通り過ぎたあとで

Suzubelle(すずべる)

第1話

六月の東京は、まるで誰かの機嫌をうかがっているみたいな天気だった。

晴れ間も見せるけれど、それはほんの気まぐれで、すぐに空はムッとした灰色を取り戻す。

午後の風はぬるくて、肌にまとわりつく湿気を何とかしようと拗ねたように吹く。

傘を持つべきか、それともいけるか、と空を仰ぎながら、私は有楽町の駅を出た。


高架下をくぐり抜け、オフィスと商業施設の境目のようなあたりを歩いていたときのことだった。

人の流れはまばらで、雨が降るかもしれないと皆どこか急ぎ足だった。

そんな中で、私の足だけがふいに止まった。


——この匂い、知ってる。


誰かがすれ違いざまに残していった、わずかな香り。

目に見えないものなのに、私の記憶の奥を、するりと引き抜くような確かさがあった。


それは、昔、好きだった人が使っていた香水の匂いに、どこか似ていた。

もう何年も前のことなのに、まるで昨日のことのように胸の奥がきゅっとなる。


香りって不思議だ。

目に見えないくせに、言葉よりも手強くて、触れられないくせに心を撫でてくる。

そして、こちらの準備なんておかまいなしに、記憶の奥の扉を押し開けてくる。


濡れたアスファルトは、朝方のにわか雨の名残だったのかもしれない。

空は相変わらずムッとしたままで、ビルの谷間から届くわずかな光が、水たまりの輪郭をぼんやりと浮かび上がらせていた。


カレと会っていた頃も、ちょうど今くらいの季節だった。

梅雨入り直前の、まだ覚悟ができていない空気のなかで、

彼はいつも、薄手のジャケットの襟元から、その香りをほのかに漂わせていた。


「香水、変えた?」

と聞いた私に、彼はふっと目を細めて、「気づくの、遅いよ」と笑った。

まるでからかうようでいて、でも、どこか嬉しそうで。

あの目の形も、唇の端の動きも、もうずいぶん前なのに、まだ思い出せる。

名前よりも先に、笑い方が浮かぶというのも、なんだか不思議だ。


角を曲がっていく背中を軽く目で見送った。

たぶん、あの香りの主はまったくの他人だ。

だけど、確かにその一瞬だけ、私の中の「過去」が、街の風景と重なった。



私たちの恋は、たしかに終わった。

終わったときは、それなりに痛かったし、ああ、もう戻れないんだなって思い知った。

でも、不思議と、嫌な記憶ってあんまり残っていない。

人の脳って都合よくできてるな、とたまに思う。


「良い記憶」だけが、香りに引き出されるように、ぽつぽつと浮かんでくる。

恋人ではなくなっても、誰かを好きだった自分を、

どこかで肯定できるようになったのかもしれない。


いま私は、傘をカバンの中にしまい込んで、足取りも軽くなっている。

過去の私は、きっとこんなふうに空を見上げる余裕もなかっただろう。あの頃はいつも、未来への不安を抱えて、足元ばかり見ていた気がする。

思い出の中の彼と、街を歩く現在の自分が、すれ違った気がしただけ。

それだけのことなのに、なぜか少し背筋がしゃんとした。


六月の東京は、匂いで満ちている。

雨の気配、花屋のデルフィニウム、カフェのドリップコーヒー。

でも、そのどれよりも強く心を動かすのは、やっぱり、人の残していった香りだ。


「もしも」なんて、もう考えなくなったと思っていた。

けれど、ふいにこんなふうに記憶が引き出されると、やっぱり少しだけ、心がざわめく。


——もしも、別れなかったら?


——もしも、今日、あの人と待ち合わせしてたら?


そんなことを考える。

でも、それはもう雨粒みたいなもので、掌に乗せても、すぐに消えてしまう。


私は、それでいいと思っている。


「今」はたいしてドラマチックじゃないけれど、静かに更新され続けている。

駅までの道、雨上がりの舗道に散ったタバコの箱、ちょっとしけたクロワッサンの匂い。

そんな取りとめもないものたちの中で、私はたぶん、毎日すこしずつやり直している。


あの頃の私が想像していた未来に、今の私は登場していない。

もっとちゃんとしてる予定だった。もっと誰かと一緒にいると思ってた。

だけど、まあ、ひとりでも意外とやれてるし、

部屋に帰ってスリッパがぺたぺた音を立てるときなんか、妙に安心する。


花屋の店先に、紫陽花が並んでいた。

梅雨時の主役みたいな顔をして、青とも紫ともいえない色で、ちょっと得意げに咲いている。

そういえば昔、彼が「花って見ても何も思わない」とか言っていた気がする。

なんでそんな冷たいこと言うかなあと思ったけど、いま思えば、ただ照れてたんだろう。

そうやっていちいち思い出してしまうあたり、私もなかなか往生際が悪い。


でも、その程度の名残なら、もう嫌じゃない。

生活の片隅に、ひょっこり座っているぐらいの過去なら、いても構わないと思える。


香りはとっくに風にさらわれてしまった。

それでもあの一瞬が、日々のどこかでこすれてすり減った心を、

ちょっとだけ整えてくれた気がした。

そういうふうに記憶が作用することもある。困るけど、ありがたい。


空を見上げると、ちょうど雲が切れて、太陽がビルのガラスに跳ね返っていた。世界に色が戻ったかのように、街が輝き始める。

さっきまで「どうせ降るんでしょ」って思ってたくせに、陽が差すと急に機嫌がよくなる。

まるで私みたいで、ちょっと笑えてくる。


足を止めていたことすら忘れて、また歩き出す。鞄の中でスマホが何度か震えたけど、すぐには見なかった。いまの私には、いまの速度がある。誰とも比べずに、ただ歩いていけるリズムが。


ふと、前を歩いていた女の子のバッグにつけられたキーホルダーが、くるりと揺れた。香水の香りとは違って、こういう、ほんの些細な瞬間が心に残ることもある。それがきっと、「今」を生きるってことなのだと思う。


私は、いまの自分を、ちゃんと好きでいる。


いい匂いに引き戻されたとしても、足元はちゃんと、この六月の街に着いている。なんだかんだで、それはちょっと誇らしい。




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