27話:補強材料、あるいは不当なエクスキューズ
「くれぐれも言っておきたいのは、淡田彗星は作家性を維持するために早瀬莉子との関係を選んだ部分があるということをぼくは否定するものではないということです」と私は言った。「それはひとつのディテイルではあり、同時に安賀多先輩にとってのエクスキューズではある」
「じゃあ、それでいいじゃない?」と安賀多先輩はほんのかすかに目を湿らせながら言った。
「悪くはないです。むしろ妥当かつ無難と言える。だれもが欲しがっているエクスキューズだ。淡田彗星は元妻に対してもこのエクスキューズをちゃんと語ったはずです。
恋愛感情だけでは先輩の母親が納得したかは若干疑わしいですし。
1年極めて円滑ではないにしろ家族としての生活は維持しているわけですから、安賀多先輩の成人かもしくは進学まで待ってもいいはずだが、それは最低限度の折り合いというやつでしょう。淡田彗星も数年待てば50になる。一般的に生物の認知機能の問題として充分に時間があるとは言えない。1年が最大配慮であったと思われます。
これはこの話の最初に尋ねた離婚前の家庭状況と合致します。すべてがいびつではあるが、最低限度丸く収まってはいる」
「実際、きみの言うようにすくなくとも父さんの認識としては復活できてるわけだしね。判断は正しかったと思うよ」
「先輩の母親が先輩を淡田彗星から遠ざけなかったのも父親というファクターの他に、あなたが淡田彗星作品についてよい影響があると理解していたのでしょう。先輩は、淡田彗星に作品の感想を言うことがあるわけですから、早瀬莉子ほどではないにしろ、影響はあると考えられる。
安賀多先輩と淡田彗星の接触ができるように先輩の母親がしているのも、おそらくそのエクスキューズになるでしょう。これはぼくも依頼開始段階ではわかっていなかったディテイルですが」
「つまり、お母さんも淡田彗星のファンだってことが言いたいわけだよね?」
「そうなります。20年そばにいたわけですしね」
「柴田先生もそうだし、出てきたひとたちがみんなお父さんの作品づくりを優先してる。しあわせなのかもね」
「読者に愛される大作家・淡田彗星は、自身では解決できない枯渇に直面していた。そして、周りのひとびとは全員それを救いたいと思った。エクスキューズとしては本当にソツがない」
「それだと客観的に見れば、という注釈はつきそうだ」
「そうですね。客観的に見れば注文のつけようはいくらでもある関係です。ただぼくとちがってこの依頼の登場人物たちは客観的になど見られない。残らずみんな作家としての淡田彗星を第一に考えるんですよ。関係性が深い中で、文学史に燦然と輝く大作家の才能の枯渇など見ていられない。それが復活するのであれば、自身の感情や立場などどうでもいいもののように扱う」
「その点ではまるできみのようだけど」
「ぼくには自己犠牲の精神はないので根源的には類似性はありませんが、およそ人間味のある活動をしないという点ではそうかもしれません」
「自覚はあるようでなによりだよ」と安賀多先輩は笑った。「ただ、きみが一貫して言ってしまっているように、その補強材料はとても納得感もある気がするけど」
「それは安賀多先輩もまた関係性が深いからですよ。先輩が依頼を持ってきたときの感情のとおりに、父が勝手に自分たちを捨てた、と言ったほうが健全だろうとぼくは思います」
「なるほど。きみはそこが納得できないのか」
「安賀多先輩もこのことにはほとんど気づいていた。先輩のこの依頼の本当の目的は、淡田彗星が恋愛感情の天秤だけで、自分たちを『捨てた』と思えないということです」と私は言い切った。「だからしきりに本当にふたりの関係は離婚後からなのかを気にしていた」
「……おおむねそうだけど、関係がいつからかについてだけは、べつの理由もあるんだけどね」
「なるほど? 興味深いですね。脇道のようなにおいがしますが」
「脇道だよ」と安賀多先輩は笑った。「ただ重要ではある。きみは早瀬莉子さんと父がなんと言うか……軽い感じではなくて、性的興味を含む意味での恋愛感情を抱いたのはいつだと考えている?」
「早瀬莉子は離婚後だと言っていたと記憶していますし、嘘はないと思いますよ」
「講演は厳密には4年数カ月前のことみたいだけど、ここでは5年としようか。そうすると安賀多賢章が離婚したのは3年前だから、明確に2年ものズレがある」
「正しい認識だと思います」
「だからね、鴫沼住春くん。3年間だ。わたしはきみほど父の著作に詳しくないが、きみが談話スペースで言った離婚してから5年間で4冊出版したというのは正確ではない。まだ5年たっていないから」
「講演会の半年後に出版されているものをカウントするか悩みました。3年間で3作とすべきでしたね」
「だからわたしはきみがすでに5年前に恋愛感情は互いにある関係だったって考えてると思ったんだけど。離婚してようがしていまいが、離婚のようなものだとみなした、ととった」
「ふたりが再会したことをぼくは作家性の回復のはじまりと考えていたので、再会からカウントしてしまいましたね」と私はミスを認める。
「繰り返しで恐縮だが、それはきみ自身が補強材料が強いエビデンスだと認めてることにならない?」
「一般的にはそうですよ。だから、そう開示すべきだという考えは今日つねにあり、ここで開示しています。ただ単に開示するか迷った結果の凡ミスです。慣れないことをするものではないという一般論で説明がつきます」
「恋愛感情は早瀬さんの説明どおりだと思うことにしたけど、それはあってるんだね?」
「もうお気づきかと思いますが、恋愛感情も5年前を疑っていました。その推理については外しましたが。20年ぶりに会いに行ったのに、連絡先すら交換せずに叱って帰るひとがいる可能性は考慮しませんでした。作家性の回復は早瀬莉子と淡田彗星が連絡するようになった離婚後からですので、3年間でまちがいないです」
「ええと、きみは推理外すの?」と安賀多先輩はすべてを訊いてから意外そうに言った。
「あ、シデ先輩は結構推理外しますよ! 細々した推理を合わせると正答率98%くらいの体感ですね。まあ、あまり自身の推理を信奉するタイプではないみたいなので、間違ってもほとんどすぐに自分で気づいちゃいますけど」
「ぼくの失敗を嬉々として語るな」
「いやいや、98%くらいっていうのがいいんですよ」
「100%が最高に決まってるだろ。百分率なんだから」
「100%なんて不確実要素が多いですからね。求めれば時間もかかる。でも、3倍4倍早ければ基本的に無敵じゃないですか。98%を3回連続で外す確率は12万5千分の1、4回だと625万分の1ですよ。5回なら3億分の1。やはりスピード……! スピードはすべてを解決する……! シデ先輩の能力を考えれば運に左右される100%よりも、5倍の推理スピードを出すほうが再現性があります。つまり、完璧よりも完璧なんですよ!」
「評価が高えし、熱量も高えし、計算するにしても仮定が雑すぎる」としばっさんが言ったが、おおむね私もしばっさんには同意だ。
宮田は私に対する評価が高すぎる。
「名探偵の意外な一面が知れてなによりだけど、閑話休題しよう。そらしておいて恐縮だけど」と安賀多先輩は言った。「結論として、それでもきみはわたしにはその一般的なエクスキューズには甘えるなと言うんだね?」
「この話の補強材料はぼくにとっては起こったであろう肉感みたいなものが欠けているんですよね。想像できないというか、そうだったんだろうがそうは思えないという二律背反的な事象です」
「そこまでの力量が淡田彗星にないから?」
「いや、そこはぼくの評価はべつとして、理解はできるんですよ。大作家のためになにかしようというところまでは。ただ度を越している。たとえば安賀多先輩の母親がそうです。別れるまでは理解できるが、そのような父親と娘を会わせようとすることは理解できない。しばっさんもそうです。昔の教え子のためになにかしてやるのは理解できるが、伝書鳩をしたり探偵劇をセッティングするのまでは理解できない。
なぜそこまでしてやる必要があるのか、という疑問がことの大小によらずよく発生するんですよ。歩道にある大きな石を路傍に避けるのはもちろん理解できるが、だからと言ってわざわざポリスラインを貼るのはやりすぎた。そんな感じですね」
「それだけ魅力的だってことでいいじゃない?」
「それは普段ぼくが言うような意味ではなく、もっとプリミティヴにフェアネスを欠いています。柴田哲朗や早瀬莉子や先輩のお母さんは好き好んでそうしているから勝手にすればいいが、先輩はなにも自由に選択できていない。そもそもお母さんと暮らすのは既定路線だと言いますが、結局先輩はこれから東京に戻る。こちらの高校に通う意味がそれほどあったとは思えない。そんなものを既定路線で許していいわけがないんです。実際問題、淡田彗星に娘とふたりで暮らすだけの生活力があろうとなかろうと、そこに早瀬莉子の存在がちらつくおそれがあろうと、先輩にはすべてを開示して選択肢を与えるべきです」
「まあ、そこはあえて口を挟むが、世界でおまえに理解しにくいことの上位だろうと思うよ」としばっさんは言った。「おそらく将来なにものかになるだろう者には、そうでない者のことはわからんよ」
「かりにそうだとしても、淡田彗星がそれに甘えていい理由にはならない」
「登場人物全員の願いどおり、というところがポイントなわけか」と安賀多先輩は言った。
「左様です。だれも彼もが願ったとおり、淡田彗星は作家性を回復することができた。安賀多先輩自身もふくめて」
「それがつまり、きみが秘匿してきた『捨てた』の補強材料ということだろう? 何度も言うがそれでいいじゃないか」と安賀多先輩はすこし怒っているかもしれないような口調で言った。「補強材料については充分わかったし、それは恋愛感情を大きく越えるものであるとわたしは思う。ただし、きみはわたしの質問に答えてくれていない。それでもなお、両親の離婚の主原因は恋愛感情だったときみは言いたいということ?」
「先輩のその質問に答えるとすれば」と私は前置きする。「恋愛感情でも淡田彗星は早瀬莉子を向いているのはまちがいないです」
「ただそれは恋愛感情以外の要素が補強されているときみが言ったばかりだろ」と安賀多先輩は言った。
「純度100%の恋愛感情ではない。往々にして、純度100%ではない恋愛感情はもはや恋愛感情ではない。その主張はたいへんよくわかりますが、恋愛感情で淡田彗星が離婚を選んだということもまた、事実です」
「現実問題として?」
「はい。いま、淡田彗星は先輩の母親よりも早瀬莉子に対する恋愛感情のほうが強い。極論、淡田彗星がこちらに来てまで会う必要はないし、親密な関係を結ぶ必要が必要ない」
「直接的に親密な関係ではない可能性はあるよ?」
「2年も前に息子に紹介するか悩む関係ですよ? それに、もし親密でなかった場合に、早瀬莉子がさきほどそう言わない理由はどこにもありません。彼女はただたんに先輩に恨まれるだけになり、淡田彗星と先輩の父と娘の関係に不要な疑いを与えるだけの沈黙です。弁解などではなく、説明すべきレベルの認識のちがいになります」
「黙っている価値がまったくないと」
「ないです。推論の領域にはない。その行為を早瀬莉子が自覚的にやっているとすれば、もはや悪意に近しい。彼女が先輩に悪意を向ける理由がない」
「きみはいま、私に対して父にもっと怒っていいと言っている?」
「まさか。さきほど言いました。安賀多先輩も淡田彗星のことが好きな登場人物のひとりなんですよ。その感情を否定するのはぼくの役割では決してない」
「ならばなぜきみは安易にわたしを逃がしてくれないのだろう?」
「淡田彗星や先輩の母親や早瀬莉子や、柴田哲朗にどんな事情があれ」と私はなにかに怯えながら言った。「先輩が父親に捨てられていい理由にはならないんですよ」
「まあ、それはそうだ」とふたたび名前を挙げられたしばっさんは言った。「その点についてはもうしわけないとすら思う」
「先生はもうしわけないことはしてないですけどね」
「俺も賢章の復活を願っていたという点では同じことだよ」
「それで言うと、わたしも願っていたカウントなんですよ」と安賀多先輩はすこしさみしそうに言った。
「……ぼくはそのように思ってほしいとは思わない。先輩は淡田彗星と深い関係があると同時に、安賀多賢章の娘でもある」と私は言う。「それが補強材料をここまで秘匿してきた理由です」
「わけてべつべつに考えろということ?」
「どちらもあるものをやさしい世界の基準で塗りつぶすのは健全とは言えないということです。塗りつぶして完全に忘れられるならそれもいいでしょう。でも、そういうわけにもいかない。安賀多先輩はこのさきもずっと安賀多賢章の娘です。いつか再燃して破綻するかもしれない要素を抱えることを本当にあなたは望むと言うんですか?」
「それだときみは、わたしの気持ちしか考えていないことになる」と安賀多先輩は私にとってよくわからない表情をして言った。「他人の気持ちはわからないと言っているのにもかかわらず」
「そうなりますね。ぼく自身にとっても不思議なことですが」
「コメントしにくいね」
「そうかもしれません。まあ、しかしながらぼくにできるのはここまでです。むしろ、すでに役割を逸脱している。あとは安賀多先輩の問題です」と私はまったく清々しい気持ちではないが高らかに言った。「これで、この依頼は完全に解決されました」
高らかに終結を宣言することが、せめてもの探偵としての矜持であるかと誇示するかのように。
ここで鳥でも鳴いてくれればいい締めになるのだろうが、現実はそう都合よくもいかない。
間。
時計の針が動く音が聞こえそうなほどの静けさというわけでもない。グラウンドからはおそらくサッカー部の声が聴こえてくる。野球部が練習を終えて、交代したのだろう。
カタリ。
音はしないが、時計の分針が動くのが見えた。
そこで、ふむ、と宮田は言った。
「さすがは鴫沼住春。途中はめずらしくグチグチイジイジグダグダしてたけれど、お見事な解決でしたね」
「長々しい修飾のすべてが余計な稀有な例だ」
「お見事も!?」
「そのくらいの自覚はある。解決はしたが、見事とはいいがたい」
宮田はニヤリと笑う。
「まあ、なんとか間に合いました。エピローグが欠けてしまうことはやや名残惜しいですが、じつは私そろそろ塾行かないといけないんですよ!」
ちなみに、空気を読んで席を外すなどというセンチメンタルな行為や、沈黙した場を和ませる行為ではなく、本当に塾に行くのだろう。
なにしろ依頼が解決しているいま、宮田には空気感をコントロールする気はまるでない。
いつもそうだ。
宮田はいつも自分にとって必要なことがなんなのかは見失わない。
「あれ、宮田さんってまだ1年でしょ?」と安賀多先輩が思わずつられて言う。
「親がここから2年頑張らせる気なんですよねえ。シデ先輩みたいに生まれたときから学力安全圏なわけではないので仕方ないですね」
「まあ、宮田はあんまり鴫沼が読むような本が好きじゃなくて、鴫沼のような論理展開を好んでなくて、鴫沼があまりにも強烈すぎるから気づかれにくいが、じつは賢いんだよ。勉強はちゃんとする。こいつらどっちも定期試験1位だしな」としばっさんが私にとっては確認すべきことでもない情報を付加した。
「え!?」
「あー、安賀多先輩! いまのはちょっと!」
「ごめん。あまりに意外すぎた」
「シデ先輩がバカみたいに頭いいから、たいていいつもこうなるんですよ。それにですけど、If I'd spoken properly, would you have talked with me like you did today? 」と宮田はまたニヤリと笑った。「なんてね」
「いや、おまえがキチンとしゃべったことなんてないだろうが」と私は言っておいた。「だいたい文学に興味がない文芸部員なのは事実だろう」
「苦手なものを摂取しようというはかなげな文化活動ですね!」と宮田は言って、安賀多先輩に、「じゃあ、これで。東京に行っても頑張ってくださいね!」
安賀多先輩がこちらこそありがとうと言うのを聞いたか聞かないかくらいのときには、すでに宮田はいつの間にかリュックを背負って動き出していた。
すぐ部室を出て、数十秒後にものすごい勢いでバス停に駆けていくのが見える。
校内で転回したバスとちょうど並走している。おそらく間に合うだろう。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます