第3話 顔のない飯(後編)
それから一か月半――。
まだ伊坂は(この食事は一体誰が誰のために作ったのだろう……)という疑問を払拭できていなかった。成美との会話の数日後から彼自身も牛丼屋でアルバイトを始め、徹底的にマニュアル化された外食産業の構造を、身を以て知ることになった。それでもまだその疑問は払拭できなかったのである。
そして、そのバイト先の帰り道、伊坂はとある店を見つけた。
道路沿いの野立看板には〈ナジム・バーガー〉という店名が大きく書かれていた。
茶色の看板に黄色い字で書かれた店名が、郊外の夕暮れ空の中に浮かんでいる。文字の下にはアライグマか狸であろうか、お店のイメージキャラクターが書かれていた。
伊坂は看板を見上げながら、(こんな店あったか?)と首を傾げる。
バイト先からの帰り道にいつからこの店があったのか、それも伊坂にとって大きな疑問だったが、その点については単に自分が今まで気付かなかっただけとして流してしまった。
もう一つの大きな疑問は、彼が〈ナジム・バーガー〉という店名に全く覚えが無いことである。自身の出身地にハンバーガー店は無かった。しかしいくらその場所に無いとは言え、全国にチェーン展開しているハンバーガー店は、テレビやネットでたくさんの広告を打っている。伊坂の身近に存在しなくても、画面越しの情報から嫌でもその存在と名前を知ってしまうものだ。まして彼は現在首都圏に住んでいる訳で、都心や繁華街に出かけた際に多くのファストフード店の実店舗も目にしている。そんな伊坂の記憶の中にこのハンバーガー店は存在しなかったのである。
しかし、あくまで彼の記憶にはないというだけである。最近になって業界に新規参入したお店かも知れないし、この町だけに出店している非常にローカルなお店かも知れない。
バイトに疲れた伊坂は丁度いま空腹であった。最初はバイト帰りに近所のスーパーへ寄って夕食用の食材を買おうと思っていたが、(これはいい機会だ。どんな味のハンバーガーなのか見極めよう)と、伊坂は店の中へ入っていった。
お店の内装は西部劇に出てくる酒場のようだった。木目を活かしたテーブルや椅子が並び、注文カウンターはイミテーションの酒瓶が並べられている。カウンターに立つ店員もカウボーイのような出で立ちである。恐らくカウンターの裏に厨房があるのだろう。入口付近に貼られたポスターには「あなたの口に お腹に 心に馴染むナジム・バーガー!」とキャッチコピーらしき文字がイメージキャラクターと一緒に書かれていた。
「いらっしゃいませ!」伊坂の入店に気付いた店員が満面の笑みで迎える。
伊坂はそのままカウンターへ行った。何があるのかメニューを眺める。ハンバーガー、チーズバーガー、照り焼きバーガーと、提供される商品自体はオーソドックスだった。
「ご注文はどちらにいたしましょうか?」
「それじゃあ、チーズバーガーで」
「セットにいたしますか?」
「はい」
「お飲み物とサイドメニュ―をお選びください」
「ポテトとコーヒーで」
「かしこまりました。ではこちらをお持ちになって、テーブルで少々お待ちくださいませ」
伊坂は店員へ代金を渡し、店員は代わりに伊坂へ番号札を渡した。
店員とのやり取り自体は他のハンバーガー店と何ら変わりはなかった。
伊坂は番号札を持ってテーブル席へ座る。
店内を見渡すと、伊坂の他に客は猫一匹もいなかった。
(ひょっとするとあの笑顔が苦手なのかな……)
テーブル席に着いて、ハンバーガーの到着を待ちながら伊坂はふと思った。
客が気に入らない相手でも家族でも、自身の感情をひた隠して、〈お客様〉へ向ける笑顔という名の盾。その笑顔に自分は温もりを感じないのではないか。とは言え伊坂も今は飲食店で働いている訳で、店員側が笑顔を装う事情も解っているし、自身もその笑顔の盾を効果的に使っている。
「お待たせいたしました」
うだうだ考えている内に、テーブルにチーズバーガーセットが運ばれた。
「ごゆっくりどうぞ」
店員が伊坂に向けて笑顔を見せた。伊坂は会釈だけ店員に返す。
運ばれてきたのは何の変哲もないハンバーガーだった。
伊坂はひとまずフライドポテトを口に運ぶ。ポテトは厚切りで、味付けの塩はそこまで濃くなかった。他のハンバーガー店と比べて油っこくもなく、フライヤーで大量にあげているとは思えない味付けだった。食感は水っぽくなく冷凍品を揚げたような印象は持たなかった。
そして肝心のハンバーガーはどうか。
包み紙を破って姿を見せたバンズは、潰れておらずふんわりとしていた。流石に焼きたてな訳ではないが、他の店と比べボリュームがあるように見える。パティは微かに炭火で焼いたようなにおいがして食欲をそそる。チーズは少し溶けてパティと絡み合っている。
伊坂はハンバーガーにがっついた。
十八年という短い人生の中で食べきたどのハンバーガーよりも、ナジム・バーガーのものが一番美味しい、と伊坂は感じていた。ハンバーガーそのものが美味しいというだけではない。ハンバーガーの味からひと手間と工程が感じられたことで、
(このハンバーガーは大勢の客に対してではなく、自分個人に対して作られている)
伊坂はようやくそう思うことが出来たのだ。
誰のために作ったのか相手が見える食事。
伊坂は上京して以来、初めてファストフード店でそれを感じることが出来た。非常に満足したのか、伊坂の顔は満面の笑みである。
そうなると、(このハンバーガーを作った人間の顔が見たい)と、伊坂がなるのは自然な道理である。
伊坂はカウンターへ向かい、店員に声をかけた。
「すみません」
「お客様。どうかなされましたか?」
店員はあくまで丁寧に応対する。
「その、ハンバーガーを作った人に会いたいんですけど……」
伊坂の言葉に困惑したのか、やや間が開いて店員が答えた。
「当店のハンバーガーに何か問題でもございましたでしょうか?」
伊坂の言葉は、商品に対するクレームのため調理担当を呼びたい、と捉えられたようだ。
伊坂は店員の困惑の理由を悟り、言葉に詰まりながらも返答した。
「いえ、そういう訳では……。非常に美味しかったのでひと言お礼をと……」
「そうでしたか。お客様にご満足いただいて何よりでございます。少々お待ちください」
そう言って店員はカウンターの裏の厨房へ向かっていった。
伊坂は恥ずかしくなった。高級フランス料理店等ならいざ知らず、市井のファストフード店で「シェフを呼んでくれ」のような真似をしたからである。テレビドラマで気障な成金男がやるのをよく見るが実際にこんな人がいるのかと、伊坂は思っていたが、まさか自分がそんな行動をするとは……。伊坂は顔を少し赤らめて俯いた。
「お待たせいたしました」
そうこうしている内に店員がやって来た。後ろには調理担当者の若い男が立っている。汚れのない白いシェフコートを身に着け、頭には短いコック帽を被っていた。
調理担当者の顔は温和そうな表情で、いかにも料理人な職人気質な感じでも、マニュアル通りに調理するアルバイトの若者といった感じでもなかった。
「ここのハンバーガー、美味しかったです。ただそれだけ伝えたくて……」
伊坂は緊張気味に調理担当の男へ伝えた。
「ありがとうございます」
調理担当の男はにっこり笑って、深々とお辞儀をした。
男が頭を挙げて元の姿勢に戻ると……。
それまで顔面の中にあった、目、鼻、口といったパーツがことごとく消え失せて、つるりとした肌一枚ののっぺら坊と化していた。
「…………」
余りのことに唖然として伊坂は絶句してしまう。
同僚の顔がのっぺら坊になっているにも関わらず、隣の店員は全く気にする様子もなく、深々とお辞儀をした。
そして、彼女も元の姿勢に戻ると……。
その顔面はのっぺら坊に変わっている。
二人ののっぺら坊はつるりとした顔面を、誇示するように伊坂に向けて近づいて来た。
余りの事態に伊坂はその場に気絶してしまった。
*
伊坂が目を覚ますとナジム・バーガーの店内は、西部劇の酒場のような店の内装が消え失せて、リノリウムの床と壁紙を剥がした跡が残る壁が広がっているだけだった。
窓には〈貸店舗〉と不動産会社の連絡先が書かれた張り紙がある。
伊坂が立ち上がると埃が舞った。埃の量から察するにもう長いこと、この物件が貸店舗だったことが解る。
伊坂が店外へ出るとハンバーガー店の野立看板は消失していて、同じ場所には〈動物注意〉の道路標識が立っていた。標識に書かれていた動物は狸だった。伊坂はナジム・バーガーのイメージキャラクターがアライグマか狸だったのを思い出した。
目覚めた伊坂は思いのほか冷静で、
(この現代に狸に化かされたのか……)
と、幼少期に祖父母や両親に聞かされた昔話を思い出していた。
そして、四年後――。
伊坂は大学を卒業し社会人となっていた。
今は昼食時。スーツ姿の彼が入っていったのは立ち食いそば屋だった。
立ち食いそば屋は全国にも存在するが、そのほとんどは都心に集中している。
提供までのスピードと低価格が、都心で働くサラリーマンの強い味方だからだ。
伊坂がかつて拒絶していた〈作った人間の顔も作る対象の顔も見えない食事〉の最たる例の気がするのだが、上京してからの四年間が彼を変えたのだろう。近藤成美がかつて伊坂に語った〈慣れ〉は、この状況を指すのだろう。
伊坂はたぬきそばが載ったトレーを受け取り、席へ向かう。
ふと、伊坂は振り向いて厨房を覗いた。
(どんな顔をした人が作っているのだろう?)と、伊坂が思ったかは解らない。
しかし、麺を茹でる鍋の湯気が立ち込め、調理担当者の顔は見えなかった。
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