事例1 『私と師匠とゾフィ』‐幕切れ

 あれから時間だけは無駄に流れていった。私は師匠の引継ぎを済ませて、書類の束に埋もれていた。早いもので、私がレットウットに来てからちょうど2年を迎えようとしていた。


「ほんとに帰っちゃうの?」


「まぁね。もうここに残る理由もないし」


 私は自分の元の家に帰る準備を始めていた。師匠に託された仕事もいちおうは片付けた。ここにいつまでも居候するつもりはない。

 

 オリビア師匠の最期の言葉には、私にゾフィを託すという言伝があった。

 だが一緒に暮らすなんて到底無理だろう。私みたいな性根の腐った奴では、彼女の教育に悪影響を及ぼしてしまうから。

 住み慣れたこの家で、親しく聡い従者たちに任せておいたほうがよっぽど少女のためになる。

 私も安心できる。だから私はゾフィの成長を、遠くから見守ることを選んだ。少なくとも今は、それが最良な選択な気がした。


「アンネはこれからどうするの?」


「当面は『魔女の黄昏』の依頼を受けることにするよ。生活を続けていくためにね」


「え。なにそれ」


 そういえばゾフィに、魔法依頼サービスの話をするのを完全に忘れていた。魔法使いのくせに自営業をしているなんて告げたら、彼女は私を蔑むだろうか。


「つまり人助けするってこと」


「へぇ。じゃあママと同じだね」


「う、うん」


 嘘は言っていない。まだ師匠以外から依頼をもらったことはないけれど、まぁそういうことにしておこう。


 人は生きて死ぬ。ただそれだけだと思っていた。

 人と関わってもいつか死別する日がくる、それが辛くて寂しいからこそ他人には無関心で生きてきた。でも師匠がいなくなった時に、私のなにかが決定的に変わった気がした。


 悲しくて心はずっと痛かった。なのに、オリビア師匠との思い出はずっと私の奥底で煌めいている。

 この感情はなんていうのだろう。たくさん後悔はあったはずなのに。ふと師匠の笑っている顔を思い浮かべると、これまでの彼女とのやり取りがすべて愛おしいものに感じられた。

 生きてるとか死んでるとかどうでもよくなる。ただ純粋に、彼女と共にいられた事実が幸せで素敵なことだったと思えてくるのだ。


「人に尽くせる素敵な女性になりなさい」


 オリビア師匠。私はあなたみたいに、他人を尊重できる自信がない。死に際にあなたから託された言葉も、私では役不足であると、無理だからと半ば放棄しかけていた。

 だけどあなたの姿を何度も思い浮かべるたび、この胸の底にある煌めきに気づくたび、これをこのまま風化させてしまうのはもったいないと思った。

 この幸せと悲しみは、あなたという人が生きた証だから。私の感情でしかそれを表現することができないものだけれど。いつまでも変わらずにこの気持ちを思い出していきたい。


「わかってます。師匠……」


 ひとりらしくない連想に耽りながら、私は師匠の家から引き揚げていった。従者たちに挨拶を済ませて家を出た。私の後ろ側で列をなして、みんなが見送ってくれた。

 レットウットの郊外を歩いていく。子どもたちの魂が眠る丘を横目に通りすぎると、舗装された大きな道に出る。そこでは私が乗るはずの馬車がぽつりと待ちぼうけていた。


「たまには顔を出すから。元気でいてね」


「アンネこそ。いつでもここに帰ってきていいからね」


 私とゾフィは「またね」を告げて手を振り合った。ぬるくて気持ちのよい風が背中を押してくれて、私は一歩目を力強く前に進めた。

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