「……よく、寝てたから。」

 彼女の寝顔が瞼裏から離れないままに、言葉は自然と唇から零れ落ちた。

 「……え?」

 じゅりが、驚いた、というか、拍子抜けしたような声を出す。

 「よく、寝てたから?」

 「うん。」

 返した自分の声が、妙に幼く聞こえて、雛子はなんだかぼんやりした気分になった。だからだろう。ぼんやりしていたから、とっととその場から逃げ出す、という当初の目的を果たせなかった。雛子は、じゅりに腕を捕まえられたまま、馬鹿みたいにその場に突っ立っていた。

 「それで、帰ったんですか?」

 「うん。」

 また、自分の耳に届く声は、なぜだかひどく幼い。

 「……私の、ため?」

 おそるおそる、といった感じで発せられたじゅりの問いに、今度は雛子は答えられなかった。じゅりのため。そんなにやさしい理由で自分が彼女を放置したわけではないと、自分が一番分かっている。

 そう、自分が一番……、と思って、そこで雛子ははっと、我に返った。

 「別に、そういうわけじゃない。」

 発した声は、最大限によそよそしく。一度寝た相手とは、別に交際するに至らなくても、特別親しい友人、という感じで付き合うのが雛子の性に合っていたけれど、じゅりにその感覚が通用しないことは分かっていた。

 いつものように常連客で客席が埋まった行きつけのバーで、おんなと争っている所を見られるのも嫌で、雛子はじゅりの手を、無理やり退けた。

 「もう、いいでしょ? 付きまとわないでくれる?」

 よそよそしい、を一歩越えて、敵意のある声が出た。自分でもそこまでの感情を声に込めたつもりはなかったから、少し驚く。じゅりもたじろいだようで、雛子の腕を掴み直しはしなかったから、これ幸いと雛子は足早に店を出る。

 さすがにこれ以上じゅりもついてはこないだろう、と思って、店から少し離れた路上で足を止めると、一拍遅れて再び背後から腕を引かれた。

 「……なに?」

 振り返りながら、なるべく感情を込めないように問いかけると、半歩後ろに立っていたじゅりが、泣きそうな顔で雛子を見上げた。

 その顔はなんというか、どこまでも幼かった。おんなの涙を武器にできるほどの成熟をしていない、芯から泣くためだけの涙が、そこにあった。

 そんな顔を見せられてしまうと、さすがの雛子も、やっぱりたじろぐ。

 くしゃくしゃの、幼女の泣き顔。自分の泣き顔がちゃんと武器になることを知っているおんなの涙となら、これまで何度だって向き合ってきたし、対応の仕方だって分かるけれど、こんなに純粋に悲しい顔で泣かれてしまうと、どう扱っていいのか、とんと見当もつかなかった。

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