第4話 恋人は猫である
恋人は猫である。
名前は……無いと不便なので仮に寝子さんと付けておこう。
これは比喩表現ではなく、彼女は本当に猫なのだ。
寝子さんと僕の出会いは遡ること八年前。僕が高校二年生の頃だ。
場所は祖父の自宅。
僕の父方の祖父である
祖父は僕の祖母である
祖父の家へ遊びに行くと、彼は縁側で陽を浴びながら一匹の猫を抱いていた。
祖父の胸に抱かれた猫は三毛猫だった。
三毛猫の九十九パーセントは雌だとテレビで見たことがある。万事その猫は雌だった。
「お祖父ちゃん、猫飼い始めたの?」
「否、こいつぁ野良だ」
たしかに猫は首輪や鈴を着けてはいなかった。
「祖母さんの葬式が終わって三日経ったぐらいから、家の庭に来るようになってなあ」
その猫は人懐っこかった。
僕が祖父の隣に腰掛けると、すぐに膝の上に乗ってニャアニャアと鳴いている。
頭を撫でてあげると、更に嬉しそうにニャアニャア鳴いた。
これが僕と寝子さんとの初対面である。
以後、学校の帰りには一人で暮らす祖父の様子を見に行くついでに、寝子さんと遊ぶようになった。
夏休みに祖父の家へ行くと、寝子さんの悲痛な鳴き声が聞こえる。
嫌な予感がした僕は急いで縁側へ向かった。
縁側では祖父が唸りながら
僕は携帯電話で救急車を呼び、両親に電話した。
救急車が到着したのは通報から三〇分後。祖父はそのまま入院した。脳梗塞だったのだ。
回復の兆しは見えず、祖父はその年の九月に他界した。
最期まで祖父は寝子さんの心配をしていた。
「総司、俺が死んだら猫を頼むな」
僕が最後に見舞った時、祖父はぽつりと呟いた。
それが祖父が僕に託した遺言だった。
両親は当初祖父の家を取り壊すつもりだったが、取り壊すのにも何かとお金がかかる。そこで僕を祖父の家に住まわせることにしたのだ。
僕にとってこれは好都合だった。実家からよりも祖父の家からの方が通う大学には近い。
それに、祖父に寝子さんのことも託されていた。
家賃はかからないものの、光熱費なんかは自分で払うことになるため、僕はアルバイトを始めた。両親の狙いはどうも僕の自立だったらしい。
祖父の死後も寝子さんはやって来た。祖父の遺言もあり、野良猫のままにしておくのは忍びないので、僕が責任をもって飼うことにした。
寝子さんの首に鈴を着けて、トイレやキャットタワーを家に置いた。
寝子さんは素直に受け入れてくれて、以来ずっと祖父の家にいる。
多頭飼育にならないように避妊手術も考えたが、寝子さんは既に手術済みだった。
どうやら寝子さんは元々飼い猫だったらしい。
大学を卒業し就職してからも、僕は祖父の家に住むことにした。寝子さんも一緒だ。
順風満帆とまではいかないけど、それなりに楽しく充実した社会人生活を送っていた僕だったが社会人二年目の二十四歳の時、大学時代から付き合っていた恋人と別れた。
別れた理由は寝子さんである。
彼女自体は猫アレルギーではなかったが、彼女のお母さんが猫アレルギーだと言う。
彼女は付き合い続ける条件として、寝子さんを捨ててきて欲しいというのだ。
祖父の遺言もあるし、ペットを捨てるのは犯罪行為だ。
一旦は実家に預けようかとも思ったが、祖父の遺言を受け取ったのは僕だし、親に預けるのも無責任に思えた。
僕は彼女に「新しい引き取り手を探そう」と提案したが、彼女は僕ひとりで探せと言う。
後日解ったが寝子さんの件は別れる口実だったのだ。
彼女が繁華街で別の男と抱き合っているのを、僕は見てしまった。
僕は彼女の浮気を目撃した翌日、猫を飼い続けることと別れる意志を彼女へ伝えた。
自分から別れを告げたものの、僕は酷くショックを受けていた。
膝を抱いて泣き続ける僕の傍に寝子さんがやって来て、僕を慰めてくれた。
そしてある冬の日の夜――
僕が仕事から家へ帰ると、居間に裸の女がいたのだ。
そういう仕事の女性を呼んだ覚えはない。
これは僕が恋人と別れたことを知った同僚や友人からのサプライズという名の嫌がらせの類か? とも考えた。
とにかく服を着てもらおうと、家中を駆け巡ってその女性の服を探した。
しかし家の中にはその女性が着ていたであろう服はなかった。
僕は頭を抱えた。
幸い冬の日で縁側を閉じていたため、ご近所さんには見つかっていないだろう。
裸の女は奇異な姿勢でこちらにやって来た。
二本の足で立たず、四つん這いでこちらに向かってくるのである。
その時にした音で、僕は裸の女が寝子さんであることに気づいたのだ。
彼女がこちらに向かってくる時に、リン、リン、と音がする。
僕は彼女の首に鈴が着いていることを認めた。その鈴は僕が寝子さんに着けたものだ。
「君は……寝子さん?」
僕の問いかけに寝子さんは首を激しく縦に振った。鈴が激しく鳴っている。
寝子さんは僕をジッと見つめると、手を前に伸ばして顔を床に着けて、お尻をグーッと突き上げた。猫がよくする背伸びの姿勢になった訳である。すると寝子さんの体は萎み始めて、元の三毛猫の状態になった。
僕はいま目の前で起きた出来事に、唖然とはしたものの受け入れるしかなかった。
猫に戻った寝子さんは走って、寝室のベッドの横に向かった。
寝子さんがとある雑誌を咥えて引っ張ってきた。
それを見て僕は赤面した。寝子さんが持ってきたのは、僕がベッドの下に隠していたエッチな本だったのである。
寝子さんは器用に前脚でページを捲っている。あるページで止めてパンパンと叩き始めた。寝子さんは裸の女性のグラビアを叩いていた。
よくよく見ると、寝子さんがさっき化けた・・・元がこの写真の女性だったのである。
寝子さんが僕に向かって微笑んだ――ように見えた。
僕がベッドの上に腰掛けると、寝子さんは僕の膝の上に寝転んだ。
すると寝子さんの体は急に膨らみだして――
また裸の女性の姿に変化した。
人間になった寝子さんは異様に軽い。猫の時と体重は変わらないのではないか。
僕は寝子さんをそっと膝の上からベッドに乗せて、立ち上がりTシャツを手に取った。ひとまず僕は寝子さんにそれを着せる。
(寝子さんに服を買わないとなあ)
今はネットショッピングも多数ある。
独身男性が直接来店して女性ものの服や下着を買いに行くという恥ずかしい思いはしなくていいのが現代の良いところだろう。
「ソウジ、コレ食ベタイ」
人間に化けられるようになって三カ月経った寝子さんだったが、言葉はまだ
それでも少しずつ人語を解するようになってきた。
寝子さんはグルメ雑誌を開き寿司の写真を指差して先ほどの言葉を繰り返した。
「今度の休みに行こうね」
寝子さんは満面の笑みで頷く。とても嬉しそうだ。
しかし寝子さんを猫の姿のまま寿司屋へ連れていく訳にはいかない。人間に化けさせて連れていくとしても、途中で猫の姿に戻ってしまうとパニックになるのは必至だ。
宥めるために「今度の休みに」とは言ったものの、どうすればいいのだろう。
そもそも猫に寿司を食べさせても良いのだろうか?寝子さんが食事をとる時は猫の姿のままなので、いつもキャットフードしか与えていない。
僕はインターネットで少し調べてみた。
海老や蟹、
次に書かれていたのは
さらに秋刀魚、
さらに更に常温で放置された
寝子さんの正体がバレないようにするのと健康面、この二つを気にしないといけないと思うと、食事をしに行くというのに胃が痛くなる。
寝子さんは人間に化けていても異常に軽く、猫の姿の時と体重は変わらないと思う。
そうすると寝子さんが人間に化けている時、質量保存の法則がはたらいているのではと考えられる。
そんな訳で、人間に化けていても寝子さんには、猫の時に与えている量くらいしかご飯を与えてはいけないのだと認識した。
そして僕は人間の姿に化けた寝子さんを連れて、近所の回転寿司店へ行った。
回転寿司であれば寿司は運ばれてくるし、会計も今はセルフレジで店員と接する機会も少ない。回らない寿司屋ではなく回転寿司店を選んだのは、僕のお財布事情に拠るところも大きいが、リスク回避でもあるのだ。
週末は家族連れで込み合うと思ったので、有給休暇を取って平日にした。時間もランチタイムを少し過ぎた午後三時頃。学校帰り、部活帰りの高校生たちがやって来る夕方の時間帯も避けた。なるべく他の客との接触を避けた次第だ。
僕と寝子さんはテーブル席に案内された。
隣の席は無人だったが、その隣のテーブル席には主婦三人組がいた。
主婦たちの前には寿司皿を十五皿ほど積み上げた三つの塔がすでに出来上がっていて、今はデザートを頬張っている。雑談に興じながらスプーンを進めるので食べるペースは遅い。多分まだ帰らなそうにないなと、僕は思った。
(逆にこちらが主婦たちより先に食事を済ませて帰ろうか)とも、考えた。
初めての回転寿司で、寝子さんは嬉しそうだった。
寝子さんはレーンに興味津々で、回って来る寿司をジッと眺めている。
魚の臭いが寝子さんの嗅覚を刺激したのか、寝子さんの鼻先が人間のものではなく、ノーズレザーと呼ばれる猫のものになってしまった。
目を見開いて唖然としている僕を放置して、寝子さんはレーンから皿を取った。
僕はハッと我に返って、寝子さんが取った皿を確認する。
寝子さんが取った皿は鰯だった。
これは摂り過ぎなければ大丈夫なヤツだと、僕は胸を撫で下ろす。
寝子さんはネタだけを取って口へ運んだ。
その時、寝子さんの口は耳元まで裂け剣のような歯がビッシリ並んでいる。
これじゃ、まるで口裂け女だ。
僕は振り返って辺りを見回した。近くには例の主婦しかおらず、他のお客さんは見当たらない。僕はさっきより深くホッと息を吐いた。
「ソウジ、食ベナイノ?」
「僕も食べるよ」
僕は寝子さんが残したシャリを食べてから、タッチパネルで自分の分の寿司を注文した。
寿司の一件から三カ月経った。
寝子さんの変化能力は上達し、人間に化けている間、顔の一部が猫に戻るようなことはなくなった。前は人間の姿に変化すると裸のままだったが、今は化けると服を着た状態になるようになった。
テレビを見て学習しているからか、人間の言葉もどんどん覚えて流暢になり、中学二年生ぐらいの言葉は話せるようになっていると思う。
週末の休みの日、僕は寝子さんと縁側で昼寝をしていた。寝子さんは人間の姿をしていた。
その時、玄関から僕を呼ぶ声がした。
「総司、いないの?」
「出かけているんじゃないのか?」
声の主は両親だった。
猫を飼っていることは両親に伝えている。しかし寝子さんの事は両親に伝えていない。
当たり前だ。
飼い猫が人間に化けられるなどと言って、いい大人が信用するものか。
元の猫の姿なら構わないが、人間の女性の姿の寝子さんを見れば母親がとやかく言いだすだろう。
「ご出身は?」「ご職業は?」と、母は絶対に矢継ぎ早に詮索してくる。
このままではマズいと思った。
そもそも僕と寝子さんの間で、親や知人に説明するための口裏合わせなど出来ていなかったのだ。
「寝子さん、両親が来た。悪いけど猫の姿に戻ってくれ」
「どうして?」
「それは……。ともかく!」
僕は寝子さんを急かしたが、彼女は元々猫。気まぐれでのんびり屋。
僕と寝子さんが押し問答をしていると、足音が近づいて来た。
「総司いるの?」
と、母が大声で呼びかける。
「ちょっと待ってて!」
僕も大声で母へ返す。
しかし母は「総司、いるのね。じゃあ上がるわよ」と、僕の発言は無視して玄関の引き戸を開けた。
「待て。ああ言ってるのだから、少し待とうじゃないか」
父は制止の声をかけた。
しかし母は聞く耳を持たなかった。
「良いじゃないの? この家、貴方の名義でしょ」
「そういう問題じゃない。実の息子とは言えプライベートが……」
父が言い終わらぬ内に、母はピンヒールを脱ぎ居間へ向かって歩き出す。
母の足音がどんどん近づいてくる。
「寝子さん、お願い! 急いで!」
「…………」
寝子さんは縁側で丸まって眠りに落ちてしまった。
もはや僕にはどうすることも出来ない。
足音が止まって振り向くと、母が僕の方を見て仁王立ちしていた。
寝子さんを見て母が僕に問う。
「総司、この方は?」
「えっと……」
僕はいま人生最大のピンチに陥った。
(猫は寝ているだけでいいな)と、天使のような寝顔で眠る寝子さんを見て、今は彼女を
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