第2話 首風船

 その日の晩は暑くて寝苦しかった。

 僕の部屋は家の二階にある。だから夜風に当たろうと窓を開けた。

 しかし夜風は生温く全く涼めない。それでも蒸した自分の部屋よりはマシだ。

 部屋に扇風機は設置されているものの、親から就寝中の使用は禁止されている。

 この国の気象はどんどんおかしくなっている。肌感覚でもそんなことはわかる。

 まだ五月だ。なにが初夏だ。移ろう四季なんてとうに無くなっているんだ。

 僕は地球温暖化に腹を立てながら、ボンヤリ夜空を眺めた。

 星なんてちっとも見えない。

 今の心境を漢字一文字で表すなら「無」だ。一向に眠気も来ない。

 それでも、ボンヤリ夜空を眺め続けた。

 すると――

 首が飛んできた。

 夜空をふわふわと人間の首が浮遊している。まるで風船のようだ。

 首は普通の人間の首よりひと回りほど大きく膨らんでいる。

 一体、何が詰まっているのだろう?

 子どもの頃、遊園地でヘリウムガスの入った風船を貰ったことがある。

 自分の不注意で手を離してしまい、スーッと風船は真上へ飛んで行った。

 ということは、詰まっているのはヘリウムガスではない。

 一体、何が詰まっているのだろう?

 膨らんでいる首の表情は笑顔だった。

 何がそんなに楽しいんだろう?

 なんだか僕は羨ましくなった。

 

 次の日の晩。

 また僕は二階の窓を開けた。夜風に当たるためというのはもちろんある。

 今晩は「また首が飛んでこないかな」という理由が追加された。

 星のない夜に、空を眺めて首をボンヤリ待つ。

 やがて――

 首が飛んできた。

 今日の首は頭が異様に膨らんでいた。口からは舌が垂れている。

 首の表情はやはり楽しそうだ。

 口を閉じていないと、中に詰まっている気体が漏れるんじゃと思った。

 こちらの心配はよそに、首は風船のようにふわふわ漂っている。

 どこまで、飛んでいくのだろうか?

 外へ駆け出して首風船を追って行きたかった。

 しかし深夜に外へ出ることは親が許さないだろう。


 今日の夜も窓を開けて首を待つ。

 でも、飛んでこなかった。諦めて僕は窓を閉めた。

 その時――

 バンッ! 

 と、何かが破裂する音がした。

 驚いた僕は窓を開けた。

 辺りを見回すと頭に大きく穴を開けた、平ぺったい人間の顔が地面に落ちている。

 不思議なことに、僕の他には誰も窓から頭を出してはいなかった。

 首風船に気づいているのは僕だけなのか?

 それでも、今日も首風船が飛んできたことに僕は喜んだ。

 平ぺったくなっているということは、骨が抜かれているんだと気づいた。

 一体、誰がどこから飛ばしているのだろう?

 

 翌朝、学校へ行く前に風船が落ちた場所を見てみた。

 首風船は無くなっていた。

 早朝に誰かが掃除したんだろうか?

 それとも――

 飛ばした張本人が回収したのだろうか?

 

 今日で四日目だ。

 僕はまた首を長くして、首が飛んで来るのを待つ。

 待っている間、つらつらと考えた。

 首が飛んでくる方角はいつも同じだ。

 誰かが人間の首を膨らまして、同じ場所から飛ばしているのだろう。

 いつも通りに今晩も首が飛んできた。

 おっと……?

 よく目を凝らすと、首が飛んできた方のマンションの屋上に女の子がいる。

 僕の方をジッと見つめている。そんな気がする。

 彼女も僕と同じように、首風船に気づき、こんな夜にそんな場所にいるのだろうか?

 それとも彼女が首風船を飛ばしている張本人なのだろうか?

 

 マンションの屋上で僕はその女の子とキスをした。

 何度も何度も口づける度に、女の子の唇が僕の唇に覆い被さる形になった。

 女の子は僕の口に息を大きく吹き込む。何度も何度も。

 次第に僕の頭はどんどん膨らんでいった。

 女の子は僕の唇から口を外した。

 最後の仕上げとでもいうように、女の子は僕の唇の表面を舐めた。

 途端に口が開かなくなる。まるで糊付けされたようだった。

 すると――

 僕の胴体から首が外れて浮かび出した。

 こうして僕も首風船になった。

 彼女は浮かんだ僕の首を見て嬉しそうに笑っている。

 僕もなんだか嬉しくなって笑った。

 風に乗って僕の首風船は飛んでいく。

 人間は飛べない。でも今、僕は首だけで飛んでいる。

 人間のままだったら見ることが出来ない景色が目の前に広がっていく。

 今の僕は自由だ。

 そう思った矢先、飛んで来たカラスが僕をつつく。

 僕のこめかみの辺りに穴が開いた。

 僕の顔からはシューシューと空気が抜け、旋回しながら地面に落ちた。

 落ちた僕の顔をトラックが踏みつける。

 あれ? 僕の脳味噌と頭蓋骨は一体どこへ消えたんだ?

 人間の頭の重さは平均四から六キログラム。空気を入れたぐらいで飛ぶわけはない。

 いや、それより――

 カラスにつつかれ穴が開いて、トラックに轢かれるなんて、マンガか夢だ!

 これはマンガか夢だ! そうに違いない!


 僕は目を覚ました。

 首に手を触れてみる。僕の首は胴体ちゃんと繋がっている。

 やっぱり、夢だったのか。これで一安心だ。

 念のため、顔にも手を触れ撫でまわしてみる。

 額、頬、顎、ちゃんと固い。頭蓋骨も中にちゃんとある。

 こうやって思考しているので、ちゃんと脳も詰まっている。

 首風船になっても、気流や鳥、車や飛行機など色んな厄介なものが現実には存在する。

 そう考えると、大して自由ではないな。

 僕の首風船に対する期待や憧憬は急速にしぼんでいった。


 五日目の夜。

 自分で首風船になるのは嫌でも、首風船を見るのは飽きない。

 そして今日も飛んで来た。

 マンションの屋上を見ると、やはり女の子がいる。

 思い切って手を振ってみた。彼女が振り返してくる。

 首風船が僕の部屋の窓の前まで来た。

 僕は首風船を取って、彼女の方へ打ち返した。

 ゆっくりと、首風船は彼女の元へ飛んで行った。

 彼女はまた、僕の方へと首風船を投げた。

 やはり首風船を飛ばしていたのは彼女だ。

 今度、彼女に首風船の作り方を聞いてみよう。


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