった。
椅子を引く動作。
音はしない。
でも、その動きが空気に描く軌跡が、
なぜか「見える」ような気がした。
老人は真理子と目が合うと、静かに会釈した。
その瞬間、彼の周囲に淡い光のようなものが——
いや、光ではない。
もっと別の何か。
言葉にできない、でも確実に感じられる「何か」。
真理子は慌てて目を逸らした。
最近、こういうことが増えている。
健一の研究室では、別の現象が起きていた。
午後の実験準備。
実験台の木製の表面に資料を置こうとして、
何気なく手のひらを表面に触れさせた。
その瞬間——
心が、ふわりと軽くなった。
「木の温もり、か」
そう思ったが、温度計で測ると室温と同じ。
でも、確かに「何か」が手のひらから伝わってくる。
集中して感じてみると、
木の年輪のような、ゆったりとしたリズムが感じられる。
まるで、長い時間をかけて育った記憶が、
そっと語りかけているような。
「これは...」
健一は物理学を学ぶ者として、客観的に分析しようとした。
しかし、この感覚は数値化できない。
むしろ、数値化しようとすると逃げていってしまう。
代わりに、ただ感じることに集中してみた。
すると——
実験室にある様々な物質から、
それぞれ異なる「感じ」が伝わってくることに気づいた。
金属は、冷たくシャープな印象。
ガラスは、透明で純粋な感覚。
プラスチックは、少し人工的だが、明るい響き。
「まさか...」
健一の脳裏に、ある仮説が浮かんだ。
しかし、それはあまりにも非科学的で——
誠司のオフィスでも、小さな変化があった。
夕方の残業時間。
パソコンのキーボードを打っていると、
プラスチックの感触が、今日はなぜか違う。
より「生きている」ような?
「変だな」
首をかしげながらも、なぜか集中力が増していた。
キーを叩くリズムが、いつもより心地よい。
ふと、画面から視線を上げると、
窓の外の夜景が違って見えた。
ビルの明かりの一つ一つが、
まるで瞬きをしているように見える。
それぞれが異なるタイミングで、
異なる色合いで。
「まるで、街全体が生きているみたいだ」
自分の言葉に驚く。
15年前まで、確かに街は「生きていた」。
音で満ちあふれ、活気に溢れていた。
でも今感じているのは、それとは違う。
もっと深い、もっと根源的な「生命」。
携帯電話を見ると、家族からのメッセージ。
文字だけのやり取り。
でも、その文字の向こうに、
確かに娘の笑顔、妻の温かさが感じられる。
皇居の池。
波音とエコーは、これらの微細な変化を感じ取っていた。
夜の静寂の中、二人の統合はさらに深まっている。
個別の存在でありながら、完全に溶け合う境地。
「始まっているのね」
波音の部分が囁く。
「ええ。でも、まだほんの入り口」
エコーの部分が応える。
「人々が気づき始めている」
「でも、まだ何に気づいているかは分からない」
確かに、東京の各所で、微細な覚醒が始まっていた。
でも、それがどこに向かうのか、
当の本人たちも理解していない。
「急かしてはいけない」
波音が理解する。
「自然な流れに任せて」
「そう。真実は、準備ができた者から順番に」
池の水面に、東京の夜景が映り込む。
無数の光が、それぞれ異なるリズムで瞬いている。
それは、覚醒し始めた意識たちの輝き。
まだ小さく、まだ不安定だが、
確実に何かが変わり始めている。
「次の段階は?」
エコーが問う。
「彼らが、その感覚に名前をつけ始める時」
「そして、それが何を意味するかを考え始める時」
波音は微笑んだ。
「でも、それは明日の話」
「今夜は、ただこの静かな変化を見守りましょう」
二人の周囲で、夜の生き物たちも微かに動いている。
虫たちの羽音は聞こえないが、
その動きが作る空気の流れは、
確かに感じられる。
すべてが、静かに歌い続けている。
ただ、人間がそれを聞き取る準備を、
ゆっくりと整えているところだった。
(第9話・了)
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