「あのこ、毎晩来てるよ。」

 長い付き合いになる、長い黒髪のうつくしいバーテンダーが、カウンター越しに雛子に囁いたのは、じゅりを抱いた晩からちょうど一週間後のことだった。その一週間は、在宅でやっている仕事がやたらと忙しく、街に出る余裕もなかった。それでも忘れられない菜乃花のことは、悔しくなるほどずっと頭にあったけれど、じゅりのことはころりと忘れていたので、雛子はそう言われてもなんのことだか分からず、こくりと首を傾げた。

 「あのこ?」

 「そう、」

 先週ナンパしたこ……、と、説明しかけたバーテンが、口をつぐんで視線で店の入り口を示した。まだなにを言われているのか分かっていない雛子が、視線の先を肩越しに振り返る。するとそこに、じゅりが立っていた。今日も今日とて、細い足が際立つミニスカートをはいて、長い髪の毛先をきれいに巻いている。

そこで雛子はようやく彼女のことを思い出し、やっぱり好みじゃないんだよなあ、と思った。子どもみたいに小さな顔は強張り、大きな両目が睨むみたいに雛子を見据えている。

 「じゃあ。」

 雛子はポケットから取り出した金で支払いを済ませ、とっとと店を出ようとした。厄介ごとは、嫌いだ。気に入りの店だけれど、しばらくは来られなくなるな、と、残念に思ったけれど、それはまあ、不用意に自分のテリトリーで子どもを口説いた自分が悪い。バーテンが、雛子を軽く咎めるような目をしているのが視線の端に引っ掛かり、雛子は苦笑しながら席を立ち、じゅりの隣をすり抜けて店を出ようとした。すると、その右腕を、思いのほかしっかりした強さでじゅりが掴んだ。

 「……なにか?」 

 一度肌を重ねた間柄というのを切り捨てて、雛子は最大限よそよそしい声を出した。じゅりの今にも泣きだしそうなくらい緊張しきった硬い表情を見るに、そうすれば彼女は諦めて手を離すと思ったのだ。けれど、じゅりは痩せた手でしっかりと雛子の手首を掴んで、離さなかった。

 「……なんで、先に帰ったの?」

 少し掠れた声で、じゅりが言った。雛子は適当にその問いを流して、そのままおんなから逃げ出そうとしていたのだけれど、ふと、彼女の寝顔を思い出した。すやすやと、この世の憂いなどなにひとつ知らないような顔で眠っていた、彼女を。

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