第3話 顔のない飯(前編)

(この食事は一体誰が誰のために作ったのだろう……)

 トレーの上に乗ったハンバーガーのセットメニューを見つめ、伊坂紀明は考えていた。彼はとある地方から、この春上京した一人暮らしの大学生。彼の出身地にはチェーン店のファミリーレストランはおろかファストフード店もなかった。

 一番近い――と言っても車で三〇分はかかるが――市には勿論あるが、彼が地元で生活していた頃は、病院や部活動の遠征など、余程の用事がなければ自分の住んでいる町から出ることがなかったのだ。


 そんな訳で、伊坂が彼の人生の中でハンバーガーを口にするのは今年が初めてだった。存在も名称も形も、そしどんな食べ物かも、知識としては持っていたが、口にするのは初めてだった。その時の感想が、

(この食事は一体誰が誰のために作ったのだろう……)

 初めの言葉と同じものだった。それまで伊坂にとってハンバーガーは特別なものだった。彼の気持ちは都会の人間には奇異に映るかもしれない。都会には溢れかえるほどファミリーレストランもハンバーガー店も乱立しているのだから。

 しかしハンバーガーは彼の生活圏には存在していなかったのである。朝食や軽食なんかで母親が作ったサンドイッチが出ることはあるだろうけど、母親手作りのハンバーガーが食卓に並ぶというようなことは稀であろう。初めて口にするものに期待が膨らむという気持ちは、誰しも身に覚えがあるのではないか。そんな期待を持って口にしたハンバーガーに対して、伊坂が感じたのは味気無さだった。決して不味いと思った訳ではない。この味気無さが何なのか考えた時に出た感情が、

(この食事は一体誰が誰のために作ったのだろう……)

 である。伊坂は決してマザーコンプレックスではないが、都会の一人暮らしから来る寂しさが、彼に故郷の〈おふくろの味〉を無意識の内に求めさせていたのかも知れない。

 今回で伊坂がハンバーガーを食べた回数は七度目であった。ハンバーガー店も複数ある。一つのチェーンだけでなく複数試してみた訳だが、感想は常に変わらなかった。


 牛丼屋には大学で出来た友人から何度か誘われた。

 貧乏学生に優しい値段でお腹一杯にもなる。コストパフォーマンスは高い。

 牛丼に対しても同じ感想を抱いた。

(この食事は一体誰が誰のために作ったのだろう……)と。

 牛丼屋も様々なチェーン店を試してみたが、やはり感想は変わらずである。

 伊坂は友人から、ハンバーガーも牛丼も派閥に別れるということを聞いた。「自分はこのお店が好き」「そこよりはこっちの方が好き」といったように。味付けの好み、メニューの違い、サービスの差などが派閥形成の理由になることを知ったのだ。

 しかし、伊坂はまだそのスタートラインには立てていなかった。

 味の区別やサービスの違いなどはもちろん、彼にも認識できている。

 彼にとって問題はそこではない。

(この食事は一体誰が誰のために作ったのだろう……)

 この最大の疑問が払拭できない限り、特定の店が好きなどと結論付けられないと思ったからである。


 家で食事をしている時にも、伊坂は(この食事は一体誰が誰のために作ったのだろう……)と思うことが出てきた。

 彼が外食をするのは基本的に昼食の時だけで、夕食は自分で作っている。地元に飲食店が少なかったこともあり、彼は家族と一緒に外食することがあまりなく、口にしていたのは基本的に母親の手料理がほとんどだった。そんな訳でファストフードに限らず、外食をする機会がこれまでになく、どこかで伊坂は外食=贅沢と思っていた節がある。

 大学進学を決めた高校二年生の頃から伊坂は、一人暮らしのために母に料理を習った。料理の手順と一緒に節約方法――例えば見切り品の肉や魚を買って冷凍してストックしておく――なども教わった。

 母のアドバイスの中にはこんなものがあった。

「あなたはいつも一生懸命になりすぎる。たまには手を抜くことも大事よ」

「そう。スーパーのお惣菜だったり冷凍食品だったり。一品一品全部ひとりで作っていたら手間もお金もかかるから」

「あなたは大学へ勉強しに行くのだから、料理は二の次。もちろん健康に元気でいては欲しいけど、料理ばかりしていて成績が悪くなるっていうのは本末転倒よ」

 母の言葉を守り、時間のない時は冷凍食品やスーパーのお惣菜を食べる時もある。

 そして、そんな時にいつものあの感想が頭をもたげるのだ

(この食事は一体誰が誰のために作ったのだろう……)と。

 伊坂はファストフードや冷凍食品を、まるでのっぺら坊がのっぺら坊のために作った食事のように感じていたのである。


 そんな中、伊坂はハンバーガー店で働く友人を得た。彼女の名前は工藤成美と言った。

 成美は伊坂の疑問に次のように答えた。

「それは当たり前だよ。ハンバーガー店もファミレスも、店員はマニュアル通りにメニューを作っているから。マニュアルは短時間で一定の品質の料理をお客さんに届けるための物で、真心を込めた料理だったりおふくろの味だったり、そういうものとファストフードは根本的に違うんじゃないかな……」

 成美の十八歳の女子大学生とは思えない聡明な答えを聞いた伊坂は何となく腑に落ちた。「その理屈なら、スーパーの惣菜や冷凍食品も……」

「伊坂君が重視している〈誰かのため〉よりも、ファストフードと同じく短時間である程度の品質の料理って点の方が重要視されているかな」

「そうなんだ」

「私も含めてだけど、外食に関しては特別〈誰が作っているか〉とか〈誰のために〉とかはみんな気にしていないんじゃないかな。伊坂君はそういうお店が身近にない環境から来た訳でしょう。だから、その内こっちの環境にも慣れて気にしなくなるよ」

 成美は伊坂を〈田舎者〉のようには扱わず、丁寧に彼の疑問に答えた。伊坂も成美の話を聞いて、少しは心が晴れた。

 しかし成美が言ったように、ここからは〈慣れ〉、つまり時間の問題になるのだった。

 伊坂がこれからもファストフードで食事をし、彼の疑問に彼自身が(そういうものか)と納得するしか、疑問は払拭できない。それにはそれなりの時間を要する訳だ。


                                (後編へ続く)

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